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十二年間、私は養女だと騙されていた

十二年間、私は養女だと騙されていた

Por:  涼木Completo
Idioma: Japanese
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6歳のとき、交通事故ですべての記憶を失った私・水野詩織(みずの しおり)は、身寄りのない子どもになった。 けれど幸運にも、心優しい夫婦に引き取られた。 その日から私は、この家でいちばん聞き分けのいい子になった。 妹を大切にしなさいと言われれば、何でもいちばんいいものを譲った。 勉強を頑張りなさいと言われれば、ずっと学校で首席を取り続けた。 いい子でいなさいと言われれば、自分から家事を引き受け、少しの失敗もしないよう気をつけた。 それなのに、妹はいつも不思議な目で私を見ていた。 嫌われているのだと思い、また捨てられないよう、私はますます顔色をうかがうようになった。 大学入試を終え、留学ビザの手続きに必要な戸籍関係の書類を取り寄せたときのことだった。 窓口の職員は端末を何度も確認したあと、怪訝そうに私を見上げた。 「水野詩織さんの出生届に記載されているご両親は、水野正孝さんと佳代さんです。戸籍が変更された記録もありません」 私は初めから、孤児などではなかった。 12年間、恩を返さなければと必死に生きてきた日々は、すべて両親が仕組んだ嘘の上に成り立っていた。 書類を閉じると、不思議なほど心が静まった。 両親が用意した筋書きの中で、私は血のつながらない養女なのだ。 ならば、よそ者の私が出ていくのに、誰かの許しを得る必要もない。

