人の話し声が聞こえる。大勢の足音が近付いたと思えば遠ざかり、次いで冷たい風が頬を撫でた。身体は温もりを感じている。誰かの胸が肩にあたって、呼吸と共に揺れ動いていた。ゆりかごのような心地良さ。久しぶりに安心できる場所。自分はこの感覚を知っている。「あ……ノーデンス様!」「……オッド」その正体を知るのを拒むように目が覚めた。見上げた先には円形の電灯と、オッドの不安げな顔がある。柔らかいベッドの上に寝かされていた。きっと世界で一番安心できる、自分の部屋だ。深いため息をついて瞼を伏せると、オッドは身を乗り出して布団を被せてきた。「ノーデンス様、大丈夫ですか? ご気分は……痛むところはありませんか?」「ない。大丈夫だよ」「良かったあぁ……!」オッドは後ろに軽く仰け反り、安堵の声をもらした。彼は相変わらず感情豊か……いや、表現が豊かだ。また心配をかけてしまったことへの申し訳なさと、極小の喜びを覚えている自分に呆れた。「ノーデンス様も無事目を覚ましたことだし。俺は陛下に報告して、そのまま帰宅します。申し訳ありませんが後は宜しくお願いします、ルネ様」は。ぼやけていた意識が完全に覚醒しても、飛び起きることはできなかった。反応できない自分の代わりに、部屋の隅にいた主がオッドの声に答える。「任せて。オッド君も本当にお疲れ様」「ありがとうございます。失礼します」ドアが閉まる音が、まるで死刑執行の合図に聞こえた。背後から近付く靴音が真隣で止まったとき、心の底からため息をつきたくなった。とことん厄日だ、大厄、というか呪われてる。せめて最後ぐらいはひとりになって心を落ち着けたかったのに。虚しい願望は影が濃くなる毎に削り取られる。それでも大人しく横になっていると、唇に柔らかい指が触れた。なぞるような動きが酷く鬱陶しいので、一切手加減せずに払い除ける。固まっていた関節がわずかに痛んだが、諦めて上体を起こした。「何でここにいる!」「良かった、元気いっぱいだね。……私が今日来ることは来賓リストで知ってただろ?」「ああ。じゃなくて、何で俺の部屋にいるのか訊いてるんだ」忌々しげに睨むと、青年は眉を下げて微笑んだ。相変わらず、長身の体躯を最大限魅力に見せるスーツを着ている。華美だが鼻につくほどではない。短い着丈がさらに身長を高く見せ、なんとも言えないプレッシ
こちらとしてはテロの可能性を考慮しながら幾度も内容を調整し、金と時間と人員を費やした。祭典も規模を縮小した為諸外国への宣伝効果は例年より薄いだろう。得た物より失ったものの方が遥かに大きい。燻るものを心の中で消化し、努めて笑顔を保った。「王制反対派か知りませんが、どうかお引き取り願えませんか。こんな平和な国のことを構うより、他に攻めるべきものがあるでしょう。まぁ王族のみ標的にしてるなら別ですが……」内緒話をするように声を潜めると、彼は明らかに動揺した。「どういう意味だ? お前はこの国の人間じゃないのか」「この国の人間ですよ。迫害こそされてませんが、いいように使われてるので彼らのことは嫌いです。さっさと滅べばいいと思ってる。でもこの国や、民は関係ない。ランスタッドは常に中立を守る国ですから」こんな台詞、誰かに聞かれたら大変だ。でも、聞かれてもいいか。壊すことは簡単なんだ。目の前にいる彼も、王族も。後始末が面倒なだけで、……それら全てを放棄して、“なかった”ことにしてしまえば。「興味深い話が聞けそうだが……今日は引き下がろう」男は構えを解いた。「だが放っておくという約束はできない。お前達は軍事国家だ。中立だとほざくならまずその忌まわしい武器の輸出を止めろ。それをしない限り目的のひとつとして殲滅する」「……」さすがに納得はしてもらえなかったが、彼は近くの扉を開け、外階段を使って去っていった。無理やり捕まえて自白させることも考えたが、街に潜んでいる仲間の報復に合いそうだ。撤退すると言う以上、深追いはせずさっさと出て行ってもらった方が良い。どれほどの規模の組織か知らないが、今過激に応戦しても損しかない。王族を守りながら戦わなきゃいけないのも骨が折れる。「……」いつの間にか地上からのぼる煙は見えなくなった。テラスへ出て見ると広場には誰もおらず、テントや国旗が倒れて酷い有様だった。怪我人の手当も片付けも大変だ……。敵と接触したこと、取り逃したことを軍に報告し、再度体制を立て直した。もしファギュラが見ていたら、その様子に歓喜しているだろう。彼らにとっては挨拶程度。そう思うとやりきれない気持ちになる。この国が攻撃されたことはすぐに世界中に広がり、ランスタッドを含めた四つの国で緊急会議が開催されることが決定した。国の最高責任者が出る為、恐らくロ
