Masuk「頼めるのは綾さんしかいないのよ。母にとって颯太はたった一人の息子だし、祖父に至っては……」真帆は、そこで言葉を切った。綾の表情が曇った。「申し訳ありませんが、杉本家とは一切関わりたくありません。理由は真帆さんもよく分かっているはずでしょう」綾には忘れられない記憶があった。宗介の身勝手で非情なやり方のせいで、美羽は子供とともに命を落とし、ユリの花が咲く庭で非業の死を遂げたのだ。「分かったわ。無理を言ってごめんなさいね」小さくため息が漏れ、通話が切れた。綾は小さく笑った。颯太も随分と思いきったことをするようになったものだ。ソフィアと一緒になるために、I国へ婿入りするつもりだなんて。いかにも颯太らしい選択ではあるけれど。自転車で角を曲がった時、突然、コントロールを失った車が歩道を乗り越え、綾に向かって突っ込んできた。あまりに突然の出来事に、避けようとしたものの間に合わず、激しく道端に投げ出された。右腕に走った強烈な激痛で、意識が遠のく。涙が溢れ出し、冷や汗が一気に体から吹き出した。ぶつかってきたドライバーも青ざめ、車を降りた足はがくがくと震えていた。綾は相手が救急車を呼んでくれるとは思わず、痛みに耐えながら、自ら救急と警察へ通報した。事後処理のことが頭をよぎり、健吾にも電話をかけた。「健吾、事故にあって腕を折っちゃった。これから病院に行くから、そっちに来てくれない?」「車とぶつかった」とはあえて言わなかった。健吾が余計に動転するのを避けたかったからだ。健吾が病院名を尋ねた。「分かった。すぐに向かう」ほどなくして、警察と救急車が現場に到着した。加害者は警察に身柄を引き渡され、綾は担架に乗せられ、救急車で病院へ搬送された。病院へ着くと、すぐに健吾が駆けつけてきた。その姿を見るなり、綾は泣き出した。「健吾、すごく怖かった……」車が突っ込んできた瞬間、死を覚悟した。そんな恐怖を何度か味わった綾にとっても、今回はあまりに衝撃的だった。診察の合間に、車とぶつかった経緯を話した。健吾は胸を締め付けられる思いだったが、表面上は穏やかさを保った。綾の頭をなでながら、彼は優しく言った。「大丈夫、ここにいるよ」健吾は余計なことは聞かず、綾の検査に付き添い続けた。幸い検査結果に異常は
真由美は颯太を慈しむように見つめ、その瞳を潤ませた。我が子の繊細で優しい性格を、母親として誰よりも理解していたからだ。「東都で良い女性と巡り合って、二人で静かに暮らせばいいでしょ?どうしてわざわざ、そんな遠い異国の地まで行かなければならないの?」颯太は穏やかに返した。「母さん。俺が愛している人はI国にいる。ただそれだけなんだ」真由美は声を詰まらせた。「颯太、昔は綾さんのことが好きだったでしょ?今なら綾さんも独身だし、もう一度やり直せるはずよ。おじいさんには私からしっかり頭を下げて、綾さんとの結婚を認めさせるから」「綾さんには、彼女の新しい生活がある。そんな話はもう二度としないでくれ」颯太は真由美の顔を見つめ、自嘲気味に聞いた。「数年前に真帆姉さんがD国人の恋人を連れてきたとき、母さんたちは反対しなかっただろう?なぜ俺だけダメなんだ?」真由美は、「男だからよ」と口にしかけて飲み込んだ。颯太が、3人の姉たち以上に杉本家の古い考え方を嫌っていることを痛いほど知っていたからだ。宗介や父親の杉本義治(すぎもと よしはる)が理不尽な扱いをするたび、颯太はいつも真っ先に立ち上がり、姉たちのために声を上げてきた。それに、仮に今の颯太ではなく真帆がD国へ嫁ぐと言い出しても、首を縦には振らなかっただろう。「母さん。俺はもう大人だ。自分の人生くらい、自分で選ばせてくれ」真由美は言葉を継げなかった。家で起きた数々の出来事を経て、颯太の言っている道理は重々分かっていた。ただ、我が子を想うがゆえに、年老いた今、颯太たちを側から離したくないと願うばかりだった。真由美は颯太の手を握り、その甲をぽんぽんと叩いた。自分でも理不尽だと分かっていながら、こう言い放つ。「颯太、私やお父さんの気持ちも少しは考えて。おじいさんだって、もう年なのよ」言い終わると、真由美はそそくさと部屋を出た。颯太は情に厚い。真由美は、息子のその優しさに付け込み、心を縛ろうとしていた。廊下で待ち構えていた沙羅と陽葵は、真由美の沈痛な面持ちを見て表情を曇らせた。「おじいさんは?」と真由美が尋ねる。沙羅が答えた。「胸が痛いって。医者の診察は済んだわ。過度の興奮が原因だから、これ以上刺激するなって言われてる」陽葵があくびを噛み殺した。「もう寝る。地球が滅びるわけ
