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結婚するだけで、何をそんなに慌てるの?

結婚するだけで、何をそんなに慌てるの?

By:  シゼンCompleted
Language: Japanese
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婚約者が警察に連行され、私に身柄を引き取ってほしいと電話をかけてきた。 私が到着して初めて知った。彼が人と殴り合いをして捕まったのだと。 そして、その喧嘩の理由は、なんと彼自身が浮気相手として、現場を押さえられたからだった。 「俺はただ、幸与の身を案じて付き添っただけだ。幸与の彼氏は俺を信じてくれないが、お前は信じてくれるだろう?早く金を払ってくれ」 彼は薮井幸与(やぶい さちよ)を抱きながらそう言った。ベルトには引っかかったレースの下着が透けて見えていた。 かつての私なら、怒鳴り散らして詰問したに違いない。 だが今の私は、ただ平然と署名するだけ。 警官に彼との関係を尋ねられ、ペンを握る手が一瞬だけ止まった。 しばし考え込んだ末、ようやく口を開いた。 「私は彼の雇い主です」 署名を終えたあと、兄にメッセージを送った。 【例のお見合い、行くことにする……日取りは三日後にしましょう】

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Chapter 1

第1話

婚約者が警察に連行され、私に身柄を引き取ってほしいと電話をかけてきた。

私が到着して初めて知った。彼が人と殴り合いをして捕まったのだと。

そして、その喧嘩の理由は、なんと彼自身が浮気相手として、現場を押さえられたからだった。

「俺はただ、幸与の身を案じて付き添っただけだ。幸与の彼氏は俺を信じてくれないが、お前は信じてくれるだろう?早く金を払ってくれ」

彼は薮井幸与(やぶい さちよ)を抱きながらそう言った。ベルトには引っかかったレースの下着が透けて見えていた。

かつての私なら、怒鳴り散らして詰問したに違いない。

だが今の私は、ただ平然と署名するだけ。

警官に彼との関係を尋ねられ、ペンを握る手が一瞬だけ止まった。

しばし考え込んだ末、ようやく口を開いた。

「私は彼の雇い主です」

署名を終えたあと、兄にメッセージを送った。

【例のお見合い、行くことにする……日取りは三日後にしましょう】

……

警察署を出たあとも、幸与の恋人はまだ傍らで大声を張り上げていた。

その一方で、宗像広夢(むなかた ひろむ)は幸与の肩を抱き寄せ、まるで自分の所有権を誇示するかのようだった。

そして幸与自身も広夢を庇うように同じことを口にした。

数分も経たぬうちに、その男は罵声を残して彼女と別れ、立ち去った。

私、出羽和音(でわ かずね)は彼ら二人が気持ちを通じ合っている様子を見るに堪えず、さっさと助手席に乗り込んだ。

ちょうどシートベルトを締めた瞬間、幸与が私の手を掴んだ。

しかし彼女の視線は私を越えて運転席の広夢へと注がれていた。

「広夢くん、私、ひとりで後ろに座るのが怖いの……」

そう呟いたとき、涙が瞳にたまり、清らかにきらめいて見えた。

最後の言葉を言い終えると同時に、涙は静かに頬を伝って落ちていった。

絶妙な弱さの演出。

それこそが広夢の最も好むものだった。

私は苛立ちを抑えきれずに彼女を急かした。

「じゃあ、自分で歩いて帰りなさい」

騒がしかった空気は一瞬で凍りつき、場は気まずい沈黙に包まれた。

そのとき広夢が冷ややかに私を叱責した。

「和音、お前はなんて冷酷なんだ!こんな寒さの中、こんな距離を歩かせるつもりか。幸与を殺す気か!お前が後ろに座れ!」

拒む隙もなく、彼は私のシートベルトを先に外してしまった。

言葉を発する前に、幸与は項垂れ、小さな声で呟いた。

「全部私が悪いの……やっぱり歩いて帰るわ」

涙が床に落ち、その一滴一滴が広夢の心を刺したかのようだった。

彼は慌てて車を降り、かつての紳士的な面影を失い、ただ横暴な男の顔をしていた。

助手席から私を無理やり引きずり出した。

膝が真っ直ぐにコンクリートの地面に打ち付けられ、痛みで思わず声を上げた。

しかし広夢は、そんな私を一瞥すらせず、幸与を大事そうに車へと乗せた。

そして運転席に戻り、窓を開け、冷ややかな視線を向けてきた。

「そんなに歩かせたいなら、自分が歩いて帰ればいい。俺は先に幸与を送る」

幸与は私に「ごめんなさい」と口にしながら、その顔には勝ち誇った色が浮かんでいた。

「和音さん、道中お気をつけて」

窓が閉まる直前、広夢の声が最後に突き刺さった。

「今夜は帰らない。幸与と一緒に過ごす」

そう言うと、車は発進した。

