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7話

作者: 団紡るう
last update 公開日: 2026-09-16 12:08:27

 日記を引き出しにしまってから、三日が過ぎた。

  愛音は夕食を終えたあと、ひとりでリビングの時計を見上げた。秒針が規則正しく動いている。何も変わらない時間の流れを確かめるように眺めてから、食器を片づけた。

  その夜、眠る前に引き出しを開けた。

  日記は、そこにある。

  愛音はベッドの端に腰を下ろし、表紙を開いた。

  前のページから少し進んだところに、入籍について書かれた記述があった。

  航生さんとの結婚について、隆二さんは最後まで反対していた。

  私には、どうしてそこまで反対するのか分からない。

  航生さんのことを悪く思っているわけではない。少なくとも、私にはそう見えない

  ただ、隆二さんには何か引っかかるものがあるらしい。

  理由を聞いても、はっきりとは答えてくれなかった。

  私が決めたことだから、最後には認めてくれた。

  愛音はそこで一度、ページから目を離した。

  三年前の自分が書いた「隆二さん」という文字を指先でなぞる。

  航生との関係について、隆二は最後まで納得していなかった。

  それでも愛音の意思を押し切ることはしなかった。

  ページをめくる。

  入籍については、航生さんは嫌がった。

  仕事のこともあるし、周囲の目もあるから正式な形にしたほうがいい。でも、今すぐ名字を変える必要はない。

  そんな話になって、結局この形になった。

  事実婚。

  少し変わった形だけれど、二人で決めたことだから問題はないと思う。

  その少し後ろには、短い記述があった。

  今日、婚前契約書を交わした。

  こんなものを作るとは思わなかったけれど、お互いに必要なことを決めておいたほうがいいらしい。

  愛音はそこでページを閉じかけた。

  けれど、指を止めてもう一度開く。

  その先には、別の日の日付があった。

  今日は少し嬉しいことがあった。

  航生さんから時計をもらった。

  突然だったので驚いた。

  こんなことをする人じゃなかったから、少し驚いた。

  高価なものらしい。私には少しもったいない気がするけれど、航生さんが選んでくれたことは嬉しかった。

  どうして急にこんなものをくれたのかは分からない。

  私への罪悪感なのかな、と少しだけ思った。

  考えすぎだと思うことにした。

  愛音の目が、最後の一文で止まった。

  ページの端を親指で押さえたまま、しばらく動かない。

  時計。

  その言葉を見て、部屋の中を見回す。

  リビングの壁に掛けられた時計とは違う。

  ベッド脇の小さな棚。

  その一番上に、古い箱が置かれていた。

  愛音は立ち上がって箱を取った。

  蓋を開ける。

  中には、時計が入っていた。

  三年前にもらったものだった。

  今でも動く。

  愛音は時計を取り出して手のひらに載せた。金属の冷たさが指先へ伝わる。文字盤には傷がいくつかあるものの、壊れてはいない。

  箱を持ったまま、愛音は少しだけ立ち止まった。

  もらった日のことを思い出そうとしたが、細かなことまでは浮かんでこなかった。

  ただ、航生が時計を差し出したときの顔だけは覚えている。

  嬉しそうだったのか。気まずそうだったのか。

  今となっては、どちらだったのかも分からない。

  愛音は時計を箱へ戻した。

  あの頃は、嬉しかった。

  それ以上のことを考えなかった。

  日記の続きをめくる。

  最近は帰りが遅い日が増えた。

  会社が大変なのだから仕方がない。

  夕食を一緒に食べられない日もあるけれど、休みの日には少し話せる。

  前より疲れているように見えるから、あまり問い詰めないほうがいいと思う。

  香水の匂いについても、仕事の付き合いだと思うことにした。

  スマートフォンを伏せるのも、何か仕事の連絡があるのかもしれない。

  目が合わなくなったことも、私が気にしすぎているだけだと思う。

  ページをめくるたびに、当時の自分が書いた短い文章が続いていた。

  大きな出来事が記録されているわけではない。

  今日は帰りが遅かった。

  今日は一緒に食べられなかった。

  今日はあまり話さなかった。

  そんな一日がいくつも重なっている。

  愛音はそこを指でなぞった。

  日記を書くこと自体は続いているのに、書かれていることは少しずつ減っていた。以前なら一日の終わりに残していた細かな出来事まで、いつの間にか書かなくなっている。

  それでもページは続いていた。

  それでも、日記には小さな変化が増えていた。

  休日の予定がなくなった。

  食卓に置く料理の量を減らした。

  航生が帰る時間に合わせていた夕食を、先にひとりで済ませる日も増えた。

  それについて、愛音は何も書かなかった。

  書かなくなったことそのものが、日記の中では目立っていた。

  少し先のページには、別の日の記述があった。

  今日は時計をつけて出かけた。

  せっかくもらったものだから、ちゃんと使おうと思う。

  航生さんは気づかなかった。

  その次の日には、こう書かれていた。

  時計を外した。

  仕事をするときは邪魔になるので、普段はつけないほうがいいかもしれない。

  愛音はそこで手を止めた。

  時計をもらったことさえ、特別な出来事ではなくなっていた。

  箱の中に戻された時計と同じように、日常の隅へ置かれている。

  愛音は時計を箱へ戻した。

  蓋を閉める前に、もう一度だけ文字盤を見る。

  秒針は変わらず動いていた。

  以前なら、そのまま引き出しへしまっていた。

  けれど今日は違った。

  箱を閉じたあと、日記と一緒に棚の奥へ置いた。

  すぐに取り出せる場所ではない。

  かといって、捨てる場所でもなかった。

  愛音は引き出しを閉めた。

  部屋の時計を見る。

  秒針が一つ進んだ。

  それから、もう一つ。

  三年前の日記に残された時間も、今の時間も、同じように動いている。

  愛音は電気を消した。

  暗くなった部屋で、時計の針だけが静かに進んでいた。

  あの頃の自分に、今ならかけてやれる言葉がある。けれど言ったところで、三年前の愛音にはもう届かない。日記の中の文字も、時計の秒針も、過ぎてしまった時間を巻き戻すことはできなかった。

  愛音はしばらく暗い天井を見上げていた。時計をもらった日の自分と、今の自分と、どちらが本当の航生を知っていたのだろう。答えの出ない問いを、そのまま眠りの中へ落としていくことにした。

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