だが、陽葵が妥協案を口にするより早く、颯太は強い口調で遮った。「もう決めたんです。今日皆さんを呼び戻したのは、相談じゃなくて通知ですから」この言葉に、宗介は激怒し、手すりを握りしめて立ち上がり、憤りで激しく咳き込んだ。そして、すぐに執事を怒鳴りつけた。「こいつを部屋に閉じ込めろ!俺が許可するまで、一歩も出すな!」真由美は反射的に止めようとしたが、ふとブレーキがかかった。ここで止めなければ、颯太は本当にいなくなってしまうかもしれないからだ。真由美は胸を締め付けられる思いで、悔しさを堪えて一歩退いた。すると、沙羅が口を開いた。「おじいさん、今はもうそんな時代じゃないです。勝手に人を閉じ込めるなんて、監禁と同じですよ!」宗介は目をむき、杖を床に強く打ちつけた。「ここは杉本家だ。この家では俺の言うことが絶対だ!俺がいなければ、今の杉本家も、お前たちの暮らしもなかったはずだ!」陽葵が不服そうに鼻を鳴らし、冷ややかに言い返した。「おじいさんがいなければ、少なくとも美羽さんはあんなに悲惨な死に方をせずに済んだんですけど」そう言いながらも、陽葵も颯太を助けようとはしなかった。たぶん、ただの一時の迷いだ。そう思い、少し頭を冷やすのも悪くないと感じていたのだ。颯太は帰宅する前からこの結果を予測していた。反抗せず、反論も一切口にせず、大人しく自分の部屋へと向かった。力ずくで強行突破すれば、ソフィアとの未来が穏やかなものになることは、もう二度とないのだと分かっていた。どうしてもソフィアのいるI国へ行くつもりだが、だからといって家族との絆を断ち切る気はない。家族の祝福がない結婚など、どんなに華やかでも決して幸せにはなれないからだ。健吾と綾を見ていれば分かる。家族の反対の末、二人がいかに傷ついてきたか。自分が苦労するのはいい。しかし、ソフィアには正当で立派な関係性が必要なのだ。自分には健吾のような決断力はない。実家をあっさり捨てられるほどの根性もないのだ。祖父は頑固だが、唯一の孫である自分には格別な愛情を注いでくれている。両親や姉たちだって、自分を何よりも大切にしてくれていた。仕事なら一からやり直せる。でも、家族のことは、どうしても見捨てられないのだ。いつか、ソフィアを連れて胸を張って帰宅したい。そして、対立ではなく、
真帆が顔を上げ、静かな眼差しをそこにいる全員に向けた。最後に颯太を見据えて、落ち着いた声で言い放った。「いいんじゃないですか?颯太がI国に行くのなら、私たちの誰かが跡を継げばいいだけの話でしょう?」真帆は、関心がなさそうに冷たく笑った。「おじいさん、そんな脅しは通用しないわ。おじいさんが亡くなれば、お葬式を出すのも遺影を持つのも私たちよ。まさか骨壺から這い出してきて、私たちに手を上げることなんてできないでしょう?」その言葉が終わると、リビングは静まり返った。次の瞬間、陽葵が堪えきれず吹き出した。宗介はティーテーブルを激しく叩き、湯呑みをガタガタと鳴らした。「真帆!お前は颯太が戻るまでの代理で経営を任されているに過ぎん、あまり調子に乗るな!」真帆が冷ややかな笑みを口元に浮かべたまま、瞳には何の熱も宿っていなかった。さっきの発言はわざと宗介を怒らせるためだったが、本音も混ざっていた。真帆だって、本当は颯太が東都から離れてほしくなどなかった。颯太は子供の頃から正直者だ。もし異国へ渡ってまで婿養子になり、人のお荷物扱いでもされたら目も当てられない。姉として、想像するだけで胸が詰まる思いだ。さらに不可解なのは、以前あんなに綾に執着していた颯太が、なぜ急に詳しく知りもしないI国の女に心変わりしたのかという点だ。どこかで騙されているのでは?あるいは恋の病で頭がおかしくなったか?いずれにせよ、颯太には自分の目が届く場所にいてほしかった。真帆は眉をひそめて立ち上がると、突き放すような口調で言った。「会社で急ぎの仕事があるので失礼します。おじいさんも、ひ孫が遺影を持つまで長生きしてくださいね。間違っても、私たちに都合のいいことばかり起こらないようにね」真由美はその言動が到底看過できるものではないと焦り、真帆を軽く叩いて急かした。「もう行って、仕事に遅れるわよ」真帆は小さい頃から意志が強く、妥協を知らない性格だ。身内以外の親戚たちからはあまり快く思われていなかった。もし宗介に何かあれば、また何を言われるか分からなかった。宗介は不機嫌そうな顔をしていた。真帆に杉本グループを任せるなんて、彼にとって苦渋の決断だった。真帆の姿に、かつての美羽の面影を重ねる。だが真帆は、美羽よりもずっと向こう見ずで、感情を隠そうとも
