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叶わなかった願い、待ち人は来なかった

叶わなかった願い、待ち人は来なかった

Oleh:  ベリーラディッシュTamat
Bahasa: Japanese
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母は末期がんだった。最後の願いは、一度でいいから、私がウェディングドレスを着た姿を見ること。 私は恋人の賀川清人(かがわ きよと)と親友の佐倉遥(さくら はるか)に何度も何度も頭を下げた。しつこいくらい頼み込んで、ようやく二人は、母の最期の願いを叶えるための「偽の結婚式」に付き合ってくれることになった。 結婚式当日、母は最後の力を振り絞って待ち続けた。目が虚ろになるまでずっと。 それなのに清人は来なかった。付き添いを頼んでいた遥も来なかった。 そんな中、遥がSNSに写真を投稿した。 新郎衣装を着た清人と、ドレスアップした遥。二人はケーキを前にして、まぶしいほど楽しそうに笑っていた。 【親友の結婚式、緊張しすぎて無理!新郎さんがわざわざ街の反対側までケーキを買いに付き合ってくれた!こんな優しい彼氏がいるなんて、寧々は幸せ者だね】 位置情報には、人気のケーキ店の名前が表示されていた。 私は震える手で電話をかけた。問い詰めると、清人は悪びれもせず、軽い口調で言った。 「お前のお母さんの願いを叶えるためなんだろ?遥が緊張してたから、ちょっと気分転換させてただけ。そっちのほうが本番もうまく演じられるだろ」 すると遥まで電話口に割り込んできて、笑いながら言った。 「そうだよ寧々。ちょっとからかっただけ。すぐ戻るって。先生にももう少し待っててもらってよ」 その瞬間ようやくわかった。私が必死になって何度も頭を下げたことも、母の最期の願いも。 母の教え子であるこの二人にとってはどうでもいい、ただの冗談だったのだ。 私は一直線になった心電図を見つめた。涙で何も見えなくなった。 こんな馬鹿げたことは終わりにしよう。今後はもう私は一人でいい。 これからは二人とは関わらない。そして私自身もようやく解放してあげることにした。