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Capítulo 1

第1話

「お姉ちゃん、おかえり。ご飯なら残してあるよ。自分で温めてって、お母さんが」

水野美羽(みずの みう)はキッチンの入り口にもたれ、半分ほど残ったチョコレートアイスを手にしていた。表面のチョコがひとかけ、床に落ちた。

私は靴を履き替えると、かがんでそれを拾い、ゴミ箱に捨てた。

「うん。もう食べてきた」

本当は何も食べていなかった。役所を出てから、道沿いのベンチに3時間も座っていた。

「そっか」

美羽はアイスをひと口かじり、私の顔をしばらく見つめてから目をそらした。

あの目だった。

12年間、何度も向けられてきた目。

昔は嫌悪だと思っていた。そのうち同情なのだと思うようになった。けれど今なら分かる。

後ろめたかったのだ。

美羽は知っていた。

ずっと前から、すべて知っていた。

「お姉ちゃん、今日はどこに行ってたの?」

「ビザの書類を取りに」

「留学の?お母さん、海外の大学に受かったのはすごいけど、学費まではうちじゃちょっと……って言ってた」

美羽は食べ終えた棒をシンクに放り込み、水も流さなかった。

「家から出してもらう必要はないよ」

私は平坦な声で遮った。

「奨学金で全部賄えるから、家のお金は一円も使わない」

美羽は何か言いたそうに口を開いたが、そのとき玄関のドアが開いた。

母の水野佳代(みずの かよ)が大きな買い物袋を両手に提げて入ってきた。私を見ると、にこりと笑った。

「詩織、おかえり。ご飯は?」

「食べたよ」

「ちょうどよかった。これ、仕分けるのを手伝って。美羽が大学で使うノートパソコンや文房具、それから通学用のバッグなんかを買ってきたから、まとめておいてくれる?」

床に広げられた二つの袋の中身は、どれも美羽の大学生活のために用意されたものだった。

新しいノートパソコン、革張りの手帳、ブランド物のペンケース、通学用のトートバッグ、アルファベットの「L」が刺繍された化粧ポーチ。

私は品物を仕分け、畳めるものは一つずつ整えて、スーツケースに隙間なく詰めていった。

隣では、佳代がスマホで借りる予定の部屋の写真を見せながら、美羽と小型扇風機も必要か相談していた。

私の荷物については、誰も何も言わなかった。

いつ出発するのか、どの街に行くのか、どこに住むのかと尋ねる人もいなかった。

「そうだ、詩織」

佳代がふいに顔を上げ、天気の話でもするような口調で言った。

「海外へ行っても、ちゃんと家に連絡してね。血はつながっていなくても、これだけ長く育ててきたんだもの。お父さんも私も、あなたを家族だと思ってるから」

服を畳んでいた手が、一瞬止まった。

血はつながっていない。

佳代は、暗記した台詞を読み上げるようによどみなく言った。

12年間、何度聞かされただろう。

私が試験で一位を取るたび、佳代は言った。

「本当によく頑張ったわね。育てた甲斐があったわ」

美羽と意見がぶつかるたびにも言われた。

「あなたはお姉ちゃんでしょう。それに、私たちが引き取って育ててあげた恩を忘れないで」

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第1話
「お姉ちゃん、おかえり。ご飯なら残してあるよ。自分で温めてって、お母さんが」水野美羽(みずの みう)はキッチンの入り口にもたれ、半分ほど残ったチョコレートアイスを手にしていた。表面のチョコがひとかけ、床に落ちた。私は靴を履き替えると、かがんでそれを拾い、ゴミ箱に捨てた。「うん。もう食べてきた」本当は何も食べていなかった。役所を出てから、道沿いのベンチに3時間も座っていた。「そっか」美羽はアイスをひと口かじり、私の顔をしばらく見つめてから目をそらした。あの目だった。12年間、何度も向けられてきた目。昔は嫌悪だと思っていた。そのうち同情なのだと思うようになった。けれど今なら分かる。後ろめたかったのだ。美羽は知っていた。ずっと前から、すべて知っていた。「お姉ちゃん、今日はどこに行ってたの?」「ビザの書類を取りに」「留学の?お母さん、海外の大学に受かったのはすごいけど、学費まではうちじゃちょっと……って言ってた」美羽は食べ終えた棒をシンクに放り込み、水も流さなかった。「家から出してもらう必要はないよ」私は平坦な声で遮った。