로그인映画が終わったのは、午後11時20分だった。
平日のレイトショー。 観客は10人もいなかった。 私は最後まで席に座ったまま、エンドロールを眺めていた。 泣くような映画ではなかったのに、なぜか立ち上がるのが惜しかった。 暗い場所って、いい。 誰にも顔を見られない。 ポップコーンを1人で全部食べてもいいし、途中で靴を脱ぎたくなっても誰にも怒られない。 まあ、脱がないけど。 照明が明るくなり始めたところで、私はようやくバッグを持った。 そのとき。 「これ、落としましたよ」 後ろから声がした。 振り返る。 男性が、小さな銀色のものを指先につまんでいた。 私のブレスレットだった。 「あ」 左手を見る。 ない。 いつの間に。 「ありがとうございます」 受け取ろうとすると、 「留め具、開いてますね」 彼がブレスレットを見ながら言った。 30代半ばくらい。 黒いパーカーに、眼鏡。 映画館で見かけても絶対に覚えていないタイプ。 でも近くで見ると、意外と目が優しかった。 「壊れてます?」 「たぶん大丈夫。外れただけだと思います」 彼は留め具を触ってみる。 「直せそうですか?」 「こういうの苦手なんですけど」 「じゃあ返してください」 「今ちょっと意地になってきました」 「なんで」 「できないと思われると悔しいので」 面倒な人だ。 ちょっと笑った。 映画館のスタッフが、遠くからこちらを見ている。 早く出ろ、という空気を感じる。 「外でやりません?」 「追い出されそうですもんね」 2人でロビーへ出た。 * 外は雨だった。 来たときには降っていなかったのに。 しかも、かなり強い。 私は入口のガラス越しに雨を見た。 「傘……」 ない。 天気予報を見なかった自分を呪う。 隣で彼が折りたたみ傘を開いた。 「駅までですか?」 「はい」 「じゃあ入ります?」 一瞬迷った。 駅までは徒歩7分。 走れば3分。 でも、この雨を3分走る勇気はない。 「……お願いします」 「どうぞ」 傘は、大人2人には少し小さかった。 自然と距離が近くなる。 彼は私が濡れないように傘をこちらへ傾けている。 そのせいで、自分の右肩が少し濡れていた。 「そっち濡れてますよ」 「大丈夫です」 「大丈夫じゃないでしょ」 私が傘の柄を中央へ押す。 彼の手に、私の手が重なった。 「あ」 2人とも止まった。 先に離したのは私だった。 「すみません」 「いえ」 それだけ。 なのに、急に傘の中が狭くなった気がした。 歩き出す。 雨音が近い。 車のライトが濡れた道路に伸びている。 さっきまで映画の中にいたせいか、街まで少し現実じゃないみたいだった。 「1人で映画、よく来ます?」 彼が聞いた。 「結構。そっちは?」 「僕も1人です」 「寂しいですね」 「そっちに言われたくないです」 確かに。 「でも1人のほうが楽じゃないですか」 「分かります」 「見終わったあと感想聞かれないし」 「分かる」 「『どうだった?』って聞かれても、まだ自分でも分かんないときあるし」 「すごく分かる」 初対面なのに、そこだけ妙に気が合った。 ちょっと面白かった。 信号が青になる。 歩き出そうとした瞬間、 「危ない」 彼に左手を掴まれた。 目の前を、自転車が勢いよく横切った。 「うわ」 あと1歩出ていたら、たぶんぶつかっていた。 「すみません、大丈夫?」 「はい」 そう答えてから気づいた。 彼がまだ私の手首を掴んでいる。 素肌に、指が直接触れていた。 親指が、ちょうど内側に当たっている。 脈を測るみたいな位置。 「……あ」 彼も気づいたらしい。 でも、すぐには離れなかった。 雨音。 