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かつて秘めた恋心

かつて秘めた恋心

By:  恙なしCompleted
Language: Japanese
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「今回の政略結婚は、私が行きます」 沢城絵理奈(さわしろえりな)がそう告げると、会議室に息を呑む音が響いた。 「ふざけるな!」 父親が真っ先にテーブルを叩いた。 沢城家には四人姉妹がおり、絵理奈は末っ子で、家族全員から最も愛されて育った。 幼い頃から欲しいものは何でも手に入れ、役員会の頭の固い年寄りたちでさえ、彼女には甘かった。 「今回の縁談は地獄へ身を投げるようなことだ。お前をそんな場所に追いやるわけにはいかん!速水のところの若いのとさっさと、そうだな、数日中にでも婚約を……」 「お父様」 絵理奈は父の言葉を遮った。 「和己が今日ここに来なかった。それが答えよ。彼に私と結婚する気がないのなら、待つ必要はありません」 父親の顔色が変わった。 「絵理奈くん、我々も方策は考える。だが、相手の周防家は人を食い物にするような連中だ。周防家の当主は、前の婚約者二人がどちらも精神病院送りになっているんだぞ!」

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Chapter 1

第1話

「今回の政略結婚は、私が行きます」

沢城絵理奈(さわしろえりな)がそう告げると、会議室に息を呑む音が響いた。

「ふざけるな!」

父親が真っ先にテーブルを叩いた。

沢城家には四人姉妹がおり、絵理奈は末っ子で、家族全員から最も愛されて育った。

幼い頃から欲しいものは何でも手に入れ、役員会の頭の固い年寄りたちでさえ、彼女には甘かった。

「今回の縁談は地獄へ身を投げるようなことだ。お前をそんな場所に追いやるわけにはいかん!速水のところの若いのとさっさと、そうだな、数日中にでも婚約を……」

「お父様」

絵理奈は父の言葉を遮った。

「和己が今日ここに来なかった。それが答えよ。彼に私と結婚する気がないのなら、待つ必要はありません」

父親の顔色が変わった。

「絵理奈くん、我々も方策は考える。だが、相手の周防家は人を食い物にするような連中だ。周防家の当主は、前の婚約者二人がどちらも精神病院送りになっているんだぞ!」

役員の一人が前に出て、必死に説得を試みるが、絵理奈はただスマートフォンの画面を見つめ、無意識に指先でなぞっていた。

彼女がかけた電話は一件も繋がらず、二十数件のメッセージもすべて未読のままだった。

五日前、速水和己(はやみかずみ)は今日の役員会に出席し、彼女にはっきりとけじめをつけると約束した。

だが、会議が始まって二時間が経つというのに、彼の姿はおろか影さえも見えない。

絵理奈はそっと目を閉じ、自嘲気味に笑った。

「分かっています……でも、沢城グループは今、資金繰りが悪化し、周防グループから敵対的買収を仕掛けられています。もしこの縁談を受けなければ、沢城家が築き上げてきたもの全てが、水の泡と消えてしまう」

