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第164話

Author: 幸月
「……もう少しかかりそうです」

杏奈はズキズキと痛むこめかみを指で揉みほぐした。昨日、あの退屈で無意味なパーティーで時間を無駄に消費していなければ、今頃はとっくに完成していたかもしれない。

「焦らなくていいよ」裕司は彼女に余計なプレッシャーをかけないよう、穏やかな声でフォローした。「展示会本番までは、まだあと二日ある。それまでに仕上げてくれれば十分だ」

ルミエールの宣伝チームは、既に万全の態勢を整えて待機している。彼女の作品が完成し次第、すぐにその至宝にふさわしい、完璧なストーリーラインを紡ぎ上げることができるのだ。

「分かりました」杏奈は小さく頷き、食事のペースを少しだけ上げた。

しばらくして二人は会社へと戻り、杏奈はそのまま脇目も振らずアトリエへと飛び込んだ。

再びアトリエから出てきた時には、窓の外はもうすっかり暗くなっていた。

「先輩」杏奈は、出来上がったばかりの作品を大切に両手で抱え、社長室を訪ねた。「ようやく、完成しました」

「ご苦労様。ここに置いておいてくれ。展示会当日のセッティングは、俺が直接手配するから」

裕司は彼女から受け取り、金庫へ丁寧に収めた。

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