「奨学金で全部賄えるから、家のお金は一円も使わない」美羽は何か言いたそうに口を開いたが、そのとき玄関のドアが開いた。母の水野佳代(みずの かよ)が大きな買い物袋を両手に提げて入ってきた。私を見ると、にこりと笑った。「詩織、おかえり。ご飯は?」「食べたよ」「ちょうどよかった。これ、仕分けるのを手伝って。美羽が大学で使うノートパソコンや文房具、それから通学用のバッグなんかを買ってきたから、まとめておいてくれる?」床に広げられた二つの袋の中身は、どれも美羽の大学生活のために用意されたものだった。新しいノートパソコン、革張りの手帳、ブランド物のペンケース、通学用のトートバッグ、アルファベットの「L」が刺繍された化粧ポーチ。私は品物を仕分け、畳めるものは一つずつ整えて、スーツケースに隙間なく詰めていった。隣では、佳代がスマホで借りる予定の部屋の写真を見せながら、美羽と小型扇風機も必要か相談していた。私の荷物については、誰も何も言わなかった。いつ出発するのか、どの街に行くのか、どこに住むのかと尋ねる人もいなかった。「そうだ、詩織」佳代がふいに
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第2話
恩。口元がわずかに動いたが、笑い声は漏らさなかった。「分かった、お母さん」「それから」佳代は声を落とし、美羽の部屋のほうに目をやった。「向こうへ行っても、うちのことはあまり人に話さないでね。事情を知らない人に、複雑な家庭だと思われても困るから」複雑な家庭。私は、分かったと答えた。夜、自分の部屋へ戻り、鍵をかけた。4畳ほどしかない部屋には、シングルベッドと折り畳み机、小さなクローゼットしかない。隣にある美羽の部屋は、その3倍ほどの広さだった。出窓も専用の本棚もある。スマホを開き、必要なものをもう一度確認した。パスポート、ビザの申請書類、入学許可証、キャッシュカード。18歳の誕生日に自分で口座を作り、アルバイト代とコンテストの賞金を貯めてきた。残高は46万8000円。片道の航空券を買うには十分だった。書類をすべてリュックの底に入れてファスナーを閉じ、ベッドの下に押し込んだ。明かりを消して横になる。天井には、壁の隅から照明の脇まで延びる古い亀裂があった。6歳でこの家へ来たばかりの頃、ベッドに横たわり、枝分かれしたその亀裂を何度も数えた。あのとき佳代は、もう少ししたら業者を呼んで壁を塗り直し、かわいい部屋にしてあげると言った。それから12年。亀裂はまだ残っている。廊下を駆けていく美羽の足音が聞こえ、やがて部屋から友人とビデオ通話をする笑い声が響いてきた。「うん、全部お母さんが買ってくれた。洗剤までそろってるんだよ。すごくない?細かすぎて笑える」私は寝返りを打ち、壁のほうを向いた。この家で過ごすのも、あと数日だった。……「詩織、ちょっと来なさい」翌朝、水野正孝(みずの まさたか)は食卓につき、お茶漬けと漬物を前にしていた。向かいに座る美羽の前には、牛乳、目玉焼き、トースト、それに食べやすく切った果物が並んでいた。私の席には何もない。朝食がないわけではなかった。キッチンには前日のご飯と味噌汁が残っているから、自分でよそえばいい。誰かが口にしたことは一度もない。それでも、それがこの家の決まりだった。私がお椀を持って席につくと、正孝は軽く咳払いをした。「佳代から聞いた。海外へ留学するそうだな」「うん」「どこの大学で、何を学ぶんだ?」「ヘ
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第3話
靴を履いて出ようとすると、背後から佳代が付け加えた。「詩織、自分の留学用品はもう少し待ってね。今月は美羽の入学準備で出費が多いから。ビザが下りてから考えましょう」佳代に背を向けたまま、私はドアノブに手をかけた。「分かった」ビザセンターでは2時間待たされた。書類を提出すると、結果が出るまで7日から10営業日ほどかかると言われた。礼を言って建物を出ると、歩道には強い日差しが降り注いでいた。スマホが震えた。美羽から届いた商品ページだった。白いクッション入りのランニングシューズ。値段は8400円。6000円までと言われたのに、美羽が選んだのは8400円の靴だった。差額の2400円は、私が出すと分かっているからだ。いつもそうだった。佳代が予算を6000円と決め、美羽はそれより高いものを選ぶ。