ソフィアは何か言いかけたが、根っからのプライドがそれを許さなかった。彼女はすぐに表情を殺し、一瞬込み上げた悲しみをぐっと堪えた。「颯太さんも早くお休みください。では、失礼します」颯太が返事をするのを待たず、ソフィアは背を向けて車に乗り込んだ。車が走り出す際、ルームミラーで見ると、颯太はまだその場に立ち尽くしていた。「心から大切にする」なんて、所詮はその程度なのね。近づきたいと言っておきながら、たった数言で退散するなんて、本当の腰抜け。チャンスを与えなくて正解だった。期待なんてしなくてよかった。さもなければ、とんでもない笑いものになるところだった。ホテルに戻った颯太だったが、ベッドに入っても寝つけずにいた。冷徹な表情で自分の名前を呼ぶソフィアの顔が、頭から離れない。颯太は意を決して起き上がると、深夜便を予約して、その夜のうちに帰国することにした。飛行機が雲を抜けていく中、ある決意を固めた。他人から見れば正気とは思えない、だが自分にとっては当然の帰結ともいえる選択だった。帰国後、颯太はすぐさま杉本家の屋敷に戻り、家族全員を招集した。リビングに集まったのは、出張中の父親を除いた全員だった。祖父の宗介が杖をついて上座に座り、3人の姉たちも顔を揃えていた。全員が揃うと、颯太は真剣な面持ちで口を開いた。「今日は報告があります。結婚を前提に考えているI国の女性がいます」リビングに沈黙が降りた後、母親の真由美が心から安堵したような声を上げた。彼女は顔を輝かせ、両手を合わせた。「本当!?ついにその気になったのね!」しかし真帆だけは眉をひそめた。この弟の性格を誰よりも分かっているからだ。単に恋愛しているだけなら、わざわざ家族をこんな風に集めたりしない。真帆はソファに深く座り、颯太をじっと見つめながら落ち着いた声で促した。「それで?続きをどうぞ」颯太は息を深く吸い込むと、「これからI国に行き、婿入りします」と告げた。早口ではあったが、その一言一句が、そこにいる全員の耳に突き刺さった。宗介が立ち上がり、怒りのあまり髭を震わせた。理由を聞く間もなく、彼は杖を振り上げて颯太に殴りかかろうとした。颯太はすんでのところで身をかわしたが、目は逸らさなかった。「どんなに叩かれても、行くつもりです」真由美の表情か
ソフィアはヒールの音を響かせて颯太に近づき、遊び心のある口調で言った。「どうしてここにいるんですか?」颯太は我に返ったが、視線はソフィアの顔から離れず、心臓が跳ねた。「I国に来たらご飯をおごってくれるって約束、まだ生きてますか?」ソフィアはそっぽを向いて、ふっと笑った。「そこまでして私と食事がしたいんですか?」颯太は頷き、至って真面目に答えた。「食べることが好きだし、特にソフィアさんと食べる食事が何よりも好きなんです」青木家から酔って出てきたあの日、颯太の胸の中には割り切れない複雑な感情が渦巻いていた。しかし、一つだけ確かなことは、もうソフィアに夢中だということだった。ソフィアが数秒間颯太を見つめた。街灯の下で、その青い瞳が透き通っている。「付いてきてください」颯太は車に乗り込み、助手席で大人しくしていた。ソフィアがハンドルを切り、まだ暖かい光を灯すレストランへと車を走らせた。「夜も遅いし、今開いているお店は少ないから、我慢してくださいね」「大丈夫です」と颯太は答えた。もともと食事を目当てに来たわけではないので、何を食べるかなんてどうでもよかった。ただ少しでも長く、たとえ何も喋らなくても、ソフィアのそばにいたかっただけだ。二人は窓際の席を見つけ、向かい合って座った。外からガラス越しに見る二人は、美男美女で、絵画のように美しかった。すると、ソフィアがメニューを差し出した。「何か頼んでください」颯太は手元を見て、あえて手間のかかる料理を2つ選んだ。そうすれば、食事をゆっくり続けられるからだ。ソフィアがワインを1本頼み、グラスに注ぎながらゆっくりと口を開いた。「颯太さん、この食事が済んだら約束は果たしたことになります。これからは私を追いかけないでください」颯太の顔からさっと血の気が引いた。「どうしてですか?もう俺にはソフィアさんに近づく機会さえないっていうのでしょうか?」ソフィアは肘を突き、手を組んで、その顎を優しく手の甲にのせた。顔には淑やかな微笑を浮かべているが、その眼差しには冷めた温度しかなかった。「颯太さんは杉本グループの唯一の男性、私は家系を統べる者で、物理的にも数万キロ離れているのに、どうやって近づくんですか?」ソフィアは今の地位を捨てるつもりはなく、また颯太が自分のために







