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今宵、月は何処へ

今宵、月は何処へ

By:  ひとひらの雲Completed
Language: Japanese
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早坂美羽が個室の扉を開けようとしたその瞬間、「初恋の破壊力」について語り合う男たちの声が耳に飛び込んできた。 「悠翔、さっき全員話したんだから、次はお前の番な。逃げんなよ?」 その名前を聞いたとたん、美羽の手が扉の前で止まった。 神崎悠翔はしばらく黙っていたが、やがてグラスの酒を一口含み、アルコールの香りをまとった低い声で話し始めた。 「俺、心臓の近くにあの子の名前のタトゥーを入れてる。今でも消してない。 ライダースには血の跡が残ってる。初めて彼女と肌を重ねた時についたもので、ずっと大事にしてる。 今付き合ってる子は、あの子の代わりなんだ」

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Chapter 1

第1話

早坂美羽(はやさか みわ)が個室の扉を開けようとしたその瞬間、「初恋の破壊力」について語り合う男たちの声が耳に飛び込んできた。

「悠翔、さっき全員話したんだから、次はお前の番な。逃げんなよ?」

その名前を聞いたとたん、美羽の手が扉の前で止まった。

神崎悠翔(かんざき ゆうと)はしばらく黙っていたが、やがてグラスの酒を一口含み、アルコールの香りをまとった低い声で話し始めた。

「俺、心臓の近くにあの子の名前のタトゥーを入れてる。今でも消してない。

ライダースには血の跡が残ってる。初めて彼女とヤった時についたもので、ずっと大事にしてる。

今付き合ってる子は、あの子の代わりなんだ」

その一言一言が、美羽の耳に突き刺さり、心に雷が落ちたような衝撃を与えた。

血の気が引き、体中が氷のように冷たくなる。まさか、自分が悠翔の「初恋の代わり」だったなんて……

室内は一瞬の静寂の後、男たちの熱狂的な歓声に包まれた。

「すげぇな、マジで!」

「さすが悠翔!一発でキメるなんて、ほんとロマンチスト!」

「そういえば、和泉優奈(いずみ ゆうな)がもうすぐ帰国するって聞いたぞ。もしまだお前のこと忘れてなかったら、すぐにより戻せるんじゃないか?でも今の彼女のこと、どうすんだよ?お前の妹の親友だろ?うまく処理しないと、妹の人間関係めちゃくちゃになるぞ?」

悠翔は少し考え込んだが、それ以上何も答えなかった。

部屋の中から誰かが出てこようとしたのを見て、美羽は我に返り、真っ青な顔で階段を降りていった。

外は土砂降りの雨。美羽は感覚を失ったように、雨の中をただ歩き出した。

冷たい雨粒が頬に打ちつけ、流れる涙と混ざり合って頬を伝い落ちていく。

ぼんやりとした視界の中、頭の中を巡るのはさっき聞いたあの言葉たち。記憶が次第に蘇ってくる。

悠翔は親友の兄で、四つ年上。彼と初めて出会ったのは高校時代、親友と一緒にチンピラに絡まれていた路地裏だった。

どうしようもなく追い詰められていたとき、悠翔はバイクに乗って現れ、すらりとした手でヘルメットを外しながら静かに言った。

「うちの妹に手出してんの、お前らか?」

ヘルメットを外した瞬間に見えたその顔に、美羽の心臓は激しく鼓動を打った。

「うちの兄、信じられないくらいイケメンだから」と親友が言っていたのを思い出した。でも、実際に見た悠翔の輝きは、言葉以上だった。しかも、チンピラたちをあっさりと打ち負かし、華麗なキックで追い払う姿には、さらに心を奪われた。

当時、学校の女子たちにはそれぞれ憧れの男子がいたけれど、美羽には誰もいなかった。けれど、その日から、美羽の心に入り込んだのは、親友の兄・悠翔だった。

大学に進学した後、美羽は顔立ちも体つきも洗練されていき、親友の後押しもあって、ついに悠翔に想いを打ち明ける決心をした。

毎朝手作りの弁当を用意したり、偶然を装って出会う機会をつくったり、彼の好みを調べて話題を用意したり……

全力でアプローチしていたけど、悠翔の態度はずっと「妹の友達」扱い。冷たくもなく、かといって優しくもない。だけど、ときどきふいに向けられる視線の奥に、かすかな揺らぎを感じた。

