Short
チャンスは3回しかない

チャンスは3回しかない

By:  鮎川 澪Completed
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
11Chapters
28views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

夫は、私を愛していない。娘のことも、もっと愛していない。 娘が生まれてから、もう六年が経つ。それなのに、夫は一度も娘を抱きしめたことがない。 医者は言った。彼は「感情障害」だと。ただ、人並みに愛し方を知らないだけだと。 けれど、あの人——彼の初恋の人が戻ってきた日、夫は珍しく、私たちに微笑みかけたのだった。 そして、信じられないことに、娘にプレゼントまで買って帰ってきた。 私は、やっと心を開いてくれたのだと思った。これから少しずつ、父親になってくれるのだと。 そう思っていた。 でも—— その夜、娘と一緒に見てしまった。夫のスマホのロック画面に設定された写真を。 画面に映っていたのは、満面の笑みを浮かべた夫。片腕には前歯の抜けた女の子を抱え、もう片方の手では、彼の初恋の手をしっかりと握っていた。 娘は、そっと私の手を握りしめた。潤んだ瞳が、何かを訴えるように震えていた。 「ママ……もう、出て行こうか?でも……パパに、あと三回だけチャンスをあげてもいい?」 「その三回で、パパがやっぱり私たちを選んでくれなかったら……そしたら、一緒に行こうね」

