Masukある夏。 洪水が引いたあと、水瀬泉澄(みなせ いずみ)は、1歳になったばかりの娘・満(みちる)の葬儀をたった一人でひっそりと執り行った。 その日を境に、近所の人々は、泉澄が変わったことに気づいた。 朝になっても、篠原晟峻(しのはら あきたか)の制服をきれいに洗い、軒下に干すことはなくなった。 昼になっても、2時間かけて栄養のある弁当を作り、体を気遣って警察署まで届けることはなくなった。 夜になっても、明かりの下で晟峻の服にアイロンをかけながら、帰りを待ちわびることはなくなった。 少しでも長く話したいと願うことも、日々のささやかな出来事をうれしそうに聞かせることも、もうなかった。 交通事故で手術が必要になり、入院したときでさえそうだった。医師に家族へ連絡するよう言われても、泉澄は「家族はいません」とだけ答え、血に染まった自分の手で手術同意書に署名した。 それから1週間、泉澄は病室で静かに過ごし、晟峻には何ひとつ知らせなかった。 退院の日、ようやくそのことを知った晟峻が、慌てて病院へ駆けつけた。
Lihat lebih banyak泉澄はしばらく黙ったあと、わずかに口元を緩めた。「私は大丈夫よ」そう答えて病室を出ると、医療スタッフを呼び、晟峻の状態を診てもらった。それから数日間、泉澄は病室に残り、晟峻の世話を続けた。ただし、言葉を交わすことはほとんどなかった。たいていは静かに窓の外を眺めるか、椅子に座って本を読んでいた。一方、晟峻はいつも泉澄を見ていた。二人の間に、高い壁がそびえ立っているのをはっきりと感じた。同じ病室にいても、まるで別の世界で生きているようだった。ふと、昔のことを思い出した。警察官という仕事をしていれば、怪我は珍しくない。だが、どんなに小さな傷でも、泉澄はひどく心配し、晟峻のそばを離れなかった。以前、犯人に何度も刺され、血まみれで病院へ運ばれたことがある。泉澄は晟峻の手を握り、気を失いそうになるほど泣いた。入院中は昼も夜も付き添い、晟峻が夜中に寝返りを打つだけで目を覚まし、すぐに様子を確かめた。今も病室にはいてくれる。それでも態度はよそよそしく、礼儀正しいほど距離があった。目には気遣いが浮かんでいても、胸を痛める様子も、愛情もなかった。晟峻はようやく分かった。愛しているときと、愛がなくなったあとでは、これほど明らかに違うのだ。泉澄はもう、自分を愛していない。本当に、愛していないのだ。晟峻は不意に口を開いた。ひどい鼻声で、隠しきれない悲しみがにじんでいた。「泉澄」窓辺にいた泉澄が振り向き、不思議そうな目を向ける。晟峻はゆっくりと言葉を続けた。「君はもう戻っていい。ここは大丈夫だ。付き添いも頼める。退院できるようになったら、俺も国へ帰る」その瞬間、泉澄の目に安堵が浮かんだ。泉澄は、ごく薄く笑った。「分かった。退院の日には迎えに来る」その後、泉澄はバレエ団へ戻り、再び稽古へ打ち込んだ。数日おきに病院を訪れ、晟峻の様子を見た。晟峻の傷は深く、それから半月近く入院して、ようやく退院を許された。泉澄には知らせず、一人で退院手続きを済ませた。その足で稽古場へ向かい、外で泉澄を待った。稽古が終わると、二人は近くのカフェへ入った。晟峻は、名残惜しさと深い愛情を眼差しの奥にたたえ、泉澄を見つめた。「俺は戻る」泉澄はコーヒーをひと口飲み、穏やかな目で答えた。「道中、気をつけて」
苛立ちを抑えきれず、泉澄は晟峻のいる方へ歩いていった。目の前で足を止め、変わらず冷たい顔で告げる。「もうつきまとわないで。あなたが何をしても、私には何の意味もない。ただ迷惑なだけよ」晟峻の顔が青ざめた。どんな困難にも屈しなかった男が、今はひどく弱々しく、すがるように見えた。「すまない、泉澄。俺はただ、少しでも君のそばにいて、償いたいんだ……この5年、君にどれほど苦労をかけたか、今は分かっている……」泉澄は静かに晟峻を見つめた。「あなたは、まだ分かっていない。あなたを愛していたころは、苦労をかけられているなんて思ったこともなかった。でも、もう愛していない今、あなたが言う償いには、なおさら何の意味もない。真夏の強い日差しや、冬の冷たい雨と同じ。ただ不快で、煩わしくて……嫌悪さえ覚えるだけよ」晟峻の目がたちまち赤くなった。呆然と泉澄を見つめたまま、ひと言も返せなかった。泉澄は背を向け、大通りの向かいにあるカフェへ歩き出した。そのとき、耳をつんざくクラクションと急ブレーキの音が近づき、周囲から悲鳴が上がった。泉澄は道路の中央に立っていた。とっさに逃げようとしたが、足がすくんで一歩も動けなかった。突然、背中をものすごい力で突き飛ばされた。体が宙へ浮き、地面へ激しく叩きつけられる。全身に痛みが走った。それでも真っ先に、背後を振り返った。晟峻の体が宙へはね飛ばされ、地面へ叩きつけられた。瞬く間に、その体の下から大量の血が広がっていく。それでも晟峻は、泉澄を見つめていた。無事でいるのを確かめて、ようやく安心したように目を閉じた。痛みを感じる間もなく、意識は深い闇へ沈んでいった。泉澄はその場にへたり込んだまま、呆然としていた。晟峻が目を閉じるのを見た瞬間、頭の中が真っ白になり、耳鳴りだけが響いた。口を開いても、声が出ない。誰かがぶつかった拍子に我に返り、狂ったように人混みをかき分け、晟峻へ駆け寄った。晟峻は病院へ運ばれた。処置室の前で、泉澄は血まみれになった服と両手を見つめながら、冷たい長椅子に座っていた。骨の髄まで凍りつくような寒気がした。救急車の中で、晟峻は一度呼吸が止まった。晟峻が死ぬのが怖かった。ただ離れたかっただけだ。不幸な結婚を終わらせたかっただけで、晟峻を憎ん
