LOGIN日記を引き出しにしまってから、三日が過ぎた。
愛音は夕食を終えたあと、ひとりでリビングの時計を見上げた。秒針が規則正しく動いている。何も変わらない時間の流れを確かめるように眺めてから、食器を片づけた。 その夜、眠る前に引き出しを開けた。 日記は、そこにある。 愛音はベッドの端に腰を下ろし、表紙を開いた。 前のページから少し進んだところに、入籍について書かれた記述があった。 航生さんとの結婚について、隆二さんは最後まで反対していた。 私には、どうしてそこまで反対するのか分からない。 航生さんのことを悪く思っているわけではない。少なくとも、私にはそう見えない ただ、隆二さんには何か引っかかるものがあるらしい。 理由を聞いても、はっきりとは答えてくれなかった。 私が決めたことだから、最後には認めてくれた。 愛音はそこで一度、ページから目を離した。 三年前の自分が書いた「隆二さん」という文字を指先でなぞる。 航生との関係について、隆二は最後まで納得していなかった。 それでも愛音の意思を押し切ることはしなかった。 ページをめくる。 入籍については、航生さんは嫌がった。 仕事のこともあるし、周囲の目もあるから正式な形にしたほうがいい。でも、今すぐ名字を変える必要はない。 そんな話になって、結局この形になった。 事実婚。 少し変わった形だけれど、二人で決めたことだから問題はないと思う。 その少し後ろには、短い記述があった。 今日、婚前契約書を交わした。 こんなものを作るとは思わなかったけれど、お互いに必要なことを決めておいたほうがいいらしい。 愛音はそこでページを閉じかけた。 けれど、指を止めてもう一度開く。 その先には、別の日の日付があった。 今日は少し嬉しいことがあった。 航生さんから時計をもらった。 突然だったので驚いた。 こんなことをする人じゃなかったから、少し驚いた。 高価なものらしい。私には少しもったいない気がするけれど、航生さんが選んでくれたことは嬉しかった。 どうして急にこんなものをくれたのかは分からない。 私への罪悪感なのかな、と少しだけ思った。 考えすぎだと思うことにした。 愛音の目が、最後の一文で止まった。 ページの端を親指で押さえたまま、しばらく動かない。 時計。 その言葉を見て、部屋の中を見回す。 リビングの壁に掛けられた時計とは違う。 ベッド脇の小さな棚。 その一番上に、古い箱が置かれていた。 愛音は立ち上がって箱を取った。 蓋を開ける。 中には、時計が入っていた。 三年前にもらったものだった。 今でも動く。 愛音は時計を取り出して手のひらに載せた。金属の冷たさが指先へ伝わる。文字盤には傷がいくつかあるものの、壊れてはいない。 箱を持ったまま、愛音は少しだけ立ち止まった。 もらった日のことを思い出そうとしたが、細かなことまでは浮かんでこなかった。 ただ、航生が時計を差し出したときの顔だけは覚えている。 嬉しそうだったのか。気まずそうだったのか。 今となっては、どちらだったのかも分からない。 愛音は時計を箱へ戻した。 あの頃は、嬉しかった。 それ以上のことを考えなかった。 日記の続きをめくる。 最近は帰りが遅い日が増えた。 会社が大変なのだから仕方がない。 夕食を一緒に食べられない日もあるけれど、休みの日には少し話せる。 前より疲れているように見えるから、あまり問い詰めないほうがいいと思う。 香水の匂いについても、仕事の付き合いだと思うことにした。 スマートフォンを伏せるのも、何か仕事の連絡があるのかもしれない。 目が合わなくなったことも、私が気にしすぎているだけだと思う。 ページをめくるたびに、当時の自分が書いた短い文章が続いていた。 大きな出来事が記録されているわけではない。 今日は帰りが遅かった。 今日は一緒に食べられなかった。 今日はあまり話さなかった。 そんな一日がいくつも重なっている。 愛音はそこを指でなぞった。 日記を書くこと自体は続いているのに、書かれていることは少しずつ減っていた。以前なら一日の終わりに残していた細かな出来事まで、いつの間にか書かなくなっている。 それでもページは続いていた。 それでも、日記には小さな変化が増えていた。 休日の予定がなくなった。 食卓に置く料理の量を減らした。 航生が帰る時間に合わせていた夕食を、先にひとりで済ませる日も増えた。 それについて、愛音は何も書かなかった。 書かなくなったことそのものが、日記の中では目立っていた。 少し先のページには、別の日の記述があった。 