信号機の電子音。 その中で、自分の鼓動だけ急に大きくなった気がした。 彼の親指が、ほんの少し動く。 意識してなのか、無意識なのか。 「手首、熱いですね」 低い声で言われた。 「え?」 「いや……」 彼はようやく手を離した。 「冷えてると思ったから」 意味の分からない言い訳。 たぶん本人も分かっている。 私も分かっている。 でも、そこは突っ込まなかった。 左手首だけが、急に裸になったような感じがした。 「ブレスレット」 彼が思い出したように言った。 「そうだった」 駅の屋根の下まで着いてから、彼はポケットからブレスレットを出した。 「たぶん直ってます」 「ほんと?」 「つけてみます?」 私は左手を出した。 彼が少し迷う。 「僕が?」 「直した責任取ってください」 「責任重いな」 笑いながら、彼が私の手を取った。 さっきより、ゆっくりだった。 手首にブレスレットを回す。 金属が肌に触れる。 冷たい。 でも、彼の指は温かい。 小さな留め具をつけるために、彼の指先が何度も手首の内側をかすめた。 「……難しい」 「意地になったんでしょ」 「今、ちょっと後悔してます」 「頑張って」 「急に他人事ですね」 笑おうとしたのに。 指が触れるたび、少し呼吸が浅くなる。 彼は真剣な顔で、私の手首を見ている。 こんなところ、普段誰かにじっと見られることなんてない。 だから余計に変な気分になる。 「できた」 カチッと小さな音がした。 ブレスレットが元の場所に戻った。 「ありがとうございます」 手を引こうとした。 でも彼の指が、まだ手首に残っていた。 「……?」 「確認」 「何を?」 「ちゃんと外れないか」 そう言いながら、指先でチェーンを軽く引く。 そのあと。 なぜか親指が、もう1度手首の内側に触れた。 そこには、さっきよりずっと速い脈がある。 彼の視線が、一瞬だけ私の顔に上がった。 目が合う。 何も言わない。 それが一番困った。 私は先に手を引いた。 「大丈夫そうですね」 「……はい」 「じゃあ」 彼が少し笑う。 「今度こそ落とさないでください」 「気をつけます」 改札は、すぐそこだった。 名前も聞いていない。 たぶんこのまま別れる。 それでいい。 今日くらいは。 「じゃあ、おやすみなさい」 私が言うと、 「おやすみなさい」 彼も言った。 3歩歩いたところで、後ろから呼ばれた。 「あの」 振り返る。 「手首」 「え?」 「さっき熱かったの」 彼が少しだけ困ったように笑った。 「僕のせいだったら、ちょっと嬉しいです」 言うだけ言って、反対側の改札へ歩いていった。 ずるい。 私は電車に乗って、座席に座った。 左手を見る。 銀色のブレスレット。 その下の肌に、親指の感触なんて残っているはずがない。 なのに。 指でそっと触れてみる。 まだ少し熱い気がした。 家に着くころには、たぶん消えている。 だから今だけ。 雨の夜と、 名前も知らない男の指先を、 もう少しだけ覚えていてもいいことにした。 **** 今日はもう、少しだけいい気分のまま終わりにしよう。 あとは温かくして、ゆっくりおやすみ。午後9時25分。木曜の夜。駅裏のビル3階にある、小さなダンスバーへ来た。看板には、〈初心者歓迎 サルサナイト〉友達に送られてきた動画を見て、なぜか気になった。木曜。あと1日。少しくらい変なことをしてもいい。最初の30分は初心者レッスン。「初めてですか?」声をかけてきたのは30代前半くらいの男性。黒いTシャツ。細身だけど肩はしっかりしている。「見れば分かる?」「かなり」「まだ踊ってないのに」「出口確認してる顔」ばれている。