足りない分は私が払う。佳代は尋ねず、美羽も口にしない。それが何年も繰り返されてきた。ショッピングモールに入り、売り場で商品番号を伝えた。店員は、色あせた私のTシャツと、縁の擦り切れたキャンバススニーカーを見た。それから、私が買おうとしている真新しい靴に目を移した。「ご自分用ですか?」「人に頼まれたものです」「そうですか」会計を済ませ、袋を提げて通りかかった旅行用品売り場に、機内持ち込み用のスーツケースが並んでいた。セール品で、7600円のものが3800円になっている。私は売り場の前に10秒ほど立ち止まった。それから中へ入った。「これをください」留学のために、自分のために買った初めての品だった。家へ帰ると、美羽は私の手から靴箱を奪うように受け取り、すぐに開けた。「わあ、この靴!やっぱりお姉ちゃん、分かってる!」新しい靴に履き替えてリビングを一周すると、鏡に向かってポーズを取り、写真を撮った。「ありがとう、お姉ちゃん。いくらだった?お母さんから送ってもらうよ」「6000円」私が足した2400円には触れなかった。これまでのすべてと同じように。スーツケースはベッドの下のいちばん奥に隠し、古い服をかぶせておいた。……ビザを申請して3日目、家に客が来た。佳代の妹で、私が叔母さんと呼んでいる小林美智子(こばやし みちこ)だった。入ってくるなり、赤い包装紙に包
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第4話
「聞き分けがよすぎる子ほど、胸の内が分からないもの」キッチンでは、果物ナイフがリンゴを切る乾いた音を立てていた。リンゴを同じ大きさに8等分し、皿に並べて運んだ。「叔母さん、どうぞ」美智子は笑顔で受け取った。「まあ、ありがとう。詩織ちゃんは本当にいい子ね」一切れつまんでかじると、佳代に顔を向けた。「私なら、海外へ行く前に一筆書いてもらうけどね。ほら、お姉ちゃんと正孝さんが年を取ったときは、ちゃんと面倒を見るって――」「叔母さん」声を上げた私に、美智子は目を瞬いた。「なあに?」「リンゴ、甘い?」「……ええ、甘いわ」「よかった」私はキッチンに戻った。背後では数秒の沈黙のあと、二人がさらに小声で話し始めた。それでも、ところどころ単語だけは耳に届いた。誓約書。保証。もしものとき。育てた恩。蛇口から流れる水は冷たく、手がしびれそうだった。まな板を洗って手を拭き、勝手口から庭へ出た。夏の風にはクチナシの香りが混じり、塀にはつる草がびっしり絡みついていた。スマホが震えた。新着メールが一通。差出人は、ヘルシンキ大学の国際入学課だった。【水野様。ビザ申請に必要な書類の準備が整いましたので、お知らせいたします……】メールを二度読み、受信画面を閉じて閲覧履歴も消した。深く息を吸い、勝手口からキッチンに戻ると、もう一皿の果物を運んだ。「叔母さん、こっちもどうぞ。今日買ったメロンだよ」美智子はメロンを受け取り、佳代に向かって笑った。「ほら、こんなに気が利くじゃない」佳代も笑った。「だから言ったでしょう。詩織はちゃんと分かってるって」その夜、美羽が私の部屋をノックした。「お姉ちゃん、もう寝た?」「まだ」美羽は銀のブレスレットを手にしたまま、部屋に入ってきた。「これ、叔母さんにもらったの。かわいいでしょう?」私は一度だけ見た。「うん、かわいいね」美羽はベッドの端に座り、手首にブレスレットを当てた。「お姉ちゃん……叔母さんの言い方、ちょっとひどいと思わなかった?」「何が?」「ほら、誓約書がどうとか言ってたこと」声にはためらいがにじんでいた。「部屋にいても聞こえたの。あんなふうに言うべきじゃないと思う」私は何も言わなかった。
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第5話
