LOGIN扉の開く音が聞こえたのか、蒼士は目を開けないまま、かすれた声で一言だけ告げた。「氷を」紗寧は慌てて近づき、アイスペールを持ち上げて、氷をいくつか浴槽へ入れた。氷が水面へ落ち、ボチャンと鈍い音を立てる。細かな水しぶきが周囲へ飛び散った。氷を入れていた紗寧の手が、ふと止まる。反射的に蒼士へ目を向けると、漆黒の瞳と真正面から視線が重なった。蒼士は今、体を焼く欲望のせいで意識が朦朧としていた。突然目の前に現れた紗寧を、焦点の定まらない目で見つめている。彼女が本当にそこにいるのか、それとも再び夢を見ているのか、判別できなかった。「紗寧......?」紗寧は慌ててそばへ寄り、手を伸ばして彼の額へ触れた。「具合はどうですか?まだ苦しいですか?」蒼士は答えなかった。瞬きもせず、ただ彼女を見つめている。その視線に居心地の悪さを覚え、紗寧は小さく口を開いた。「ごめんなさい。何も知らなくて......」声が次第に小さくなり、申し訳なさそうな響きを帯びる。「体調が悪いと知っていたら、電話なんてしませんでした......」考えれば考えるほど、紗寧の罪悪感は強くなった。そのぶん、懸命に彼の世話をしようとする。アイスペールからさらにいくつか氷を取り出し、浴槽へ入れた。「氷は足りていますか?もっと入れたほうがいいですか?」蒼士は答えなかった。浴槽の縁へ背を預けたまま、紗寧の顔を見つめている。瞳を覆っていた朦朧とした色は次第に薄れ、代わりに、紗寧には理解できない感情が浮かび始めた。蒼士は考えていた。――横川は入口にいるはずだ。紗寧を浴室へ入れるはずがない。だとすれば、これは夢なのか?蒼士の思考が一瞬、現実から離れた。紗寧の夢を見るのは、これが初めてではない。ここで一緒に暮らすようになってから、何度も同じような夢を見ていた。目を覚ますたび、自分がまるで思春期の少年に戻ったように、衝動的で抑えが利かなくなった気がした。だから、目の前にいる紗寧も夢の中の存在であり、本物ではないのだろう。そう考えた瞬間、紗寧を見る蒼士の目が変わった。もしここが自分の夢の中なら――何をしても許されるのではないか?返事のない蒼士を不思議に思い、紗寧はその顔を見つめた。しかし
「数日って、何日くらいですか?」蒼士は答えなかった。傍らにいた横川が、声を潜めて説明する。「短ければ3日。長ければ......1週間ほどです」1週間。紗寧は指を強く握り締めた。「ほかに方法はないんですか?」横川は首を横に振った。「天川さんによれば、八角様の症状に対して薬は補助的な役割しか果たせません。結局は、ご自身で耐え抜くしかないそうです」蒼士はソファの背にもたれ、目を閉じた。「もういい。黙れ」横川はすぐに口を閉ざした。「八角様、浴室の準備が整いました」そのとき、数人の使用人が恭しく頭を下げながら、浴室から出てきた。蒼士はうなずいて立ち上がると、横目で横川を一瞥した。「入口を見張れ。誰も中へ入れるな」「......かしこまりました」蒼士が立ち去ろうとした途端、紗寧はその手を強く握った。蒼士は彼女の頭を優しく撫でる。「心配するな。君は2階へ戻って、おとなしく寝ていて」「でも......」蒼士はすでに背を向け、浴室へ歩きだしていた。紗寧はその場に立ち尽くし、目の前で浴室の扉が閉まるのを見つめた。胸の奥を何かに塞がれたようで、息苦しくなる。「横川さん、八角さんは帰ってきたとき、まだ平気そうでしたよね?どうして急に......」横川は唇を引き結び、何も答えなかった。紗寧は彼の前まで歩み寄り、顔を上げて見つめる。「本当のことを教えてください」横川は少しためらったあと、口を開いた。「八角様は今日の午後、ずっと格闘場にこもっていて、そのあと数時間アイスバスに浸かっておられました。それで症状はほぼ抑えられていたのですが、奥様から電話があり、急いで戻ってきたため......」紗寧は息をのんだ。――自分のせいなの?自分は、彼の気持ちを確かめたかっただけなのに......こんなことになるなんて、知らなかった。「分かりました。話してくださって、ありがとうございます......」横川は紗寧を見つめ、何かを言おうと口を開いた。だが、結局その言葉をのみ込んだ。そのとき、屋敷の外から何頭もの犬が激しく吠える声が響いた。一人の使用人が青ざめた顔で駆け込んでくる。「横川さん、黒が突然暴れだしました!庭中を走り回って、二人も噛まれています。誰も近づけま
