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08

last update Last Updated: 2025-10-02 06:00:23

 夜風が吹き抜け、遠くの街灯が煌めく。

 テラスの欄干越しに見える帝都の夜景は、まるで金粉をまいたように光っていた。

「飲み物を取ってくるよ。少し待っていてくれ」

「ありがとうございます」

 さすがだと思った。女性の扱いに慣れている。

 京は少しして戻ってきた。シャンパンのグラスのひとつを美桜の前に差し出した。

「美女を前にすると、緊張するな」

 優しい声音。

 その微笑みに、美桜はほっとしたように笑みを返す。

「美女だなんて、そんあことありません」

「いや、美桜さんは素敵だ。今日がデビューなんて信じられないよ。ダンスもうまいし度胸がある」

「ありがとうございます。こんな華やかな夜会は久しぶりで、緊張しています」

「そうか。なら、今日は思いきり楽しんで」

 乾杯しよう、と京は軽くグラスを掲げ、音を合わせるようにそれを重ねた。

 渡されたのは、微量のアルコール分が入ったシャンパンだと聞いた。恐らく問題ないだろう。

 その瞬間――背後で見ていた綾音が、にやりと唇を吊り上げた。

 というのも数分前、綾音は飲み物を取りに来た京に近づいていた。

「桐島様。うちの美桜のこと、気に入られましたね」

 挑発的な声。

 京はわずかに眉を上げただけで、興味のないような笑みを浮かべていた。

 だが、綾音はさらに身を寄せ、扇子の陰で囁く。

「桐島様は処女がお好きだとか。よかったら、美桜をデビューさせてやってくださいな。お手伝いいたしますわ」

 彼女の扇子の内側から小瓶が見えた。「特別によくなるお薬ですって」

 これは、眠気と陶酔を誘う香が調合されたものだ。綾音は京が持っていたグラスにそっと数滴、垂らしたのだ。

「面白いことをするね」

「ふふ」

「確認だけど、没落令嬢って言っていたけど、あの有名な東条家?」

「そうですわ。西条と東条は親戚同士なのです」

 京の目が細くなった。


 (東条の生き残りがこんなところにいたとはな――)

 その一瞬の沈黙に、綾音は勝ち誇ったように笑う。

「桐島様。あの子のこと、よろしくお願いしますね。残りは差し上げますわ」

 彼女は小瓶を差し出した。「効きが悪ければ、さらに追加すれば従順になるお薬のようですよ」

 そして現在。

 美桜は知らず、その甘い罠を口にした。

 グラスを唇に運び、ゆっくりと飲む。口の中にほのかな花の香りが広がる。

「少し香りが強いですね。でも、甘くておいしいです」

「帝都で流行っている銘柄で、薔薇のシャンパンだ。飲みやすいだろう?」

 京の声がやわらかく響く。

 だがその目は、どこか冷たく、美桜の一挙一動を観察しているようだった。

 数分もしないうちに、美桜の頬が赤く染まっていった。胸の奥が熱い。視界がわずかに滲む。

(どうしてこんなに…ふわふわするの……?)

 京がそっと肩に手を置いた。「大丈夫かい? 少し顔が赤い」

「だい、じょうぶです…」

 その言葉に、京の口角が上がる。「そうは言っても、顔がだいぶ赤いよ。少し休もう。あっちに控室があるから」

 彼はまるで紳士のように微笑みながら、美桜の手を取った。

 彼女の足はもうおぼつかない。

 それでも、彼の腕に身を預けて歩いていく。

 遠くで、綾音がシャンパンを掲げていた。

「ふふ。没落令嬢の終幕ね」

 隣で母が囁く。

 「本当に、あなたは悪い子ね」

 「いいの。だって――美桜が生きてるだけで癪なんだもの」

 その笑い声は夜会の音楽に紛れて消えた。

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