今日は時計をつけて出かけた。 せっかくもらったものだから、ちゃんと使おうと思う。 航生さんは気づかなかった。 その次の日には、こう書かれていた。 時計を外した。 仕事をするときは邪魔になるので、普段はつけないほうがいいかもしれない。 愛音はそこで手を止めた。 時計をもらったことさえ、特別な出来事ではなくなっていた。 箱の中に戻された時計と同じように、日常の隅へ置かれている。 愛音は時計を箱へ戻した。 蓋を閉める前に、もう一度だけ文字盤を見る。 秒針は変わらず動いていた。 以前なら、そのまま引き出しへしまっていた。 けれど今日は違った。 箱を閉じたあと、日記と一緒に棚の奥へ置いた。 すぐに取り出せる場所ではない。 かといって、捨てる場所でもなかった。 愛音は引き出しを閉めた。 部屋の時計を見る。 秒針が一つ進んだ。 それから、もう一つ。 三年前の日記に残された時間も、今の時間も、同じように動いている。 愛音は電気を消した。 暗くなった部屋で、時計の針だけが静かに進んでいた。 あの頃の自分に、今ならかけてやれる言葉がある。けれど言ったところで、三年前の愛音にはもう届かない。日記の中の文字も、時計の秒針も、過ぎてしまった時間を巻き戻すことはできなかった。 愛音はしばらく暗い天井を見上げていた。時計をもらった日の自分と、今の自分と、どちらが本当の航生を知っていたのだろう。答えの出ない問いを、そのまま眠りの中へ落としていくことにした。愛音が朝桐家を訪ねる機会は少し増えた。依子から呼ばれることもあれば、先日の書類について確認したいと連絡が来ることもある。剛生も以前ほど愛音を客として扱わなくなり、居間へ通すときには自分で椅子を引くようになった。 「この前は助かったよ」 「いえ」 「書類の件は、あれから確認してもらった。君が見つけたところで合っていたそうだ」 剛生はそう告げると、湯呑みを愛音の前へ置いた。以前のような沈黙はなかった。窓の外では庭師が植木の枝を払っている。小さな剪定ばさみの音が、一定の間隔で聞こえていた。 「修正もされたんですか」 「そのようだ。担当者が新しいものを持ってきた」 「よかったですね」 「ああ。あれを見つけてもらわなかったら、まだ揉めていたかもしれん」 剛生は少し笑った。 「君にこんなことを頼むとは思わなかったが、助かったよ」 「たまたま気づいただけです」 「それでも、気づいたのは君だ」 愛音は湯呑みに手を添えた。剛生はそれ以上続けず、庭へ目を向ける。 その日は、庭の木や近所の店の話から始まった。剛生は昔からある店が減ったことを話し、愛音は駅前に新しい店が増えたことを話した。依子が茶菓子を運んでくると、今度は季節の話になる。今年は雨が多い。庭の草も例年より伸びるのが早い。そんな取り留めのない話が続いていた。 「このあたりも、昔とはずいぶん変わったよ」 「駅の周りも新しい建物が増えましたね」 「そうだな。店も入れ替わる。長く続いているところを見ると、それだけで少し安心するよ」 「昔からある店は、なくなると寂しいですね」 「うん。新しいものも悪くないんだが、馴染んだものには馴染んだものの良さがある」 剛生は窓の外へ目を向けた。 「昔はこんなこと、気にもしなかったんだが」 「そういうものかもしれませんね」 「君も家ではよくやっているのか」 「できる範囲で」 「それで十分だろう」 剛生は湯呑みを持ち上げた。茶を飲みながらテレビの音に耳を傾ける。画面では昼のニ
依子から連絡が来たのは、前に会ってから四日ほど経った午後だった。今度はお茶ではなく、少し相談したいことがあるという。愛音が指定された時間に朝桐家を訪ねると、依子は玄関まで出てきた。 「急に呼び出してしまってごめんなさいね」 「いえ」 「この前の話とは少し違うの。私だけではどうにもならなくて」 依子はそう言って愛音を居間へ通した。前回と同じ席には茶器が並んでいる。その横に、薄い封筒と数枚の書類が重ねられていた。 「実は主人の会社の契約書なの」 依子が封筒から書類を取り出した。紙の端は何度も触れられたらしく、少しだけ丸くなっている。 「数字が合わないところがあるみたいでね」 「数字ですか」 「ええ。契約金額と、別紙にある支払い予定の金額が合わないの。主人も担当の人に確認しているんだけれど、向こうは計算に間違いはないと言うのよ」 依子は一枚目を愛音の前へ置いた。 「こちらが本契約。こっちが追加分。合計すれば同じになるはずなのに、最後の数字だけ違うの」 愛音は書類を手に取った。