美羽はひと口食べ、熱いとこぼした。佳代は食べやすいよう小皿に移し、さらにスペアリブを一切れ添えた。私の茶碗には白いご飯しかない。大したことではない。箸は手元にあり、料理は目の前にあるのだから、自分で取ればいい。ただ、最初の一口を私に取り分けようと思う人は、誰もいなかった。12年間、一度も。食事の途中で、正孝がふと思い出したように言った。「詩織。海外へ行ったら、お前の部屋を片づけて、美羽のウォークインクローゼットにしようと思っている。この子は物が多くて、今の部屋には収まりきらないからな」佳代もうなずいた。「そうね。あの部屋は狭いし、収納用にちょうどいいわ」私は口の中のご飯を飲み込んだ。「分かった」「私物は先にまとめておきなさい。あとでほかの物と一緒に捨てられても困るだろう」「うん」美羽の箸が止まり、私に目を向けた。また、あの目だった。私はうつむき、そのまま食事を続けた。食後の片づけは私がした。リビングでは、佳代と美羽がバラエティー番組を見て大声で笑っていた。正孝は書斎で電話をしている。話しぶりからすると、仕事の相談らしい。シンクの前に立ち、4人分の食器、スープ皿を二つ、鍋を一つ、蒸し器を一つ洗った。流れる水の音が、テレビの笑い声をかき消した。ポケットの中でスマホが震えた。航空会社からのメッセージだった。次の火曜日、15時30分発の便が確定したという。行き先はヘルシンキ。片道だけ。蛇口を閉め、エプロンで手を拭くと、自分の部屋に戻った。ドアを閉め、スーツケースをベッドの上で開いた。持っていくものをすべて詰め始めた。パスポート、ビザ、入学許可証、キャッシュカード、着替え、フラットシューズ、洗面用具。それから、古い缶の箱。これまでにもらった賞状や入賞通知が、すべて入っていた。全国数学コンテスト最優秀賞、地区の物理コンテスト優勝、英語スピーチ大会優勝。どれ一つ、リビングの壁に飾られたことはない。リビングの飾り棚に並んでいるのは、美羽のダンス検定の認定証、ピアノコンクールの賞状、学校からもらった表彰状だった。私のものはずっと缶の中にしまわれ、クローゼットのいちばん下に押し込まれていた。一瞬迷ったあと、缶をクローゼットに戻した。持っていかない。
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第6話
飛行機がヘルシンキ・ヴァンター空港に着陸したのは、現地時間の21時だった。それでも外はまだ明るかった。北欧の夏は日が長い。まるで昼が終わるのを惜しんでいるようだった。スーツケースを押して到着ロビーを出た。スマホの電源を入れた途端、100件を超える不在着信とメッセージが表示された。ほとんどが佳代からだった。最初の一通は、火曜日の10時3分。【詩織、どこにいるの?】10時15分。【部屋が空になってるけど、荷物はどうしたの?】10時30分には正孝からの着信。11時には佳代から4分32秒のボイスメッセージが届いていた。再生はしなかった。12時を過ぎると、メッセージの間隔が急に短くなった。【いったいどこにいるの?お母さんに電話して】【詩織、黙って出ていくなんて、あまりにも勝手でしょう。出かけるなら家族に一言くらい言うべきよ】【12年間も育ててもらって、何も言わずにいなくなるの?】14時、美羽からも届いていた。【お姉ちゃん、どこにいるの?お母さんが取り乱してる。お願いだから返事して】【お姉ちゃん?】【何かあったの?心配だよ】20時、正孝から一通だけ届いた。【水野詩織。これ以上電話に出ないなら、警察に連絡する】最後は午前2時。美羽からだった。【お姉ちゃんにも事情があるんだと思う。でも、無事だってことだけ教えてくれない?お父さんとお母さんには言わないから】すべてに目を通し、LINEを閉じた。大学から届いたメールを開き、翌日の登録手続きの時間と場所を確認した。それから機内モードに切り替え、スーツケースを引いて空港バスに乗った。3日後には、学生寮での生活もひとまず整った。機内モードを解除すると、また大量のメッセージが表示された。佳代から。【詩織がつらい思いをしていたのかもしれないとは、お母さんも分かってる。でも、何も言わずに出ていくなんて、お父さんもお母さんも傷ついたわ】正孝から。【いったいどこにいる。もう海外へ行ったのか?ビザはいつ下りた?なぜ黙っていた】美羽から。【お姉ちゃん、二人が学校まで聞きに行ったよ。ビザの準備は終わってるって言われたみたい。ずっと前から決めてたの?】美智子からも一通来ていた。【詩織ちゃん、腹を立てているのは分かるわ。でも少し
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第7話