晟峻は切羽詰まった声で話し始めた。「泉澄、まず君に謝りたい。君を囮にした件だが、最初は紗耶にやらせるつもりだった。あの日、デパートで赤いワンピースを買ったのも、そのためだ。だが何度か練習してみると、紗耶は緊張して不自然な演技しかできなかった。それで、直前になって君へ変更した。本当に悪かった。前もって知らせなかったのは、君が緊張して失敗するのが怖かったからだ。それから、紗耶の本性もすべて知った。洪水の日も、誘拐犯を怒らせたときも、あいつはわざとやったんだ。捜査資料を燃やして君に罪を着せたのも紗耶だった。君の言葉を信じるべきだったのに……」晟峻の目が赤くなった。「泉澄、君を信じず、罰まで与えた。すまなかった。本当に俺が間違っていた。取り返しのつかないほど、ひどい間違いをした。紗耶のことは署へ報告した。懲戒免職になり、3年間の服役を命じられた。泉澄、俺と紗耶が一線を越えたことは一度もない。信じてくれ」晟峻は希望にすがるような目で泉澄を見た。「一緒に帰ってくれないか?」「話はそれだけ?」泉澄の声は平坦で、何の感情もこもっていなかった。「あなたが言う真相にも、その結末にも、もう興味はない。聞きたくもない。謝罪も後悔も必要ないわ。私には、何の意味もないから」泉澄は数歩後ろへ下がり、変わらず冷たい目を向けた。「あなたが私を愛していても、後悔していても、もう私には関係ない。今のあなたは、何のつながりもない赤の他人よ。一緒に帰るつもりも、二度と関わるつもりもない。これからの人生に、あなたが二度と現れないことを願っている。分かった?」冷たく突き放す一つ一つの言葉が、雷鳴のように晟峻の耳元で轟いた。頭の中で鈍い耳鳴りが響き続け、顔から血の気が引いた。赤の他人?泉澄は、自分をただの赤の他人だと言った。後悔にも、愛にも、もう何の関心もない。これからの人生に、二度と現れてほしくないと願っている。晟峻は、去っていく泉澄の背中を食い入るように見つめた。泉澄は一緒に研修へ来ている二人の仲間と腕を組み、楽しげに話しながら歩いていく。一度も振り返らなかった。全身から力が抜け落ちた。晟峻はよろめき、自分の体を支えきれず、街灯へもたれたまま地面に崩れ落ちた。それでも泉澄の背中を見つめ続けた。次第に遠ざかり、完全に
3日後、海外の芸術都市。晟峻は手にしたメモを頼りに、空港からタクシーで大劇場へ直行した。そして舞台裏の稽古場で、泉澄の姿を見つけた。白いチュチュをまとった泉澄は、指導者の掛け声に合わせ、軽やかにつま先で立つ。脚を高く上げ、回転する姿は、優美でありながら力強かった。背筋はまっすぐに伸び、首筋はしなやかだった。清楚な顔に輝く瞳は星のように明るく、自信と強い意志に満ちていた。晟峻は床に釘付けにされたように、その場から動けなかった。ただ瞬きもせず、夢でも見るように泉澄を見つめる。5年前、警察署に設けられた仮設舞台で踊っていた泉澄が、目の前によみがえったようだった。あのころ、泉澄の瞳もこんなにも明るく輝いていた。それなのに、わずか5年の結婚生活で、自分が何度も家を空け、泉澄を顧みなかったせいで、その光は少しずつ失われていった。晟峻は今になって初めて、その変化をはっきりと思い知らされた。胸の奥へ水を含んだ綿を詰められたようだった。重く鈍い痛みに押しつぶされ、息ができない。人々の中で舞う白鳥を驚かせることさえ恐ろしく、晟峻は一歩も近づけなかった。だが、泉澄が晟峻に気づいた。回転の途中で視線が重なった。5年前と同じように、泉澄は舞台に立ち、晟峻はその姿を見つめていた。あのときの瞳には、恥じらいと喜びがあふれていた。けれど今、泉澄は動きを止めた。瞳の光が静かに消え、残ったのは冷たい無関心だけだった。何の感情もない、氷のように冷たい眼差しが、晟峻の胸を鋭く貫いた。顔から血の気が引いた。それでも重い足をどうにか動かし、泉澄へ近づいた。「泉澄……」突然駆け寄り、その手をつかんだ。赤くなった目で、必死に訴える。「泉澄、俺が悪かった。自分の過ちが分かったんだ。頼むから、一緒に帰ってくれ……」周囲の者たちは一斉に動きを止め、突然稽古場へ入ってきた見知らぬ男を驚いた顔で見つめた。泉澄の眼差しは、決して解けない氷のように冷たかった。手を振りほどこうとしたが、晟峻はさらに強く握りしめた。次の瞬間、泉澄は無表情のまま、晟峻の指を一本ずつ引きはがした。「私たちは、もう終わったの。二度と会いたくない」「嫌だ。俺は終わらせたくない!」指に走る鋭い痛みなど、胸の痛みのほんのわずかにも及ばない。晟峻は焦るあまり、言葉を