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Bab 1

第1章

病院で必要な手続きをすべて終え、私は急ごしらえの小さな式場へ戻った。

招待客はとっくに一人残らず帰っていた。

正面の壁には、大きな紅白の飾りが貼られている。昨夜、私が一つずつ飾ったものだ。

母は言っていた。

「お祝いの飾りは、曲がらないようにちゃんと貼るのよ。そうすれば、これからの人生もうまくいくから」

テーブルには、母が選んだウェディングケーキが残されていた。時間が経ち、クリームは少し溶けて崩れている。

ぐちゃぐちゃになったその姿は、今の私の心そのものに見えた。

ウェディングドレスを脱ぎ、何も考えられないまま後片付けを始める。

半分ほど片づけた頃、ようやく清人と遥が姿を現した。

二人の手には、あの人気ケーキ店の紙袋が提げられていた。

「寧々、お待たせ!先生のために低糖質のケーキを選んできたの。ここの一番人気で……」

明るく響いていた遥の声が途中で止まった。閑散とした会場を見回し、驚いた顔をする。

「みんなは?結婚式やるんじゃなかったの?なんで誰もいないの?」

清人も眉をひそめた。

「寧々、遥が聞いてるだろ。みんなどこに行ったんだよ?」

私は答えなかった。

さすがに何かがおかしいと感じたのか、遥が恐る恐る取り繕うように言った。

「寧々、もしかして先生、怒ってる?ごめんね。私がちゃんと時間を考えてなかったせいだよ。清人も、私のケーキ選びに付き合ってくれたから遅くなっただけで……」

遥が言い終えるより先に清人が口を挟んだ。だが私ではなく、遥を慰める。

「遥が気にすることないって。先生はあんなに優しい人なんだから、事情を知ったって俺たちを責めたりしないよ」

その一言が、針のように胸へ突き刺さった。目の奥が熱くなる。

母が清人を責めるはずなんてない。

最期の瞬間まで、二人が来ない理由を代わりに考えてあげていたくらいなのだから。

十年前、清人の両親が離婚騒ぎを起こし、誰も彼の面倒を見ていなかった頃のことだ。

清人は胃に穴が開くほど体調を崩し、激痛で意識を失った。

大雨の中、彼を病院まで運んだのは母だった。

病院では最初に入院保証金を求められた。母は迷うことなく、自分の給料二か月分を立て替えた。

それでも清人に負い目を感じさせたくなかったのだろう。母は笑って言った。

「私はあなたの先生なんだから、これくらい当然よ。そんなに気にしないの。清人くんは将来、大物になるんだから。そのときに返してくれればいいわ」

病室のベッドに横たわった清人は、母の手を握りしめて、長いこと泣いていた。そして必ず一生かけて恩返しすると誓った。

それから清人は、頻繁にうちへ顔を出すようになった。

年末年始やお盆など、節目の日には真っ先にやって来る。母が病気になったときには、私以上に慌てていたほどだ。周囲からも、本当の息子みたいに親孝行だと褒められていた。

なのに、母のための最後の芝居だけは、まともに演じてくれなかった。

私は脱いだウェディングドレスを椅子の上に放った。

自分のものとは思えないほど、かすれた声が出る。

「結婚式はもうやらない。これから先もする必要はないから」

清人は一瞬、呆気に取られた。だがすぐに顔を冷たく歪め、鼻で笑った。

「寧々、どういう意味だよ?」

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第1章
病院で必要な手続きをすべて終え、私は急ごしらえの小さな式場へ戻った。招待客はとっくに一人残らず帰っていた。正面の壁には、大きな紅白の飾りが貼られている。昨夜、私が一つずつ飾ったものだ。母は言っていた。「お祝いの飾りは、曲がらないようにちゃんと貼るのよ。そうすれば、これからの人生もうまくいくから」テーブルには、母が選んだウェディングケーキが残されていた。時間が経ち、クリームは少し溶けて崩れている。ぐちゃぐちゃになったその姿は、今の私の心そのものに見えた。ウェディングドレスを脱ぎ、何も考えられないまま後片付けを始める。半分ほど片づけた頃、ようやく清人と遥が姿を現した。二人の手には、あの人気ケーキ店の紙袋が提げられていた。「寧々、お待たせ!先生のために低糖質のケーキを選んできたの。ここの一番人気で……」明るく響いていた遥の声が途中で止まった。閑散とした会場を見回し、驚いた顔をする。「みんなは?結婚式やるんじゃなかったの?なんで誰もいないの?」