「あなたにはお姉さんたちがいるじゃない。末のあなたが出ていく番じゃないわ」

三番目の姉が目を赤くしながら立ち上がって言った。

「一番上のお姉様は離婚したばかりで心を痛めている。二番目のお姉様は先天性の喘息で体が弱い。そして三番目のお姉様は……」

絵理奈は赤くなった目で一同を見渡した。

「あなたの会社が上場を控えた大事な時期よ。私だけが、一番適任なの」

父親は深くため息をつき、まるで一瞬で十歳も老け込んだかのようだった。

「絵理奈、これは遊びじゃないんだぞ。一度契約書にサインしたら、もう後戻りはできないんだ……」

絵理奈は何も言わず、契約書を引き寄せると、真剣な面持ちで自分の名前をサインした。

会議室は水を打ったように静まり返った。

会社を出ると、彼女はようやく長い息を吐き出した。

その瞬間、彼女はどこか肩の荷が下りたような気分だった。

これでもう、和己の背中を見つめ、彼が振り返ってくれるのを待つ必要はなくなるのだと、彼女は思った。

絵理奈が当てもなく歩いていると、聞き覚えのある声が現実に引き戻した。

「絵理奈?」

声の主である和己が大股でこちらに歩いてくる。

絵理奈は黙ったまま、彼の持つ薬袋に視線を落とした。

和己はその視線に気づき、袋を少し持ち上げて見せた。

「今朝、麻美が足を捻ってしまってね。薬を買いに行っていたんだ」

あまりに自然な彼の様子に、絵理奈は一瞬黙り込み、ふと尋ねた。

「今日が何の日か、覚えてる?」

「ん?」

和己は不思議そうな顔でスマートフォンを取り出して日付を確認したが、そこで初めて、いつの間にか電源が切れていたことに気づいた。

電源を入れると、メッセージが洪水のように押し寄せ、彼の顔色がわずかに変わった。

「役員会が今日だったなんて、忘れてた……」

彼は悔しそうな表情を浮かべた。

「すまない、あまりに忙しくて……でも、分かってる。今回の縁談に行くのは三番目のお姉さんなんだろ?彼女が一番適任だから、君は心配しなくていい」

絵理奈は口を開きかけたが、結局、政略結婚に行くのが自分だとは告げなかった。

再び口を開いた絵理奈の声には、いくらか皮肉の色が滲んでいた。

「忙しい?何に?南条さんの看病にでも?」

和己の表情が変わった。

「絵理奈、僕は麻美を妹のようにしか思ってない。昔、学生時代に助けてもらった恩があるし、今は彼女の実家が大変なことになってて……」

「私に説明する必要はないわ」

たとえ心が千々に切り裂かれるような思いでも、絵理奈の表情は平静を保っていた。

和己は彼女がまた拗ねているだけだと思い込み、困ったように言った。

「分かってくれよ。麻美のことが落ち着いたら、すぐに婚約しよう。いいだろう?」

本来なら、二人はとっくの昔に婚約しているはずだった。

しかし、和己が麻美と再会してからというもの、彼の心はすっかり彼女の上にあって、決まっていたはずの日取りは延ばしになっていた。

そして今日、絵理奈はもう待つのをやめた。

だからこそ、あの政略結婚の契約書にサインしたのだ。

二人の間に、もう未来はない。

「絵理奈、分かってくれるよな?」

和己は彼女の手を取り、その瞳には誠実さが滲んでいた。

だが、絵理奈はその手を振り払った。

「ええ……理解してるわ。彼女のこと、しっかり面倒を見てあげて」

私たちのことは、これで終わり。

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第1話
「今回の政略結婚は、私が行きます」沢城絵理奈(さわしろえりな)がそう告げると、会議室に息を呑む音が響いた。「ふざけるな!」父親が真っ先にテーブルを叩いた。沢城家には四人姉妹がおり、絵理奈は末っ子で、家族全員から最も愛されて育った。幼い頃から欲しいものは何でも手に入れ、役員会の頭の固い年寄りたちでさえ、彼女には甘かった。「今回の縁談は地獄へ身を投げるようなことだ。お前をそんな場所に追いやるわけにはいかん!速水のところの若いのとさっさと、そうだな、数日中にでも婚約を……」「お父様」絵理奈は父の言葉を遮った。「和己が今日ここに来なかった。それが答えよ。彼に私と結婚する気がないのなら、待つ必要はありません」父親の顔色が変わった。「絵理奈くん、我々も方策は考える。