「帰らないです」「安心しました」彼はスタッフではなく、毎週来ているらしい。「先生?」「先生じゃないです。でも初心者の相手はできます」「お願いします」最初は足だけ。前。戻る。後ろ。戻る。簡単そうなのに、音楽が入ると急に分からない。「逆です」「分かってる」「分かってて逆?」「体が」彼が笑う。次は手。「軽く」「どれくらい?」「握手より弱く」指が触れる。「これくらい」「逃げそう」「逃げないです」音楽。1、2、3。5、6、7。彼がリードする。思ったより近い。「下見ない」「足見たい」「僕見て」「それが一番難しい」「何で?」「知らない人だから」「じゃあ名前聞きます?」名乗る。彼も。「これで知らない人じゃない」「雑」次は回転。彼の
午後9時40分。水曜の夜。駅前のアロママッサージ店に入った。今週はまだ水曜。なのに肩が重い。首も固い。たぶん、座りすぎ。見すぎ。考えすぎ。受付で60分コースを選ぶ。担当は30代くらいの女性。髪を低い位置でまとめ、声が静か。「今日はどこがお疲れですか?」「全部」正直に答える。彼女が少し笑う。「では、特に気になるところは?」「肩と首」個室へ案内される。暗い照明。静かな音楽。少し甘い香り。着替えて、うつ伏せになる。「失礼します」肩にタオル。その上から、ゆっくり圧がかかる。「……硬いですね」「そんなに?」「かなり」最近何でもかなり。「痛かったら言ってください」肩甲骨のあたり。痛い。でも気持ちいい。「そこ」思わず声が出る。「ここですか?」「そこ」圧が少し深くなる。「あー……」変な声。でももうどうでもいい。「かなり溜まってますね」「何が?」「疲れが」「よかった。悪いものかと思った」彼女が笑う。「悪いものも少しあります」「何?」「力」「力?」「ずっと入ってます」言われて気づく。肩。指。顎。全部少し力が入っている。「抜いてください」「抜いてるつもり」「まだ」肩を軽く揺らされる。「もう少し」息を吐
午後8時55分。祝日の最後。私は1人焼肉の店に入った。友達と出かける予定は、子どもの発熱で中止。午後は家でだらだらして、気づけば夕方。冷蔵庫には卵とヨーグルトしかない。だったら肉でいい。店は1人用の半個室。隣とは低い仕切り。カルビ。ハラミ。ご飯。わかめスープ。少し頼みすぎた気もする。でも祝日だからいい。1枚目を焼く。じゅう。裏返す。少し焦げる。「あ」隣から声。「それ、もういいと思います」仕切りの向こうに30代半ばくらいの男性。黒いニット。彼も1人。「見てたんですか」「煙がすごかったので」「失敗?」「ぎりぎり」慌てて肉を取る。食べる。「……おいしい」「なら成功」彼が笑う。「そっちも1人?」「はい」「祝日に?」「そっちも」またこの返し。「家で食べるの面倒になって」「同じ」「じゃあ正解ですね」少し安心する。彼は焼くのがうまい。肉を並べすぎない。ちゃんと待つ。「上手ですね」「何が?」「焼くの」「そこ褒められたの初めてです」「私、全部焦がすから」「見れば分かります」失礼。「じゃあ教えて」「今、返していいです」ハラミを裏返す。「あと20秒くらい」「数える?」「感覚」「じゃあ分からない」「待って。言います」本当に20秒後、