View More

Chapter 1

第1話

夫は、私を愛していない。娘のことも、もっと愛していない。

娘が生まれてから、もう六年が経つ。それなのに、夫は一度も娘を抱きしめたことがない。

医者は言った。彼は「感情障害」だと。ただ、人並みに愛し方を知らないだけだと。

けれど、あの人——彼の初恋の人が戻ってきた日、夫は珍しく、私たちに微笑みかけたのだった。

そして、信じられないことに、娘にプレゼントまで買って帰ってきた。

私は、やっと心を開いてくれたのだと思った。これから少しずつ、父親になってくれるのだと。

そう思っていた。

でも——

その夜、娘と一緒に見てしまった。夫のスマホのロック画面に設定された写真を。

画面に映っていたのは、満面の笑みを浮かべた夫。片腕には前歯の抜けた女の子を抱え、もう片方の手では、彼の初恋の手をしっかりと握っていた。

娘は、そっと私の手を握りしめた。潤んだ瞳が、何かを訴えるように震えていた。

「ママ……もう、出て行こうか?でも……パパに、あと三回だけチャンスをあげてもいい?」

「その三回で、パパがやっぱり私たちを選んでくれなかったら……そしたら、一緒に行こうね」

私は娘の頭をそっと撫でて、静かにうなずいた。

スマホを元の場所に戻して、何事もなかったふりをしたけれど——

胸の奥に広がる、ひりつくような痛みまでは、どうしても隠せなかった。

小さくため息をついて、私は娘を寝室へ連れて行った。

だって、娘と約束したから。

御堂奕真(みどうえいま)に、あと三回だけチャンスをあげるって。

だから娘は、まるで以前のように彼をパパと呼び続けていた。

父の日が近づいたある日、娘は幼稚園で作った石膏人形を大事そうに持ち帰ってきた。

「パパ、これ……よろこんでくれるかな?」

娘は少し不安そうに私を見上げた。

私は、その細い指のすき間に入り込んだ泥を丁寧に洗い落としながら、白くて柔らかい手にできた小さな傷を見つけて、胸が締めつけられる。

そっと頭をなでながら言った。

「きっと、パパよろこんでくれるよ」

そのひと言で、娘はぱっと笑顔を見せた。

本当は、娘は粘土細工があまり得意じゃない。

でも、以前奕真の書斎で見つけた粘土の人形を見て——

それがパパのお気に入りだと思い込んで、ずっと幼稚園で練習していたのだ。

いくつもいくつも壊しては作り直し、ようやくできた一体だった。

その夜、娘はソファに座って、パパの帰りをずっと待っていた。

私は娘を寝室に連れて行こうと抱き上げた瞬間、彼女は目を覚ました。

「パパ、帰ってきたの……?」

私は首を横に振った。

「ママが抱っこしてお部屋に戻るよ。パパが帰ってきたら、すぐ起こしてあげるから」

「やだ。ここでパパを待つの」

娘は頑として動かず、ソファの隅で目をこすりながら待ち続けた。

そして、ようやく玄関のドアが開いた。

奕真が帰ってきた。

娘は勢いよくソファから飛び出し、石膏人形を高く掲げた。

「パパ!父の日おめでとう!」

奕真は一瞬、目に見えて動きを止めた。

そしてぎこちなく人形を受け取り、「ありがとう」と、ただそれだけを言った。

娘の目がぱっと輝く。

「パパ、気に入ってくれた?」

しかし——

奕真は答えず、そのまま書斎へと入っていった。

娘も後を追おうとしたが、振り返った奕真が冷たく言い放った。

「何度言ったらわかる、書斎に入るなって」

娘はビクッと肩をすくめ、小さな声で「わかった、ごめんなさい、パパ」とつぶやいた。

それでも、彼の顔色をうかがおうとそっと顔を上げたとき、見てしまった。

自分が一生懸命作った石膏人形は、机の隅に無造作に放り出されていた。

なのに、傍らにはぐにゃぐにゃに編まれた赤いミサンガがあり、それを奕真はまるで宝物のように、棚の一番目立つ場所に掛けていた。

娘の目が赤く染まり、ぽつりと漏らした。

「それ……日和お姉ちゃんがくれたの?」

奕真の手が止まった。表情が、ほんのわずかに揺れた。

娘は、何かを悟ったように、すぐにくるりと踵を返して書斎を出て行った。

「ごめんなさい、パパ。もう二度と書斎に入らないから」

Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters

Comments

No Comments
11 Chapters
第1話