転機が訪れたのは、彼に家まで送ってもらった夜、帰り道で交通事故に巻き込まれたときだった。車が突っ込んできた瞬間、美羽は迷わず悠翔の前に立ちはだかった。

幸い、車は急ブレーキをかけて大事には至らなかったけど、シートの角に目尻をぶつけて、小さな傷ができた。

ほんの爪ほどの傷なのに、悠翔はいつもの冷静さを失い、美羽を病院へ連れて行き、医師に「跡が残らないか」を何度も確認した。大丈夫と聞いてようやく安心したと思ったら、すぐさま厳しい口調で美羽を叱り始めた。

「なんで庇った?命を軽く考えてるのか?」と問い詰める彼に、美羽は澄んだ瞳でじっと見つめながら、隠しきれない想いをにじませて言った。

「だって……好きだから」

悠翔はその場で言葉を失い、そしてうっすらと笑みを浮かべながら、冷たくも優しい声で言った。

「好き?お子様に『好き』の意味なんてわかるのか?どれだけ俺を好きでいられるんだ?」

「一生!」美羽は迷わず答えた。「私は、悠翔のことを一生好きでいる」

そのあまりに真っ直ぐで揺るぎない言葉に、悠翔は初めて美羽の頬に手を伸ばし、そっと触れた。

そして、深くため息をついたあと、美羽がずっと夢見てきた言葉を口にした。

「……じゃあ、付き合ってみるか」

それ以来、ふたりは正式に恋人として付き合い始めた。交際してから3年、悠翔の性格は変わらずクールだったが、彼氏としては申し分なく、美羽もそれ以上は求めなかった。

でも今夜、あの会話を耳にしたことで、美羽が「幸せ」だと信じていた夢は、音を立てて崩れ去った。

悠翔が自分の顔を見つめるのは、美羽が「初恋の代わり」だったから。顔に傷が残るのを恐れたのも、激しい夜に顔を見つめてくるのも、全部「代わり」だったから。

雨の中、美羽は泣き崩れた。全身ずぶ濡れのまま帰宅し、玄関でそのまま力尽きて床に座り込んだ。

しばらくして、ようやく少し意識が戻った。乾きかけた涙をそのままに、美羽は鞄から一枚の名刺を取り出した。

それは半月ほど前、バーで悠翔のために歌ったオリジナルソングがきっかけで、スカウトマンからもらったものだった。

「声質も見た目も際立ってる」と言われ、海外で3年間、秘密裏にトレーニングして一流の歌手に育てるという話だった。

歌は美羽にとって何よりも大切なものだったし、スターになる夢がなかったわけでもない。けれど、悠翔のそばにいたい一心で、その誘いを断った。それでも、名刺は捨てずに持っていた。

