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君が帰らない夜も、月はずっと綺麗だった

君が帰らない夜も、月はずっと綺麗だった

Par:  しょうの笛Complété
Langue: Japanese
goodnovel4goodnovel
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ある夏。 洪水が引いたあと、水瀬泉澄(みなせ いずみ)は、1歳になったばかりの娘・満(みちる)の葬儀をたった一人でひっそりと執り行った。 その日を境に、近所の人々は、泉澄が変わったことに気づいた。 朝になっても、篠原晟峻(しのはら あきたか)の制服をきれいに洗い、軒下に干すことはなくなった。 昼になっても、2時間かけて栄養のある弁当を作り、体を気遣って警察署まで届けることはなくなった。 夜になっても、明かりの下で晟峻の服にアイロンをかけながら、帰りを待ちわびることはなくなった。 少しでも長く話したいと願うことも、日々のささやかな出来事をうれしそうに聞かせることも、もうなかった。 交通事故で手術が必要になり、入院したときでさえそうだった。医師に家族へ連絡するよう言われても、泉澄は「家族はいません」とだけ答え、血に染まった自分の手で手術同意書に署名した。 それから1週間、泉澄は病室で静かに過ごし、晟峻には何ひとつ知らせなかった。 退院の日、ようやくそのことを知った晟峻が、慌てて病院へ駆けつけた。

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Chapitre 1

第1話

晟峻は、紺色の警察官の制服をきちんと着こなしていた。ただでさえ端正な顔立ちがいっそう精悍に映る。だが、よく見れば顎には青い無精ひげが浮き、充血した目には隠しようのない疲労がにじんでいた。

心配そうな顔をしながらも、その口調には責めるような響きがあった。晟峻はごく自然に泉澄の前にしゃがみ込み、靴を履かせようとした。

「こんな大怪我をしていたのに、どうして俺に知らせなかったんだ?」

だが、泉澄はすっと足を後ろへ引き、差し出された手を避けた。

晟峻の手は宙に取り残された。彼が眉を寄せて見上げると、泉澄の凪いだ水面のような瞳とぶつかった。そこにはもう、何の感情も浮かんでいなかった。

「大した怪我じゃないわ。あなたは仕事を優先して」

淡々と告げると、泉澄は自分で靴を履いて立ち上がり、退院の書類を手に病室を出ていった。

ひと回り小さくなったように見える背中を見送りながら、晟峻の胸に正体不明の不安がよぎった。

泉澄が、どこか変わってしまった気がする。

晟峻はあとを追った。泉澄は一人で退院手続きを済ませ、窓口で薬を受け取ると、そのまま病院前のバス停へ向かった。

すぐ後ろに晟峻がいるというのに、彼女は振り返って甘えることも、来るのが遅かったと責めることもなかった。以前なら彼の胸元に寄りかかり、顎の無精ひげを撫でながら、仕事で無理をして体を壊さないでと何度も言ったはずなのに。

訳のわからない苛立ちと焦燥に駆られ、晟峻は泉澄の手首をつかんだ。唇を引き結び、低い声で尋ねる。「事故のことで怒ってるのか?それとも、満の……」

泉澄は言葉を遮り、つかまれた手をゆっくりと引き抜いた。その声は冷淡なほどに静かだった。

「どちらでもないわ。晟峻、もう済んだ話はしたくないの」

再び手を振り払われ、晟峻は焦ったように追いすがった。

「だったら、どうして――」

そのとき、バスが停留所に滑り込んできた。

泉澄はもう晟峻を見ようともせず、ためらいなく乗り込んだ。乗客の流れに押されながら、車内の中ほどまで進んで立つ。

晟峻も口を引き結んだままあとに続いた。泉澄の背後まで人をかき分けて進むと、大きな体で人波を遮り、彼女を守るように立った。

窓の外を流れていく街並みを見つめ、すぐ背後に晟峻の体温を感じているうち、泉澄の意識は5年前――初めて彼と出会った日へと遡っていった。

あの日は国立バレエ団の休演日だった。泉澄は少しずつ貯めたお金を握りしめ、繁華街の洋服屋へ新作のワンピースを買いに出かけた。

店の前まで来たとき、通りに「ひったくりだ!」という叫び声が響いた。騒然とする人波の中から、制服姿の警察官が飛び出し、逃げる男を鮮やかな蹴りで倒して瞬く間に取り押さえた。

