Mag-log in「近く、日本を発つんだよ」無視して行きかける自分たちの関心を引くように、父は大きな声で言う。「本社から数名と、咲子を連れて行く」「……は?」どこまで身勝手なのだろう。……母は心の病だと言っているのに。「母を海外に同行させて……また身勝手なイラ立ちのサンドバッグにでもなさるつもり?」「サンドバッグか……!うまいこと言うなぁ」おかしそうに笑う父を見て、さつきも遠巻きに話を聞いている役員たちも薄ら笑う。……その時、思いがけず母が振り向き、能面のような表情で一同をぐるりと見た。父はそんな母を気にすることなく続ける。「芹沢さんに言われてるんだよ。海外にトオキ屋を浸透させるために、しばらく腰を据えて滞在した方がいいって」芹沢からの紹介で、海外事業を成功させるためのコンサルまで雇ったという。「長く滞在するのに妻を連れていかないのはおかしいだろう」「主治医の意見も聞かずに……ましてや母本人の意向も確認せず、ですか?呆れますね」京香先生はこんな渡航を許すはずない。紅はそれでも続く父の話を無視して、母と一緒に別荘を出た。「良かった……片桐さん、すぐに戻ってこれて」病院では、京香が母を待ち構えていた。病室で診察をして異常がないのを確かめると、後を看護師に任せ、紅の腕を引く。「夕方から、院長と颯真、それから私も出席して……記者会見をする予定よ。院長とお義母さまには私からすべて話しておいたけど、あとで連絡が入ると思う」「大変なことになってしまって……京香先生、お忙しいのに」「いいえ。紅さんには本当に心痛をかけて申し訳なかったと思ってる」京香は改めて紅に頭を下げ、神楽を交えてセキュリティについて改善する案をまとめると話した。……そしてわずかに声をひそめる。「お父さまの側近の木下さん、交番に出頭したみたい」父の言葉通りの情報に、紅はふと目を上げた。「実行犯としてだけじゃなく、すべての罪をかぶる気でしょうね」木下はきっと、父の名前もトオキ屋の名前も出さないだろう。長年側近として仕える彼に犯罪まがいのことをさせて、簡単に首を斬る父の冷酷さに、紅は身震いがした。次は誰を使ってどんな方法で母に近づくつもりなのか……紅はもう一度父を訪ねる決心を固め、京香に挨拶して病院を出た。「紅です。先ほどはどうも」義母に訪問すると連絡をしてタクシーに乗り込み
「そう言うと思ったけどな」「正解でしたね。今夜帰ったらご褒美をあげます」「え……どんな?」口からの出任せで、具体的に考えてやしない……!「私のことは置いといて、神楽さんはお父さんのことをちゃんとやってあげてください」「わかった。……それと、君の休暇を伝えておく。まぁ、承認印押すのは俺だけどな」「あ……忘れてました。助かります」互いの成果は夜に話そうと約束して、着信を切った。わずかに、いや……本当はかなり気持ちがほぐれたことを感じる。耳障りのいい声だから?……いや、神楽はすでに紅の心の安定剤になっていた。ずっとふわふわしていた足に、やっと力が入った気がして、紅は海辺の別荘へ行くための支度を始めた。都内から電車で2時間。さらにタクシーで15分ほど乗って見えてきた、父が所有する海辺の別荘には、明らかに人が集まっているようだ。屋根のない駐車場に停まる数台の車は来客の数を表している。……そんな賑やかな中に母が?体調を崩していないか心配が込み上げた。「紅さま、いつの間においでに……?」「たった今よ。いつもご苦労さま、美沙さん」呼び鈴は押さず、虹彩認証で入ったので、最初に出くわした家政婦の美沙を驚かせた。「お母さん、来てるわね?」「え……あの、」余計なことを言うと父にどやされるのだろう。ここまで来て隠しても仕方ないのに。紅はにぎやかな声が響くデッキへと足を向けた。「皆さんお久しぶりです」デッキと隣接する庭、プールサイドは、水着姿の大人たちで賑わっている。紅を見て頭を下げる人たちはトオキ屋の社員だ。……知らない顔もある。「……紅、」やはり母はここにいた。隣には父……そして反対側の隣には、信じられない人もいる。「お母さん、大丈夫?迎えに来たの。病院に帰ろう」「……ちょっと待てよ」父にはわざと声をかけなかった。それも気に入らなかったのだろう……素直に立ち上がりかけた手を掴まれ、母は瞬間的にビクッとした。「……離してください。母は治療中なんです。病院に戻らないと」「心療……なんとかって、あれか?」唇を歪めて笑う父……反対側の隣にいる女も同じような笑みを浮かべる。「さつきさんも来てたんですね、本店の営業は大丈夫なのかしら?」急に声をかけられて驚いたようだ。トオキ屋本店の責任者であり、多分父の愛人であるさつき……。「私は……社