夫は、私を愛していない。娘のことも、もっと愛していない。娘が生まれてから、もう六年が経つ。それなのに、夫は一度も娘を抱きしめたことがない。医者は言った。彼は「感情障害」だと。ただ、人並みに愛し方を知らないだけだと。けれど、あの人——彼の初恋の人が戻ってきた日、夫は珍しく、私たちに微笑みかけたのだった。そして、信じられないことに、娘にプレゼントまで買って帰ってきた。私は、やっと心を開いてくれたのだと思った。これから少しずつ、父親になってくれるのだと。そう思っていた。でも——その夜、娘と一緒に見てしまった。夫のスマホのロック画面に設定された写真を。画面に映っていたのは、満面の笑みを浮かべた夫。片腕には前歯の抜けた女の子を抱え、もう片方の手では、彼の初恋の手をしっかりと握っていた。娘は、そっと私の手を握りしめた。潤んだ瞳が、何かを訴えるように震えていた。「ママ……もう、出て行こうか?でも……パパに、あと三回だけチャンスをあげてもいい?」「その三回で、パパがやっぱり私たちを選んでくれなかったら……そしたら、一緒に行こうね」私は娘の頭をそっと撫でて、静かにうなずいた。スマホを元の場所に戻して、何事もなかったふりをしたけれど——胸の奥に広がる、ひりつくような痛みまでは、どうしても隠せなかった。小さくため息をついて、私は娘を寝室へ連れて行った。だって、娘と約束したから。御堂奕真(みどうえいま)に、あと三回だけチャンスをあげるって。だから娘は、まるで以前のように彼をパパと呼び続けていた。父の日が近づいたある日、娘は幼稚園で作った石膏人形を大事そうに持ち帰ってきた。「パパ、これ……よろこんでくれるかな?」娘は少し不安そうに私を見上げた。私は、その細い指のすき間に入り込んだ泥を丁寧に洗い落としながら、白くて柔らかい手にできた小さな傷を見つけて、胸が締めつけられる。そっと頭をなでながら言った。「きっと、パパよろこんでくれるよ」そのひと言で、娘はぱっと笑顔を見せた。本当は、娘は粘土細工があまり得意じゃない。でも、以前奕真の書斎で見つけた粘土の人形を見て——それがパパのお気に入りだと思い込んで、ずっと幼稚園で練習していたのだ。いくつもいくつも壊しては作り直し、ようやくできた
Read more
第2話
その様子を見ているだけで、胸が張り裂けそうだった。まだ六歳の娘が——ただ「パパ」という存在を引きとめるためだけに、相手の顔色を伺って生きているなんて。奕真、あなたにはあと二回しかチャンスは残されていない。その夜、娘は泣かなかった。ただ一つ、私に質問をしてきた。「ママ……パパは感情の病気で、私たちのことをどう愛していいかわからないんでしょ?でも、なんで……日和お姉ちゃんのことは、あんなに好きなの?パパ、いつか私のことも、日和お姉ちゃんみたいに好きになってくれるの?」娘の潤んだ瞳を前に、私は何も答えられなかった。まさか——朝比奈詩乃(あさひなしの)とその娘の日和は、奕真にとって特別なんだよ——なんて、言えるはずもない。詩乃は彼の初恋、日和はその娘。あの母娘は、ただそこにいるだけで、奕真の愛を受けられる。でも私と娘は、どれだけ努力しても、どれだけ手を伸ばしても——彼の心には、触れることすらできない。奕真の書斎には、私と娘が贈ったプレゼントが山のように積まれている。それなのに、彼は一度も手に取ったことがない。棚の隅で、ただ埃をかぶっていくだけ。その一方で、日和からもらったものは、どれも大切に保管されている。私は娘に嘘をつきたくなかった。でも、どう言えば彼女を傷つけずに済むのか、言葉が見つからなかった。そのとき——娘がふいに私をぎゅっと抱きしめてきた。まるで全部、わかっているかのように。私は心の中で、そっと線を引いた。——奕真、あと二回。それ以降、娘は一歩も書斎に入ることはなかった。表面上は、まるで父親の存在など気にしていないように振る舞っていたけれど——彼が帰ってくるたびに、その視線は自然と彼の後ろ姿を追っていた。けれど、いざ彼が話しかけようとすると、娘は小さく肩をすくめ、怯えた目で身を引いてしまう。その様子を見た奕真は、それ以上何も言わず、背を向けて部屋に戻っていった。——そして、娘の誕生日がやってきた。娘は、意を決したように、奕真に尋ねた。「パパ……一緒にお誕生日、過ごしてくれる?」彼は例のミサンガを指でいじっていた。娘の言葉に気づくと、少し眉をひそめた。「お前の誕生日って、いつだっけ?」娘の誕生日を覚えていなかった。それでも娘
Read more
第3話