顔を上げたその警察官の鋭い眼差しに射すくめられ、泉澄はその場で身動きができなくなった。

なんて恐ろしい人だろう。そう思ったのに、その顔はいつまでも記憶から消えなかった。

2度目に見かけたとき、晟峻は木に登り、遊んでいて降りられなくなった幼い女の子を助けようとしていた。足を滑らせて落ちた瞬間も、彼は女の子を胸に抱き込み、自分の身を挺して最後まで守り抜いた。

腕から血を流しながらも、晟峻は穏やかに笑い、その子の髪を撫でていた。その瞳に宿る温かな光を人垣の向こうから見た瞬間、泉澄の胸は大きく跳ねた。

3度目は、国立バレエ団が慰問公演のため警察署を訪れたときだった。

舞台で踊る泉澄を、客席にいる晟峻がじっと見つめていた。視線が重なった途端、胸が高鳴り、耳まで熱くなった。

その後、晟峻が見合いをしていると知った泉澄は、法曹界で働く叔母に頼み、縁を取り持ってもらった。

お見合いの席で、向かいに座った晟峻は誠実な口調で切り出した。「水瀬さん、俺は仕事柄、家を空けることが多いんです。家庭のことまで十分に手が回らないかもしれない。それでも構いませんか?」

泉澄は耳を赤くしながらも、迷いなく答えた。「構いません!」

晟峻はうなずき、約束してくれた。「必ず大切にします」

結婚してから、晟峻は確かに泉澄を大切にしてくれた。けれど、いつも仕事に追われていた。

家のことはすべて泉澄が担った。ガスが止まっても、電球が切れても、雨漏りがしても、晟峻はすぐには帰れない。泉澄は袖をまくり、見よう見まねで何でもこなせるようになった。

世話焼きな晟峻は、非番の日でも近所の困りごとを進んで引き受け、時には家計を削ってまで他人を助けることがあった。それでも泉澄は快く賛成し、一度も不満を口にしなかった。