蒼士の指先が、無意識に紗寧の腰を撫でた。薄いシルク越しに、細い腰の線と温かな感触が伝わってくる。胸の奥から込み上げる欲望は、もはや抑えきれないほどに膨れ上がっていた。呼吸は次第に荒くなり、首筋には血管がくっきりと浮かび、今にも破裂しそうなほど張り詰めている。寝室は薄暗く、窓の外からわずかに差し込む冷たい光だけが、紗寧の頬を艶めく赤に染めていた。蒼士はその場で動けなくなった。背筋は張り詰め、全身の筋肉が彼女へ近づけと訴えている。腕の中にいる紗寧の唇は、わずかに開いていた。そこから漂う甘い香りが頬を撫でるたび、理性が少しずつ崩れていく。まつ毛がかすかに震える様子まで、はっきりと見えた。ほんの少し顔を下げるだけで、その柔らかな唇を奪える。だが、二人の唇が触れ合おうとした瞬間、蒼士は強く拳を握り締め、無理やり顔をそむけた。「もう遅い。早く寝ろ......」紗寧は訳が分からないという顔で、蒼士を見つめた。しかし蒼士は逃げるように視線を避け、立ち上がると、彼女を自分の膝から下ろした。「使用人を呼んで、寝室を片づけさせる」紗寧はソファに座ったまま、蒼士の後ろ姿が寝室の外へ消えていくのを呆然と見送った。――蒼士は今......自分を拒んだ?どうして?紗寧は、自分が着ているナイトドレスへ目を落とした。細い肩紐のついたシルク製で、裾は太腿の付け根までしかない。隠すべきところ以外は、ほとんどあらわになっていた。自分の体には、それなりに自信がある。誰もが目を奪われるほどとは言わなくても、見た途端に逃げ出したくなるような体ではないはずだ。それなのに蒼士は......紗寧は下唇を噛み、胸の中に挫折感を覚えた。――自分に魅力が足りないのだろうか。それとも、本当に女性を抱けないのか。だが以前は、明らかに紗寧へ反応していた。では、どうして......そこで紗寧の思考が突然止まった。先ほど自分を引き離したときの蒼士の目。以前にも一度、見たことがある。――まさか蒼士は......発作を起こしているのでは?......紗寧が考え込んでいると、不意に階下から話し声が聞こえてきた。ほかのことを考える余裕もなくなり、急いで服を着替えて階下へ向かう。リビングでは、蒼士
あれこれ考えていると、一筋の光が夜の闇を切り裂き、遠くから庭のヤシの木を照らした。黒は犬小屋の中で立ち上がり、耳をそばだてて2秒ほど音を聞くと、嬉しそうに尻尾を振り始めた。紗寧は深く息を吸う。――来た。黒い高級車が庭へ入ってきた。ヘッドライトが消え、エンジンの低い音も次第に静まっていく。蒼士はドアを開けて車を降りた。落ち着いた足取りで歩き、その顔からは何の感情も読み取れない。黒が尻尾を振りながら駆け寄り、蒼士の脚の周りを2周した。それから顔を上げ、甘えるような声を喉の奥から漏らす。だが蒼士は一瞥もせず、大股で母屋へ向かった。あとに続いていた横川は空気を読み、中へ入らず玄関先で見張ることにした。黒もついていこうとしたが、横川に首輪をつかまれ、引き戻される。「お前はこっちだ。お二人には大事なお話し合いがある」黒は不満そうに歯をむき、尻尾を振りながら走り去った。蒼士は2階へ上がった。廊下の壁灯はまだついており、薄暗い黄色の光が彼の影を長く伸ばしている。寝室のドアは少し開き、その隙間から細い光が漏れていた。蒼士が手を伸ばし、ドアを押し開ける。その瞬間、ベッド脇の暗がりから華奢な人影が飛び出し、勢いよく彼の胸へ飛び込んできた。「八角さん......」紗寧は蒼士の首へ腕を回し、その胸元へ顔を埋めた。