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自分の部屋番号

작가: Amy
last update 게시일: 2026-09-22 22:12:35

少しだけ、ここにいて

ホテルの大浴場を出たところで、私は自分の部屋番号を忘れた。

正確には、忘れたわけじゃない。

たしか12階。

そこまでは分かる。

でも、

1206だったか。

1208だったか。

1210だったか。

そこから先が、完全に消えていた。

「……嘘でしょ」

浴衣姿のまま、エレベーター前で立ち尽くす。

スマホは部屋。

カードキーも部屋。

財布も部屋。

手元にあるのは、小さなタオルだけ。

完璧に詰んでいる。

大浴場へ戻ってフロントに電話するしかない。

そう思ったとき、

「あれ」

後ろから声がした。

振り返る。

大浴場で少し前に見かけた男性だった。

もちろん男湯で、ではない。

入口の自動販売機の前で。

私が牛乳を買おうとして、100円玉を落としたときに拾ってくれた人。

30代半ばくらい。

黒髪。

浴衣の上に濃紺の羽織。

片手には瓶の炭酸水。

「さっきの」

彼も覚えていたらしい。

「100円の人」

「その呼び方やめてもらえます?」

「じゃあ牛乳の人」

「もっと嫌です」

彼が笑う。

「どうしました?」

「部屋番号が分からなくなりました」

「酔ってます?」

「飲んでません」

「じゃあ結構深刻ですね」

「自分でもそう思ってます」

事情を話すと、彼は少し考えた。

「フロント行きます?」

「そうします」

「僕も下に行くので、一緒に行きますよ」

ありがたい。

1人で浴衣姿のまま事情を説明するより、なぜか少し心強い。

エレベーターが来る。

2人で乗る。

彼が1階のボタンを押した。

扉が閉まった。

その瞬間。

ガクン。

エレベーターが止まった。

「え?」

照明が1度だけ消えて、非常灯に切り替わる。

薄暗い。

嫌な予感しかしない。

「ちょっと待って」

彼が操作盤を見る。

ボタンを押す。

反応なし。

「……止まってますね」

「見れば分かります」

「ですよね」

冷静な返事がちょっと腹立つ。

非常電話を押すと、すぐにスタッフの声がした。

どうやら館内で一時的な電気トラブルが起きたらしい。

復旧まで少しかかる。

危険はない。

その説明を聞いて、私は壁にもたれた。

「最悪」

「閉所苦手ですか?」

「ちょっと」

本当は、かなり。

狭い場所そのものより、

出られない、

という状況が苦手だった。

深呼吸する。

大丈夫。

すぐ動く。

分かっている。

でも、体はあまり言うことを聞いてくれない。

「座ります?」

彼が聞いた。

「大丈夫です」

「顔、大丈夫じゃないですけど」

「照明のせいです」

「便利ですね、その言い訳」

こんなときに笑わせないでほしい。

少し笑ってしまった。

彼は床に座った。

「立ってると余計しんどいですよ」

「床ですよ」

「ホテルのエレベーター、たぶん僕の部屋よりきれいです」

「どんな部屋に住んでるんですか」

「普通です」

「説得力ない」

それでも私は、少し離れた場所に座った。

浴衣の裾を整える。

正面には彼。

非常灯だけの空間は、思ったより静かだった。

「話します?」

彼が言う。

「何を?」

「何でも」

「こういうとき、会話で気を紛らわせる作戦?」

「そうです」

素直だ。

「じゃあ……旅行ですか?」

「はい。1泊」

「私も」

「1人?」

「はい」

「僕も」

「友達いないんですか」

「それ、そっちにも刺さりますよ」

また笑った。

少しだけ呼吸が楽になった。

「1人で来るの好きなんです」

私が言う。

「分かります」

「誰にも合わせなくていいし」

「起きたい時間に起きられる」

「ご飯も好きなものだけ食べられる」

「温泉も好きなだけ入れる」

「部屋番号も忘れられる」

「それは自由に含まれます?」

「今日は含めます」

彼が笑った。

その笑い方が、妙に安心した。

しばらくして。

またエレベーターが小さく揺れた。

反射的に、私は隣に手をついた。

そこに彼の手があった。

思い切り重なる。

「すみません」

離そうとした。

でも。

彼の手が、逆に私の指を軽く包んだ。

「このままでいいですよ」

一瞬、意味が分からなかった。

「え?」

「また揺れるかもしれないし」

言い方は普通だった。

でも、手は離れない。

指先が、ゆっくり重なっている。

恋人みたいに握るわけではない。

ただ、逃げなくてもいいように支えてくれている感じ。

その距離が、むしろ困る。

彼の手は温かかった。

温泉上がりだから。

きっとそれだけ。

「緊張してます?」

「少し」

「エレベーター?」

「……それ以外に何があるんですか」

彼が笑った。

「ですよね」

わざとだ。

絶対。

でも、指はまだ離れない。

しばらく黙っていた。

狭い空間。

薄い灯り。

浴衣。

知らない人。

考えてみれば、かなり変な状況だ。

なのに、怖さはもうほとんど消えていた。

「不思議ですね」

私が言った。

「何が?」

「さっきまで早く出たいって思ってたのに」

「今は?」

彼がこちらを見る。

近い。

床に座っているから、目線がいつもより低い。

距離も近い。

「……まあ」

「まあ?」

「もう少しくらいなら」

そこまで言って、止めた。

何を言ってるんだ。

彼の目が少し細くなる。

「もう少し?」

「復旧までなら」

「なるほど」

絶対に分かってる。

その顔が悔しい。

私は手を離そうとした。

でも今度は、彼の指が少しだけ強くなった。

ほんの少し。

止めるほどではない。

でも、

行かないで、

くらいの力。

「すみません」

「何が?」

「今、離れそうだったから」

「離れますよ、普通」

「じゃあ、もう少しだけ」

低い声だった。

冗談っぽくない。

胸の奥が、ほんの少しだけ跳ねる。

彼は私の手を見たまま言った。

「ここにいてください」

たったそれだけ。

でも、

狭いエレベーターの中では、十分すぎた。

私は何も言わなかった。

その代わり、手を離さなかった。

数分後。

突然、照明が戻った。

エレベーターがゆっくり動き始める。

2人とも同時に手を離した。

急に明るい。

急に普通。

それが少し惜しかった。

1階に着く。

扉が開いた。

フロントスタッフが慌てて駆け寄ってきた。

私は事情を説明して、無事に部屋番号を確認してもらった。

1208。

惜しいところまで覚えていた。

「じゃあ」

彼が言う。

「今度こそ部屋、忘れないで」

「そっちもエレベーター止めないでください」

「僕のせい?」

「なんとなく」

「ひどいな」

笑いながら、また一緒にエレベーターへ乗った。

今度は普通に動いた。

12階。

扉が開く。

「ここです」

「よかった」

私は降りる。

扉が閉まりかけたところで、

「おやすみ」

彼が言った。

「おやすみなさい」

それだけ。

名前も聞かなかった。

部屋に戻って、布団に入る。

さっきまで握られていた手を見る。

もちろん、何も残っていない。

でも。

あの暗い箱の中で、

もう少しだけここにいてください、

と言われた声だけは、

しばらく耳に残っていた。

私は手を布団の中にしまった。

今日は、それくらいで十分。

少し笑って、

目を閉じた。

****

今日はもう、誰かに少し甘えてもいい夜だったことにしよう。

あとは布団に任せて、ゆっくりおやすみ。

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