泉澄が満を産んだころ、晟峻は隣市の重大事件の捜査に駆り出されていた。彼が帰宅したのは、産後1ヶ月が過ぎてからだった。

血走った目と隠しきれない罪悪感を前にしても、泉澄は胸の内の不満をすべて呑み込み、ひと言も責めなかった。

その日、晟峻は泉澄を強く抱きしめ、これからはもっと家族のために時間を作ると約束した。

だが、その約束は守られなかった。

晟峻は以前にも増して忙しくなった。署で、一人の後輩の指導を任されたからだ。

桐谷紗耶(きりたに さや)という女性警察官は、いつも「先輩」と甘えた声で彼を呼び、仕事でミスをしては問題を起こした。そのたびに晟峻が尻拭いをした。

初めの頃こそ、紗耶の話題になるたび苛立っていた晟峻だが、いつしか彼女のことを話す顔に笑みが浮かぶようになった。無自覚のまま、彼女を甘やかすようになっていたのだ。

泉澄はそのことで何度も涙を流し、不安な思いをぶつけた。だが返ってくるのは、泉澄の気持ちを少しも理解しようとしない非難ばかりだった。

「泉澄、紗耶は大事な後輩で、同じ署で働く仲間だ。やましい関係なんて絶対にない。俺が君を裏切るはずがないだろう。これ以上、筋の通らないことで責めるのはやめてくれ」

そして半月前、未曾有の洪水が街を襲った。住民の避難誘導に当たっていた晟峻は、泉澄と1歳になったばかりの満の救助を最後まで後回しにした。

泉澄は満を抱き、2階のベランダで必死に助けを待っていた。

ようやく晟峻がこちらへ向かおうとしたとき、救助されたばかりの男の子が水へ落ちた。紗耶が助けようと飛び込んだものの、水の中で足がつって動けなくなった。

その瞬間、晟峻は少しも迷わず向きを変え、紗耶を助けに向かった。

その直後、濁流が2階まで押し寄せた。泉澄と満は水に呑まれ、泉澄が意識を取り戻したとき、1歳になったばかりの娘はすでに息をしていなかった。

病室の外から、自責の念に駆られている紗耶を慰める晟峻の声が聞こえてきた。

「泣くな。君は悪くない。あの状況では仕方がなかったんだ。君が責任を感じることじゃない」

その言葉を聞いた瞬間、泉澄は笑った。全身を震わせて笑いながら、目からはとめどなく涙があふれ続けた。

泉澄は一晩中、暗闇の中でただ座り続けた。夜が明けると、満の火葬に必要な書類の束に離婚届を紛れ込ませ、晟峻に署名させた。

満の葬儀の日、晟峻はわずかな時間しか顔を見せなかった。紗耶に呼ばれると、また慌ただしく去っていった。

晟峻がいなくなったあと、泉澄は二つのことをした。

一つ目は、区役所へ離婚届を提出し、離婚の手続きを始めること。

二つ目は、国立バレエ団の海外研修に申し込み、海外の芸術都市で3年間学ぶこと。

すべてが済み次第、泉澄は晟峻のもとを去る。5年間暮らしたこの家にも、二度と戻らないつもりだった。

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commentaires

ノンスケ
ノンスケ
いくら後輩を指導するためとはいえ、1人で家庭と子どもを守る妻のことを考える態度を見せていればここまでこじれなかっただろう。しかもその後輩の目には女としての親しみが浮かんでいるのを注意していたのだから。慢心が全てを壊したんだろう。
2026-08-17 06:53:23
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橘ありす
橘ありす
他でも言ったけど、贔屓や優先ばかりする相手に下心が無いわけないよね…心の浮気は仕方ないかもしれないけど、仮にも警察としてそれなりに有能なはずの人があんな性悪女の性根に気付かないものかな、見る目ないにも程がある。でもお互いそれなりの人生歩めて良かったね、クズ女は死刑でいいよ。
2026-08-14 22:33:20
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松坂 美枝
松坂 美枝
自分が一人で色々耐え忍んでる間、夫は部下の女とイチャイチャしてるわ子供死なせるわでもうメンタルボロボロ 素人を囮作戦に勝手に加わらせて怪我させても子供が死んでも大して気にもとめないクセして追いかけて来んなよな
2026-08-14 10:15:01
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第1話