「心配しないで。パパ、すぐ来るって言ってたわよ」私は娘を安心させたくて、義母の言葉に乗った。今日だけは、心羽にとって、笑顔で終わる誕生日にしたかったから。「来週、心羽の絵のコンクールがあるのよ。きっとまた優勝間違いなしね」義母が目を細めて褒めてくれる。「心羽は本当にすごい子。奕真の会社にも絵の才能ある子が欲しいって話だし、うちの心羽を連れて行ったらどうかしら?」今まで一度も奕真に褒められたことがない心羽は、不安そうに私を見つめた。「ママ、わたし、ほんとにできるかな?」私は力強く微笑んだ。「心羽なら、きっとできるよ」食事のあと、心羽がトイレに行くと言ったので、義母が付き添った。けれど、数分後——「わたしがパパの娘だもん!あなたなんかじゃない!」という悲鳴が廊下に響き渡った。私は急いで駆け出した。その目に映ったのは、日和が心羽を突き飛ばす瞬間だった。私はとっさに娘を抱きとめた。「なにしてるの?どうしてうちの子を突き飛ばしたの?」振り返ると、日和は目をこすり、涙を一筋流しながら指を差して叫んだ。「心羽ちゃんがいじわる言ったの!だから、ちょっとだけ押しただけだもん。奕真パパ、助けてよぉ……!」「あなた、まだ小さいのにもう嘘をつくの?心羽はいじわるなんて言ってないわよ!」私は日和の指を下ろそうとして手を伸ばした。三歳のころ、奕真が娘を連れてスーパーに行ったとき、紙おむつの替えが間に合わず、娘はたくさんの人に囲まれながら大泣きした。それ以来、彼女は「人に指を差される」ことがとても苦手になっていた。私の腕の中で小さく震えている心羽を見て、私は日和にきっぱり言った。「やめなさい。心羽を指で差さないで」日和は聞こえているはずなのに、逆に得意げに指を高く上げた。私が一歩踏み出したそのとき——奕真が私の横を通り過ぎ、日和の前に立ちふさがった。「結城心咲(ゆうきこさき)、お前、何をしてる?」日和は彼の服の裾を掴んで、すすり泣きながら訴えた。「奕真パパ、わたし、なにもしてないのに……心羽ちゃんが私生児って……」奕真の目に怒りの炎が灯った。彼は日和を優しく抱き上げ、まるで別人のような柔らかい声で囁いた。「日和は私生児なんかじゃない。奕真パパはずっと、君のパパだ
Read more
第4話
三人が並んで立っている姿は、まるで本物の家族のようだった。だけど——この六年間、奕真は一度も心羽の誕生日を祝ってくれたことなんてなかった。バースデーハットすら、かぶせてくれたことがない。私は娘の目を覆おうとしたけれど、心羽は私の手をそっと払い、その光景を目に焼きつけるように、じっと見つめていた。そんな娘の視線に気づいた義母は、すぐに場を取り繕おうとした。「日和も心羽も、家族なのよ。これからは仲良し姉妹になってちょうだいね」すると、心羽がふいに問いかけた。「おばあちゃん……これから、日和も『おばあちゃん』って呼ぶの?」義母は軽くうなずいた。「そうね、これからは心羽が妹で、日和がお姉ちゃんってことで、どう?」まだ六歳の子どもに、何がわかるというのだろう。大人たちは、ただ心羽が何も知らないうちに、日和をこの家に自然に馴染ませようとしているだけだった。けれど、心羽は幼い頭で、何かを感じ取っていた。それ以上何も聞かず、私の手を握ってこう言った。「ママ、誕生日、もう終わったし……帰ろ?」——これが、二回目。奕真、あなたに残されたチャンスは、あと一度きり。私は彼を一瞥し、娘の手を引いてその場を後にした。誰一人として、後を追ってきて心羽を慰めてくれる人はいなかった。私たち母娘のことなど、誰も気にも留めていない。心羽は、それ以来、急に口数が減った。胸の中に、言葉にならない思いをいっぱいに詰め込んでいた。私には、どうやって慰めればいいのかわからなかった。ただ一つ確かなのは——心羽の心の中には、まだかすかな希望の欠片が残っているということ。もし奕真がほんの少しでも優しい顔を見せてくれたなら、心羽は今でも、彼のことを「大好きなパパ」として受け入れるだろう。数日後、心羽の絵画コンクールがあった。彼女は、その日、奕真が来てくれることを、ずっと楽しみにしていた。だから私は、自分から奕真にメッセージを送ることにした。そのとき、心羽は何か言いたげに顔を上げたが、すぐに視線を落とし、か細い声でたずねてきた。「パパ、ほんとに来てくれるのかな」「聞いてみなきゃ、わからないよ」私はその朝、奕真にメッセージを送った。けれど、夜になっても返事はなかった。心羽の期待は、時間が
Read more
第5話