でも、今となっては、悠翔のそばにとどまる理由はもう何もない。

名刺に書かれた電話番号をじっと見つめながら、美羽は冷たく青ざめた指で番号を押した。

通話が繋がった瞬間、かすかに喉を潤し、静かに口を開いた。

「もしもし、早坂美羽です。……契約の件、承諾します」

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第1話
早坂美羽(はやさか みわ)が個室の扉を開けようとしたその瞬間、「初恋の破壊力」について語り合う男たちの声が耳に飛び込んできた。「悠翔、さっき全員話したんだから、次はお前の番な。逃げんなよ?」その名前を聞いたとたん、美羽の手が扉の前で止まった。神崎悠翔(かんざき ゆうと)はしばらく黙っていたが、やがてグラスの酒を一口含み、アルコールの香りをまとった低い声で話し始めた。「俺、心臓の近くにあの子の名前のタトゥーを入れてる。今でも消してない。ライダースには血の跡が残ってる。初めて彼女とヤった時についたもので、ずっと大事にしてる。今付き合ってる子は、あの子の代わりなんだ」その一言一言が、美羽の耳に突き刺さり、心に雷が落ちたような衝撃を与えた。血の気が引き、体中が氷のように冷たくなる。まさか、自分が悠翔の「初恋の代わり」だったなんて……室内は一瞬の静寂の後、男たちの熱狂的な歓声に包まれた。「すげぇな、マジで!」「さすが悠翔!一発でキメるなんて、ほんとロマンチスト!」「そういえば、和泉優奈(いずみ ゆうな)がもうすぐ帰国するって聞いたぞ。もしまだお前のこと忘れてなかったら、すぐにより戻せるんじゃないか?でも今の彼女のこと、どうすんだよ?お前の妹の親友だろ?うまく処理しないと、妹の人間関係めちゃくちゃになるぞ?」悠翔は少し考え込んだが、それ以上何も答えなかった。部屋の中から誰かが出てこようとしたのを見て、美羽は我に返り、真っ青な顔で階段を降りていった。外は土砂降りの雨。美羽は感覚を失ったように、雨の中をただ歩き出した。冷たい雨粒が頬に打ちつけ、流れる涙と混ざり合って頬を伝い落ちていく。ぼんやりとした視界の中、頭の中を巡るのはさっき聞いたあの言葉たち。記憶が次第に蘇ってくる。悠翔は親友の兄で、四つ年上。彼と初めて出会ったのは高校時代、親友と一緒にチンピラに絡まれていた路地裏だった。どうしようもなく追い詰められていたとき、悠翔はバイクに乗って現れ、すらりとした手でヘルメットを外しながら静かに言った。「うちの妹に手出してんの、お前らか?」ヘルメットを外した瞬間に見えたその顔に、美羽の心臓は激しく鼓動を打った。「うちの兄、信じられないくらいイケメンだから」と親友が言っていたのを思い出した。でも、実際に見
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第2話
「早坂さん!ついに決心してくれたんですね?それじゃ、連絡先交換して、明日直接会って話しましょう!」スマホの向こうから弾むような声が聞こえてきた。美羽は静かにうなずくと、無言で相手から送られてきたアカウントを追加した。通話を切って間もなく、玄関の外に足音が近づいてきた。数秒後、ドアが開き、悠翔が傘を手に入ってきた。床に座り込んだままの美羽の姿を見て、悠翔は眉をひそめた。「全身びしょ濡れじゃないか」「傘、忘れてた」濡れた髪が顔に張りつき、センサーライトがちょうど消えたせいで、美羽の表情は見えなかった。悠翔は美羽の髪をくしゃっと撫でた。「ほんと、変わらないな。子供みたいに……ちゃんと天気予報くらい見ろよ」美羽は黙ったままだった。悠翔がバスルームへ向かうのを見届けると、美羽は痺れたような体を引きずって、もうひとつのバスルームへと向かった。身支度を終えて布団に入ると、美羽は天井をぼんやりと見つめながら、さっきの出来事が頭から離れなかった。しばらくして、悠翔も隣に布団へ入ってきた。ふと、懐かしいヒノキの香りが鼻をかすめ、それだけで美羽の記憶は午後の出来事に引き戻された。気づけば、美羽は悠翔にそっと抱きつき、ゆっくりと彼のパジャマの裾をめくり上げていた。