か細い声には涙が混じり、怯えた小動物のようだった。「やっと来てくれた......」蒼士は急いで来たため、シャツを一枚着ているだけだった。そのため今は、紗寧の体の柔らかな輪郭まではっきりと感じ取れてしまう。薄いシャツ越しに、彼女の柔らかさと温もりが余すところなく伝わり、胸へぴったりと押しつけられていた。蒼士の瞳が一瞬で暗く沈む。反射的に彼女を引き離そうとし、肩へ手を置いた。だが、指先が滑らかな素肌に触れた瞬間、火傷でもしたように勢いよく手を引っ込める。紗寧の背中は、ほとんど何も覆われていなかった。肩には細いストラップが二本掛かっているだけで、前をかろうじて覆っているにすぎない。背中はすべてあらわになり、美しい形の肩甲骨が浮かんでいた。肌は上質な白磁のように白く、滑らかだった。蒼士の指がわずかに曲がる。指先にはまだ、紗寧の肌の滑らかで温かな感触が残っ
その頃、蒼士はアイスバスに浸かっていた。胸元まで満たした冷水は骨まで凍えそうなほど冷たかったが、体内で荒れ狂う熱を抑えることはできない。彼は浴槽の縁に背を預け、片腕を縁へ載せていた。水滴が引き締まった筋肉の線を伝って流れ落ち、冷たい白色の照明を受けて細かく輝いている。電話から聞こえてきた紗寧の声に、スマホを握る指へ力がこもった。「待ってろ。すぐに戻る」通話を切ると、蒼士はアイスバスから立ち上がった。水滴が浮き出た腹筋の溝を伝い、腰骨へ続く筋肉の線へ消えていく。傍らのバスタオルをつかんで無造作に体を拭き、椅子の背に掛けてあったバスローブへ袖を通した。バスルームの扉を開けると、横川が廊下に立っていた。出てきた蒼士を見て、驚いたように目を瞬かせる。「八角様?」蒼士は足を止めず、大股で更衣室へ向かった。バスローブのベルトは腰へ緩く結ばれているだけで、濡れた胸元が大きく露出していた。「何かあったんですか?」横川は慌ててあとを追った。「紗寧から電話があった。家に泥棒が入ったらしい」横川の足が一瞬止まった。頭の中に、いくつもの疑問が浮かぶ。真っ先に思ったのは――黒が死んだのか?そうでもなければ、あの家に侵入者が入れるはずがない。いや、たとえ黒が死んでいたとしても、あそこにいる数十頭の番犬まで全滅したとでもいうのか?それに家の警備システムは、八角グループ傘下でも最高峰の警備チームが設計したものだ。防衛関連施設にも採用される赤外線センサーに顔認証、24時間体制の巡回警備まで備えている。アリ一匹入り込んでも、たちまち検知されるほどだった。泥棒が入った?いったい何者なら、これほど幾重にも張り巡らされた警備を突破できるというのか。横川は何か言おうとした。だが、蒼士の険しい顔を見ると、喉まで出かかっていた言葉をのみ込んだ。慌ててあとを追いながら、慎重に口を開く。「八角様、天川さんから、今夜は外へ出てはいけないと言われております。お体が――」「黙れ」蒼士は横川の言葉を遮り、更衣室の扉を開けた。クローゼットの前まで進み、扉を開いて清潔なシャツを一枚取り出す。横川は入口に立ち、蒼士が着替える姿を見ながら、焦りで汗をにじませていた。「やはり先に私が戻って確認
蒼士はわずかに目を上げ、横川を一瞥した。その眼差しは淡々としており、何の感情も浮かんでいない。だが横川は、その一目だけで彼の意図を理解した。「失礼しました」......その頃、紗寧は不安に満ちた顔で部屋の中を行ったり来たりしていた。頭の中は、すっかり混乱している。「奥様」背後から使用人に声をかけられ、紗寧は驚いて体を震わせた。「どうしたの?」「彩未様がお見えです。玄関でお待ちになっています」――彩未?紗寧は一瞬呆気に取られたが、すぐに蒼士の妹だと思い至った。慌てて顔を手で拭い、深く息を吸う。「中へお通しして」使用人は返事をして下がっていった。ほどなくして、彩未が細いハイヒールを鳴らしながら入ってきた。今日は黒いワンピースを着ている。上質なシルクの生地が美しいドレープを描き、膝丈の裾からは、まっすぐ伸びた細い脚がのぞいていた。