清人も眉をひそめた。「寧々、遥が聞いてるだろ。みんなどこに行ったんだよ?」私は答えなかった。さすがに何かがおかしいと感じたのか、遥が恐る恐る取り繕うように言った。「寧々、もしかして先生、怒ってる?ごめんね。私がちゃんと時間を考えてなかったせいだよ。清人も、私のケーキ選びに付き合ってくれたから遅くなっただけで……」遥が言い終えるより先に清人が口を挟んだ。だが私ではなく、遥を慰める。「遥が気にすることないって。先生はあんなに優しい人なんだから、事情を知ったって俺たちを責めたりしないよ」その一言が、針のように胸へ突き刺さった。目の奥が熱くなる。母が清人を責めるはずなんてない。最期の瞬間まで、二人が来ない理由を代わりに考えてあげていたくらいなのだから。十年前、清人の両親が離婚騒ぎを起こし、誰も彼の面倒を見ていなかった頃のことだ。清人は胃に穴が開くほど体調を崩し、激痛で意識を失った。大雨の中、彼を病院まで運んだのは母だった。病院では最初に入院保証金を求められた。母は迷うことなく、自分の給料二か月分を立て替えた。それでも清人に負い目を感じさせたくなかったのだろう。母は笑って言った。「私はあなたの先生なんだから、これくらい当然よ。そんなに
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第2章
「今度は結婚式を盾に俺を脅すつもりか?ちゃんと戻ってきて、芝居にも付き合おうとしてるだろ。何が不満なんだよ」私は静かに答えた。「別に何も。ただもう芝居をする必要はないって言ってるだけ」清人の顔色が一気に変わった。胸につけていた新郎用のブートニアを乱暴にテーブルへ叩きつける。「わかったよ!やらなくていいならやらないさ!そもそもこの結婚式は偽物だろ。先生に見せたいって、お前が俺に頼み込んできたんじゃないか。自分から中止したんだから、あとで泣きついてきても知らないからな」遥が慌てて清人の腕をつかんだ。「清人、寧々にそんな言い方しないで」それから私を見る。その目はもう赤く潤んでいた。「寧々、そんなふうにならないでよ。清人も言い方はきついけど、あの性格なのは知ってるでしょ?ちょっと優しく言ってあげなよ。それで済む話なんだから」これまで喧嘩をするたび、悪いのが私でなくても、最後に折れるのはいつも私だった。清人が機嫌を悪くすれば、清人の好きな食べ物を買っていった。メッセージを無視されれば、会社の前で帰ってくるのを待った。心が狭いと言われれば、気にしていないふりをして、何度も自分の物分かりのよさを証明しようとした。目の前でわざと遥と親しげにされても、何も言わなかった。でも今回はもう本当に疲れた。私は淡々と言った。「帰るならさっさと帰って」清人は怒りをあらわにし、遥の腕を振り払うと、そのまま振り返りもせず出ていった。遥も彼を追いかけようとしたが、扉を出る直前に一度だけ私を振り返った。「寧々、本当にがっかりした。こんな些細なことで、そこまで怒るなんて。先生が今の寧々を見たら、きっと悲しむよ」扉が閉まる。会場は再び静まり返った。入口に飾られた結婚式用の写真を見つめると、たまらなく滑稽に思えた。二人は知らない。母はもう悲しむことさえできないのだ。すべての後片付けを終えた頃には、もう外は暗くなっていた。私は雑貨や荷物を詰め込んだ袋を抱え、清人と二人で暮らしている家へ戻った。スマホを開くと、遥がSNSを更新していた。9枚の写真がまとめて投稿されている。【今日は一日、仕方なくサービスしてきました。親友の結婚式はなくなっちゃったけど、せっかくの衣装を無駄にするのももったいないしね】一枚目
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第3章
私は遥の投稿に「いいね」を押した。数分もしないうちに遥から電話がかかってきた。どこか後ろめたそうな声だった。「寧々、投稿見た?勘違いしないでね。ただふざけて写真を撮ってただけだから」私は何も答えなかった。遥は慌てて言葉を続ける。「大丈夫。先生には見えないようにしてあるから」母が見たら何か思うかもしれない。そのことくらいは、遥にもわかっていたらしい。でも遥は知らない。母はもう二度と何かを見ることはできない。電話の向こうで、遥はまだ話し続けていた。「寧々、清人と意地を張り合うのはやめなよ。私からもちゃんと言っておいたから。今度はもっといい会場を探そう。それで絶対、先生の願いを叶えようよ。先生は私にとってもすごく大切な人だもん」その言葉を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。