晟峻は、紺色の警察官の制服をきちんと着こなしていた。ただでさえ端正な顔立ちがいっそう精悍に映る。だが、よく見れば顎には青い無精ひげが浮き、充血した目には隠しようのない疲労がにじんでいた。心配そうな顔をしながらも、その口調には責めるような響きがあった。晟峻はごく自然に泉澄の前にしゃがみ込み、靴を履かせようとした。「こんな大怪我をしていたのに、どうして俺に知らせなかったんだ?」だが、泉澄はすっと足を後ろへ引き、差し出された手を避けた。晟峻の手は宙に取り残された。彼が眉を寄せて見上げると、泉澄の凪いだ水面のような瞳とぶつかった。そこにはもう、何の感情も浮かんでいなかった。「大した怪我じゃないわ。あなたは仕事を優先して」淡々と告げると、泉澄は自分で靴を履いて立ち上がり、退院の書類を手に病室を出ていった。ひと回り小さくなったように見える背中を見送りながら、晟峻の胸に正体不明の不安がよぎった。泉澄が、どこか変わってしまった気がする。晟峻はあとを追った。泉澄は一人で退院手続きを済ませ、窓口で薬を受け取ると、そのまま病院前のバス停へ向かった。すぐ後ろに晟峻がいるというのに、彼女は振り返って甘えることも、来るのが遅かったと責めることもなかった。以前なら彼の胸元に寄りかかり、顎の無精ひげを撫でながら、仕事で無理をして体を壊さないでと何度も言ったはずなのに。訳のわからない苛立ちと焦燥に駆られ、晟峻は泉澄の手首をつかんだ。唇を引き結び、低い声で尋ねる。「事故のことで怒ってるのか?それとも、満の……」泉澄は言葉を遮り、つかまれた手をゆっくりと引き抜いた。その声は冷淡なほどに静かだった。「どちらでもないわ。晟峻、もう済んだ話はしたくないの」再び手を振り払われ、晟峻は焦ったように追いすがった。「だったら、どうして――」そのとき、バスが停留所に滑り込んできた。泉澄はもう晟峻を見ようともせず、ためらいなく乗り込んだ。乗客の流れに押されながら、車内の中ほどまで進んで立つ。晟峻も口を引き結んだままあとに続いた。泉澄の背後まで人をかき分けて進むと、大きな体で人波を遮り、彼女を守るように立った。窓の外を流れていく街並みを見つめ、すぐ背後に晟峻の体温を感じているうち、泉澄の意識は5年前――初めて彼と出会った日へと遡っていった。あの
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第2話
バスは大きく揺れながら、自宅近くの停留所に着いた。帰る道すがら、晟峻は何度も泉澄に話しかけようとした。だが、そのたびに冷たく遮られた。家に着くと、泉澄はまっすぐ寝室へ入った。伸ばしかけた手は、またしても行き場を失った。苛立ちが込み上げ、晟峻は室内を見回す。その視線が、ふいに止まった。部屋の隅には、1週間前に家を出る際、慌ただしく脱ぎ捨てられた自分の服がそのまま残っていた。使ったコップも、置きっぱなしのカミソリも洗われていない。それなのに泉澄の持ち物だけは、どれもきれいに整えられていた。散らかった晟峻の物と彼女の物との間に、まるで越えられない境界線が引かれているようだった。言い知れぬ怒りに突き動かされ、晟峻は寝室のドアを押し開けた。だが、壁を見た瞬間、息を呑む。泉澄がいつも埃ひとつ残さず磨いていた結婚記念の写真は消え、空の額縁だけが壁に掛かっていた。心臓が大きく跳ねた。「結婚写真はどうした?」それでも泉澄の表情は変わらない。その無関心な目に耐えきれず、晟峻はついに声を荒らげた。「俺への当てつけのつもりか?泉澄、君はもう子供じゃないんだ。不満があるならきちんと言ってくれ。落ち着いて話し合おう」泉澄の態度は変わらず、静かに答えた。「当てつけじゃないわ。晟峻、もう疲れたの。私たちの結婚は……」――これで終わりよ。言いかけたその言葉は、突然鳴り響いた電話の着信音に呑み込まれた。晟峻が電話に出ると、紗耶の切羽詰まった声が聞こえてきた。「先輩、すぐ来てください!どうしても手伝ってほしい事件があるんです。急いで――」泉澄は静かに視線を外した。間もなく電話を切った晟峻が、慌ただしく制服の帽子を被る。玄関を出る直前、晟峻はふと足を止め、泉澄を振り返った。「疲れているなら、ゆっくり休んでくれ。仕事が落ち着いたら休みを取る。今度こそ、君との時間を作るから」泉澄は振り返らなかった。晟峻が出ていくと、泉澄は家の片づけを再開した。かつて晟峻にねだって撮ってもらった写真。出張先から無事を知らせるために送られてきた手紙。何気なく手渡されたイチョウの葉。大切にしまっていた思い出を、ひとつ残らず取り出しては整理していく。2時間後、泉澄は晟峻が家に置き忘れていった重要な捜査ファイルを見つけた。泉澄はそれを警察署
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第3話