建国記念日当日の朝は普段と何ら変わらなかった。空の色も気温も鳥のさえずりも、知り尽くしたもののせいで心を動かさない。それよりずっと激しく自分を動揺させるのは、身体の不調。「はっくしょん!」震えを抑える為に厚いブランケットを体に巻き付け、ノーデンスは自身の熱を計った。三十八度二分。最悪だ。この大切な日にまた熱を出してしまった。しかも何故か前より高い。昨夜は祭典前日ということもあり、一日中動き回っていた。武器の増強の為に神力をいつもより注いでいたせいか、凄まじい倦怠感に襲われている。寝不足と近頃増えた頭痛も拍車をかけ、朝のコンディションは最低だ。開会式では何もしないとはいえ席を用意されているし、熱を出して欠席なんてシャレにならない。夜には大事な会合を二つ予定している。しかし熱を誰かにうつしたら、そっちの方が問題だ。どうする。頭を抱えて唸っていると、ドアをノックする音が聞こえた。現れたのは上質なスーツを着たオッドだった。何もなければ恰好を褒めるところだが、今はとてもそんな余裕はない。「ノーデンス様! おはようございます! とうとう今日ですね。祭典が無事に終わるよう、俺も気を引き締めていきます!」「オッド、そこで止まれ。俺は熱がある」「そうですか。……え? 熱ぅっ!?」爽やかな笑顔から一転、オッドは扉を勢いよく閉めて駆け寄ってきた。「こんな大事な日に何やってるんですかー! いつも俺達に体調管理だけはしっかりしろって仰るくせに、笑えませんよ! 貴方がいなかったら俺達はただの市民と同じ扱いで、満足に動けないんだから!」「分かってる。分かってるから大声出すな。誰かに聞かれたら困るだろ」オッドに移さないよう距離を置き、ブランケットを引き摺りながら窓の外を覗いた。「開会式には絶対出席する。……オッド、薬師の爺さんから薬を貰ってきてくれないか。強いもので構わないから、即効性の解熱剤を」「えっ! でも……」「もしテロリストが攻撃を仕掛けてきたらどうする。明日なんてないも同然だぞ」彼はまだなにか言いたそうに口を開けていたが、やがて小さなため息をついて背を向けた。「……すぐにお持ちします」オッドは足早に部屋を出ていった。遠ざかる靴音にほっとする。王族お抱えの薬師に相談するわけにはいかないし、強い解熱剤は絶対にくれないだろう。だから今回だけは一族で
過ごしやすい秋が終わりを迎えようとしている。冬に備え食料の調達や防寒対策で忙しくなるときだ。心なしか、街を歩く人々の顔は険しく見える。 日照時間が変わらないのは良いことだが、ランスタッドも年に数回は雪が降る。子どもくらいしか喜ばないが、ノーデンスは雪を眺めることが密かに楽しみだった。白が好きだ。鮮やかな景色は確かに気持ちが上がるが、状況次第で疲れてしまうから。 「ノーデンス様。今日はいくつか新規の商談が入ってるのでこちらをお目通しください」 「ああ。ありがとう」 月の半分を武器製造に注ぎ込み、残った時間は通商に勤しむ。朝からオッドに渡された書類を確認し、時間を気にしながら他国の商人と数件取り引きを交わした。 景気も客層も上々。心配事なんて何もないが、「ところでノーデンス様……最近また、陛下を避けてます?」 「……」休憩を兼ねた資料チェック中、オッドが不思議そうに首を傾げた。淹れたての珈琲を近くに置いてくれたが、すぐに手をつけることができなかった。手に持った書類に視線を向けたまま、短いため息をつく。 「“また”? またって何だ。俺は国王陛下を避けたことなんてただの一度もない」 「あれっ、そうなんですか? じゃあ今までの違和感は俺の勘違いかな。申し訳ありません」 軽い。申し訳ないと思ってる人間の口調じゃない。 「オッド、お前最近無駄口とミスが多いな。ここの提携先、この前変わったぞ。更新を忘れてる」 「あっ申し訳ありません!」 不備が見られる書類を差し出すと、彼は空いてるスペースにばさっと広げてチェックを始めた。こいつめ、コーヒーが零れたらどうするつもりだ。取引先がいる時にやったらただじゃおかないぞ。 「よし、できた! さすがノーデンス様、仕事に関することは全て頭に入ってるんですね。俺はもうお祭りのことで頭がいっぱいでしたよ。申し訳ありません」 「祭り? ……あぁあれね……。それよりお前、申し訳ないなんて微塵も思ってないだろ。口先だけの謝罪はやめろ。自分が思ってるよりも簡単に見抜かれてるぞ」 「そんなぁ、本当に申し訳ないと思ってますよ! 申し訳なさ過ぎて、申し上げることが何もないです」 「……うん?」 しばらく無言で見つめ合った。嫌になったのでひとりで城を出た。 オッドと一緒にいると色々馬鹿らしくなる。内ポケットから煙草を取り出