だが、相手の周防家は人を食い物にするような連中だ。周防家の当主は、前の婚約者二人がどちらも精神病院送りになっているんだぞ!」役員の一人が前に出て、必死に説得を試みるが、絵理奈はただスマートフォンの画面を見つめ、無意識に指先でなぞっていた。彼女がかけた電話は一件も繋がらず、二十数件のメッセージもすべて未読のままだった。五日前、速水和己(はやみかずみ)は今日の役員会に出席し、彼女にはっきりとけじめをつけると約束した。だが、会議が始まって二時間が経つというのに、彼の姿はおろか影さえも見えない。絵理奈はそっと目を閉じ、自嘲気味に笑った。「分かっています……でも、沢城グループは今、資金繰りが悪化し、周防グループから敵対的買収を仕掛けられています。もしこの縁談を受けなければ、沢城家が築き上げてきたもの全てが、水の泡と消えてしまう」「あなたにはお姉さんたちがいるじゃない。末のあなたが出ていく番じゃないわ」三番目の姉が目を赤くしながら立ち上がって言った。「一番上のお姉様は離婚したばかりで心を痛めている。二番目のお姉様は先天性の喘息で体が弱い。そして三番目のお姉様は……」絵理奈は赤くなった目で一同を見渡した。「あなたの会社が上場を控えた大事な時期よ。私だけが、一番適任なの」父親は深くため息をつき、まるで一瞬で十歳も老け込んだかのようだった。「絵理奈、これは遊びじゃないんだぞ。一度契約書にサインしたら、もう後戻りはできないんだ……」絵理奈
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第2話
和己は絵理奈の表情をじっくりと観察した。彼女の態度が自然で、本当に怒っている様子がないことに気づくと、途端に嬉しそうな顔になった。「やっぱり君が一番分かってくれる。都心のあのマンションの名義を麻美に移したら、彼女もこの街で落ち着けるんだ」そう言うと、彼は顔を寄せ、絵理奈の頬に口づけをしようとした。しかし、絵理奈はさっと一歩下がってそれを避けると、震える声で和己をじっと見つめた。「都心のあのマンションって……私たちの、新居の?」和己の視線が一瞬泳いだ。絵理奈の心臓は、まるで氷の洞窟に突き落とされたかのようだった。あの新居は、二人が家を出て起業し、苦労して最初の契約をまとめた後に頭金を払い、共に内装をデザインし、少しずつ家具を揃え、ようやく完全に自分たちのものになった家だった。二人にとって、この家はまったく違う意味を持っていた。それなのに今、和己はこんなにもあっさりと、あの家を人に譲ると言うのか。和己は自分が失言したことに気づいたらしく、慌てて言った。「いや……君に相談しないつもりじゃなかったんだ。でも、麻美はこの街に慣れていないし、早く落ち着かせる必要があった。新しい家を買う時間はなかったから、とりあえずあそこに住んでもらったんだ」彼は絵理奈をなだめるように、祈るような目で見つめた。「もっと新しくて大きな家を買ってあげるから、いいだろう?」その瞬間、絵理奈はまるで心臓にナイフを突き立てられたかのような感覚に襲われ、呼吸をするたびに胸が痛み始めた。もう住んでいるなんて……しかも、そのすべてを、和己が失言したせいで初めて知った。彼の目には、自分はいったい何に映っているのだろう。「和己、私がただ家を一軒欲しいだけだと思ってるの?」すると彼は、こう言い放った。「じゃあ二軒買ってやる!」絵理奈の眼差しが、急に悲しみに満ちたものに変わった。彼女は一度目を閉じると、和己のそばをすり抜け、大股で去って行った。もういい。相手が大切にしないのなら、自分だけがこの思い出を守っていても、何の意味があるというのだろう。男の少し焦った声が、背後から聞こえてきた。「絵理奈!麻美は一人で可哀想なんだ。この家は、君が彼女を傷つけたことへのお詫びでもあるんだ。そんなに心の狭いことを言わないでくれ!
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第3話