紙は少し厚く、印刷された数字が細かく並んでいる。契約金額、支払日、内訳。視線を上から下へ動かしながら、指先で欄の位置を追った。 「何度も見たんだけれどね。主人も担当者も、数字ばかり見てしまっているのかしら」 依子の向かいには剛生もいた。眼鏡を外して机の上の書類を見ている。 「私も計算し直したが、どうにも分からなくてね」 剛生はそれだけ告げると、愛音の手元へ目を向けた。 愛音は返事をせず、二枚目の紙をめくった。最初の金額へ戻る。もう一度、別紙の数字を追う。合計欄で指先が止まった。 「ここです」 依子と剛生の視線が同じ場所へ集まった。 「この金額、前のページと同じ数字になっています」 「ええ。それが?」 「こちらの追加分を足す前の金額です」 愛音は二枚の紙を横に並べた。 「本契約の金額が一千二百万円。追加分が三百万円です。だから合計は一千五百万円になります。でも、この欄だけ一千二百万
それから数日後、愛音は朝桐家の門の前に立っていた。依子から届いた連絡には、先日のこともあるので一度お茶でも、とだけあった。指定された時間に訪ねると、玄関の扉はすぐに開いた。 門をくぐったとき、庭の植木はきれいに刈り込まれていた。玄関脇の鉢植えにも枯れた葉はない。愛音は足元を見ながら歩き、呼び鈴を押す前に手土産の紙袋を持ち直した。 「来てくださってありがとう。わざわざ時間を作ってもらってしまって」 「いえ」 依子は愛音の手元へ目を向けた。小さな紙袋を提げている。 「まあ、手土産まで。気を遣わなくていいのに」 「近くで見つけたものです」 「そう。では、ありがたくいただくわ」 依子は両手で紙袋を受け取った。袋を脇へ置くこともせず、そのまま居間まで丁寧に運んでいく。 「こちらへどうぞ。今日はゆっくりしていってちょうだい」 案内された席には、すでに茶器が用意されていた。依子が急須を手に取り、湯呑みに茶を注ぐ。茶托の位置を整えてから愛音の前へ差し出した。 「熱いから、気をつけて」 「ありがとうございます」 「先日は急に伺ってしまったでしょう? あれから少し気になっていたの。せっかく来てもらったのだから、今日は落ち着いて話せればと思って」 「はい」 依子は自分の湯呑みを両手で包んだ。ひと口飲み、静かに置く。 「家のことは、あれから何か変えた?」 「特には」 「そう。あなたらしいわね」 愛音は湯呑みの縁へ目を落とした。依子はそれを見てから、窓の外へ視線を移す。 「この前も思ったけれど、あなたはあまり物を増やさないのね」 「必要なものだけ置いています」 「そういう考え方なの」 「はい」 「航生は昔から物が多いでしょう。仕事の資料もそうだし、買ったまま忘れているものもあるし」 「書斎にはいろいろありますね」 「でしょう? あの子は自分で片づけているつもりなのだけれど、見ているほうは気になるものよ」 依子は少し笑った。 「昔から変わらな
数日後、愛音は朝桐依子の連絡先を開いた。短い文章を入力して送る。返事は思っていたより早く届いた。内容は簡単だったが、依子は話を聞くことを断らなかった。愛音は画面を閉じ、洗濯物を取り込んだ。ベランダから戻ると、畳んだ衣類をそれぞれの場所へしまっていく。 その日の午後だった。インターホンが鳴った。 愛音は手を拭いて玄関へ向かった。モニターに映っていたのは依子だった。約束をしていたわけではない。 「突然ごめんなさいね」 扉を開けると、依子は軽く頭を下げた。手には小さなバッグを持っている。 「今度、親戚との会食があるでしょう? その前に一度、こちらを見ておこうと思って」 「どうぞ」 愛音が身体を横へずらすと、依子は靴を脱いだ。玄関に上がったところで足を止める。靴箱の上に置かれた小さな花瓶へ目を向けたあと、廊下の先まで視線を伸ばした。 「まあ……思ったよりきれいにしているのね」 そのままリビングへ入る。依子の目がソファの位置を確かめ、テーブルの上へ移った。雑誌は一冊だけ。郵便物もない。テレビのリモコンが決められた場所に置かれている。 「会食の前だから、少し気になっていたの。朝桐家の人間が住む家ですもの。外から見られたときに、あまり雑然としていると困るでしょう?」 「そうですね」 「普段から、こんな感じなの?」 「だいたいは」 「航生が散らかす朝霧」 「仕事の書類を置くことはあります」 「あの子らしいわね。片づけるのは?」 「私がします」 依子は一瞬だけ愛音を見た。 「そう」 それ以上は言わず、キッチンへ向かった。 愛音も後ろからついていく。依子は食器棚を見て、並んだ皿の数を目で追う。冷蔵庫の扉を眺め、シンクへ視線を落とした。蛇口の周りに水滴がないことを確認すると、今度はコンロの脇へ目を向ける。 「水垢もないわね」 声には少しだけ感心した響きがあった。 けれど依子の視線はすぐに別の場所へ移った。 「洗濯物は?」 「もう片づ