胸のすぐ上、一寸ほどの場所に、はっきりと刻まれた四文字――YUNA。初めて見るわけじゃなかった。情交を重ねた時、美羽は何度もそれを目にしていた。でも、そのときは、なんとなく訊けなかった。けれど今、改めてそれを目にした瞬間、こみ上げるものを堪えきれず、声を震わせて口を開いた。「このイニシャル……どんな意味?」悠翔は一瞬たじろぎ、視線をそらした。そして淡々としながらも、どこか優しさが滲む声で答えた。「……すごく大切な意味だ」少し間が空いてから、悠翔は美羽の問いの真意を取り違えたらしく、低い声で続けた。「今日は濡れて冷えただろ。無理すんな。早く寝ろ」そう言って、美羽の手をそっと払いのけ、パジャマを下ろすと、電気を消した。寝室には静寂が広がった。ただ、何も音を立てず、涙だけが止まることなく流れ続けていた。そのまま、暗く深い夜に溶けていった。翌朝、悠翔は珍しく早起きして、朝食も摂らずに靴を履き、出かけようとしていた。窓の外は相
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第3話
美羽は日付をメモし、丁寧に別れの挨拶をしてその場を後にした。帰り道、突然悠翔から電話がかかってきた。普段と違って、慌ただしい声だった。「今、家にいないのか?」一瞬、言葉に詰まった美羽が返事をしようとした矢先、彼は続けた。「どこにいてもいいから、とにかく市立病院に来てくれ!」これまで付き合ってきた中で、悠翔がこんなに焦っている声を聞いたのは初めてだった。数秒迷った末、美羽はタクシーの運転手に方向転換を頼んだ。病院の救急外来に着くと、悠翔が無事な姿で立っているのが見えた。事故に遭ったのは彼じゃない。じゃあ一体……?何かを聞く暇もなく、看護師が美羽を隣の部屋へと連れていった。「あなた、O型ですよね?」わけもわからないまま頷くと、看護師は健康状態を確認し、太めの針を彼女の腕に刺した。鋭い痛みに思わず「っ」と声を漏らした瞬間、これが献血だと気づいた。看護師は血液の量を確認しながら、気さくに話しかけてきた。「ねえ、お嬢さん。あの外で待ってるイケメンとどんな関係なんですか?あの人の恋人が空港の近くで事故に遭って搬送されてきてさ、もう半狂乱って感じだったよ。院長まで呼びつける勢いだったし。血液バンクに在庫がなくて、あちこち電話して、最後にあなたを呼んだんですって。ほんとに恋人のこと、大事にしてるんですね」その言葉を聞いた瞬間、美羽の心臓がぎゅっと締めつけられるような感覚に襲われた。まるで心臓を誰かに握りつぶされたようで、しかももうその手は離れているのに、息ができず、痛みだけが残っているような、そんな感覚だった。つまり、悠翔が自分を呼んだのは、優奈に献血させるためだったの?替え玉が本物のために血を抜かれるなんて、残酷とかそういうレベルじゃない。でもそれよりも、美羽が重度の貧血だってことを、悠翔は知っていたはずだ。それを忘れていたのか、それとも、優奈を助けるためなら、自分のことなんてどうでもよかったのか。献血を終えた美羽は、30分ほど椅子に座ってようやく回復した。けれど、その間悠翔は一度も顔を見に来なかったし、声もかけてこなかった。考えるまでもない。今も彼は、優奈のそばにいるんだろう。そう、自分はただの「替え玉」なんだ。悠翔の心配なんて、受ける資格もない。美羽はかすかに笑って、壁に手をつきな
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第4話