男のナイフが、泉澄の首に突きつけられた。晟峻は男の頭へ銃口を向けた。その目には凍りつくような冷たさと、激しい怒りが宿っていた。「泉澄を放せ!」男は勝ち誇ったように高笑いし、ナイフを持つ手に力を込めた。白い首筋が切り裂かれ、鮮血が流れ落ちる。「篠原、撃てるものなら今すぐ俺を撃ってみろ!俺が死んでも、こいつは道連れだ。お前にも家族を失う苦しみを味わわせてやる!」鋭い痛みに泉澄の顔から血の気が引き、冷や汗が頬を伝った。それでも歯を食いしばって目を伏せ、弱みはひとかけらも見せまいと耐えた。晟峻は冷えきった目で男をにらみつけた。「人質を放せ。望みがあるなら何でも言え」「まずは二人とも銃を捨てろ。それから――」男は悪意に満ちた笑みを深めた。「篠原、お前が跪いて俺に許しを乞え!」晟峻は唇を固く結び、銃を握る指に力を込めた。やがて腕をゆっくり下ろし、かすれた声で答えた。「分かった」泉澄のまつ毛が震えた。信じられない思いで晟峻を見上げる。晟峻は命じられたとおり銃を床へ投げ捨て、数歩前へ出た。そして、静かに膝を折ろうとした。そのとき、紗耶が突然一歩踏み出し、声を張り上げた。「先輩、跪かないで!」紗耶は男へ向けて発砲した。だが、弾丸は男の腕をかすめ、背後の土壁へ食い込んだ。男の目に激しい怒りが走った。握ったナイフを振り回し、泉澄の体へ何度も突き立てる。鮮血が噴き出し、あまりの痛みに視界が暗転した。意識を失う直前、泉澄の目に映ったのは、男へ飛びかかり、激しくもみ合う晟峻の姿だった。次に目を覚ましたとき、泉澄は病院のベッドに横たわっていた。刺し傷のひとつは肺まで達していた。息をするたび、胸を内側からえぐられるような激痛が走る。ベッド脇には紗耶が座っていた。苦痛に耐える泉澄を見下ろす目に、隠しきれない悪意が浮かんでいる。紗耶は口元を歪めた。「奥さんって、本当にしぶといんですね。あれだけ刺されても死なないなんて」泉澄は答えなかった。紗耶は嘲るように続けた。「昨日の廃屋で、晟峻さんがあなたを愛しているとでも思いました?残念ですけど、あそこにいたのが赤の他人でも、晟峻さんは警察官として同じように跪いたはずですよ」泉澄のまつ毛が、かすかに震えた。紗耶の言うとおりだと分かっていたからだ。人質に
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第4話
泉澄の胸に、針で刺されたような痛みが走った。紗耶は赤くなった手を背中に隠し、いかにも健気そうな声で言った。「大丈夫です、先輩。奥さん、まだ気が立っていらっしゃるみたいで……でも、私なら平気ですから」晟峻は怒りを押し殺した目で泉澄をにらんだ。「何をしたか説明しろ!」事情をひと言も尋ねることなく、紗耶の態度だけを見て、すべて泉澄がやったことだと決めつけている。泉澄は晟峻をじっと見返した。「晟峻、洪水の日、桐谷さんは本当は足などつっていなかったの。昨日の一発も、わざと外した。私がそう言ったら、あなたは信じる?」晟峻は拳をきつく握りしめた。「泉澄、もう少しマシな嘘をつけ!」失望をあらわにした目で、なおも責め立てる。「満のことで君が俺に腹を立てているのは分かっている。だからといって、関係のない人間に八つ当たりして、嘘で陥れて、こんな怪我までさせていい理由にはならないだろう!」晟峻は信じる気などなかった。紗耶を自分の背後にかばう男を見つめていると、泉澄は急にひどく虚しくなり、どっと疲れを覚えた。もう言い争う気力もない。泉澄は目を閉じ、晟峻を見るのをやめた。その無言の態度が、反省もせず話し合いを拒絶しているように見えたのだろう。晟峻の怒りはさらに燃え上がった。それでも、血の気を失った顔と、ますます痩せた頬を目にすると、晟峻はどうにか怒りをのみ込んだ。冷えた声で言い渡した。「今は傷を治すことだけ考えろ。体が回復したら、紗耶にきちんと謝罪しろ」そう言うと、晟峻は赤くなった紗耶の手を取った。「行くぞ。火傷の手当てをしてもらおう」二人が連れ立って病室を出ていく背中を見ても、泉澄の胸はもう痛まなかった。ただ、胸の奥に冷えきった虚しさだけが残った。それから泉澄は、一人きりで入院生活を送った。退院して家に戻ると、泉澄はすぐに警察署へ電話をかけた。洪水と立てこもり事件の際に起きたことをすべて報告し、紗耶に対する正式な処分を申し立てた。「桐谷紗耶さんの職務上の重大な過失によって、取り返しのつかない被害が出ました。事実を調べ、相応の処分を下してください」電話の相手は、厳粛な声で応じた。「承知しました。早急に事実関係を確認します」1時間後、家の電話が鳴った。泉澄が受話器を取ると、声を潜めながらも得意
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第5話