みんな言っていた——奕真は頑固で、しかも感情表現に障害がある。いったん誰かを心に決めたら、一生変わらない人だって。それでも私は、自らその人を選んだ。自ら、傷つく道を選んだ。そして、娘にも父親からの愛情を奪ってしまった。「ごめんね、心羽。ママが、間違えた人を選んだ」娘はなぜ謝られたのかわからないまま、そっと私の涙を指で拭ってくれた。「ママ、泣かないで」そう言って、私たちは身を寄せ合いながら、互いの体温を分け合っていた。そのとき——詩乃が、日和の手を引いて突然現れた。「心羽!あなた、どうして優勝したのよ!?あの絵、日和の真似でしょ!」何が起きたのかわからず、私も娘も呆然とした。詩乃の後ろには、審査員たちと野次馬のような観客が続いていた。観客たちの視線が、心羽の姿にじわじわと集まっていく。「朝比奈さんって、海外で有名な画家ENなんだって。そんな人が言うんだから、心羽ちゃんは絶対パクリだよ」「ENの娘である日和ちゃんが負けるなんて、おかしいって。心羽ちゃんが盗作したに決まってる!」EN——その名義は、間違いなくこの私のものだった。それなのに——彼らは、ENが詩乃だと信じて疑っていなかった。詩乃の得意げな顔を見た瞬間、私はすぐに理解した。彼女が、私の名前と肩書きを勝手に名乗っていたのだ。詩乃は心羽を指さして言った。「今ここで日和に謝ってくれたら、これ以上のことはしないわ」私はすぐに悟った。彼女は——心羽に盗作の濡れ衣を着せて、辱めたいだけなのだ。たとえ無実が証明されても、世間の目は変わらない。三歳のとき、スーパーでの一件のように、心に傷を残すだけ。私は即座に娘の耳をふさぎ、詩乃に言い返した。「心羽が盗作したって?その証拠はどこ?」詩乃は、心羽の優勝作品と日和の準優勝作品を並べて見せた。「これを見て。この線、このタッチ、明らかに似てるじゃないの」数人の審査員が頷いた。「御堂社長の奥さんの言うとおりですね。確かに、構図もタッチも酷似している」御堂社長の奥さん?つまり、御堂奕真の妻だというつもりでここに立っているのか。だから、これだけの審査員を動かせたのね。「何があったんだ?」そのとき、奕真がやって来た。私は思わず説
Read more
第6話
もう、私も心羽も、あなたを許すつもりはない。どうすれば心羽の無実を証明できるか、私は必死に考えていた。そんな沈黙を破るように、男の声が会場に響いた。「盗作?そんなの、ありえません。心羽ちゃんは絶対に真似なんてしてないって、僕が証明できます!」カジュアルな服装ながらも、姿勢の良い男性が、観客をかき分けて歩み寄ってきた。「悠翔おじさん!」心羽がその人物に駆け寄る。そう、彼は雨宮悠翔(あまみやゆうと)。私の高校時代の同級生だった。彼は当時、家が非常に貧しく、昼食すらままならなかった。私はこっそり彼を援助していたのだが、それがバレたとき、彼は「いつか必ず返す」と言ってくれた。卒業後、長らく会っていなかったが——2年前、偶然再会した。悠翔は私に娘がいると知ると、頻繁に小さなプレゼントやアクセサリーを心羽に送ってくれた。心羽の部屋には、奕真の存在はほとんどなく、代わりに悠翔の贈り物がそこかしこにあった。だから——心羽が彼をすぐに「悠翔おじさん」と呼んでも、不思議ではなかった。悠翔が人だかりの中へと入っていくと、真っ先にやったのは説明ではなかった。彼はハンカチを取り出し、心羽の涙をやさしく拭った。そして、穏やかな声で語りかけた。「心羽ちゃん、怖くないよ。悠翔おじさんは、君が盗作なんてする子じゃないって信じてる。ママと一緒に、いつだって君の味方だからね」泣きじゃくっていた心羽は、彼の声を聞いた瞬間、ふっと震えが止まった。その目に、再び希望が灯る。「ほんとに?悠翔おじさん、信じてくれるの?パパでさえ、私のこと信じてくれないのに……」「だったら、そんなパパはやめにしようか?代わりに悠翔おじさんがパパになるってのは、どう?」冗談めかして言ったその一言に——以前の心羽なら、きっと「パパは一人だけだよ」って否定していただろう。幼いながらに筋を通す子だった。他の人をパパと呼ぶのは裏切りだと、ずっと思っていた。だけど今——悠翔の提案に、心羽は否定しなかった。逆にそっと彼の袖を握り、小さな声で尋ねた。「わたし、バカだから……本当のパパに嫌われちゃった。でも、悠翔おじさんがパパになったら……わたしのこと、好きでいてくれる?」悠翔は一瞬驚いたが、すぐに苦しげな表情を浮
Read more
第7話