その後数日間、絵理奈から和己に連絡することはなかった。周防グループとの契約締結は始まりに過ぎず、まだ多くの手続きが残っていた。彼女は最近、これらの処理に追われていた。周防グループが契約書を受け取ったその日に資金が振り込まれ、沢城グループ全体がどうにか一息つくことができた。今夜は取引先との会食があり、絵理奈は身なりを整えた後、アクセサリーケースから今日の服装に合うものを選び始めた。しばらく探していたが、彼女の動きは次第に遅くなり、やがて息を呑んだ。母方の祖母からもらった、あの翡翠の腕輪はどこに?彼女の心臓はきゅっと縮こまった。ケースの中身をすべて取り出したが、どこにもあの腕輪の影はなかった。彼女の寝室には他の者は入れない。お手伝いさんが持っていったとは考えにくい。彼女はいくつか電話をかけ、家族や友人に尋ねたが、誰もが見ていないと答えた。絵理奈は途端に上の空になったが、時間が迫っていたため、ひとまず会食に向かうしかなかった。長い長い時間が過ぎ去ったように感じられる会食が終わり、彼女は急いで外へ向かった。歩きながら電話をかけ、監視カメラの映像を取り寄せ、不審な人物が家に入っていないか確認しようとした。ところが、出た途端、隣の個室から出てきた和己と鉢合わせになった。「絵理奈?」和己は彼女の姿を認めると、ぱっと表情を明るくして大股で歩み寄ってきた。そのすぐ後ろから、麻美が姿を現した。絵理奈の心臓がわずかに締め付けられた。和己は仕事の会食にまで麻美を連れてきているというの?そう思った瞬間、彼女の視線がふと下に向けられ、そのまま固まった。「絵理奈、今夜の契約は順調で……」和己が言い終わらないうちに、絵理奈が猛然と一歩前に踏み出し、麻美の手を強く掴んだ。その声は、凍えるほど冷たかった。「その腕輪、どこで手に入れたの?」麻美は驚いて悲鳴を上げ、必死に手を引っこめようとした。「沢城さん……離してください、これは和己さんがくださったものです!」「絵理奈!何をするんだ!?」和己は慌てて麻美を自分の後ろに庇い、険しい表情を浮かべた。しかし絵理奈は彼を気にする余裕もなく、麻美を睨みつけ、鋭い声で言った。「それは私のものよ!」彼女が見間違うはずがない!それは母方の祖
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第4話
その夜、絵理奈は和己から十数件の謝罪のメッセージを受け取った。彼女はそれに一瞥をくれただけで、一件も返信しなかった。腕輪は海外に空輸して修復する必要があった。絵理奈は和己の名前を見るだけで心身ともに疲れ果ててしまい、新居の鍵を切り替え、夜中過ぎにようやく眠りについた。翌日の早朝、彼女は玄関の警報音で目を覚ました。誰かが何度も間違った暗証番号を入力し、スマートロックが警報を鳴らし始めていた。「絵理奈!中にいるんだろう!」和己がドアを叩く音が響いた。「どうして暗証番号を変えたんだ?まだ僕に怒ってるんだろう?」絵理奈は冷ややかにモニターの映像を見つめた。和己は手に持った箱を持ち上げながら、下手に出て言った。「絵理奈、君のために、急いで人に頼んで質の良い翡翠の腕輪を十個手に入れたんだ。もう機嫌を直してくれないか?」「昨日のことは……麻美が悪いわけじゃない。彼女は君に返そうとしていたんだ。君が奪い取ろうとして、彼女を怖がらせてしまったんだ……」絵理奈の握りしめた手が震え始めた。この期に及んで、彼はまだこの件を自分のせいにすると言うのか!そもそも彼が自分の腕輪を盗み出さなければ、こんなことにはならなかったのに!和己はさらにいくつか機嫌を取るような言葉をかけたが、ドアはぴくりとも動かなかった。彼は最終的に諦めたようにドアを一瞥し、箱を玄関の前に置いて立ち去った。絵理奈は家から出なかった。彼女は市内配送サービスを呼び、玄関の前の箱を梱包して和己のもとへ送り返させた。彼女は和己に会いたくなかったが、沢城と速水は提携関係にあり、顔を合わせることは避けられなかった。取引先が主催したパーティーに、絵理奈は少し遅れて到着した。会場に入るとすぐに、皆にちやほやされている麻美と和己の姿が目に入った。誰かのからかうような声が聞こえてきた。「和己さん、そんなに綺麗なお方をずっと隠していたなんて、俺たちに紹介したくなかったのかい?」和己は笑みを浮かべたが、その言葉に含まれる曖昧なニュアンスを否定しなかった。絵理奈は心臓が一瞬締め付けられるのを感じた。彼女は俯いてその場を通り過ぎようとしたが、誰かに気づかれ、輪の中に引き入れられてしまった。和己は彼女を見ると、わずかに目を輝かせた。「絵理奈
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第5話