「この道を入ったところにあります」タクシーを住宅地に入る手前で待機させ、紅と京香は先を急いだ。やがて見えてきた和風建築の屋敷に、京香は素直に驚いてみせる。「わぁ……すごいお屋敷ね」「ただ大きいだけの古い家ですよ」どこから入るのか、知らなけば迷うだろう何もない壁に向かう紅。そこは入り組んだ塀になっていて、進んでいくと背丈をゆうに超す大きな門扉にたどり着く。近づくと明かりが灯る仕組みだ。「削除されてなければ、これで門は開くはずです」レンズのようなところに目を向け、虹彩認証で施錠を解く紅。門の向こうは足元に点々と明かりが灯って、遠い玄関まで案内した。到着すると、紅は躊躇わずチャイムを鳴らした。2度……3度……「誰かいない……?美沙さん?!木下っ?!」チャイムに応答はなく、紅はドンドンドアを叩き声をかけたが、それでも人の気配はしない。玄関の裏手に回ろうとするも、高い塀に遮られている。簡単に庭にたどり着ける設計ではないことはわかっていたが……「父が留守にしていても、誰かしらいるはずなんです。出て来ないところを見ると、父に来客には応対するなと言われているか、それとも……」あたふたと後に続く京香に説明しながら考える紅。「もしかしたら……」「なに?どこか、別の場所に?別荘かなにか?」紅はもう一度玄関を見つめ、少し下がって家全体を見上げた。雰囲気から人の気配を探ろうとしているように見える。「ごめんなさい。こんなところまでお連れして……1度病院に戻りましょう」来た道を戻り、タクシーに乗り込んだ。「思い当たる場所があるなら、そこへ行っていいのよ?うちの職員の不手際でこんなことになったんだから」「いえ。ここから先は、私1人で行きます。京香先生は明日もお仕事ですよね?帰って……休んでください」病院に到着し、京香はとりあえず……と言って、持ってきた薬を紅に預けた。「今回の件は警察に通報済みです。もし見つかったと連絡が来たら知らせるから、紅さんも1人でなんとかしようとしないで」「はい。ありがとうございます」紅はそのままタクシーで神楽の家に帰った。これから、どうしたらいいか……力が抜けたようにソファに座り込む紅。連れ去ったのが木下だとするなら、母は今、確実に父のそばにいる。「でも、家に誰もいないということは……」家政婦や側近と共に、連れ出
『もしもし……』神楽にそっくりの声が聞こえて……ふざけているのかと思った。「あの、神楽さん?」『お世話になっております。神楽の父親で、坂口と申します」「は……はじめまして、片桐紅と申します」父というのが実父のことだとわかり、交流があったのかと少し驚いた。父子水入らずの時間を過ごしているのなら、喜ばしい。別に……外科病棟で噂されていたことを信じたわけではなかったが。ひと通りの挨拶を終え、神楽に変わった。『信じる気になった?』「はじめから疑ってませんよ?……ちょっと意地悪を言っただけで、ごめんなさい」神楽は素直に謝る紅に、携帯の向こうで破顔した。「改めて、ご挨拶に行きたいです」『あぁ……だが父はどうも、依存症を患ってるようでな』場所を移動したらしい神楽が小さく言った。悲しげな声が、初めて母の病気を知った当時の自分を思い出させる。「神楽さん?」『ん?』「私が一緒にいるから、大丈夫です。私もお父さまを支えますから」悲しみも不安も怒りも、私はずっと1人で背負ってきた。誰かに一緒に背負うと言ってもらえたら、あの頃の自分はどれだけ救われたかと思う。『ありがとう紅。もう……一心同体だな?』「はい。2人で1人前です」『あぁ紅……今すぐひとつになりたい」「それは、」『今すぐ抱き……』唐突に携帯を切ってやった。家族との顔合わせも具体的になり、実の父親へ挨拶に行く想像を膨らませる。