「そんなことないわよ。御堂社長は公正さで有名なの。ただ、今はあくまで職務を果たしてるだけ」「職務って……自分の娘を怒鳴りつけて、他人の子を抱きしめる公正なんて、初めて見たわ」ざわつく観客の声に、奕真の眉間がぴくりと動いた。そのとき——悠翔が口元に微笑みを浮かべながら、一枚のメモリーカードを取り出した。「僕は今回のコンクールの実行責任者です。このカードに入ってる監視映像が——心羽ちゃんの無実を証明する決定的証拠です」悠翔の手が伸びた瞬間、日和は奕真の胸元にしがみついた。詩乃は一瞬顔色を変えたものの、すぐに柔らかい笑みを浮かべ、奕真に耳打ちした。「そこまで大事にすることじゃないわ。心羽ちゃんが謝ってくれて、優勝を日和に返してくれたら、それで十分なのよ」「ふざけないで」私は悠翔の隣に立ち、彼の手からカードを受け取った。「心羽は絶対に盗作なんかしてない。娘に濡れ衣を着せるなんて、絶対に許さない」そのまま、私は奕真を鋭く睨んだ。警告の意味を込めて。奕真は数秒間黙ったあと、周囲の視線を意識したのか、やがてうなずいた。「わかった。証拠を見せてくれ」再生された映像には、まず詩乃の姿が映し出された。そこへ、コンクールの審査員のひとりが入ってくる。詩乃がその審査員に封筒を手渡し、日和に票を入れるよう耳打ちする場面がはっきりと映っていた。映像が終わった瞬間、会場にざわめきが走った。普段感情を出さない奕真ですら、明らかに顔色が変わっていた。「詩乃。盗作じゃなくて、審査員への賄賂だったのか?」唇を噛みながら、詩乃がかすれた声で言い訳する。「ちがうの……日和に目を留めてくれる人がいなかったら可哀想で……ちょっとだけ、保険をかけておこうと思っただけよ……」「もういい。日和に、心羽へ謝らせて」その言葉に、日和が頬を膨らませて反発した。「心羽ちゃんが優勝を横取りしたんだもん!わたし、ぜったい謝らない!」その反応に、奕真の目に驚きの色が浮かんだ。いつもお利口さんだった日和の、意外なワガママ。日和と詩乃は、同時に目を潤ませ、哀れっぽい視線で奕真を見上げていた。奕真は眉をひそめたまま黙っていた。どうやら初めてこの親子が「厄介」だと感じたらしく、思わず私と心羽の方を見ようとした。だが、
Read more
第8話
「じゃあ、騒ぎも収まったし……賞状だけ受け取ったら、私たち帰るね」私は何気ないふりをしてそう告げた。奕真の険しかった表情が、ようやく落ち着きを取り戻す。深く息を吐き出して、うなずいた。「そうか。心咲と心羽は先に帰ってくれ。ここのことは、俺がなんとかする」私は心の中で冷笑した。確かに、帰る。でもそれは、あなたを待つためじゃない。荷物をまとめて、完全に出て行くためだ。悠翔も一緒にその場を離れた。「僕がふたりを家まで送るよ」これまで、私は何度も彼の申し出を断ってきた。奕真の気持ちを優先して、他の男性とは一線を引いていた。けれど、今回は違った。私は小さくうなずいた。あの人が一度も私と心羽を家まで送ってくれなかったのなら、私たちをちゃんと迎えてくれる人と共に帰ったって、何の問題がある?「ありがとう、悠翔」悠翔は、どこか驚いたような顔をした。彼は車内でもずっと心羽を気遣い、気がつけば娘は笑い声を上げていた。マンションの下に着くと、心羽は車から降りたくなさそうに彼の腕にしがみついて言った。「ママ、帰りたくない……ねぇ、悠翔おじさんを、パパにしちゃだめ?」私は一瞬、返答に困って言葉を詰まらせた。けれど悠翔は、くしゃっと笑いながら心羽の頬を優しく撫でた。「心羽がそうしたいなら……今この瞬間から、パパになるよ」そんな二人の温かな空気の中で、私はふいに——覚悟を決めた。「悠翔、もし迷惑じゃなければ、今日から少しの間、私と心羽、あなたの家にお世話になってもいい?」彼の動きが止まった。そして、驚いたようにこちらを見つめた。「それって……僕が、ずっと言いたかったあの意味で合ってる?やっと……チャンスをくれる気になったのか?」「うん。奕真と、離婚することにした」悠翔は目を丸くした。けれど、その驚きはすぐに喜びへと変わっていった。彼の笑顔は、目元まできゅっと下がっていた。「ようこそ。ここは、君と心羽の家だよ」私は自分と心羽の必要なものだけを、スーツケース2つに詰め込んだ。この家に残る思い出は、決して温かいものではなかった。離婚届は、もう何年も前から奕真が用意していた。ただ、私がずっと署名を拒んできただけだった。でも今はもう違う。私は静かに、署名済み
Read more
第9話