最後まで聞き、トーク画面を閉じた。返事はしなかった。窓の外には、北欧の高く遠い空が広がっていた。淡い青の光が街全体を包んでいる。水を一杯注いで机に座り、ノートパソコンを開いた。画面が明るくなると、黒い縁に自分の顔が映った。2秒だけ、その顔を見つめた。それから履修登録のページを開いた。……ヘルシンキに来て2週間が過ぎた頃、美羽からメールが届いた。LINEではなく、メールだった。大学から発行されたばかりのアドレスで、件名は「お姉ちゃん、見て」本文は一行だけだった。【添付したのは、お父さんとお母さんから預かったもの】添付ファイルは動画だった。開かなかった。どんな内容か、見なくても分かる。佳代は目を真っ赤にして泣き、正孝は険しい顔をしながらも唇を震わせ、二人でカメラに向かって「悪かった」「帰ってきてほしい」「お前はいつまでも家族だ」とでも言っているのだろう。12年間も演じ続けてきた二人だ。そんな台詞は、とうに言い慣れている。メールは削除せず、アーカイブに移した。返事もしなかった。日々は淡々と過ぎていった。授業に出て、課題をこなし、図書館へ通い、大学の食堂で働いた。食堂には、マルタというフィンランド人の女性がいた。英語はあまり得意ではなかったが、仕事が終わるたび、売れ残ったブルーベリーマフィンを箱に詰めて私に持たせてくれた。「食べて。痩せすぎ」そう言いながら身ぶりで食べるよう促し、私の腕を指さして首を横に振った。「うん。Kiitos」フィンランド語で、ありがとうと言えるようになった。痩せすぎだからもっと食べなさいと誰かに言われたのは初めてだった。私は数秒、返事もできずにいた。あの家で佳代がよく口にしていたのは、「美羽は食が細いから、スープを温め直して持っていって」という言葉だった。私がどれだけ食べたか、どれだけ痩せたかに気づく人はいなかった。1か月後、美羽からメッセージが届いた。【お姉ちゃん、お母さんが入院した】返事はしなかった。【急性胃炎で3日間入院したの。病院でもずっとお姉ちゃんの名前を呼んでた。看護師さんにどうしたのか聞かれて、長女が海外へ行ったきり連絡が取れないって】読み終えると、スマホを机に置き、レポートの続きを書いた。15分後、ま
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第8話
家族写真を撮り終えたあと、カメラを持っていた私だけを忘れる人もいない。ここで受け取る親切には、余計なものが混じっていなかった。恩も、条件も、いつか返すよう求められる何かもない。深夜、スマホの画面が明るくなった。美羽からだった。【私、小さい頃から知ってた】【お母さんに聞いたの。お姉ちゃんが知ったら騒ぐから、絶対に言わないでって】【あの頃はまだ8歳で、それがどういうことなのか分からなかった】【大きくなるにつれて、おかしいって思うようになった。でも、もうどう切り出せばいいのか分からなくなってた】【お姉ちゃん、ごめんなさい】すべて読み終え、短く返した。【知ってたよ】スマホを置き、明かりを消した。……10月半ば、図書館で同じ国から来た留学生に出会った。返却カウンターの前で、職員に身ぶりを交えながら懸命に説明していたが、たどたどしいフィンランド語はほとんど通じていなかった。そばを通りかかった私が話を聞き、代わりに説明した。彼は心底ほっとした様子で、私に頭を下げた。「助かった、ありがとう。成瀬朔也。機械工学専攻の2年。君は?」「水野詩織。コンピューターサイエンスの1年」「フィンランド語、すごくうまいね。こっちに来てどのくらい?」「2か月」「2か月?」成瀬朔也(なるせ さくや)は感電でもしたように大げさな顔をした。「俺なんて1年半もいるのに、この前レストランで『トイレを一人前ください』って言ったんだけど」思わず吹き出した。私が笑うと、朔也もつられて笑い、スマホを取り出した。「連絡先、交換しない?こっちじゃ同郷の人も少ないし、何かあったら助け合えるから」私は一瞬ためらった。「LINEはあまり見ないけど」「じゃあ、WhatsAppでいいよ」朔也はQRコードを私の前に差し出した。屈託のない笑顔に、下心めいたものは感じられなかった。私はコードを読み取った。それからも図書館でたまに顔を合わせ、授業や課題について少し話すようになった。私が食堂で働いていると知ってから、朔也は数日おきに食べに来た。注文するのはいつも同じメニューで、そのたびマルタに、少し不自然な発音で「Hyvää」と言った。マルタはそんな朔也を面白がっていた。ある日の閉店後、私にそっと尋ね
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第9話