「心配しないで、僕も一緒にいるから」和己の声は相変わらず優しかったが、その行動は強引だった。低い声が、再び絵理奈の耳元で響いた。「みんなが見ている。もし弾かなければ、大笑いされるだけだ。君はもともと多才なんだから、ピアノ一曲くらい、わけないだろう」絵理奈は心臓が凍りつくのを感じた。振り返って彼を問い詰めたいと思ったが、それ以上に深い無力感がこみ上げてきた。和己が言うように、彼女はすでに注目の的だった。今ここで騒ぎ立てれば、皆の笑いものになるだけだ。絵理奈は一度目を閉じ、手を上げ、最初の音符を弾き落とした。彼女にははっきりと見えた。そばにいると約束したはずの和己が、遠く離れた麻美と視線を交わし、安心させるような笑みを浮かべているのが。曲が始まってから、彼の視線は一度もその人から離れなかった。一曲弾き終えると、絵理奈はよろめくようにして化粧室へ向かった。彼女は冷たい水で何度も手を洗い、ようやく震える指先を落ち着かせた。外に出ると、怒りに満ちた父親とばったり会った。「速水家のあの若造は何様のつもりだ!どうして、どうしてお前を……!彼に文句を言ってくる!」絵理奈は慌てて父親を引き留めた。彼女は小声で言った。「お父様、今、速水家と揉める必要はありません。どうせ……私たちはもうすぐ、何の関係もなくなるのだから」父親はぐっと目を閉じ、そして長いため息をついた。宴会が本格的に始まったのは夜になってからだった。席では酒杯が交わされ始め、絵理奈はそつのない笑みを浮かべ、周りの人々の挨拶に応じていた。友人が一杯のジュースを彼女の前に置き、小声で言った。「ほら、あなたのために用意したジュースよ。他の人には分からないから」彼女は感謝して言った。「ありがとう」彼女はアルコールアレルギーだったが、このような場では飲酒を避けるのが難しく、いつもこの方法でごまかしていた。「和己さん、私が代わりに飲みます」麻美が和己の前に立ちふさがり、杯の酒を一気に飲み干した。彼女は途端に目尻を赤くし、顔を背けて咳き込んだ。和己は心配そうな顔で彼女を抱き寄せた。「大丈夫か?飲めないのに無理するな」周りからいくつかのからかうような笑い声が聞こえた。絵理奈は視線をそらし、意識的にあちらの様子
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第6話
絵理奈の瞳の中で、何かが少しずつ砕けていった。彼女の眼差しには、言いようもなく複雑な感情が流れていた。それを覗き込んだ和己の心臓が、激しく震えた。その瞬間、彼は何かが指先から急速にこぼれ落ちていくような感覚に襲われ、心にぽっかりと穴が空いた。彼は無意識に絵理奈に近づき、思わず口を開いた。「絵理奈、僕は……」その言葉が終わらないうちに、ドアが勢いよく開けられた。彼のアシスタントが慌てた様子で言った。「ボス、大変です!南条さんが……南条さんが先ほど、病室の前で何者かに連れ去られました!」その言葉を聞いた和己は顔色を変え、勢いよく立ち上がった。「どういうことだ!?」アシスタントはしどろもどろで言葉が出ない。和己は怒鳴った。「お前たちは一体何をやっているんだ、なぜ止めなかった!?」アシスタントは泣きそうな顔をしていた。「ボス……止めるなんてできません。彼らは……彼らは沢城さん側の人間だと!」そう言うと、彼は絵理奈と目を合わせられない様子だった。和己は勢いよく振り返った。絵理奈は眉をひそめた。「私を疑うの?」和己の心はひどく混乱していた。彼は怒りを抑えるかのように、低い声で言った。「絵理奈、もし君がやったのなら、今すぐあの者たちに……」「私は意識を失って、今しがた目が覚めたばかりよ。私に何ができるっていうの?」絵理奈の瞳が冷たくなった。しかし、傍らに置かれた手はシーツを固く握りしめていた。彼女は歯を食いしばり、一言一言区切るように言った。「あなたに、私を疑う権利なんてどこにある?」彼女の表情は冷淡だったが、その口調は嘲りに満ちていた。和己は本当に変わってしまった。以前の彼は、その視線のすべてを自分に注ぎ、何があっても真っ先に自分の味方をしてくれた。彼はかつて、永遠に君を信じると言った。それなのに今、一人の麻美のために、彼は何度も何度も自分を悪意のある人間だと決めつける。なんて荒唐無稽なのだろう。和己の顔色が変わった。彼はそれ以上何も言わず、歯を食いしばって黙々と外へ向かった。絵理奈は腕の点滴針を直接引き抜き、冷たい声で言った。「待って、私も一緒に行く」車が疾走する中、和己はずっと電話をかけて麻美の居場所を特定しようとしていた。