車を降りた二人は、そのまま指定された個室へと向かった。けれど、ドアを開けた瞬間、空気の重さが肌で感じ取れた。歓迎会と聞いていたのに、集まっていたのはほとんどが男ばかり。しかも、その大半が悠翔の仲間だった。何か言いたそうな顔をしていたが、みんな何も言わず、口を閉ざしている。まだ誰も言葉を発していない中、優奈が笑顔を浮かべて近づいてきた。「来てくれたのね」そう言って、美羽の顔に目を向けた。数秒間じっと見つめたあと、また笑顔を浮かべて言った。「この子があなたの彼女なのね。ずいぶん若く見えるわ。前は血を提供してくれてありがとう。あのとき、あなたのおかげで命拾いしたって言っても過言じゃないのよ。何かあったら遠慮なく言ってね。いつでも助けに行くから」美羽は無理に笑顔を作り、「そんな、大したことじゃないです」と返した。優奈は軽く笑って席をすすめ、そのあと別の到着客を迎えに行った。その間も、悠翔の視線はずっと優奈を追っていた。彼女が他の男性たちと楽しげに笑いながら話しているのを見た途端、悠翔の表情が曇りはじめた。優奈がマカロンを少し多めに食べているのを見ると、彼は何も言わずにスタッフに指示を出し、会場内のマカロンをすべて優奈の前に並べさせた。そして、シャンパンタワーが突然崩れかけ、優奈のほうに倒れそうになった瞬間、迷うことなく彼女を抱き寄せて守った。「危ない!」鋭いガラスの破片が悠翔の左手を切り、指に傷ができた。周囲は「病院に行ったほうがいい」と騒いだが、悠翔はシルクのスカーフを手に巻いただけで、気にも留めていなかった。「ただのかすり傷だ。気にするな」血で染まった白いスカーフを見つめながら、美羽は一度取り出した車のキーをそっとバッグに戻した。一時静まり返った空間は、やがて元のにぎやかさを取り戻した。夜8時を回り、場が盛り上がってきた頃、優奈がマイクを手に取り、明るい声で言い放った。「みんな揃ったところで、大事な発表があるの!もう知ってる人もいるかもしれないけど、実は今回の帰国までに彼氏と別れたの。それで今日は、新しい彼氏を見つけるための合コンってわけ!」その言葉に、場の空気が一瞬で凍りついた。全員が恐る恐る悠翔の方を見た。悠翔は何も言わず、ただ優奈をじっと見つめたまま、手にしていたグラスを力いっ
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第5話
美羽の姿を見た瞬間、その場にいた全員が凍りついた。最初に反応したのは優奈だった。悠翔がいないのをいいことに、以前のような礼儀正しさはどこへやら、代わりにどこか同情を含んだような視線を美羽に向けてきた。「全部聞こえてた?それならちょうどいいわ。ずっと騙されてるなんて、かわいそうだもの。あんたなんか、私と悠翔の関係においては、ただの脇役にすぎないの。だから、早めに身を引いたほうがいいと思うわよ」そう言い捨てて、高いヒールを鳴らしながらその場を立ち去っていった。一瞬、廊下が静まり返る。悠翔の友人たちは顔を真っ赤にし、慌てて言い訳しようとした。「美羽、違うんだ、さっきのは……その、えっと……」なんとか説明しようとするものの、結局は言葉が続かなかった。本当のところ、全員わかっていた。優奈の言ったことは、紛れもない事実だった。緊張で固まっている彼らを見て、美羽はそれ以上何も言わず、彼らを責めることもなく静かにその場を離れた。階段を下りてタクシーを待っていると、突然、ローズピンクのスポーツカーが水たまりを踏みながら勢いよく近づいてきた。泥水が跳ね上がり、美羽の服はびしょ濡れになった。眉をひそめて運転席の方を見ると、窓越しに優奈が意地悪そうな笑みを浮かべていた。「あんた、自分が脇役だってこと、ちゃんと自覚して欲しいの。今のうちにきれいさっぱり身を引きなさい。じゃないと、もっと惨めな結末が待ってるわよ」そう吐き捨てて、優奈はそのまま車を走らせて去っていった。美羽はバッグからティッシュを取り出し、ゆっくりと顔にかかった水を拭った。濡れたティッシュをゴミ箱に捨て、ふと空を見上げると、頬を伝ってひとしずく、涙がこぼれた。脇役、か。……違う。私は脇役なんかじゃない。悠翔こそ、私の物語から――消えてもらう。家に戻ると、美羽は少しだけ食事をとり、洗面を済ませてベッドに入った。午前三時。寝室のライトが突然パッと点いた。酔っ払ってふらふらの悠翔が、勢いよくドアを開けて入ってきた。驚いて目を覚ました美羽を強く抱きしめ、そのまま腕の中に引き寄せた。「どうしてそんなに俺を苦しめるんだ……?俺が、お前を手放せないってわかってるくせに……なんで、もう一度チャンスをくれないんだよ……俺がどれだけお前を好きか、知ってるくせ