彼らが指を絡め合った手さえ、はっきり見えた。

遠ざかっていく車の影を見つめながら、言い表せない悲しみが胸を締め付けた。

携帯の着信音が鳴り響いて、ようやく我に返った。

「和音、入江家との約束は取り付けたぞ!」

入江正城(いりえ まさしろ)――それが兄の用意したお見合い相手の名だ。

以前食事会で一度だけ顔を合わせたことがあるが、確かに稀に見るイケメンだった。

私が黙っていると、兄はさらに小言を続けた。

「和音、ようやく目が覚めたな。あの貧乏人のどこがいい。

使用人の息子なんて、君の髪の毛一本にすら値しない。君だけが馬鹿みたいに彼のために家と争って……」

その言葉は巨大な岩のように胸にのしかかり、息苦しさを覚える。確かに、彼は私に釣り合わない。

思えば、家から決められた結婚を逃れるために自立を選んだあの頃、私は広夢に出会った。

彼の献身と細やかな気遣いに心を奪われ、これこそ真実の愛だと信じた。

五年の歳月を共にし、彼が貧しい若者から今の立場に至るまで、私は支え続けた。

彼が「自分に自信がない」と言えば、私は貯金を切り崩して援助した。

彼が「父親になりたくない」と言えば、私は子を堕ろした。

当時の私は信じていた。真実の愛さえあれば、あらゆる困難を乗り越えられると。

彼が私を愛してくれるなら、どんな苦しみも耐えられると。

だが今、私は疲れ果て、もう耐えたくない。

宗像広夢、私は結婚する。

けれど、その新郎はあなたではない。

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Comments

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松坂 美枝
クズ男が最初から最後までクズすぎてもっと早く見限れば良かったのにと思った
2025-08-28 09:36:33
1
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蘇枋美郷
いくら優しかった家政婦のクズの母親に亡くなる前に頼まれたとはいえ、優しくもなく中絶させるような目にもあったのにヤツの一体何が良かったのか理解不能…
2025-08-28 12:07:19
0
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第1話
婚約者が警察に連行され、私に身柄を引き取ってほしいと電話をかけてきた。私が到着して初めて知った。彼が人と殴り合いをして捕まったのだと。そして、その喧嘩の理由は、なんと彼自身が浮気相手として、現場を押さえられたからだった。「俺はただ、幸与の身を案じて付き添っただけだ。幸与の彼氏は俺を信じてくれないが、お前は信じてくれるだろう?早く金を払ってくれ」彼は薮井幸与(やぶい さちよ)を抱きながらそう言った。ベルトには引っかかったレースの下着が透けて見えていた。かつての私なら、怒鳴り散らして詰問したに違いない。だが今の私は、ただ平然と署名するだけ。警官に彼との関係を尋ねられ、ペンを握る手が一瞬だけ止まった。しばし考え込んだ末、ようやく口を開いた。「私は彼の雇い主です」署名を終えたあと、兄にメッセージを送った。【例のお見合い、行くことにする……日取りは三日後にしましょう】……警察署を出たあとも、幸与の恋人はまだ傍らで大声を張り上げていた。その一方で、宗像広夢(むなかた ひろむ)は幸与の肩を抱き寄せ、まるで自分の所有権を誇示するかのようだった。そして幸与自身も広夢を庇うように同じことを口にした。数分も経たぬうちに、その男は罵声を残して彼女と別れ、立ち去った。私、出羽和音(でわ かずね)は彼ら二人が気持ちを通じ合っている様子を見るに堪えず、さっさと助手席に乗り込んだ。ちょうどシートベルトを締めた瞬間、幸与が私の手を掴んだ。しかし彼女の視線は私を越えて運転席の広夢へと注がれていた。「広夢くん、私、ひとりで後ろに座るのが怖いの……」そう呟いたとき、涙が瞳にたまり、清らかにきらめいて見えた。最後の言葉を言い終えると同時に、涙は静かに頬を伝って落ちていった。絶妙な弱さの演出。それこそが広夢の最も好むものだった。私は苛立ちを抑えきれずに彼女を急かした。「じゃあ、自分で歩いて帰りなさい」騒がしかった空気は一瞬で凍りつき、場は気まずい沈黙に包まれた。そのとき広夢が冷ややかに私を叱責した。「和音、お前はなんて冷酷なんだ!こんな寒さの中、こんな距離を歩かせるつもりか。幸与を殺す気か!お前が後ろに座れ!」拒む隙もなく、彼は私のシートベルトを先に外してしまった。言葉を発する前に、幸与