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第7話
和己は去った。周りにいた数人の男たちも、いつの間にか姿を消していた。絵理奈は唇を引き結び、無意識にスマートフォンを探したが、何もなかった。彼女の動きが止まり、さっと顔色が悪くなった。彼女は病院から直接ここへ来た。急いでいたため、スマートフォンを持ってくるのを忘れたのだ。あたりは荒涼としていて、見渡す限り人気はなかった。絵理奈はその場にしばらく立ち尽くしていたが、やがて歯を食いしばり、来た道を一歩一歩辿り始めた。太陽は次第に傾き、間もなく空は暗くなっていった。絵理奈は一瞬たりとも立ち止まれなかった。両足がすでに刺すように痛み始めていたが、それでも彼女は小走りを続けた。暗すぎた。周りは、あまりにも暗すぎた。さらさらという風の音を除けば、あたりは死んだように静まり返っていた。彼女は恐怖を感じ始め、唇が自分の意思とは関係なく震えだした。夜の風は冷たさを増していく。目の前が何度も暗くなり、アレルギーの症状もまだ完全には消えていなかった。彼女はほとんど力尽きかけていた。しかし、気を失うわけにはいかなかった。こんな場所で倒れたら、誰にも発見されないだろう……絵理奈の脳裏に、和己の無情な後ろ姿が蘇る。目の奥が熱くなり、涙が溢れ出した。――和己の車に乗った後も、麻美はまだ震えていた。和己が優しい声でいくつか言葉をかけると、彼女はようやく落ち着いてきたが、その表情はまだ不安げだった。「沢城さんを一人だけ残して、大丈夫なのでしょうか?」和己は一瞬黙り込み、かすれた声で言った。「大丈夫だ。沢城家には運転手ならいくらでもいる。自分で連絡するだろう」しばらくして、彼は疲れたように言った。「今回の件は絵理奈が悪い。だが、彼女は幼い頃から蝶よ花よと育てられて、少しわがままなところがあるんだ。どうか……彼女を責めないでやってくれ」麻美は慌てて首を横に振った。物分かりのいい口調で言う。「私が至らないばかりに、和己さんにいつも助けていただいて……でなければ、沢城さんも誤解なさらなかったはずです」和己の表情が和らいだ。「やはり君は物分かりがいいな」彼は麻美を病院に連れて行って全身を検査させ、問題がないことを確認してようやく安堵のため息をついた。病院を出ようとした、
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第8話
絵理奈は黙って退院した。周防家との結婚式が近づき、彼女は荷物の整理を始めていた。実は、彼女が持っていけるものは何もなかった。家の中で名残惜しく思っていたのは、すべて和己との思い出の品々だった。あの編み目が粗く、色合いもいまいちなマフラーは、和己が彼女のために手編みしたものだった。彼はかつて、可哀想なふりをしながら、自分の手のひらを彼女の前に広げて見せた。「見てくれ、絵理奈。指が針で穴だらけになっちゃうよ」絵理奈が心配そうにすると、彼は笑って言った。「君の笑顔が見られるなら、僕はなんだってするよ」オーダーメイドのアクセサリーは、和己が自らデザインし、三ヶ月もかけて完成させたものだった。積み木は、ある雨の日に二人で寄り添いながら組み立てたもの。その日、和己は彼女にキスをしながら約束した。「君は永遠に、僕の中で一番だよ」スマートフォンには、色々な場所で撮った二人の写真があった。洗面所には、ペアグッズが並んでいた……絵理奈はそれらを一つ一つ整理し、箱に詰め、そしてすべてゴミ箱に捨てた。家に帰る途中、スマートフォンの特別な通知音が鳴った。和己からだった。彼はSNSに投稿をしていた。麻美を連れて気晴らしの旅行に出かけた写真で、二人はカメラに向かって甘く微笑んでいた。絵理奈の表情に変化はなかった。彼女はスマートフォンをしまうと、タクシーを拾い、二人が最初に稼いだお金で手に入れた新居へと向かった。いくつかメッセージが届いていた。一番上は、三番目の姉からだった。【不義理な二人ね!】添付されていたのは、麻美のSNS投稿へのリンクだった。【和己さんがアクセサリーを買ってくれたんだけど、色がちょっと派手かな。ストレートのセンスって本当に最悪。高価すぎるから、受け取れないわ】次のメッセージは和己からで、アクセサリーセットの写真が添えられていた。【気に入ったかい?君のために特別に買ったんだ。一目見て、君にぴったりだと思った。もうすぐ持って帰るから、機嫌を直してくれないか?】絵理奈はそれをしばらく見つめ、ふと鼻で笑った。彼女は指をわずかに動かし、和己の連絡先をすべて削除した。家の前に着いて、彼女はようやく気づいた。暗証番号はすでに変更され、もう中に入ることはできなかった