翌日のお昼頃、泉澄は海外の芸術都市へ持っていく日用品を買うためデパートへ出かけた。買い物の途中、婦人服売り場に晟峻と紗耶がいることに気づいた。紗耶は鮮やかな赤いワンピースを試着していた。晟峻は満足そうな目で、その姿を見つめている。泉澄は視線を戻し、立ち去ろうとした。だが、目ざとく見つけた紗耶が声を上げた。「奥さん!」晟峻も泉澄を見た。目に一瞬気まずそうな色が浮かんだものの、すぐに歩み寄り、泉澄の腕を引いて紗耶の前へ連れてきた。紗耶は泉澄の目の前でくるりと回った。挑発と悪意を隠そうともしない。「奥さん、晟峻さんが選んでくれたこの赤いワンピース、私に似合っていますか?」晟峻が慌てて口を開いた。「泉澄、これは――」泉澄は言葉を遮った。「説明なんていらないわ。気にしてないから。まだ買い物の用事があるから、失礼するわね」背を向けたそのとき、頭上で鈍く軋むような音がした。泉澄が見上げると、吹き抜けの天井から重い装飾パネルが外れ、三人めがけて真っすぐ落ちてきた。「危ない!」周囲に悲鳴が上がる。晟峻は泉澄を力いっぱい突き飛ばした。次の瞬間には身を翻し、紗耶へ覆いかぶさるように飛びついていた。落下した装飾材が晟峻の背中を直撃した。苦しげなうめき声が漏れ、口元から血が流れた。泉澄は床へ倒れ込み、手足にひどい擦り傷を負った。痛みに耐えながら顔を上げ、その光景を見つめる。周囲の人々は慌てて落下物を持ち上げようとしていた。紗耶は泣きながら晟峻の顔に触れ、何かを必死に訴えている。晟峻は痛みに冷や汗を流しながらも、紗耶へ笑みを作ってみせた。そして、指先でその目尻の涙を拭った。泉澄は口元に笑みを浮かべた。目の前の光景が、ひどく滑稽な無声映画のように感じられた。あまりにも滑稽だった。全身の痛みに耐えて立ち上がると、泉澄は背を向け、足を引きずりながらその場を出ていった。何かを感じたのか、晟峻が振り向いた。だが見えたのは、たった一人で去っていく泉澄の背中だけだった。「泉澄――」呼び止める声にも、泉澄は振り返らなかった。家へ戻ると、救急箱を出し、自分で傷の手当てをした。消毒液が傷口にしみるたび、体が震えた。それでも歯を食いしばり、涙は流さなかった。その後の2日間、泉澄は旅立ちの準備だけに時間を費
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第6話
泉澄は眉をひそめた。「何の話?」紗耶が駆け寄ってきた。頬には平手打ちの跡がうっすら残り、目元には涙の筋がついている。「奥さん、どうして先輩がトイレへ行っている間に資料を燃やしたんですか?先輩はこの事件のために、入院中さえ休まず手がかりを探していたんですよ」紗耶は声を強めた。「捜査資料には容疑者の似顔絵も入っていたんです。この手がかりがどれほど重要か、分かるんですか!」泉澄は冷たい目を向けた。「私じゃない。私はずっと部屋にいて、一度も外へ出ていないわ。私を陥れようとしているのね――」晟峻が冷たく遮った。「紗耶が自分で資料を燃やし、君を陥れたとでも言うのか?」失望をにじませた目で泉澄を見据える。「この事件に紗耶がどれだけ力を注いだか、君は知らない。少しでも早く容疑者を捕まえるため、何日も署に泊まり込んでいるんだ!」晟峻の声はますます厳しくなった。「君が紗耶の存在を気にしていることも、満のことで俺を恨んでいることも分かっている。だからといって、捜査を妨害し、市民の安全を危険にさらしていい理由にはならないぞ!」泉澄の体が震えた。棘を帯びた目で晟峻を見上げ、冷たく口元を歪める。「それで、私をどうするつもり?」その眼差しに、晟峻は一瞬たじろいだ。だが次の瞬間、怒りをさらに募らせた。「まだ反省できないのなら、物置で2日間、頭を冷やせ」泉澄は目を赤くして問い詰めた。「私を閉じ込めるの?晟峻、事実も確かめずに、あなたにそんなことをする権利があるの?」「君に拒否権はない」晟峻は泉澄の手首をつかみ、暗い物置へ押し込むと、外からドアを閉ざした。怒りに満ちた声が、厚い扉越しに響いた。「そこでよく反省しろ。自分の間違いを認めるまで、外へは出さない!」泉澄は閉ざされた扉を見つめていた。やがて、声を上げて笑い始めた。笑い続けるうちに涙がこぼれた。そこには痛ましいほどの悲しみと、すべてを手放した安堵が混じっていた。泉澄は2日間、物置に閉じ込められた。1日目、紗耶が扉を開け、弁当箱の中身を床へぶちまけた。2日目、紗耶は袋をひとつ投げ入れた。中から数匹のネズミが這い出してきた。暗闇の中で、キィキィという鳴き声が響く。泉澄はとうとう冷静ではいられなくなった。扉まで必死に這い、狂ったように叩き続け
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第7話
