로그인その花、1本ください午後9時45分。
駅前の花屋が、まだ開いていた。
こんな時間までやっていたんだ。
私は1度通り過ぎて、
3歩戻った。
店先には、閉店準備を始めた花たち。
白いガーベラ。
淡いピンクの薔薇。
小さな青い花。
別に、誰かに贈る予定はない。
誕生日でもない。
記念日でもない。
でも、
今日は花を1本くらい買って帰ってもいい気がした。
理由はない。
そういう夜だった。
「まだ大丈夫ですか?」
店の奥へ声をかける。
「大丈夫です」
男性が顔を出した。
30代前半くらい。
ベージュのエプロン。
白いシャツの袖をまくっている。
髪は少し長めで、前髪が目にかかっていた。
花屋のお兄さん。
なるほど。
なんとなく納得する見た目だ。
「1本だけでもいいですか?」
「もちろん」
彼は店先まで出てきた。
「贈り物ですか?」
「自分用です」
そう答えると、
彼が少し笑った。
「いいですね」
その言い方が自然だった。
「1本だけ買う人って珍しいですか?」
「全然。ただ」
「ただ?」
「自分用です、って迷わず言う人は結構好きです」
私は彼を見る。
「それ、営業トーク?」
「違います」
「早い」
「僕、営業あんまり上手じゃないので」
確かに。
上手な人なら、
もう少し遠回しに言いそうだ。
「どれがいいと思います?」
私が並んだ花を見る。
「完全にお任せ?」
「1本だけ選んでください」
「難しいな」
彼は真剣に花を見る。
そこまで悩まなくてもいいのに。
やがて、
薄い紫色の花を1本抜いた。
「これ」
「何ですか?」
「トルコキキョウ」
柔らかく重なった花びら。
派手ではない。
でも、きれい。
「どうしてこれ?」
「なんとなく」
「花屋なのに?」
「花屋でも、なんとなくはあります」
また笑ってしまう。
「じゃあ、それください」
「1本だけ?」
「1本だけ」
「分かりました」
彼は花を持って奥へ戻った。
*
ラッピングを待っている間、
店の中を眺めた。
夜の花屋は、昼間と少し違う。
照明が落ち着いていて、
水の匂いと、葉っぱの青い匂いがする。
静かだ。
彼はカウンターで花の茎を切っている。
手がきれいだった。
細い指。
でも、節には少し傷がある。
花屋の手。
「見すぎです」
突然言われた。
「え?」
顔を上げる。
彼は花を見たまま笑っている。
「手」
ばれていた。
「見てません」
「見てました」
「花を見てました」
「僕の手に花ないですけど」
困る。
こういう人だったのか。
「意外と傷が多いなって思って」
正直に言うと、
彼が自分の手を見る。
「ああ」
指の横に小さな切り傷。
「薔薇とか結構痛いんですよ」
「棘?」
「棘も。あと葉っぱでも切れます」
「花屋さんってもっと優雅な仕事かと思ってた」
「僕も働く前はそう思ってました」
「違った?」
「水は重いし、冬は寒いし、手荒れるし」
「夢がない」
「でも」
彼が花を薄い紙で包む。
「夜に1本だけ花を買いに来る人がいたりするので、そんなに悪くないです」
またそういうことを言う。
私は何も返さなかった。
*
「はい」
出来上がった花を差し出される。
薄紫の花に、透明なフィルム。
細いリボン。
1本なのに、ちゃんとしている。
「かわいい」
「でしょう?」
ちょっと得意そう。
「いくらですか?」
会計を済ませる。
花を受け取ろうとしたとき、
「あ」
彼が私の手を見る。
「何?」
「ちょっと待って」
突然、手首を取られた。
びっくりして止まる。
「え?」
「リボン」
よく見ると、
ラッピング用の細い糸が私のブレスレットに絡んでいた。
「ああ」
「動かないで。切れそう」
彼が私の手を持ち上げる。
指先で、絡まったリボンをほどき始めた。
近い。
カウンターを挟んでいたときより、
ずっと。
俯いた顔。
長めの前髪。
睫毛。
思っていたより男っぽい手。
さっきまで見ていた指が、
今は私の手首に触れている。
「結構絡んでるな……」
小さく呟く。
「自分でやります?」
「今動くと余計絡む」
「はい」
素直に言うことを聞いた。
彼の親指が、