息をするのさえ苦しかった。遥も母の教え子だった。遥の家は息子ばかりを可愛がり、娘である遥にはまともに食事すら与えないことがあった。母は何度も、誰にも知られないように遥のICカードへお金を入れていた。高校三年生の頃、家族から学校を辞めて働けと言われた遥のために、母は三度も彼女の家へ足を運んだ。遥の代わりに怒って、頭を下げて、必死に家族を説得した。そうしてようやく、遥は学校に通い続けることができたのだ。あの日、遥は母に抱きついて泣いていた。「先生……先生のほうが、私の本当のお母さんみたい」そう言っていた。なのに今、母が娘のように可愛がってきた遥は、私が用意したブライズメイドのドレスを着て、私の恋人と丸一日遊び歩いていた。そして、母に見えなければいいだろう、と言う。遥の声はまだ止まらない。「寧々、考えすぎだよ。コメントしてる人たちだって、ただふざけてるだけじゃん。嫌なら投稿は消すから。でも清人とは喧嘩しないで。今日はもう、清人もすごく疲れてるんだから」目の奥がひどく痛んだ。もうこれ以上彼女の一方的な言い分を聞いていたくなかった。私はそのまま電話を切った。ソファに座り、母が残したわずかな遺品を眺める。声すら出ないほど泣いた。どれくらい経ったのだろう。再びスマホの画面が光った。清人からだった。【気が済んだなら、帰ってきて謝れ】【遥が泣いてる。せっかくお前を慰めようとしてくれたのに、その態度はないだろ】
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第4章
突然、玄関の鍵が開く音がして、私は我に返った。清人が帰ってきた。その後ろには遥もいる。家に入った清人の視線が、真っ先に私のスーツケースへ向かった。途端に顔が険しくなる。「寧々、今度は何のつもりだ?先生が危篤だっていうのに、家出なんかしてる場合かよ」清人の後ろに立つ遥は、目を真っ赤にしていた。傷ついたような顔で私を見る。「寧々……私に何か不満でもあるの?だったら、その話はあとにしようよ……今は怒ってる場合じゃないでしょ。先生の体がどんな状態か、寧々だってわかってるよね。今は先生のことが一番大事なんだから」喉の奥に綿でも詰め込まれたようだった。今になって母が大事だと言うの?それなら昨日は、どうして二人とも連絡すらつかなかったのだろう。なのに今では、まるで私のほうが、わがままを言って周囲を困らせている悪役のようだった。遥が近づき、私の手を取ろうとした。私は避けた。すると彼女の目はさらに赤くなり、声まで震え始める。「寧々……写真のことで怒ってるんだよね?本当にごめんなさい。これからは清人とちゃんと距離を置くから。でも今は、本当に意地を張ってる場合じゃないよ。先生は体調が悪いんだから。寧々と清人がこんなことになってるって知ったら、どれだけ悲しむと思う?」胸の奥がずきりと痛んだ。悲しむ?母が人生で一番悲しかったのは、最後の息を引き取るその瞬間まで、二人を待っていたあのときだ。私は冷めた声で言った。「謝らなくていい。お母さんのことも二人には関係ないから」清人が鼻で笑った。私の前まで歩いてくると、遥をかばうように自分の背後へ下がらせる。「関係ない?先生は俺の将来の義母で、俺の恩師でもある。俺が心配して何が悪いんだよ」私は荷造りの手を止めた。まっすぐ清人を見つめる。「今になって思い出したの?お母さんがあなたの将来の義母だって。昨日、お母さんがあなたを待っていたとき、どこにいたの?最後に一度、あなたからお母さんって呼んでもらいたいって願っていたとき、あなたはどこにいたの?」清人の顔色が変わった。声が一段高くなる。「寧々、お前、いちいちそんな嫌味ったらしい言い方しかできないのか?言っただろ。俺は遥と先生のケーキを買いに行ってただけだ。戻らないなんて一言も言ってない。それをお前が勝手に大騒ぎして
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第5章
