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第195話

Author: ルーシー
玲奈は、思い切って愛莉の部屋を出た。

智也の部屋の前を通ると、扉は半開きになっていた。

つい無意識に視線を向けると――

そこには、すでに身支度を整えた智也が背を向けて立っており、沙羅が正面からネクタイを結んでいた。

彼女の背丈に合わせて、智也はわざわざ首を傾け、身をかがめている。

玲奈は慌てて視線を引き戻した。

階段を下りながらも思考は止まらない。

――自分だってネクタイくらい結べたのに。

けれど彼は一度だって、そんなことを求めなかった。

他人に触れられることを嫌う彼が、沙羅には迷いなく許す。

その事実が胸を刺した。

階下に降りると、宮下が玲奈の顔を見て思わず声をかける。

「奥さま......?」

玲奈はわずかに笑みを作り、答えた。

「宮下さん、私は仕事に行ってくるわ」

「朝ごはんは召し上がらないのですか?」

「いいの。

時間がないから」

愛莉を待つために、すでに十分すぎるほど時間を使ってしまった。

――自分が早く来ても、娘にはもう必要とされていないのかもしれない。

そう思うと、胸の奥に寂しさが広がった。

病院の駐車場に車を停めたとき、不意に名前を呼ばれた。

「玲奈!」

振り返ると、ラフな服装の昂輝が立っていた。

引き締まった眉目、整った顔立ち、背も高い。

医療の世界でこれほど容姿が際立つ者は滅多にいない。

「先輩」

玲奈は声をかけた。

二人で並んでエレベーターを待つ。

そのとき昂輝が言った。

「今夜、時間あるか?

一緒に食事でも」

愛莉に必要とされなかったことを思い出し、玲奈は小さく頷いた。

「ええ、時間あるわ」

昂輝は微笑む。

「じゃあ、仕事が終わったら迎えに来る」

玲奈は「そこまでしなくても」と言いかけたが、彼はすぐに言葉を継いだ。

「......もう一人、一緒に来る人がいる」

「誰?」

玲奈は好奇心を抑えきれず尋ねた。

だが彼は曖昧に笑い、はぐらかした。

「会ってからのお楽しみだ」

落ち込んでいた気持ちが、少し和らぐ。

「先輩まで私に秘密めいたことを言うなんて」

昂輝は笑うだけで、答えなかった。

エレベーターが到着し、二人は乗り込む。

朝のラッシュで人が押し寄せ、玲奈は昂輝の胸元に押し付けられるように立たざるを得なかった。

密着する中、彼の心臓の鼓動がはっきりと耳に
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