手首の内側を軽く押さえる。
その場所だけ、
妙に意識する。
リボンを取るため。
分かっている。
でも、
その割に指がゆっくりだ。
「痛くないですか?」
「大丈夫」
「ちょっと赤い」
彼の指が、
ブレスレットの跡をなぞる。
ほんの一瞬。
「きついんじゃないですか、これ」
「そうかな」
「指1本入らない」
確かめるように、
ブレスレットと肌の間へ指先を差し込む。
近すぎる。
「……入れなくていいです」
思わず言った。
彼の動きが止まった。
顔を上げる。
目が合う。
「あ、ごめん」
「いや」
「癖で」
「何の癖?」
「花とかリボンとか、きつく縛られてると緩めたくなる」
本人は普通に言っている。
でも。
今の言い方は、ちょっと危ない。
彼も気づいたらしい。
数秒後、
「……今の忘れてください」
「無理かも」
「ですよね」
2人で笑った。
やっとリボンが外れる。
彼は私の手を離した。
急に、
そこだけ少し涼しく感じた。
「取れました」
「ありがとう」
「あと」
彼が私のブレスレットを見る。
「少し緩めたほうがいいと思います」
「花屋さんに言われると、なんか説得力あるね」
「締めすぎると、跡が残るので」
また手首を見る。
その視線が、
少しだけ長い気がした。
「……何?」
「いや」
彼は笑う。
「花よりそっちが気になって」
「手首?」
「赤いから」
「そういうことね」
「他に何が?」
わざとらしい。
この人、
絶対さっきより楽しんでる。
*
店を出ようとしたところで、
外を見る。
雨。
「うそ」
さっきまで降っていなかったのに。
しかも結構強い。
「傘あります?」
彼が聞く。
「ない」
「少し待ちます?」
時計を見る。
10時。
「閉店ですよね」
「もう閉めます」
「じゃあ邪魔だし」
「邪魔じゃないですよ」
彼が店先の札を裏返した。
CLOSED。
シャッターを半分だけ下ろす。
「雨、弱くなるまで中にいれば」
「いいんですか?」
「1本買ってくれたお客さんなので」
「1本しか、でしょ」
「1本でも客は客です」
店内の照明が少し暗くなる。
閉店後の花屋。
急に静かになった。
彼が奥から折りたたみの椅子を2つ持ってきた。
「座ります?」
「なんか申し訳ない」
「僕も片付け終わったんで」
2人で店の入口近くに座った。
目の前には雨。
背中には花。
少し不思議な時間だった。
「よく自分に花買うんですか?」
彼が聞く。
「今日が初めて」
「そうなんだ」
「変?」
「全然」
少し考えてから、
彼が言った。
「じゃあ、今日からたまに買えばいい」
「営業?」
「半分」
「半分なんだ」
「もう半分は」
彼が私の持っている花を見る。
「似合ってるから」
私は花を見る。
薄紫。
それから彼を見る。
「花って人に似合うものなんですか?」
「ありますよ」
「どういう意味で?」
「言わない」
「なんで」
「言うと営業っぽくなるから」
ずるい。
知りたくなる。
でも、聞かないことにした。
雨はまだ降っている。
それでも、
早く止めばいいとは、
さっきほど思わなくなっていた。
*
10分ほどして、
雨が弱くなった。
「行けそうですね」
私が立つ。
「ですね」
彼も立ち上がる。
「今日はありがとう」
「こちらこそ」
「何が?」
「1本選ばせてもらったので」
花屋としては普通のことだと思う。
でも、
彼はなんだか嬉しそうだった。
「また来てもいいですか?」
自然に聞いていた。
彼が少しだけ目を丸くする。
「もちろん」
「1本でも?」
「1本がいいです」
「どうして?」
彼は一瞬考えた。
「選ぶ理由ができるから」
答えになっているような、
なっていないような。
でも、
ちょっとだけ嬉しかった。
「じゃあまた」
「はい」
店を出る。
雨上がりの夜。
片手には1本の花。
歩きながら、
手首を見る。
赤みはもう消えていた。
でも、
彼の指先の感触だけ、
まだ少し残っている気がする。
家に着いたら、
花瓶なんてないことに気づいた。
仕方なく、
細長いグラスに花を挿した。
テーブルの上。
薄紫の花が1輪。
思っていたより、