【清人くんへ。先生にはもう、この世に心残りはほとんどありません。ただ、寧々のことだけが心配です。あの子は小さい頃から父親がいなくて、普段は明るくて何でも平気そうに見えるけれど、本当は誰よりも一人になることを怖がっています。清人くんは落ち着いた子だから、寧々が意地を張っているときには、少し優しくしてあげてね。まともに張り合ったりしないで。これからは先生の代わりに、寧々を大切にしてあげてください】その下には、少し薄くなった字で、もう一つメッセージが続いていた。【遥ちゃんへ。先生からあなたにも、一つお願いがあります。寧々は頑固そうに見えるけれど、本当はとても優しい子です。あなたと寧々は、本当の姉妹みたいでしょう?先生がいなくなっても、二人ともずっと仲良くしていてね。そうすれば、先生も向こうで安心できます】ぽたりと涙が便箋の上に落ちた。もうそれ以上読むことができなかった。母は最後の最後まで、清人のことを信じていた。私と遥のことを心配していた。そして私を清人に託そうとしていた。でも母は知らなかった。託す相手を間違えていたことを。まだ気持ちの整理すらつかないうちに、廊下の向こうから清人と遥が慌ただしく歩いてくるのが見えた。清人の顔には苛立ちが浮かんでいた。私を見つけた途端、大股で近づいてくる。「寧々、お前いったい何したんだよ?先生まで電話に出ないじゃないか。先生に何を言った?」後ろからついてきた遥も、私を責めるような顔をしていた。「寧々、私たちに怒ってるのはわかるよ。でも先生は今あんな状態なんだから、余計な心配をかけちゃだめでしょ?会場だって、もう別のところを押さえたの。今度は絶対に失敗しないから。私たちだって、本気で先生の願いを叶えたいと思ってるんだよ」私が何も答えないでいると、清人はいっそう苛立った。「そんな顔するなよ。昨日だって俺から折れてやったのに、お前が勝手に騒ぎ続けたんだろ。今度は病院に逃げ込んで、先生に味方してもらうつもりか?寧々、いい加減もう少し大人になれよ」私は清人を見つめた。途端にどうしようもなく疲れた。説明することすらもう面倒だった。口元に自嘲めいた笑みが浮かぶ。そして静かに言った。「清人。お母さんは死んだよ」廊下が一瞬、しんと静まり返った。清人の顔からさっ
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第6章
清人は医師を見て、それから私を見る。唇を何度も動かしたが、結局、一言も出てこなかった。遥の頬にはまだ涙が残っていた。まるで時間が止まったように、その場で固まっている。しばらくして、ようやく震える声で尋ねた。「あの、何かの間違いじゃないですか?先生は昨日まで、ちゃんと生きてたんです」医師は眉をひそめた。「患者さんがお亡くなりになったのは、昨日の午後3時47分です。ご家族もずっとそばにいらっしゃいました。間違えるはずがありません」午後3時47分。その頃二人はケーキ店で写真を撮っていた。母は弱々しい手で私の手を握り、不安そうにしていた。視線はずっと病室の入口へ向けられていた。「清人くんと遥ちゃんは、もうすぐ来る?」私は何度も母に嘘をついた。もうすぐ来るよ。今向かってるよ。大丈夫だよ。けれど結婚式が始まるはずだった時間から、病院に戻ってきて、母が最後の息を引き取るまで、二人には一度も連絡がつかなかった。清人の体が大きく揺れた。顔には困惑と恐怖が浮かんでいる。「嘘だ……そんな……俺、昨日の夜にも先生に電話したんだぞ。ただ、出なかっただけで……」私は清人を見つめ、静かに言った。「もう自分を騙すのはやめたら?死んだ人が電話に出るわけないでしょ」その瞬間、清人の顔が真っ白になった。体からすべての力が抜けたように、壁に手をつかなければ立っていられなくなる。突然、遥が声を上げて泣き始めた。口元を両手で覆い、何度も首を横に振る。「そんなの嘘……先生が死ぬわけない……寧々、嘘だって言ってよ。お願いだから、嘘だって……」泣き崩れる遥を見ても、胸がすっとすることはなかった。ただ言葉では表せないほど疲れていた。「遥、これでもう安心できるね。お母さんは二度とあなたのSNSを見ることはないから」遥の泣き声がぴたりと止まった。顔から完全に血の気が引いていく。清人が勢いよく顔を上げた。その瞳には焦りしかなかった。「俺は知らなかった……本当に、先生がこんなことになるなんて……」最後まで言わせず、私は持っていた封筒を清人の胸へ投げつけた。「お母さんが結婚式であなたたちに読むつもりだったものよ。死ぬ直前まで二人を待ってたのよ」封筒から便箋が滑り落ち、ひらひらと床へ落ちた。清人がしゃがんで拾う
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第7章