……あとは結婚式?義母に連れられて行ったチャペルを思い出した。契約結婚は3回も繰り返した神楽だけど、結婚式をするのは初めてだろう。何度か出席した友人の結婚式を思い出し、つい口元が緩む。タキシード姿の神楽、かなりカッコいいだろうな……本人には言えない想像が脳内に描かれた。簡単な夕食と入浴を済ませ、早々に神楽のベッドに横になり、ウトウトし始めた時だ。携帯がにぎやかに着信を知らせ、紅は誰からなのか確認もせず繋げる。「紅さん、落ち着いて……聞いてほしいんだけど」「え、京香……先生?」寝ぼけた頭に響く声は間違いなく京香先生だ。こんな時間にどうしたのだろう……今夜は神楽も病院にはいないのに。ベッドの上に上体を起こし、携帯を持ち直して……「片桐さんが、お母さんがいなくなったの」「え、お母さんが……?」「見回りの看護師が気づいて、病院中を探したんだけど
「……元気にしてた?」『誰か、わかるのか?』「わかるよ。伝わってくる空気でわかる」スタッフの目があり、相手が誰かわかる呼び方は避けたかった。……すでにナースステーションが異様な静けさなのは気づいている。「こっちからかけ直すよ。……携帯でいいか?」『いや……』……まさか、すでに携帯がないのか?嫌な予感がしたが、連絡してきた以上放っておけない。「それじゃ、前に待ち合わせた場所グランダーニャホテルに来て」わかった、と言う声が弱々しい。少しだけ重い気分を抱えながら医局へと引き上げた。買ってきたバゲッドサンドを口に運びながら、紅にメッセージをしておくことにする。『今日、夕飯は外で食べてくる』京香と話して、顔合わせの店が決まったのか気になるが……仕方がない。『了解しました』ものの数分で既読マークが付き、神楽は携帯を閉じた。勤務を終えてナースステーションの前を通りかかると、ちょうど入れ替わりなのか、スタッフが妙に多くいるような気がする。「あ!神楽先生、お疲れさまです」「お疲れさま」なぜ……上から下まで舐めるように見つめられるのか。「……なに」「いいえ!今日もスタイリッシュなファッションがキマってますね!」「別に、ただの白シャツとゆるカーゴだけど」紅と結婚することはまだ発表していないが、俺が以前と大きく変わったことにスタッフは気づかないのか。……服は清潔感があればそれでいい。ねっとりした視線があらぬ想像をされているようで気に入らないが、先を急ぐことにする。到着したのは、病院からほど近いシティホテルのロビー。そこに、所在なげにウロウロする人を見つけて胸が痛んだ。「父さん……」振り向いた顔が、最後に会った日より痩せていた。「こんないい店で食事しなくても……その辺の定食屋でよかったのに」「いいから。鰻でも食べて少し栄養をつけて」「でも父さん……」「俺が食べたいから付き合わせたんだ。当然支払いは俺だよ」払えない、と言わせたくなくて、急いで言った。父と最後に会った2年前、再再婚した家族と別れた直後だと聞いた。2度の再婚でそれぞれ子供を授かり、初めて連絡をした大学生の時は、会うことを拒絶された。「……体調は?」「あぁ。まぁなんとかな」俺が医者だということを忘れたのか……父の病状は進行しているように見えた。……だが
「そう、あなたのお母さま、咲子さんでしょ?私のことは綾子さんって呼んでくれるようになったわ。穏やかで優しくて繊細で……私にないものをすべて持ってる素晴らしい方ね?」「はぁ、それは……ありがとうございます」母親を褒められるのは嬉しいものだ。つい頬を緩める紅を見て、義母も笑った。「それであの、病院に飾る貼り絵って……」「咲子さんに頼んだのよ。京香さんに聞いたら楽しめる手作業は彼女の病気にもいいって」人が変わったような明るい母の笑顔を思い出した。まさか義母がそんな手助けをしてくれたなんて……感謝の気持ちを伝えながら、話を戻した。「あの、それで病室の変更にかかったお金を入金したいのですが」「いやだ……!だから咲子さんに仕事を頼んだって言ったでしょ?病室の変更にかかったお金は、彼女がきちんと支払ってくれたのよ」「そんな……それじゃ、お義母さまが」損をしてしまう。