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第6話
美羽は「うん」と小さく答えて、帽子をかぶった。「瑠璃ちゃんと約束してて、一緒にお昼ごはん食べることになってるの」悠翔はようやく、妹が旅行から帰ってきたことを思い出した。彼は慌てて薬を取り出し、手の傷の手当てを終えると、立ち上がって玄関へ向かった。「送ってくよ」美羽は断ろうとしたけれど、悠翔は彼女の手を取ると、車の鍵をつかんでそのまま外へ連れ出した。車に乗り込むと、悠翔はナビを操作しながら、午後の予定を尋ねた。買い物に行くつもりだと聞いて、一緒に行こうと考えていたそのとき、スマホに新しいメッセージが届いた。画面を一瞥した悠翔は、車を路肩に停め、申し訳なさそうに美羽を見つめた。「本当は今日は一緒にいたかったんだけど、さっき急に仕事の連絡が入って……美羽、タクシーで行けるよね?」悠翔の仕事の予定はすでに確認済みだったから、彼が嘘をついていないのは分かっていた。だから美羽は何も言わずに頷き、車のドアを開けた。車が視界から消えたあと、美羽は手を挙げてタクシーを止めた。約束のレストランに着くと、瑠璃はすでに注文を済ませていた。興奮気味にバッグからギフトを取り出し、美羽に差し出した瑠璃。声には嬉しさが溢れていた。「じゃじゃーん!旅行のお土産!早く開けてみて!気に入ってくれるといいな!」美羽はギフトを膝の上に置いたまま、すぐには開けず、代わりに瑠璃をじっと見つめて、真剣な表情で口を開いた。「瑠璃ちゃん、話したいことがあるの。実は、あなたのお兄さんとは別れるつもりで、それに、留学しようと思ってる。たぶん、三年くらいになると思う」その言葉に、瑠璃は目を大きく見開き、驚いたように言った。「え?なに急に?うまくいってたじゃん、なんで別れるの?」美羽は静かに笑って、淡々と事実を語った。「悠翔は、私のこと好きじゃないの。最初に付き合ったのも、私が彼の元カノに似てたからで、ずっと私を代わりに見てた」もう悠翔への想いは断ち切れていたから、波風立てずに話すことができた。でも、それを聞いた瑠璃は、途端に怒りを爆発させた。彼女は勢いよくテーブルを叩き、信じられないという口調で言い放った。「元カノ?あの和泉って女のこと?確かに別れたあと、お兄ちゃん毎日飲んでたけど、まだ引きずってるわけ!?しかも優奈でしょ?全然美羽
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第7話
家に戻った頃には、美羽の気持ちはもう落ち着いていた。目が覚めると、旅立ちの日がまた一日、近づいていた。ひとりで、大好きな歌手のライブに足を運び、青いペンライトの波と歓声が響く会場を動画に収めた。その動画をモーメンツのトップに固定し、恋人だった頃に投稿した過去の投稿をすべて削除した。夢を追う美羽の覚悟を知っている数人の友人たちは、コメントで応援のメッセージを寄せてくれた。【美羽ちゃん、いつか君のいちばんのリスナーになれる日を楽しみにしてるよ!】【未来のスーパースター、サインの予約しといていい?】「数日間連絡のなかった悠翔も、その投稿に「いいね」を押していた。突然の「いいね」に、美羽は少し驚いた。彼は、自分でモーメンツを投稿することも、他人の投稿に反応することも、ほとんどなかったはずだから。その理由がわかったのは、瑠璃から送られてきた数件のメッセージを見たときだった。【美羽、あの女のLINEアカウント、やっと追加できたんだけど、マジでムカついた】メッセージには、優奈の投稿のスクショが添えられていた。海辺の夕焼け、花畑の散歩、夜景とキャンドルディナー……どの投稿にも、悠翔のコメントがあった。【なんで俺が撮ったやつはアップしないの?】【西山の桜、咲き始めてるみたいだから、今度連れてってあげる】【エビ剥くのはちょっと面倒だけど、君が好きなら全然平気】ひとつひとつ見ていくと、まるで恋人同士のラブラブ投稿そのものだった。