「先生のことは、俺も一緒にやる。俺は先生の教え子だ。せめて最後くらい、ちゃんと見送りたい」私は目尻の涙を拭い、冷たく笑った。「あなたにその資格があると思ってるの?」清人の指を一本ずつ、自分の腕から外していく。「昨日、お母さんがあなたの新郎姿を待っていたとき、あなたは遥のドレスの裾を持ってた。お母さんが最後に一度あなたから、お母さんって呼ばれたいと思っていたとき、あなたは遥とカップル写真を撮ってた。死んでから見送りたいなんて、自分で気持ち悪いと思わない?」清人の手が力なく垂れた。完全に打ちのめされたようだった。すると遥が床を這うようにして近づき、私のスカートの裾をつかんだ。「寧々……ごめんなさい。本当に、本当に私が悪かった。先生にちゃんと謝る。何度でも頭を下げる。許してもらえるまで謝るから。何でもする。寧々が言うことなら何でもするから……」私は遥を見下ろした。昔は同じベッドで眠ったこともある。泣きながら、一生寧々のそばにいる、とそう言ってくれた親友だった。その人が今は、みっともないほど泣き崩れ、私の前に跪いている。それでも心は少しも動かなかった。「遥。お母さんは生きてる間、あなたを誰より可愛がってた。一度だって、恩返ししてほしいなんて言わなかった。私はただ一回だけ、お母さんを安心させるために、一緒に嘘をついてほしいって頼んだだけだった」そこで言葉が詰まった。声がどんどんかすれていく。「なのにあなたはその嘘すら、最後までちゃんとついてくれなかった」遥は顔を覆い、息ができなくなりそうなほど泣いた。「知らなかった……こんなことになるなんて、本当に知らなかったの……」「知らなかった?」笑ったはずなのに、涙があふれた。「何回も頼んだよね。お母さんにはもう時間がないって言った。これが最後の願いだって、何度も言った。二人ともちゃんと聞いてたでしょ?知らなかったんじゃない。大事だと思ってなかっただけ」二人はもう何も言えなかった。私は診察室へ入り、書類に署名した。ペン先が紙の上を滑る間、手はずっと震えていた。これが母がこの世界に残した最後のものになる。一枚の死亡診断書。母の葬儀は三日後に行うことになった。大勢に知らせるつもりはなかった。母は目立つことを好まなかった。何より
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第8章
清人の顔は真っ青になった。手にしていた白菊の花束が床へ落ち、花びらがあたりに散らばった。突然、遥がその場に跪いた。「寧々、お願い。中に入れて。先生にちゃんと頭を下げて謝りたい。本当に、自分が悪かったってわかってるから」私は彼女を見下ろした。「私に跪かないで。汚らわしいから」遥の体が大きく震えた。涙が床へ落ちていく。「わざとじゃなかったの。あの日、本当に私はただ……」「ただ、何?ただ清人に一緒にいてほしかっただけ?ただブライズメイドのドレスを着て、写真を撮りたかっただけ?ただ私が惨めになるところを見たかっただけ?」遥は口を開いたが、何も言えない。その目が一瞬だけ、明らかに泳いだ。その瞬間、私は突然理解した。もしかしたら遥は、本当に何もわかっていなかったわけではない。ただ慣れていたのだ。自分が泣けば、清人が必ず味方してくれることに。「わざとじゃなかった」と一言言えば、私が波風を立てないために我慢することに。あの日がどれほど大切だったのか、知らなかったわけではない。ただ最後には、私が許してくれると思っていただけ。今までと同じように。私は口元をわずかに歪めた。「遥。あなたは頭が悪いんじゃなくて、性格が悪いだけ」遥の顔が一瞬で真っ白になった。周囲からひそひそと話す声が聞こえてくる。「あの子が例の付き添いの子?」「結婚式の日に来なかったっていう?」「夏目先生、あんなに重い病気だったのに……」「ひどい話ね……」遥は俯いた。肩が激しく震えている。清人が遥を支えようと手を伸ばしたが、途中でその手が止まった。初めて清人は遥を真っ先にかばわなかった。ただ私を見つめる。その目には縋るような色しかなかった。「寧々、中に入れてくれ。一度だけでいい」私は首を横に振った。「すみません、この二人を外へお願いします」葬儀場のスタッフがこちらへやって来た。清人は抵抗しなかった。外へ連れていかれながら、何度も何度も振り返って祭壇を見ていた。まるでようやく気づいたかのようだった。一度入り損ねた扉には、もう一生、入れないことがあるのだと。葬儀を終えたあと、私は母の遺骨を抱えて墓地へ向かった。小雨が降っていた。細い雨粒が黒い傘を叩く音は、とても静かだった。骨壺を墓へ納め
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第9章