長い髪を肩へ垂らし、化粧も隙なく整えられている。鮮やかな赤い唇と相まって、全身から鋭い美しさが漂っていた。彩未はリビングをひととおり見回し、最後に紗寧へ目を止めた。その眼差しには、値踏みするような厳しさがにじんでいる。「蒼士お兄ちゃんは?」冷ややかな声で尋ねた。紗寧は唇を引き結んだ。「今夜は戻らないそうです。何かご用ですか?」彩未はわずかに眉をひそめ、口元へ冷笑を浮かべた。「ならちょうどいいわ。今日はあなたに会いに来たの」紗寧の胸が強く締めつけられた。――自分に会いに?「どうぞ、お掛けください」紗寧はソファを勧め、できる限り平静な声を保った。だが彩未は座ろうとしなかった。リビングの中央に立ったまま、胸の前で腕を組む。顎をわずかに上げ、紗寧を見下ろした。「貝原咲良」一文字ずつ区切るように、その名を口にする。「いいえ......こう呼ぶべきかしら。加賀美紗寧さん」紗寧の瞳孔が一気に縮んだ。だが、すぐに平静を取り戻す。彩未は彼女を見つめ、ゆっくりと口元を上げた。その瞳には、少しも笑みが浮かんでいない。「どうしたの?驚いた?もしかして、名前を偽れば、誰にもバレずに済むとでも思ったの?過去を消して、まんまと玉の輿に乗れたつもり?」彩未は紗寧の前まで歩み寄り、露骨な軽蔑を込めた目で見下
胸の内で不安が膨らむ中、蒼士は視線を引き、革張りのシートにゆったりと背を預けた。動きに合わせて喉仏がわずかに上下する。「乗れ」その一言に、紗寧はほっと息をつきながら車内へ身を滑り込ませた。ドアが閉まると、港江特有の蒸し暑い空気は完全に遮断される。黒いマイバッハは静かに走り出し、空港高速へと合流した。窓の外では標識が次々と流れていく。だが、進んでいる方向は貝原家への道でもなければ、八角家の屋敷へ向かう道でもない。2年間港江を離れていたとはいえ、主要道路の位置くらいは覚えている。紗寧は隣の男へ視線を向けた。蒼士は目を閉じていた。眠っているようにも見えるが、そ
その頃の紗寧は、ちょうど北城空港に到着したところだった。スマホが震える。「もしもし、先輩?」電話の向こうから聞こえてきたのは、中岡の穏やかな声だった。どこか苦笑混じりの響きがある。「紗寧、さっき柏グループ傘下のワールド・エンターテインメントから連絡があってな。総支配人の人選が松田に決まったそうだ」紗寧は足を止めかけたが、すぐにスーツケースを引いて歩き続けた。「そうなんですか」あまりに淡々とした反応だったせいか、中岡は一瞬言葉を失った。「なんだ、その反応は。少しくらい俺のために怒ってくれてもいいだろう?」冗談めかした口調で続ける。「一応、俺は君が推薦し
2日後。紗寧の傷はほとんど癒え、嗄れていた喉も元通りになっていた。その間、真洋が見舞いに来ることは一度もなかった。代わりに届いたのは、港江から母親が送ってきた小包だった。中には、貝原咲良の免許証が入っていた。病室の窓辺に立ち、眼下を流れる車列を見下ろしながら、紗寧はかすかに口元を歪める。それは嘲りにも、諦めにも見えた。その時、ドアが開いた。入ってきたのは天川だった。今日は白衣ではなく、ダークグレーのシャツに袖を肘まで捲っている。いつもの冷ややかさが少し和らぎ、どこか人間味が感じられた。「退院手続きは終わった」彼は書類を差し出す。「もう出られるよ」
――頼まれていた?真洋のことだろうか。紗寧はペン先を止めた。この一年間、彼が自分のために奔走する姿を、彼女はずっと見てきた。国内外の名医を探し回り、治療法を求め続けた。けれど成果はなかなか出なかった。それが半年前、担当医が天川に代わってから、彼女の聴力は少しずつ回復し始めたのだ。だが、なぜだろう。どこか引っかかるものがあった。真洋と天川先生は、それほど親しい関係だっただろうか。普段の診察でも、天川先生が真洋に好意的な態度を見せたことなど一度もない。むしろ、どこか冷淡ですらあった。紗寧は首を傾げながら天川を見上げた。その視線に込められた疑問を察