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広夢が幸与を抱きかかえて去っていくまで、私は一言も謝らなかった。二人の絡み合う背中を見つめていると、込み上げる吐き気をもう抑えきれず、洗面台に身を伏せ、嗚咽と共に頭がぐらぐらと揺れる。迷った末、タクシーを呼び、病院へ向かった。わざわざ家から遠い病院を選んだのも、二人に会いたくなかったからだ。けれど、皮肉なことに、やはりそこで鉢合わせた。広夢が幸与をお姫様抱っこし、彼女は彼の額の汗を気遣わしげに拭っている。通りすがりの若い娘たちが羨望の眼差しを向けた。「うわぁ、羨ましい!」中には、自分の彼氏に文句を言う者もいた。「見てよ、あの男!彼に比べてあなたったら…ちっ」幸与はそう言われて顔を赤らめ、照れくさそうに「あら、もう降ろしてよ」と広夢に甘えた。だが、広夢は頑なに抱き続け、離そうとしなかった。そんなとき、廊下の椅子に座る私を目に留めた。彼の動きが一瞬止まり、だがそのまま彼女を抱き続けたまま、低い声で問いかけた。「どうしてここに?」ふいに思い出したように口元を歪め、嘲るように笑った。「今さら謝っても、もう遅い」さらに言葉を続けようとした彼の視線が、私の手元に落ちた。薬箱を見て、眉をひそめた。「病気か?医者は何て言った?」その声に焦りが滲んでいて、一瞬だけ、彼が私を心配している錯覚を抱く――けれどすぐに打ち消した。「胃がちょっと……悪いだけ」彼がまだ問いただそうとした瞬間、幸与の甘え声が響いた。「広夢くん、痛いの……」広夢の視線はたちまち彼女へ移り、彼女の手にふっと息を吹きかけた。私は席を立ちかけたが、そこへ看護師が注射器を手に現れた。顔色がさっと青ざめ、身体は勝手に縮こまり震え出した。私は針が怖い。心の奥底から凍りつくような恐怖。広夢も気付いたのだろう。低く優しい声で囁いた。「和音、怖がるな。もう終わったんだ……」それでも私は顔を上げず、固く体を丸めて、動けなかった。彼の表情が不安に翳るのが見えた。幸与も彼にそっと降ろされた。「幸与、少し待ってて」そう告げて、彼は私を抱き締めようと身をかがめた、が。幸与の嗚咽が遮った。「広夢くん……手が、すごく痛い……」涙がぽろぽろと床に落ち、まるで彼の心を直撃するかのように。広夢は再び立ち
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第8話
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第9話
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第10話
ナイフが私に届こうとしたその瞬間、広夢がどこからか飛び出してきた。幸与は手を引こうとしたが、すでに遅かった。ナイフは広夢の腕にかすり、血の滴を連ねた。しかし彼はそれに気づかず、ただ私を心配そうに見つめていた。「和音、大丈夫か?」私は答えず、彼の背後にいる幸与を見た。「あなたの両親の死は、自業自得だ」もともと血色のない彼女の顔はさらに青ざめ、前に出て私を掴もうとしたが、広夢に一気に地面に押さえつけられた。「あなたたちは最初から、彼が宗像おじさんの隠し子だと知っていたんでしょ?彼を迎えに行ったのも、彼を宗像おじさんのところに連れて行き、高額な報酬を要求するためだったんでしょ?今回のDNA鑑定の結果もあなたが送ったんでしょ?ずっと彼のそばにいたのも、この日を待っていたからじゃないのか?」彼女は頭を振り、凄惨な形相で私を黙らせようとした。一方、広夢はその言葉を聞き、唇を震わせながら呟いた。「そ、それは……本当なのか?」その時、私は正城との約束の時間になった。いつもべったりしていた二人は、今や醜い内輪もめを始めていた。もう見る気にもなれず、私は直接正城の車の助手席に乗り込んだ。広夢は私を止めようとしたが、幸与が必死に彼のズボンを掴んでいた。彼は彼女の泣き声を顧みず、肩に蹴りを入れた。「触るな!汚い女!」その光景、どこかで見覚えがあった。ただ、あの時地面に跪いていたのは私だった。正城は外の様子を見ても何も尋ねず、ただ私の手を握った。私は微笑み、彼に安心するように合図した。車窓の外では、広夢がまだ車のドアを引っ張っていた。わずか一枚の窓越しに、彼の謝罪や泣き声がはっきりと聞こえる。車が発進すると、その声は次第に小さくなり、やがて完全に消えた。日常は再び以前の穏やかさを取り戻した。そして、私と正城の結婚式の日が訪れた。私たちの結婚式は盛大で、ほぼすべての名士を招待した。宗像家も当然、招待されていた。私は自分でデザインしたウェディングドレスを身にまとい、バージンロードを歩いた。スポットライトの下、彼は笑顔で手を差し伸べ、私を迎え入れた。自然と顔に幸福の笑みが浮かんだ。ちょうど司会者が私たちに相手との結婚を誓うかどうか尋ねた時、場違いな声が響いた。
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