武器作りとして長い歴史を持つヴェルゼ一族はランスタッドの鉱山を所有し、巨大な工場地帯を与えられている。鋼材採取はもちろん、工房の増築や水道整備も自己責任で行うことができる。女性や子どもは製造や発掘といった力仕事には携わらずに、少し離れた場所に家を建てて裏方としてサポートするか、静かに暮らしている。男手のおかげで衣食住には困らない生活が送れていた。祖先から受け継がれた技術と知識が何よりの宝だ。工場からさらに離れた場所に、集落の跡地がある。伝達や物資の運搬等不便な為、王都に近くに移住するよう命じられたらしい。一族は時の王に従い、百年近く前に今の土地に移り住んだという。ノーデンスは小さなランタンを手に、夜の廃屋へ訪れていた。嵐などのせいで家屋のほとんどは倒壊してしまったが、頑丈な家はまだいくつか建っている。かつて人が住んでいたとは思えないほど不気味だが、中には毛布や缶詰が散乱してあり、仄かな生活感を演出していた。ここからさらに外れへ行くとランスタッドの墓地がある。息を引き取れば、国民は皆そこへ運ばれ、土の中に埋められるのだ。慈しみよりも深い悲しみと強い怨念が集まる特別な場所。昼に来ても夜に来ても、誰かの泣き声と叫び声が聞こえる気がする。暗いエネルギーが集まる。だからこそ選ばれたのだろう。廃屋の最奥にあるドアを開け、地下へと繋がる扉を持ち上げた。開けた瞬間、風など吹かないはずの地下から肌を焼くような熱気が込み上げる。待っていた、と言わんばかりに地下の廊下に明かりが灯る。誰もいないはずの空間。その奥から泣き叫ぶ声。左手の薬指にそっと手を被せ、今夜も導かれるように階段を降りていく。
「ノーデンス様、今日も凛として美々しいこと」「……でも最近は食事の時間にお見かけしなくなったな。夜遅くまで働かれて、昼近くに起き出してるようで」「ほら、この間ロッタ様のことで陛下にお叱りを受けただろう。あれは城中で噂が広まったし、沈んでおられるのでは?」一歩自室から出ると自分の噂話が聞こえる。彼らは声を潜めているつもりだろうが、地獄耳の為に全て綺麗に拾うことができた。聞こえないふりをして、涼しい顔で闊歩するのは慣れている。なるべく毅然とした態度で仕事へ向かった。自分はいつだって特異な存在で、城内では良くも悪くも浮いている。心を殺し、余計なことを考えないよう一日動き続けた。「ノーデンス様、お帰りなさいませ」「……ただいま。お疲れ様」夜が更けた頃ようやく今日の仕事を終え、城に戻った。いつもより身体が怠くてふらふらする。さすがに以前のような風邪ではないだろうが、疲れがたまってるようだ。今すぐ部屋へ戻って、ベッドに倒れたい。でもその前にシャワーを浴びたい。飯は……食べなくてもいいか。「ノース」「わわわわっ! へ、陛下!?」王宮の広間を抜け、自室がある塔へ登った。その階段上で待っていたのはローランドだった。しかも一人。また護衛もつけずにここまで来たらしい。後、いるわけないと思ってる人間がいるのって結構ビビるもんだな。醜態を晒してしまったことも歯痒く、内心舌打ちした。「陛下……差し出がましいことを申し上げますが、いくら城内でもお独りで行動するのは……」「いいから部屋に入れろ」……こいつ、本当に何様だ。国王様……というセルフツッコミを心の中で済ませ、自室の鍵を開ける。彼が自分に会いに来た理由も、わざわざ部屋に上がる理由も分からないが、逆らうという選択肢はない。馬鹿みたいに広い客間へ通し、ソファに腰掛けた彼に紅茶を淹れた。席に着いてもしばらく無言が続いた。特に話すこともないし、何ならこうして向かい合うのはロッタ王女の件以来だ。増してや二人きりなんて……へとへとで帰って来たというのに、何故また疲れる状況に身を置かないといけないのか。心底ため息をつきたくなった。「……近頃諸外国による武器の買収が何倍にも増えている。それは良いが、大半は無名の商人で輸出後の経路が分からない。これからは身元が分かる証明書類を用意した者にのみ武器を売るようにしたらどうか