部屋が少しだけきれいに見えた。
今日はそれで十分。
明日の朝、
目を開けたときも、
たぶんこの花がある。
そう思うと、
少しだけ眠るのが楽しみになった。
****
何でもない日に、自分のために小さなものをひとつ買う夜も悪くないよね。
今日はもう、そのくらい優しくしてあげて。おやすみ。午後9時25分。木曜の夜。駅裏のビル3階にある、小さなダンスバーへ来た。看板には、〈初心者歓迎 サルサナイト〉友達に送られてきた動画を見て、なぜか気になった。木曜。あと1日。少しくらい変なことをしてもいい。最初の30分は初心者レッスン。「初めてですか?」声をかけてきたのは30代前半くらいの男性。黒いTシャツ。細身だけど肩はしっかりしている。「見れば分かる?」「かなり」「まだ踊ってないのに」「出口確認してる顔」ばれている。「帰らないです」「安心しました」彼はスタッフではなく、毎週来ているらしい。「先生?」「先生じゃないです。でも初心者の相手はできます」「お願いします」最初は足だけ。前。戻る。後ろ。戻る。簡単そうなのに、音楽が入ると急に分からない。「逆です」「分かってる」「分かってて逆?」「体が」彼が笑う。次は手。「軽く」「どれくらい?」「握手より弱く」指が触れる。「これくらい」「逃げそう」「逃げないです」音楽。1、2、3。5、6、7。彼がリードする。思ったより近い。「下見ない」「足見たい」「僕見て」「それが一番難しい」「何で?」「知らない人だから」「じゃあ名前聞きます?」名乗る。彼も。「これで知らない人じゃない」「雑」次は回転。彼の
午後9時40分。水曜の夜。駅前のアロママッサージ店に入った。今週はまだ水曜。なのに肩が重い。首も固い。たぶん、座りすぎ。見すぎ。考えすぎ。受付で60分コースを選ぶ。担当は30代くらいの女性。髪を低い位置でまとめ、声が静か。「今日はどこがお疲れですか?」「全部」正直に答える。彼女が少し笑う。「では、特に気になるところは?」「肩と首」個室へ案内される。暗い照明。静かな音楽。少し甘い香り。着替えて、うつ伏せになる。「失礼します」肩にタオル。その上から、ゆっくり圧がかかる。「……硬いですね」「そんなに?」「かなり」最近何でもかなり。「痛かったら言ってください」肩甲骨のあたり。痛い。でも気持ちいい。「そこ」思わず声が出る。「ここですか?」「そこ」圧が少し深くなる。「あー……」変な声。でももうどうでもいい。「かなり溜まってますね」「何が?」「疲れが」「よかった。悪いものかと思った」彼女が笑う。「悪いものも少しあります」「何?」「力」「力?」「ずっと入ってます」言われて気づく。肩。指。顎。全部少し力が入っている。「抜いてください」「抜いてるつもり」「まだ」肩を軽く揺らされる。「もう少し」息を吐
午後8時55分。祝日の最後。私は1人焼肉の店に入った。友達と出かける予定は、子どもの発熱で中止。午後は家でだらだらして、気づけば夕方。冷蔵庫には卵とヨーグルトしかない。だったら肉でいい。店は1人用の半個室。隣とは低い仕切り。カルビ。ハラミ。ご飯。わかめスープ。少し頼みすぎた気もする。でも祝日だからいい。1枚目を焼く。じゅう。裏返す。少し焦げる。「あ」隣から声。「それ、もういいと思います」仕切りの向こうに30代半ばくらいの男性。黒いニット。彼も1人。「見てたんですか」「煙がすごかったので」「失敗?」「ぎりぎり」慌てて肉を取る。食べる。「……おいしい」「なら成功」彼が笑う。「そっちも1人?」「はい」「祝日に?」「そっちも」またこの返し。「家で食べるの面倒になって」「同じ」「じゃあ正解ですね」少し安心する。彼は焼くのがうまい。肉を並べすぎない。ちゃんと待つ。「上手ですね」「何が?」「焼くの」「そこ褒められたの初めてです」「私、全部焦がすから」「見れば分かります」失礼。「じゃあ教えて」「今、返していいです」ハラミを裏返す。「あと20秒くらい」「数える?」「感覚」「じゃあ分からない」「待って。言います」本当に20秒後、