【美羽もね】12月、朔也に誘われて市街地のクリスマスマーケットへ行った。通りはイルミネーションに彩られ、ホットワインの香りが漂っていた。朔也が買ってくれた熱々のグロギを受け取った。カップには「Hyvää Joulua」と書かれていた。「意味、分かる?」「メリークリスマス」「正解」朔也は自分のカップからひと口飲み、白い息を吐いた。「詩織、メリークリスマス」私はカップを両手で包んだ。立ち上る湯気が頬に触れた。「朔也も。メリークリスマス」その夜、寮に戻り、美羽から届いたダウンジャケットをクローゼットに掛けた。紺や濃いグレーの服が並ぶ中で、深い赤色だけが少し浮いて見えた。けれど、暖かかった。それだけで十分だった。……冬休みも故郷へは戻らなかった。年越しの夜、寮の共同キッチンで年越しそばを作った。向かいに座った朔也は、二口ほど食べて眉を寄せた。「このつゆ、正直いまひとつだな」「文句があるなら食べなくていいよ」「食べないとは言ってない。いまひとつだって言っただけ」朔也は七味を私のほうに押した。「これ入れたら、少しはよくなる」振りかけてみると、確かにさっきよりおいしかった。テーブルに置いたスマホが明るくなった。美羽からのビデオ通話だった。一度見ただけで、応答しなかった。また画面が光った。今度はメッセージだった。【お姉ちゃん、よいお年を。これだけ伝えさせて】【今日、お母さんが食卓に一人分多く箸と器を並べたの】私はスマホを裏返した。朔也はちらりと見たが、何も尋ねなかった。他人の事情を自分から詮索しない。それが彼のいいところだった。食べ終えると、朔也は洗い物を手伝った。それからキッチンの入り口に立ち、ごく自然な口調で言った。「年越しなんだし、故郷が恋しいなら泣いたって、誰も笑わないよ」「恋しくない」「じゃあ、今のは忘れて」片手を振り、自分の部屋に戻っていった。部屋に戻って机に座り、美羽とのトーク画面を開いた。一人分多く並べた箸と器。12年間、年越しの食卓には毎年私もいた。野菜を洗い、切り、料理を運び、食卓を片づけた。最後に席につき、誰より先に立って洗い物をした。いなくなった今になって、私の分を用意するのか。【
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第10話
二人は私を愛していなかったわけではない。ただ、二人を同じように愛そうとはしなかった。一人だけ愛せば、それで十分だったのだ。私はメッセージを打った。【美羽。私が実の娘だって、何歳から知ってたの?】今度は、すぐに返事が来なかった。きっかり7分後、画面が動いた。【8歳】【お母さんから、お姉ちゃんは事故で記憶をなくしたって聞いた。家で騒がず、いい子で暮らしてもらうために、引き取った子だと言い聞かせたんだって】【誰にも言わないでって。家族みんなのためだからって言われた】【あの頃は、本当に何も分からなかった……】【今は分かる?】【……分かる】深く息を吸った。【それなら、私が帰らない理由も分かるよね】送信すると、美羽の返事を待たずにスマホを閉じ、カーテンを引いた。ヘルシンキの年越しの夜には花火が上がる。遠くで鳴る音が、窓ガラスを越えて届いた。ベッドに横たわり、美羽から届いたダウンジャケットを掛け布団の上に重ねた。暖かかった。その夜、初めて認めることにした。悲しくないわけではない。ただ、もう二人のために悲しみたくなかった。……新学期が始まって間もなく、美羽から送金があった。60万円。メモには、こう書かれていた。【お姉ちゃん。前期の奨学金とアルバイト代から貯めたお金。送り返さないで】私はそのまま返金した。美羽はもう一度送ってきた。もう一度返した。3回目は送金ではなく、メッセージが届いた。【お姉ちゃん、どうして受け取ってくれないの?お父さんとお母さんから預かったお金じゃないよ。私のお金なの】【お金には困ってないから】【でも、そっちであんなに働いてるんでしょう……】【美羽】【何?】【自分のために使って。私はいらない】美羽は、それ以上送ろうとしなかった。ところが2日後、大学の宅配ロッカーに私宛ての荷物が届いた。箱の中には、故郷のお菓子や食品が詰まっていた。しょうゆせんべい、ピリ辛のあたりめ、ヨーグルト風味のキャンディ、黒ごまオレ。それに、使い捨てカイロが一箱。メモは入っていなかった。それでも、送り状の字を見れば分かった。美羽の筆跡だった。その夜、あたりめの袋を開けた。辛さで涙がこぼれた。たぶん、辛かったせ
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