……そう言おうと思ったとき、義母がうっとりした表情になったことに気づいた。「あなた、彼女の貼り絵を見たことがある?それはそれは美しいグラデーションで花を表現してて、素晴らしいのよ?」「お義母さま……」不意に涙が浮かんできた。ずっと父につらい思いをさせられていた母が、誰かに認められて役割を与えられ、輝きを取り戻し始めている。あんな笑顔を見せるようになったのは、ちゃんと評価して認めてくれた義母のおかげ……「ほら!」指先で涙を拭う紅に、テーブルの向こうから、ハンカチを放る義母。「別に泣きやまなくていいわよ。泣きたい時は泣けばいい。だけど、メイクが落ちるのは嫌だと思うから渡しただけ!」「……わーんっ!!お義母さま〜っカッコよすぎますぅ〜……!」生まれて初めて、声を上げて泣いた。まさかそれが、神楽の母親の前でだなんて、予想もしなかった。会う前はどれだけ身勝手な人かと思ったけれど、実は正直でいることしかできない、ある意味不器用な人なのかもしれない。紅に、もう一人の母親ができた瞬間だった。「主治医も一緒なので、安心して連れ出せるわよ?」その後しばらくして、紅と神楽の結婚を前に、家族の顔合わせが行われることになった。神楽の両親と颯真と京香、紅の母と当事者の2人、合計7人で集まれる場所を選ぶのは、紅と京香だ。「それなら……母が好きな和食のお店に連れて行ってあげたい。病院から車で、10
「紅か……?」神楽との契約結婚を終え、まず向かったのは実家だった。「……お久しぶりです」手を止めず、顔も向けずに返事を返す娘に、父はわかりやすくイラ立つ。「はんっ!久しぶりに来たと思えば……なんだ?泥棒のマネごとか?」「お母さんの服を取りに来ました。そろそろ暑くなるので」「お前は、口を開けば母さんのことしか言わないな?」……あんたが口にしないからだ。今日も、ギリギリのところで言葉を飲み込む。父と言い争ってスッキリした事など一度もない。むしろ逆……怒りと悲しみ、そして絶望。父は昔から、私にそんな感情しか教えなかった。「……多分、今回持ち出せば、この家からお母さんの私物はなく
「君が契約結婚を引き受けたのは、俺への復讐か?香織と同僚だったってことは、当時から俺の話を聞いていた?」「香織さんは、別れた夫とセフレ関係になってつらいって言ってました。だから契約結婚を終えてからの相談ですね」「俺と出会ったのは偶然?……それとも探し出して、」ずいぶん話が意外な方向へ行くので……らしくもなく、動揺していた。それにまさか、梨沙子のことも知っているとは。「香織さん、夫の名前は伏せてましたよ。でもある日酔った勢いで「神楽」って名前と医者だって漏らして。あの料亭で出会ったのは偶然です。めずらしい名前だったからピンと来たんですよね」紅はソファから立ち上がり、携帯に表示される
「荷物、それだけだったか?」やがて、契約満了の日。見せつけるようにスーツケースを転がし、神楽の目の前に置く。「はい。このお宅にはすべてそろっていたので、ありがたく使わせていただきました」枕、毛布、シーツ、バスタオル、バスローブ……「引っ越し先の住所を教えてくれたら送るよ?使い慣れたものは手放したくないだろ?」「……あなたはそうかもね」使い慣れた契約妻を、今も時々美味しくいただいてる。「……え?」「……使わせてもらった枕、抱きしめて寝てくれません?私のことを思い出して」不思議そうな顔に作り笑いを返した紅に、今度は驚いた顔をするので、本気で吹き出してしまった。「冗談ですよ!
先に部屋を出た紅は、冷蔵庫を開け、冷えたミネラルウォーターをグラスに注ぐ。飲みきって息をつく紅の後ろに、部屋から出てきた神楽が近づいた。こういう時は……どんな態度を取ったらいいか。「あの、神楽さんも飲みますか?ミネラルウォーター……」「いや、いらない」肩からふわりと薄いショールがかけられた。「夜は少し冷えるからね」グラスをシンクに置いた紅の唇を、親指でひと撫でしてから手を取った神楽。……キスを拒んだのに、機嫌を損ねなかった?いや、面白くはないはず。寝室で見せた獣のような目を思い出し、紅はそっと笑った。「悪いな、遅くなった」「いいよ!神楽が最後に現れるのはいつものことだ