午後10時05分。月曜の夜。駅から少し離れた場所に、深夜まで開いている古い喫茶店がある。木の扉。真鍮の取っ手。橙色の照明。家に帰れば洗濯物も、明日の準備もある。でも今夜は、まっすぐ帰りたくなかった。私は窓際へ座り、カフェオレを頼んだ。スマホを伏せる。何もしない。それがしたかった。数分後。「……え?」斜め前の席から声。顔を上げると、30代半ばの男性がこちらを見ていた。紺色のニット。眼鏡。見覚えがある。「もしかして、彩?」その瞬間、分かった。「修平?」大学時代、同じ店でアルバイトしていた人。私はホール、彼はキッチン。週3回くらいシフトが重なった。閉店後の賄いも何度も一緒に食べた。「久しぶり」「卒業以来?」「途中で1回駅で会った」「それ何年前?」「8年くらい」「じゃあほぼ卒業以来」彼が笑う。昔より落ち着いているのに、話し方は変わらない。「1人?」「うん」「俺も」私のカフェオレが来る。彼の前にはブラックコーヒー。「まだブラック?」「まだカフェオレ?」「覚えてるんだ」「毎回ミルク多めって言ってたじゃん」「そっちが勝手に増やしてくれたんでしょ」「店長に怒られた」思い出して笑う。あの店はもう閉店した。卒業後、連絡も自然に途切れた。仕事や住む場所の話を少ししたあと、彼がふいに言った。「昔さ」「何?」「俺のこと避けてた時期あったよね」カップを置く。「避けてない」
午後9時15分。出張で泊まっているホテルの部屋に戻る前、私は最上階のルーフトップテラスへ上がった。部屋に入れば、シャワーを浴びて寝るだけ。だからあと10分だけ、夜風に当たりたかった。客は2組。私は端の席で炭酸水を頼んだ。昼間は暖かかったのに、夜は少し冷える。肩の開いた黒いワンピースを選んだことを後悔した。「寒くないですか?」隣のテーブルから声。30代後半くらいの男性。白いシャツ。ネクタイは外し、ジャケットを椅子にかけている。「少しだけ」「それ、少しの顔じゃないです」「そんな顔してます?」「かなり」知らない人なのに言い方が自然で、私は笑った。そのとき強い風が吹いた。髪が顔にかかり、肩のストールがずれる。同時に、ワンピースの細い肩紐まで少し落ちた。「あ」直そうとした瞬間、彼の視線が一度だけ私の肩へ落ちる。すぐ戻った。見た。でも、いやらしいというより、気づいたという感じ。「ずれてます」「分かってます」髪とストールとバッグで手がうまく回らない。彼が一瞬迷った。「直していいですか?」胸が少し跳ねる。「……お願いします」彼が立って隣へ来る。夜風と、少しだけ香水。肩の近くに指。細い紐をつまみ、そっと内側へ戻す。「ここ?」「もう少し」「こう?」「うん」指が一瞬、肩に触れた。ほんの少し。それなのに、そこだけ熱い。彼は離れると思った。でも、紐を直したあとも一瞬だけ指が残った。「……もう大丈夫?」「大丈夫です」やっと離れる。私はストールをかけ直した
午後10時40分。土曜の夜。友達の結婚式が終わった。披露宴。二次会。写真。乾杯。笑いすぎて、頬が少し疲れている。私は会場を出る前に、テラスへ出た。ホテルの高層階。夜景。少し冷たい風。室内はまだ音楽と話し声。外は静か。「やっぱりここにいた」後ろから声がした。振り返る。大学時代の男友達。同じゼミ。同じ飲み会。同じグループ。でも、一度も付き合わなかった人。昔はよく2人で帰った。夜中まで電話した。旅行の写真もたくさんある。そして10年前。大学最後の夏。花火大会の帰り。キスしそうになったことが一度だけある。本当に、あと少しだった。でも私のスマホが鳴って。2人とも笑って誤魔化して。それきり。「何で分かったの?」私が聞く。「昔から人多いと外逃げるじゃん」「覚えてるんだ」「そっちこそ、俺が来ると思ってた顔」「思ってない」「じゃあ残念」昔と同じ軽口。でもスーツ姿の彼は、学生のころと少し違う。肩幅も。声も。笑い方は同じ。「今日、格好よかったね」私が言う。「新郎じゃないけど」「スピーチ」「噛んだ」「1回だけ」「数えてた?」「みんな聞いてたから」彼が笑う。私のドレスを見る。視線が一瞬下がって、すぐ戻る。「そっちも」「何?」「きれいだった」普通に言われると困る