納品予定日から十日が経った。私は、約束していた絵をその日に発表しなかった。あえて、一日だけ遅らせた。その日の午後——奕真は緊急記者会見を開き、こう述べた。「弊社の不手際により、プロジェクトのリリースが予定通り行えなくなりました」と。そして、その損失は関係者の責任により適切に対応されるとも。つまり、全責任は詩乃に押しつけられたのだ。私はちょうど、心羽に焼きたてのクッキーを運び終えたところだった。スマホを手に取ると、通知が一気に弾けたように届いた。詩乃からの罵詈雑言だった。【EN、あんた今まで一度だって予告を破ったことなんてなかったじゃない!なんで今回だけ!?まさか……わざと私を嵌めたの!?婚約者も仕事も全部失った!あんたなんか、一生許さない!!】女の勘って、案外鋭い。そう。私は、わざとだった。ほかにも、奕真からの大量のメッセージが届いていた。【EN先生、私があなたを見誤っていたのは私の過ちです。どうか、訂正のチャンスをいただけませんか?誠意を見せます。報酬は利益の20%、お渡しします】私はそのメッセージを既読すらせず、悠翔と契約を交わした。悠翔の会社は、現在奕真の企業と競争関係にあり、事業展開も似通っていた。私は彼に、今回のテーマ作品の全使用権を委託し、さらに悠翔の会社の発表会にも出席した。当然、奕真もこの発表会を注視していただろう。予想通り——会見が終わるや否や、私のスマホは震えっぱなしになった。メッセージも、着信も、すべて彼から。【心咲、どうして君がENだって教えてくれなかったんだ!?俺はずっと勘違いして……詩乃が君を騙っていた件は、法務部に訴訟準備を進めさせている。お願いだ、心咲。君と心羽は今どこにいるんだ?どれだけ探しても見つからない……】要点は、こうだった。【詩乃に騙された。悪いのは彼女。君が戻ってきてくれるなら、報酬は利益の50%にする】私はただ、こう一言だけ返信した。【悠翔は、私にいくら提示したと思う?100%。彼は、全てを私にくれた】その後、奕真からのメッセージは止まった。しばらくして、修正された新しい契約書が届いた。そこには、「コストを除いた収益の80%を支払う」と書かれていた。【心咲、すべてが俺の過ちだった。お願い
Read more
第10話
いまさら、戻れるわけないじゃない。悠翔は一週間かけて仕事を整理し、土日はまるまる空けて心羽を遊びに連れていくと言ってくれた。私はそんな優しさに心があたたかくなっていた。だが——アイスクリームを買いに出かけた私と心羽の前に、予想外の来客が現れた。奕真だった。スーツ姿ではなく、肩は落ち、髪は伸びて目にかかり、顎には無精ひげ。その姿には、かつての威圧感など微塵もなく、ただひどく疲弊した空気だけが漂っていた。だが——私と心羽の姿を見た瞬間、彼の中に再び火が灯ったようだった。こちらに向かって駆け寄ってくる。「心咲、心羽。やっと見つけた!」しかし、心羽はかつてのように「パパ!」と駆け寄ることはなかった。彼女はすぐさま悠翔の背後に隠れた。「心羽!パパだよ、わかるだろ?」だが、心羽は顔すら出さずに言い返した。「あなたはパパじゃない!悠翔パパが、わたしのパパなの!」その瞬間、奕真の顔に複雑な表情が浮かんだ。そう、ようやく彼にもわかったのだ。一番近くにいた人に拒絶される痛みが。奕真は深く息を吸い、かすれた声で訴えた。「違う。パパは、俺なんだ……」けれど、彼が一歩近づくたび、心羽は身をすくめた。怯える娘の姿に、私も限界だった。私は前に出て、彼の前に立ちはだかった。「奕真、私たちはもう離婚したの。私も、心羽も、あなたとはもう何の関係もないの!」悠翔は心羽を抱き上げ、その場を離れようとした。だが、その瞬間、奕真は突発的に心羽の腕を掴んだ。「心羽、パパと一緒に帰ろう」「いやああああっ!」心羽が泣き叫んだ。「いらない!あなたなんかいらない!あなたは日和のパパでしょ!」悠翔は奕真を力強く押しのけ、冷たい声で言い放った。「御堂さん、彼女はまだ六歳ですよ。何してるんですか」心羽は悠翔の胸にすがりつき、涙声で言った。「パパ、こわい……」悠翔は静かに抱きしめ、優しく囁いた。「大丈夫。パパがついてる。おうちに帰ろう」その様子を見ていた奕真の目は、どこか遠くを見つめていた。まるであの時のことを思い出したかのようだった。彼はあの時、日和を優しく抱きしめて慰めながら、心羽には冷たく叱りつけていたのだ。「ちがう、俺は……あのとき……そんなつもりじゃ……心羽……心
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status