FAZER LOGIN6歳のとき、交通事故ですべての記憶を失った私・水野詩織(みずの しおり)は、身寄りのない子どもになった。 けれど幸運にも、心優しい夫婦に引き取られた。 その日から私は、この家でいちばん聞き分けのいい子になった。 妹を大切にしなさいと言われれば、何でもいちばんいいものを譲った。 勉強を頑張りなさいと言われれば、ずっと学校で首席を取り続けた。 いい子でいなさいと言われれば、自分から家事を引き受け、少しの失敗もしないよう気をつけた。 それなのに、妹はいつも不思議な目で私を見ていた。 嫌われているのだと思い、また捨てられないよう、私はますます顔色をうかがうようになった。 大学入試を終え、留学ビザの手続きに必要な戸籍関係の書類を取り寄せたときのことだった。 窓口の職員は端末を何度も確認したあと、怪訝そうに私を見上げた。 「水野詩織さんの出生届に記載されているご両親は、水野正孝さんと佳代さんです。戸籍が変更された記録もありません」 私は初めから、孤児などではなかった。 12年間、恩を返さなければと必死に生きてきた日々は、すべて両親が仕組んだ嘘の上に成り立っていた。 書類を閉じると、不思議なほど心が静まった。 両親が用意した筋書きの中で、私は血のつながらない養女なのだ。 ならば、よそ者の私が出ていくのに、誰かの許しを得る必要もない。
Ver mais「知ったら何だっていうの。知らなかったら、それでよかったの?12年の間に、一度でも間違ってると思わなかったの?一度でも、本当のことを話そうと思わなかったの?」電話の向こうで、美羽が泣き出した。「思わなかったって。話そうとしたことはあっても、真実を言えば今のバランスが崩れると思って、やめたんだって。それを毎年先延ばしにしてきた……」「私が自分で調べるまで?」「……うん」目を閉じた。「美羽」「うん」「美羽が私の妹だってことは否定しない。でも、あの家も、あの人たちも、あの12年間も、もう遠い場所に置いてきたの。美羽を憎んでるわけじゃない。でも、戻るつもりもない」電話の向こうは長い間、静まり返っていた。やがて美羽が、かすかな声で尋ねた。「お姉ちゃん。それなら……これから、たまに会いに行ってもいい?」窓の外では、夕日が地平線の向こうへ沈んでいった。長い間考えた。「いいよ。でも、美羽だけ」電話を切り、スマホを机に置いた。画面が暗くなると、自分の顔が映った。半年前、ノートパソコンの黒い縁に映った顔とは、どこか違って見えた。何が変わったのかは分からない。ただ、あの頃ほど目が空っぽではなくなっていた。8月初め、朔也がコーヒーを二つ提げ、研究室にやって来た。「詩織、ちょっと話がある」「何?」「来学期から寮を出ることにした。大学まで自転車で15分のところ。隣の部屋もちょうど空いてて、家賃も安い」朔也はコーヒーを机に置き、一つを私の前に押した。「環境を変えたいなら、考えてみない?同じ部屋じゃなくて、隣の部屋。玄関も鍵も別々だよ」私は朔也を見た。「どうして私に?」「詩織は毎日5時間しか寝てないだろ。食堂で21時30分まで働いて、それから暗い道を40分も歩いて寮へ戻る。そんな生活、続けないほうがいい」「どうして睡眠時間まで知ってるの?」「目の下のくまがどんどん濃くなってる。それに、図書館で居眠りして、職員に3回も起こされてた。この前なんて、キーボードに顔から突っ込みかけてただろ」コーヒーをひと口飲んだ。苦かった。けれど、温かい。「考えてみる」「うん。急がなくていい」朔也は立ち去ろうとして、ふと足を止めた。「そうだ。もう一つある」「何?」「昨
【本文は?】【読んでない】それ以上、美羽が尋ねることはなかった。5月のある日、食堂の営業を終えたところで、マルタに呼び止められた。「今日、詩織のことを聞きに来た人がいた」マルタは身ぶりを交えながら続けた。「同じ国から来た女の人。詩織がいつ働いているのか聞いてた」手の中の布巾を強く握った。「どんな人だった?」マルタは少し考え、自分の頭の上で手を止め、背丈を示した。「小柄で、眼鏡をかけてた。話しながら泣いてた」佳代がフィンランドまで来たのだ。3回深呼吸した。「マルタ。もしまた来たら、私はもうここで働いていないって言って」マルタは眉を寄せて私を見たものの、最後にはうなずいた。「分かった」その日は遠回りをして、いつもとは違う道から寮に戻った。公園のそばを通ると、ベンチに人が座っていた。小柄で、眼鏡をかけ、膝の上に衣類らしきものが入った袋を抱えている。佳代だった。私には気づいていない。うつむいたまま、眠っているようにも、ただぼんやりしているようにも見えた。5月のヘルシンキは夕方になるとまだ冷えるのに、佳代は薄着で、上着も肩からずり落ちかけていた。30メートルほど離れた木の陰から、10秒だけその姿を見た。それから背を向け、別の道を選んだ。……佳代はヘルシンキに5日間滞在した。毎日食堂へ来たが、そのたびにマルタが「詩織はもうここで働いていない」と説明し、帰ってもらっていた。4日目は大学の掲示板の前に午後いっぱい立ち、何かを探していたらしい。5日目に帰った。美羽からそう聞いた。【お母さん、帰ってきたよ。ひどく痩せてた。食堂の壁にお姉ちゃんの名札がまだ掛かってたから、働いてるって分かったって】【騒いだりはしなかったよ】【帰りの飛行機では、ずっと泣いてた】メッセージを読んだが、返事はしなかった。6月末、期末試験が終わった。図書館の入り口で朔也に待ち伏せされた。「成績、出たぞ。もう見た?」「見たよ」「GPAは?」「4.0」朔也は息をのみ、それから手を差し出した。「さすがだな。握手してくれ」その手を握った。大きな手のひらには、薄くたこができていた。「詩織、夏休みはどうする?帰るの?」「帰らない。こっちの夏季研究プ