スマホの画面は何度も光った。すべて清人からのメッセージだった。【寧々、ごめん】【許してくれなんて言わない】【せめて先生のために何かさせてくれ】【治療費も、お墓の費用も、その後のことも、全部俺がやる】【お願いだから一人で抱え込まないでくれ】私は一通も返さなかった。やがて電話までかかってくるようになったので、そのまま清人をブロックした。翌朝,インターホンが鳴った。扉を開けると、玄関先に朝食と一枚のメモが置かれていた。清人の字だった。【胃が弱いんだから、ちゃんと何か食べろ】その文字を見つめていると、なぜか笑いたくなった。私の胃が弱いことくらい、清人は当然知っている。大学時代、清人の起業を手伝うため、私は一日一食で過ごすことも珍しくなかった。ある日、胃が痛すぎてその場にしゃがみ込み、立てなくなったことがある。あのとき清人は私を抱えて病院へ連れていき、目を真っ赤にしながら言った。「これからは俺が一生、寧々のことを大事にする」だが仕事が忙しくなるにつれ、起業は大変なんだ、お前も少しは理解してくれ、とそう言うようになった。私が胃が痛いとメッセージを送っても、返ってくるのはたった一言だけ。【自分で何かデリバリー頼めば?】なのに遥が、街の反対側にある店の麺が食べたい、と一言言えば、車で三十分かけて買いに行く。清人は人の面倒を見ることができないのではなく、誰にしてあげたいかが違ったのだ。私は朝食もメモもまとめてゴミ箱へ捨てた。その日の昼、今度は遥がやって来た。髪は乱れ目は赤く腫れている。両手には小さな箱を抱えていた。「寧々、これ、昔先生からもらったペンなの。ずっと大事にしてた。寧々に返したくて」私は受け取らなかった。「お母さんが遥にあげたものなら遥のものだから。私はいらない」遥の目からまた涙があふれた。「そんなこと言わないで、私、本当にもう耐えられない。この数日、目を閉じるたびに、病室で私たちを待ってる先生が見えるの。遥ちゃんって呼ぶ声まで聞こえる。本当に後悔してるの」私は静かに彼女を見つめた。「じゃあそのまま苦しめばいい」遥が固まった。私は続ける。「後悔するのはあなたの勝手でしょ。それを私に押しつけないで」遥の唇から血の気が引いた。「寧々、私たち、何
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第10章
私は扉を開けなかった。すると清人は外から何度も何度も私の名前を呼んだ。「寧々、俺は知らなかったんだ。遥がわざとやったなんて、本当に知らなかった。ただ怖がってるだけだと思ってた。少しくらい遅れても、まだ間に合うと思ってたんだ。俺が悪かった。本当に……俺が悪かった」声は次第にかすれていった。最後にはほとんど泣きながら叫んでいた。「扉を開けてくれ。怒鳴ってもいい。殴ってもいい。お願いだから、無視しないでくれ……」私は扉の内側に座っていた。腕の中に母のアルバムを抱えたまま一歩も動かなかった。外からは清人が必死に声を殺して泣く音が聞こえた。清人がこんなふうに泣くのを私は初めて聞いた。昔からプライドの高い人だった。どれほど苦しいときでも、目を赤くして歯を食いしばり耐えていた。以前清人は、泣いたって何も変わらない、前を向くしかない、とも言っていた。その清人が今は、見捨てられた子供のように泣いている。それでも私は扉を開けなかった。母が死んだとき、私だって、同じくらい心細かったから。清人に30回近く電話をかけた。10通以上メッセージを送った。それなのに返事は一度もなかった。あとになって知った。その頃清人は遥の写真を撮っていた。スマホの通知は全て切っていたらしい。だから今はもう、私も清人の声を聞きたくなかった。翌日、清人は自分のSNSの投稿をすべて消した。残したのは一つの謝罪だけだった。【先生、ごめんなさい。先生の期待を裏切りました】コメント欄には、何があったのか、といった書き込みが相次いだ。やがて誰かが、あの日に遥が投稿した写真のスクリーンショットを載せた。話はあっという間に広まった。二人の共通の友人たちも騒然となった。遥を最低だと責める人、清人を恩知らずだと罵る人、私に個人的に連絡してきて、何かできることある?と聞いてくる人までいた。私は誰にも返事をしなかった。今さら向けられる正義なんて。私にはもう何の意味もなかった。遥の会社にもこの一件は伝わったらしい。遥は一時的に仕事を外され、社内で事情を確認されることになった。その日、遥は職場で泣きすぎて倒れたという。意識を取り戻してすぐに一言つぶやいた。「先生に会いに行かなきゃ」だがもう誰も彼女に同情しなかった。遥は昔から人当たりだけ
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