泉澄は必死にもがき、口を塞いでいた男の手へ噛みついて助けを求めた。だが、その声は激しい雨音にかき消された。男は泉澄の体へ馬乗りになり、再び口を塞ぐと、縄で手足を縛り上げた。服を乱暴に引き裂き始めた。すぐ手の届くところには、ナイフや斧まで置かれていた。雨が容赦なく目に打ちつける。泉澄はかろうじて目を開き、血に飢えた男の顔を見た。絶望が胸を埋め尽くした。自分はこの男に辱められ、そのあと殺される。けれど、こんなところで死にたくなかった。失敗した結婚から抜け出すと、ようやく決めたばかりだった。これから新しい人生を始めるはずだった。ここで終わるなんて、絶対に嫌だった。泉澄は狂ったように抵抗した。男は体を押さえつけ、平手と拳を何度も振り下ろした。口元から血を流しながら、泉澄は絶望の中で、男がズボンを下ろすのを見ていた……そのとき、遠くで銃声が響いた。男の動きが止まった。次の瞬間、目に凶暴な光を浮かべ、斧をつかんで泉澄の頭へ振り下ろそうとした。再び銃声が鳴った。斧が男の手を離れ、泉澄の耳元へ落ちた。晟峻を先頭に、警察官たちが一斉に駆け込んできた。男を地面へ押さえつけ、取り押さえた。晟峻は上着を脱ぎ、恐怖に震える泉澄の体を包んだ。そして抱き起こし、腕の中へ強く抱きしめた。「もう大丈夫だ。大丈夫だから。すまない、泉澄。来るのが遅くなった……」口に詰められていた布が外された。泉澄は晟峻の胸にもたれ、必死に息を吸った。ついにこらえきれなくなり、晟峻の襟をつかんで声を上げて泣いた。男が厳重に縛られ、連行されていく。その姿を見届けた途端、張りつめていたものが切れ、泉澄は意識を失った。目を覚ますと、病院にいた。天井の白い灯りを見つめ、昨夜の悪夢を思い出した。起き上がろうとしたとき、病室の外から紗耶の声が聞こえてきた。「先輩の作戦、本当にうまくいきましたね。やっぱり奥さんに赤いワンピースを着せたのは正解でした。案の定、あの連続殺人犯が食いつきましたよ。これで、もう誰も襲われずに済みます!署でも、今回の功績は大きいから特別に表彰するって言っていましたよ……」晟峻が静かに遮った。「もういい。事件を解決できたのは、全員で力を合わせたからだ。俺一人の手柄じゃない」泉澄は、雷に打たれたような衝撃を受
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第8話
警察署の会議室では、晟峻が事件に関わった同僚たちと一列に並び、表彰と取材を受けていた。記者が晟峻の前へマイクを差し出した。「篠原隊長、今回、連続殺人犯をこれほど早く逮捕できたことについて、ひと言お願いします」晟峻は少し黙ってから答えた。「短期間で犯人を逮捕できたのは、捜査に当たった全員の努力のおかげです。そして、妻にも心から感謝したい。彼女が危険に身をさらしたからこそ、次の犠牲者を出さずに済みました」その間、晟峻の執務室では電話が何度も鳴っていた。だが、誰も気づかなかった。表彰式が終わると、晟峻は表彰状を手に、足早に会議室を出ようとした。紗耶が袖をつかんで引き止める。「先輩、こんな大事件を解決したんです。みんなで打ち上げをしませんか?」捜査に加わった同僚たちも口々にはやし立て、誰もが誇らしげな顔をしていた。けれど晟峻は眉を寄せたままだった。涙を流しながら問い詰めた泉澄の顔と、目を閉じて話すことを拒んだ姿が、頭から離れない。胸の奥に、かすかな不安が居座っていた。今すぐ泉澄に会いたかった。受け取った表彰状を渡し、これは二人で勝ち取った栄誉だと伝えたかった。晟峻は紗耶の手を外した。「みんなで行ってくれ。俺は用事がある」そう言い残し、会議室をあとにした。車へ飛び乗り、病院へ急いだ。病室に泉澄はいなかった。清掃員が、空になったベッドのシーツを替えている。晟峻は通りかかった看護師を呼び止めた。「妻はどこです?」看護師は驚いたように晟峻を見た。「篠原隊長、奥さんなら今朝、退院手続きを済ませましたよ。ご存じなかったんですか?」「退院した?」晟峻は眉を深く寄せた。「傷は軽くなかったはずです。どうして、もう退院を?」看護師はうなずいた。「私たちも、もう少し療養するようお勧めしました。でも奥さんの意思が固くて。どうしても遅れられない大切な用事があると、とても急いでいらっしゃいました」大切な用事。晟峻の心臓が大きく跳ねた。泉澄に、いったいどんな用事があるというのだろう。不安が一気に広がった。晟峻は病院を飛び出し、車を走らせた。ほどなくして家へ着き、玄関のドアを勢いよく押し開けた。ドアが壁へぶつかり、大きな音を立てた。その音が消えると、家の静けさがいっそう際立った。
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第9話
