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冷徹な御曹司は、今さら愛を乞う
冷徹な御曹司は、今さら愛を乞う
枝月ゆい

第1話

枝月ゆい
「花音……君の初めてを、俺にくれるか?」

白檀の香りが漂う禅室。観音像の顔は、薄い布で覆われていた。

桐谷花音(きりたに かのん)は何も身につけないまま、男の腕に囲い込まれ、座卓の脇の畳に横たわっていた。

穏やかな顔立ちには、近寄りがたいほど澄みきった静けさが宿っている。そんな言葉を口にしても、その切れ長の瞳には欲望の色など微塵も浮かんでいなかった。

それでも花音は、まるで仏の声に導かれるように、その身を彼へと捧げた。

付き合って三年、彼が初めて花音に触れようとしたのだ。

神谷明臣(かみや あきおみ)は、誰もが知る「俗世に染まらない男」だった。

誰もが、彼は冷淡で近寄りがたく、俗世の欲とは無縁の人間だと口をそろえた。

神谷家という巨大な家業を継いだあとも、彼は修行を欠かさなかった。

香を焚いて仏に祈り、禅室にこもって座禅を組み、精進料理だけを口にし、戒律を守り、静かに俗世から距離を置いて生きていた。

そんな彼が花音と付き合ったことこそ、人生最大の戒律破りだったのかもしれない。

もっとも、明臣が本当に何の欲も持たない人だったわけではない。

座禅を組むときは、花音に服を脱がせ、自分の前で裸のまま正座させる。

一時間が過ぎると、今度は服を着るよう告げ、そのまま禅室を出て行かせるのだ。

彼はいつも長い時間、花音を見つめていた。

けれど、その瞳に愛や欲情は感じられない。まるで彼女の肉体を使って、自分の修行が揺らがないかを試しているようだ。

花音は、そんな明臣を一度も疑ったことはない。むしろ、自分が彼の修行の一助となれるなら、それでいいとさえ思っていた。

人生のどん底にいた自分を救ってくれたのは、明臣だったからだ。

けれど今回は違った。明臣は彼女を帰そうとはせず、裸のままの花音を畳へ押し倒した。

花音は震える声で問いかける。澄んだ瞳には、初めてのことへの戸惑いと緊張が浮かんでいた。「……戒律を破ることにならないの?」

明臣はかすかに口元を緩め、身をかがめて彼女の耳たぶに唇を寄せる。「花音……君という存在は、ずっと前から俺の心を乱していたんだ」

初めて結ばれる痛みに、花音は声をのみ込み、眉を寄せる。

あれほど冷静で自制心の強い人が、こんなふうに我を忘れることがあるなんて、花音は思いもしなかった。

明臣は何度も彼女を求め続け、花音が力尽きて眠りに落ちる頃には、外はすっかり夜の闇に包まれていた。

花音が目を覚ましたときには、すでに朝の七時だった。

明臣の姿はもうない。

起き上がると、彼の白いシャツが花音のなめらかな肌からさらりと滑り落ちる。

花音は頬を赤らめながら自分の服を拾い、一つひとつ身につけて禅室をあとにした。

屋敷の奥庭のそばを通りかかったとき、中から誰かが話す声が聞こえてきた。

「明臣、昨夜、花音と最後までしたのね」明臣の祖母・神谷澄江(かみや すみえ)の冷たい声だった。

「ええ」

「ずいぶん気の長いこと。最初からわざとあの子に近づいて、三年もかけてようやく手を出すなんて。私なら、ろくでもない連中を何人か雇って、花音を徹底的に辱めてやりたかったわ」