どうやら、優奈の投稿を追っていた悠翔が、たまたま美羽の動画を目にして、ついでに「いいね」を押しただけ、ということらしい。美羽はほんの少しだけ苦笑いを浮かべ、瑠璃をなだめながら、静かに三年間の思い出――悠翔からもらったプレゼント、ペアグッズ、写真、そして日記をまとめはじめた。何度か部屋と階下を往復して、それらを運び出し、処分しようとした――そのとき。突然帰ってきた悠翔と鉢合わせた。どこか機嫌がよさそうで、目元にも口元にも微笑みが浮かんでいた。美羽の姿を見て一瞬立ち止まった彼は、少し進行方向を変えて、彼女に近づいてきた。「その箱、全部捨てるの?」「もう使わないガラクタよ」悠翔は軽く頷いて、手にしていたケーキを差し出した。そしてそのまま、かがんで手伝おうとした
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第8話
車を降りた瞬間、瑠璃は美羽の手をつかんで、湖へ向かって必死に走り出した。走りながら、ところどころ言葉を詰まらせつつも、状況を説明してくれた。「優奈の元カレが、海外から追いかけてきて……ホテルにまで押しかけて復縁迫ったの。お兄ちゃん、ブチギレてそいつと殴り合いになって……でも優奈、止めるどころか煽ったのよ。『このネックレス拾った人と付き合う』って言って、それを湖に投げたの!あいつの元カレが飛び込もうとしたら、お兄ちゃんも一緒に飛び込もうとしたの。この湖の下には崖があるって、プロのダイバーですら潜らないような場所なのに……みんなで止めたのに、お兄ちゃんまったく聞く耳持たなくて……お願い美羽ちゃん、止めて……私にとって、たった一人のお兄ちゃんなの!」話を聞くうちに、美羽の表情はどんどん暗くなっていった。相手が優奈なら、たとえ百人がかりでも悠翔を止めるのは無理だ。でも、泣きはらした目で懇願してくる瑠璃の前では、その現実を口に出すことがどうしてもできなかった。湖に着いたとき、悠翔はちょうどダイビングスーツを身につけているところだった。優奈の元カレはすでに準備を終え、湖に飛び込んでいた。その姿が水面から消えていくのを見つめながら、悠翔の目には鋭い光が宿り、動きがさらに素早くなった。周囲の友人たちは、鍋の上の蟻みたいに慌てて、なんとか彼を止めようとしていた。「この湖、深すぎてネックレスなんか絶対見つかんねぇって!誰が潜っても無理だよ、悠翔、やめとけって!」「女一人のために命捨てんのか!?目を覚ませよ、悠翔、このバカヤロウ!」だけど、悠翔は何も言わず、酸素マスクをしっかり装着すると、目の前で立ちはだかる仲間たちを一気に突き飛ばした。もう限界だった瑠璃は彼の元へ駆け寄り、その腕にしがみついた。絶望と涙にまみれた声が響いた。「優奈のたった一言で死ぬつもり!?お兄ちゃん、私やお父さんとお母さんのこと考えたことあるの!?美羽ちゃんのことは!?今日もし死んだら……私には、もうお兄ちゃんなんかいなくなっちゃうよ!」その場の空気が一瞬にして凍りついた。悠翔は動きを止め、ゆっくりと瑠璃を見つめた。しばらく沈黙したのち、彼は静かに手を上げ、妹の手をそっと握った。そして低く、落ち着いた声で言った。「必ず戻ってくる。この
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第9話
悠翔は病院に搬送された。美羽は瑠璃と一緒に、病室で一晩を過ごした。朝8時、あらかじめセットしていたアラームが鳴った。スマホの画面に「出発」と表示されたメモを見た瞬間、瑠璃は現実に引き戻されたように目を見開いた。そのまま美羽にしがみついて、泣きながら訴える。「美羽ちゃん、行かないで……お願い、行かないで……次に会えるの、三年後なんでしょ?その頃には、きっとピカピカのスーパースターになってて、もっと会えなくなっちゃうよ……寂しいよ……」美羽も目を潤ませながら、そっと彼女の背中を撫でた。何度も優しく宥めて、ようやく瑠璃は泣きながらも、美羽を送り出した。病院を出て、タクシーを止めようとしたそのとき――ふと、美羽の足が止まった。