やがて晟峻は帽子を脱ぎ、まっすぐだった背をわずかに丸めた。いつも毅然と上げていた顔をゆっくり伏せ、両手で覆った。温かい雫が手のひらへ落ちた。泉澄が、自分と離婚した。もう自分はいらないと、見限られたのだ。彼女はずっと前から、そのつもりだった。その事実は無数の棘となって胸の奥に突き刺さり、絶え間ない痛みで心臓を締めつけた。晟峻は突然立ち上がった。帽子をつかんでかぶり直し、迷いのない足取りで家を出た。車で区役所へ向かい、窓口で離婚手続きが完了したことを示す書類を受け取った。窓口の職員へ、かすれた声で尋ねる。「水瀬さんが離婚届を提出したのは、いつですか?そのとき……どんな様子でした?」職員は記憶をたどった。「水瀬さんのことはよく覚えています。1ヶ月ほど前にいらっしゃいました。黒い服を着て、目を赤く腫らしていらっしゃいました。おそらく……ご家族を亡くされた直後だったのでしょう」晟峻はすぐ、満の葬儀の日を思い出した。泉澄は黒い喪服に身を包み、満の墓前でいつまでも泣いていた。涙は止まることなく流れ続けた。晟峻はその背後に立ち、深い悲しみと罪悪感を抱えていた。満を失うなど、考えたこともなかった。こんな結末を迎えるとは夢にも思わなかった。泉澄のそばへ行き、慰めようとした。だがそのとき、紗耶が汗だくで駆けてきた。署で重要な事件が起き、署長が晟峻を指名していると言った。泉澄が自分のもとを去ると決めたのは、あの日だったのだ。このところの変化も、冷たい態度も、腹を立てていたからではない。わがままを言っていたのでもない。本気で、自分との関係を終わらせようとしていた。滑稽だった。泉澄の異変に気づき、不安まで覚えていたのに、自分は一度も正面から向き合わなかった。それどころか、紗耶のために泉澄を責めた。資料の件では罰を与え、何も知らせないまま連続殺人犯の囮にまでした。突然、心臓を引き裂かれるような痛みが走り、息ができなくなった。晟峻は反射的に胸を押さえた。青ざめた顔で立ち上がると、亡霊のような足取りで区役所を出た。入口まで来たところで、喜びに顔を輝かせた紗耶が駆け寄ってきた。「先輩、離婚の証明書は受け取りましたか?泉澄さん、本当に先輩と離婚したんですね?」喜びを隠そうともせず、晟峻の手にある書類へ
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第10話
耳の奥で鈍い耳鳴りがして、晟峻の頭は真っ白になった。信じられない思いで、目の前のゆり子を見つめる。「泉澄が……どこへ行ったと?」ゆり子は無表情のまま答えた。「海外の芸術都市です。泉澄さんが自ら希望したんですよ」そこでひと呼吸置き、呆然と立ち尽くす晟峻へ冷ややかな笑みを向けた。「篠原隊長、泉澄さんは申請したとき、もう悲しい記憶しかない場所には残りたくないと、きっぱりおっしゃっていました。きっと、あなたには二度と会いたくなかったのでしょうね」二度と会いたくない。その言葉が、氷の刃となって晟峻の胸へ深く突き刺さった。息をするたび、震えるほどの痛みが走る。「篠原隊長、お引き取りください」警備員が前へ出た。晟峻は青ざめた顔で背を向け、その場をあとにした。車へ乗り込み、震える手でタバコに火をつける。国立バレエ団の正門を見つめていると、見合いのあとの初めてのデートが、ふいに脳裏へよみがえった。あの日、晟峻は休みを取り、泉澄と映画を見た。レストランで食事をし、商店街で買い物をして、最後に車で国立バレエ団まで送り届けた。降りようとした泉澄は、不意に晟峻の手を握った。振り向くと、頬を赤く染めた泉澄の瞳が、星のように輝いていた。恥ずかしそうに、それでもまっすぐな声で告げた。「篠原さん、私、あなたが好きです。あなたと家庭を築いて、ずっと一緒に生きていきたいです!」言い終えるなり、泉澄は慌てて車を降り、走り去っていった。晟峻は車の中からその背中をいつまでも見送り、やがて声を上げて笑った。あのときは胸が甘く満たされ、二人の未来を思うだけで心が躍った。晟峻も、泉澄が好きだったからだ。初めて会った日、ひったくりを取り押さえて顔を上げた瞬間、しなやかな姿と清楚な顔立ちが目に入り、心を奪われた。その後、偶然に顔を合わせるたび、泉澄が晟峻を見ていたように、晟峻も泉澄を見つめていた。見合いの相手が泉澄だと知った夜は、興奮のあまり明け方まで眠れなかった。仕事で家庭を顧みられないかもしれないと打ち明けても、構わないと答えてくれたときには、心臓が喉から飛び出しそうなほど喜んだ。結婚して5年。泉澄に多くの苦労をかけ、つらい思いをさせてきたことは分かっていた。だが同時に、泉澄が自分を深く愛していることも分かっていた。二人
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