「詩織の仇は、俺自身の手で討つ。妹が味わった苦しみを、涼真の妹にも、一つずつ味わわせてやる」明臣の声は、花音が一度も聞いたことのないほど冷え切っていた。

「それじゃ、あの壁一面の絵は?」

「今月末、最後の一枚を仕上げたら、北浜市で一番大きな美術館のチャリティー展に出す」

「そのとおりよ!その時こそ花音の名誉を地に落とし、桐谷家の人間全員に、私たちがあの頃味わった苦しみを思い知らせてやるの」

分厚い木の門越しにも、その一言一句は花音の耳にはっきりと届いた。

花音は口元を押さえ、漏れそうになる嗚咽を必死にこらえた。それでも、震える体だけは止められない。

詩織……神谷詩織(かみや しおり)。

その名前なら知っている。

四年前、兄の桐谷涼真(きりたに りょうま)がある事件に巻き込まれた。

被害者の詩織は性的暴行を受けたうえ、転落して植物状態となり、あらゆる証拠が涼真を犯人だと示していた。

花音は兄がそんなことをする人ではないと信じていた。

それでも無実を裏づける決定的な証拠を得られないまま、涼真には懲役十二年の判決が下された。

あの日から桐谷家は跡継ぎを失い、両親はすっかり気力をなくし、一夜にして老け込んでしまった。

家族と兄の無事を祈るため、その年の秋、花音は白蓮山を訪れ、そこで静かに修行をしていた明臣と初めて出会った。

柔らかな白い麻のシャツをまとい、手首には黒檀の数珠を巻いている。

澄んだ瞳は穏やかで、伏せた切れ長の目元には静かな光が宿っていた。

ひょうたんを半分に割って作った柄杓で、塀際に植えられたライラックへ静かに水を注いでいる。

紫の花びらがふわりと肩に舞い落ち、そのどこか近寄りがたい横顔に、柔らかな彩りを添えていた。

まるで慈悲深い仏様のようだった。

それから二人は、寺の庭で何度も顔を合わせるようになった。

花音は胸の痛みを打ち明け、明臣は仏の教えを語りながら、その苦しみにそっと寄り添ってくれた。

二人の滞在は一か月だけだった。

けれど、その一か月の寄り添いとぬくもりは、芽生えた想いを少しずつ育て、やがて深い愛へと変えていった。

山を下りると、二人は自然に恋人となり、明臣は花音を自分の屋敷へ迎え入れた。

この三年間、屋敷の使用人たちは誰もが花音を大切に扱ってくれた。

時折訪れる澄江も、いつも穏やかな笑顔で接してくれた。

だから花音は一度も考えたことがなかった。

明臣が、詩織の兄だったなんて。

自分が救われたと思っていたものは、最初から復讐のために張り巡らされた罠だったのだ。

だから明臣の視線には、一度として恋心は宿っていなかった。

あれはいつも、値踏みするような目だった。

だから彼は言ったのだ。

――君という存在は、ずっと前から俺の心を乱していたんだ、と。

奥庭にいる人たちに見つかる前に、花音はよろめきながらその場を離れた。

いや、逃げ出したというほうが正しかった。

……

明臣は澄江を見送ったあと、禅室へ戻った。

薄い帳の向こうに立つ観音像を見つめ、しばらく黙って立ち尽くす。

使用人が淹れたてのお茶を運んできた。

ひと口飲んだ瞬間、違和感を覚える。「このお茶、花音が淹れたものじゃないのか?」

使用人は笑顔で答えた。「花音さんが今日は少し体調が優れないので、代わりに私どもがお世話するよう申しつかっております」

明臣は茶色い瞳をわずかに曇らせた。

昨夜、自分が理性を失ったことを思い出し、静かに湯飲みを置く。「世話はいらない。下がってくれ」

「かしこまりました」

……

夜も更け、花音は薄い白いネグリジェ姿のまま、再び奥庭の入口へやって来た。

古びた木の門には二つの頑丈な錠が掛けられ、鉄の鎖が幾重にも巻かれていた。花音はその閉ざされた門を見つめたまま、しばらく立ち尽くしていた。

ここで暮らして三年。

唯一、立ち入りを禁じられていた場所が、この奥庭だった。

誰にだって、人に知られたくない秘密はある。

花音はこれまで理由を尋ねることもなく、一度も踏み込もうとはしなかった。

けれど今夜だけは、中を見てみたかった。

庭の飾り石を運んできて足場にし、塀を乗り越えて奥庭へ入る。

中には古びた小さな建物が一軒あるだけだった。

花音は扉を開け、スマホのライトで部屋の中を照らした。

その瞬間、目に飛び込んできた光景に、全身の血の気が一気に引いていった。

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