午後10時05分。月曜の夜。駅から少し離れた場所に、深夜まで開いている古い喫茶店がある。木の扉。真鍮の取っ手。橙色の照明。家に帰れば洗濯物も、明日の準備もある。でも今夜は、まっすぐ帰りたくなかった。私は窓際へ座り、カフェオレを頼んだ。スマホを伏せる。何もしない。それがしたかった。数分後。「……え?」斜め前の席から声。顔を上げると、30代半ばの男性がこちらを見ていた。紺色のニット。眼鏡。見覚えがある。「もしかして、彩?」その瞬間、分かった。「修平?」大学時代、同じ店でアルバイトしていた人。私はホール、彼はキッチン。週3回くらいシフトが重なった。閉店後の賄いも何度も一緒に食べた。「久しぶり」「卒業以来?」「途中で1回駅で会った」「それ何年前?」「8年くらい」「じゃあほぼ卒業以来」彼が笑う。昔より落ち着いているのに、話し方は変わらない。「1人?」「うん」「俺も」私のカフェオレが来る。彼の前にはブラックコーヒー。「まだブラック?」「まだカフェオレ?」「覚えてるんだ」「毎回ミルク多めって言ってたじゃん」「そっちが勝手に増やしてくれたんでしょ」「店長に怒られた」思い出して笑う。あの店はもう閉店した。卒業後、連絡も自然に途切れた。仕事や住む場所の話を少ししたあと、彼がふいに言った。「昔さ」「何?」「俺のこと避けてた時期あったよね」カップを置く。「避けてない」
午後9時15分。出張で泊まっているホテルの部屋に戻る前、私は最上階のルーフトップテラスへ上がった。部屋に入れば、シャワーを浴びて寝るだけ。だからあと10分だけ、夜風に当たりたかった。客は2組。私は端の席で炭酸水を頼んだ。昼間は暖かかったのに、夜は少し冷える。肩の開いた黒いワンピースを選んだことを後悔した。「寒くないですか?」隣のテーブルから声。30代後半くらいの男性。白いシャツ。ネクタイは外し、ジャケットを椅子にかけている。「少しだけ」「それ、少しの顔じゃないです」「そんな顔してます?」「かなり」知らない人なのに言い方が自然で、私は笑った。そのとき強い風が吹いた。髪が顔にかかり、肩のストールがずれる。同時に、ワンピースの細い肩紐まで少し落ちた。「あ」直そうとした瞬間、彼の視線が一度だけ私の肩へ落ちる。すぐ戻った。見た。でも、いやらしいというより、気づいたという感じ。「ずれてます」「分かってます」髪とストールとバッグで手がうまく回らない。彼が一瞬迷った。「直していいですか?」胸が少し跳ねる。「……お願いします」彼が立って隣へ来る。夜風と、少しだけ香水。肩の近くに指。細い紐をつまみ、そっと内側へ戻す。「ここ?」「もう少し」「こう?」「うん」指が一瞬、肩に触れた。ほんの少し。それなのに、そこだけ熱い。彼は離れると思った。でも、紐を直したあとも一瞬だけ指が残った。「……もう大丈夫?」「大丈夫です」やっと離れる。私はストールをかけ直した
午後10時40分。土曜の夜。友達の結婚式が終わった。披露宴。二次会。写真。乾杯。笑いすぎて、頬が少し疲れている。私は会場を出る前に、テラスへ出た。ホテルの高層階。夜景。少し冷たい風。室内はまだ音楽と話し声。外は静か。「やっぱりここにいた」後ろから声がした。振り返る。大学時代の男友達。同じゼミ。同じ飲み会。同じグループ。でも、一度も付き合わなかった人。昔はよく2人で帰った。夜中まで電話した。旅行の写真もたくさんある。そして10年前。大学最後の夏。花火大会の帰り。キスしそうになったことが一度だけある。本当に、あと少しだった。でも私のスマホが鳴って。2人とも笑って誤魔化して。それきり。「何で分かったの?」私が聞く。「昔から人多いと外逃げるじゃん」「覚えてるんだ」「そっちこそ、俺が来ると思ってた顔」「思ってない」「じゃあ残念」昔と同じ軽口。でもスーツ姿の彼は、学生のころと少し違う。肩幅も。声も。笑い方は同じ。「今日、格好よかったね」私が言う。「新郎じゃないけど」「スピーチ」「噛んだ」「1回だけ」「数えてた?」「みんな聞いてたから」彼が笑う。私のドレスを見る。視線が一瞬下がって、すぐ戻る。「そっちも」「何?」「きれいだった」普通に言われると困る