愛音は机の上に置いたファイルを開いた。 紙の端が指先に触れる。少し黄ばんだ用紙には折り目が残っていたが、文字はまだ読みやすい。ファイルそのものも、長いあいだ棚の奥にしまわれていたせいか、表面に薄く埃がついていた。 日記や時計と同じ場所に、同じだけの時間、置かれていたものだった。 最初のページをめくる。婚前契約書という文字が目に入った。その下に並ぶ日付を指でなぞり、愛音は一度手を止める。結婚する前、隆二はこの書類を見ていた。最後まで納得していなかったことだけは覚えている。何かを言われた気もする。けれど、その先は思い出さなかった。 ページをめくるたびに紙が乾いた音を立てた。愛音は机の端に置いていた振込明細を引き寄せる。梨本恵実。五千万円。名前と数字を確認してから、明細を契約書の横へ並べた。 該当する条項を探す。財産分与についての項目。その下には、婚姻関係が解消された場合の財産について細かく記されていた。さらにページをめくると、慰謝料請求権に関する条項がある。愛音はそこに貼られていた小さな付箋へ指を置いた。結婚する前、自分で貼ったものだった。当時は、こんな日が来るとは思っていなかった。それでも、念のためにと貼っておいた。 明細へ視線を戻す。五千万円という数字が紙の上にある。契約書の文字と並べて見ても、どちらも動かなかった。 愛音は明細を折り、ファイルの内側へ戻した。契約書も閉じる。表紙を手のひらで押さえたまま、しばらく動かなかった。 部屋の時計が、また一つ音を刻んだ。窓の外を、誰かの車が通り過ぎていく気配がした。 それから引き出しを開けた。中には古い通帳や印鑑ケースが並んでいる。その奥へファイルをしまおうとして、愛音は一度手を引いた。契約書の角が引き出しに触れ、乾いた音を立てる。結局、奥へ押し込むのではなく、すぐ取り出せる位置へ置いた。 翌朝も、台所にはいつもの音がしていた。炊飯器の蓋を開ける音。味噌汁を椀によそう音。椅子を引く音。愛音はいつもと同じ順番で朝食を並べる。 「今日は少し早いから」 廊下から航生の声がした。 「分かりました」 愛音は皿を一枚追加した。航生が食卓につく。新聞を開く音が続いた。愛音は自分の椅子に座り、味噌汁へ箸をつける。 「結婚記念日だし、夜は外で食べようか」 「はい」
翌朝、愛音はいつも通りに洗濯機を回した。昨夜見た書斎の扉が、朝の廊下にも同じ位置にある。閉じたままのドアへ一度だけ目を向け、それから洗濯物を籠へ移した。 朝食の準備をしていると、冷蔵庫の上に置いた布巾へ手が止まる。梨本恵実という名前が、ふと浮かんだ。 愛音は布巾を水で濡らし、固く絞った。食卓を拭き、皿を並べる。名前を思い出すだけなら、それ以上のことは起きない。そうするように、いつもの手順へ戻った。 航生が起きてくる頃には、味噌汁も焼いた魚も食卓に並んでいた。「今日、帰り遅くなるかもしれない」「分かった」 航生はスマートフォンを見ながら椅子に座った。愛音は味噌汁を置き、向かいの席へ腰を下ろす。 数日後、結婚記念日を迎えた。 朝から特別なことは何もなかった。航生はいつもの時間に起き、シャワーを浴びてから書斎へ入る。愛音はその間に食器を片づけ、洗面所のタオルを替えた。 玄関へ向かう足音が聞こえる。「愛音。ネクタイどこだっけ」「二段目の引き出し」 航生が寝室へ戻ってくる。クローゼットの扉が開く音がして、ハンガーの擦れる音が続いた。 愛音はキッチンでコーヒーを淹れていた。 やがて航生がリビングへ戻ってくる。濃紺のスーツに袖を通し、鏡の前で襟元を整えていた。ソファの背にかけていたジャケットを手に取ったとき、胸ポケットから薄い紙が床へ落ちた。 紙は一度だけ裏返り、フローリングの上を滑った。 愛音はカップを置いた。「落ちたよ」 航生が振り返る。「ん?」「これ」 愛音はしゃがみ、紙を拾った。指先に伝わる感触は薄いコピー用紙とは少し違っていた。銀行の明細だった。 そのまま渡そうとして、視線が一行に止まる。 振込先。 梨本恵実。 愛音の指が紙の端を押さえた。 その下に金額がある。 五〇,〇〇〇,〇〇〇円。 桁を追う。 一、十、百、千。その先まで目を動かしてから、もう一度同じ数字を見た。 五〇,〇〇〇,〇〇〇円。 紙