二人は私を愛していなかったわけではない。ただ、二人を同じように愛そうとはしなかった。一人だけ愛せば、それで十分だったのだ。私はメッセージを打った。【美羽。私が実の娘だって、何歳から知ってたの?】今度は、すぐに返事が来なかった。きっかり7分後、画面が動いた。【8歳】【お母さんから、お姉ちゃんは事故で記憶をなくしたって聞いた。家で騒がず、いい子で暮らしてもらうために、引き取った子だと言い聞かせたんだって】【誰にも言わないでって。家族みんなのためだからって言われた】【あの頃は、本当に何も分からなかった……】【今は分かる?】【……分かる】深く息を吸った。【それなら、私が帰らない理由も分かるよね】送信すると、美羽の返事を待たずにスマホを閉じ、カーテンを引いた。ヘルシンキの年越しの夜には花火が上がる。遠くで鳴る音が、窓ガラスを越えて届いた。ベッドに横たわり、美羽から届いたダウンジャケットを掛け布団の上に重ねた。暖かかった。その夜、初めて認めることにした。悲しくないわけではない。ただ、もう二人のために悲しみたくなかった。……新学期が始まって間もなく、美羽から送金があった。60万円。メモには、こう書かれていた。【お姉ちゃん。前期の奨学金とアルバイト代から貯めたお金。送り返さないで】私はそのまま返金した。美羽はもう一度送ってきた。もう一度返した。3回目は送金ではなく、メッセージが届いた。【お姉ちゃん、どうして受け取ってくれないの?お父さんとお母さんから預かったお金じゃないよ。私のお金なの】【お金には困ってないから】【でも、そっちであんなに働いてるんでしょう……】【美羽】【何?】【自分のために使って。私はいらない】美羽は、それ以上送ろうとしなかった。ところが2日後、大学の宅配ロッカーに私宛ての荷物が届いた。箱の中には、故郷のお菓子や食品が詰まっていた。しょうゆせんべい、ピリ辛のあたりめ、ヨーグルト風味のキャンディ、黒ごまオレ。それに、使い捨てカイロが一箱。メモは入っていなかった。それでも、送り状の字を見れば分かった。美羽の筆跡だった。その夜、あたりめの袋を開けた。辛さで涙がこぼれた。たぶん、辛かったせ
【美羽もね】12月、朔也に誘われて市街地のクリスマスマーケットへ行った。通りはイルミネーションに彩られ、ホットワインの香りが漂っていた。朔也が買ってくれた熱々のグロギを受け取った。カップには「Hyvää Joulua」と書かれていた。「意味、分かる?」「メリークリスマス」「正解」朔也は自分のカップからひと口飲み、白い息を吐いた。「詩織、メリークリスマス」私はカップを両手で包んだ。立ち上る湯気が頬に触れた。「朔也も。メリークリスマス」その夜、寮に戻り、美羽から届いたダウンジャケットをクローゼットに掛けた。紺や濃いグレーの服が並ぶ中で、深い赤色だけが少し浮いて見えた。けれど、暖かかった。それだけで十分だった。……冬休みも故郷へは戻らなかった。年越しの夜、寮の共同キッチンで年越しそばを作った。向かいに座った朔也は、二口ほど食べて眉を寄せた。「このつゆ、正直いまひとつだな」「文句があるなら食べなくていいよ」「食べないとは言ってない。いまひとつだって言っただけ」朔也は七味を私のほうに押した。「これ入れたら、少しはよくなる」振りかけてみると、確かにさっきよりおいしかった。テーブルに置いたスマホが明るくなった。美羽からのビデオ通話だった。一度見ただけで、応答しなかった。また画面が光った。今度はメッセージだった。【お姉ちゃん、よいお年を。これだけ伝えさせて】【今日、お母さんが食卓に一人分多く箸と器を並べたの】私はスマホを裏返した。朔也はちらりと見たが、何も尋ねなかった。他人の事情を自分から詮索しない。それが彼のいいところだった。食べ終えると、朔也は洗い物を手伝った。それからキッチンの入り口に立ち、ごく自然な口調で言った。「年越しなんだし、故郷が恋しいなら泣いたって、誰も笑わないよ」「恋しくない」「じゃあ、今のは忘れて」片手を振り、自分の部屋に戻っていった。部屋に戻って机に座り、美羽とのトーク画面を開いた。一人分多く並べた箸と器。12年間、年越しの食卓には毎年私もいた。野菜を洗い、切り、料理を運び、食卓を片づけた。最後に席につき、誰より先に立って洗い物をした。いなくなった今になって、私の分を用意するのか。【