そういえば、みんなにはちゃんと別れを告げたつもりだった……ただ一人、悠翔を除いて。三年間の恋だった。きちんと終わらせるには、「けじめ」が必要だと思った。もう一度踵を返して、彼の病室へ向かった。でも、病室の前に立った途端、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。優奈が悠翔の胸にしがみつき、涙交じりの声で語っていた。「ただ、あなたの気持ちが知りたかっただけなの……ネックレスが見つからなかったら、それでよかったの。どうしてあんな危ないことまでして……バカすぎるよ……まだ私のこと、好きなんでしょ?ちゃんと今の彼女と別れるって言って、私とやり直したいって言ってくれたら、私……応えたのに……なんで素直にそう言ってくれなかったの?」その言葉は、悠翔がこの六年間ずっと聞きたかったはずのものだった。だけど、実際に耳にした今、なぜか心はまったく弾まなかった。それどころか、「別れる」って言葉が混じっていたせいで、真っ先に思い浮かんだのは、美羽のことだった。車の前に飛び出して、自分を庇ってくれたときの姿。赤く潤んだ目で「一生、好きだよ」って笑った顔。誕生日の夜、誰よりも楽しそうに祝ってくれたあのときのこと。何度も、何度も、自分の腕の中で、心からの愛を注いでくれた、美羽のことを。頭が割れるように痛んだ。心はぐちゃぐちゃで、もう何が正しいのかもわからなかった。そんな中、ふと顔を上げたとき、視界の端に、見慣れた人影が映った。病室のガラスの向こうに立っていたのは、美羽だった。
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第10話
三年間一緒に過ごしてきたけれど、まさか美羽から別れのメッセージが届くなんて、悠翔は夢にも思っていなかった。付き合い始めた頃、正直、この関係がどれくらい続くかなんて考えてもいなかった。数日か、数ヶ月か、せいぜい数年。それくらいのものだろうと思っていた。心の中には忘れられない人がいて、美羽はただの一時的な避難場所に過ぎなかった。だから、彼女に本気になったことなんて、ほとんどなかった。結婚の話をするときの期待に満ちた瞳も、辛いときに流した涙も……悠翔はちゃんと見てはいた。でも、それを本気で受け止めることはなかった。自分は鋼鉄のように冷静で、彼女をただの代わりとして扱って、過去の苦しみも乗り越えられると思っていた。けれど、待ち続けていた優奈が戻ってきたその瞬間、自分が思っていたほど冷酷でも、決断力のある人間でもなかったことに気づかされた。本当なら、もっと早く別れるべきだった。でも、ずっとそばにいてくれた美羽は、優奈との関係をやり直すうえで邪魔になってしまった。周りの人たちは、さっさと決断すべきだと何度も言ってきた。けど、優奈への未練を断ち切ることもできず、美羽に対して冷たく突き放すこともできなかった。決めきれず、ただ先延ばしにしてきただけだった。そんな中で目にした、三通のメッセージ。魂を抜かれたような感覚で、頭の中は真っ白になり、意識がぼんやりとして、まるで夢の中にいるようだった。これが酸欠の後遺症による幻覚なのか、それとも現実なのか、自分でも区別がつかなかった。でももし幻覚だとしたら、なんでこんなにリアルなんだ?現実だとしたら、どうして美羽は別れを告げたんだ?彼女はずっと自分に一途で、「一生好きだよ」って言ってくれたじゃないか。なのに、なんでこんなあっさり手放せるんだよ?いくら考えても、答えなんて出てこなかった。悠翔は目をぎゅっとこすって、顔を叩いて、自分を無理やり現実に引き戻そうとした。でも、もう一度チャット画面を見ても、そこにあったのは、やっぱりあの三つのメッセージだった。……その瞬間、これが幻覚じゃなくて現実なんだと悟った。悠翔はベッドから跳ね起きた。震える指で画面を何度もタップしながら、必死でメッセージを打っていく。【美羽、ちゃんと話がしたい】【お願いだから、説
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