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第9話
和己は、もう何度目か分からないほどメッセージ画面を開いていた。絵理奈とのやり取りの画面には、自分が送った下手に出たメッセージが最後に表示されていた。高価なアクセサリーのセットは、和己が自ら選んだものだった。麻美は気に入らなかったが、自分が選んで買ったものなら、絵理奈はいつも喜んでくれた。数日前の件は絵理奈がやりすぎたとはいえ、彼は自分から折れて許すことに決めたのだ。しかし、丸一日が過ぎても、メッセージへの返信はなかった。そのことが彼を苛立たせた。まだ怒っているのか?間違えたのは彼女の方なのに、こちらが折れてやっているのにまだ意地を張るつもりか?和己の目つきが険しくなった。彼は無意識にメッセージ画面をスワイプし、何度も何度も更新した。今回の絵理奈はあまりにもやりすぎだ。非を認めないのなら、こちらもわざわざ仲直りを求めたりはしない。この件は彼女が間違っているのだと、思い知らせてやらなければ!「和己さん、何を見ているの?」麻美がいつの間にか近づいてきて、和己のスマートフォンを覗き込もうとした。しかし、彼の方が一足先に画面を消した。その顔には何の表情もなかった。「何でもない」麻美は唇を引き結んだ。先ほど和己が画面を消すのは早かったが、彼女にはぼんやりと見えていた。彼が絵理奈に連絡を取ろうとしていたことを。ここまでしても、彼はまだあの女を忘れられないというの!?麻美が表情をこわばらせたのは一瞬だけだった。すぐに彼女は彼に寄り添い、優しい声で言った。「和己さん、疲れているんじゃない?でなければ、今日はもう帰りましょうか?」和己は唇を動かした。「いや、君が満足するまで遊んでから帰ろう」と言いたかった。しかし、その言葉は喉まで出かかったが、なぜか口にすることができなかった。彼の心は重かった。何かが彼に早く帰るよう促しているかのようだ。一歩遅れれば一生後悔するかのような、その感覚が彼をわけもなく焦らせた。そのため、彼は少し考えた後、立ち上がった。「そうだな。また今度、機会があれば遊びに来よう」そう言うと、彼はすでにアシスタントにその日の航空券を手配させていた。道中、和己はずっと上の空だった。麻美が何度か話題を振ったが、すべて適当にあしらわれて
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第10話
和己は自分の目に映るものが信じられなかった。彼はその場でしばらく呆然としていたが、諦めきれずにさらに数件メッセージを送った。しかし、すべて送信失敗と表示された。絵理奈の電話番号にかけると、なんと「現在使われておりません」とアナウンスが流れた!和己と絵理奈は長年付き合ってきた。二人の関係は成熟し安定しており、他の若い恋人たちのように、喧嘩の勢いで互いをブロックしたり脅したりするようなことは一度もなかった。だから和己は、自分がいつか絵理奈にブラックリストに入れられる日が来るなど、想像もしていなかった!「ありえない……」しかし、巨大な恐怖が彼を飲み込んだ。和己は考える間もなく、再び絵理奈の住まいへと急いで戻った。ドアはまだ固く閉ざされていた。彼は駆け寄り、ドアを叩き始めた。「絵理奈!出てこい!」「なぜ無視するんだ!何か言え!なぜ僕をブロックした!」虚しい焦りがますます強くなる。彼は何度も力を込めてドアを叩き、その目は充血し始めた。そうすることでしか、心の中の混乱を少しでも和らげることができないかのようだった。開けろよ、なぜ開けないんだ!「何をしている!お前は誰だ!?」背後から甲高い声が聞こえ、和己は動きを止めた。機械のように振り返ると、そこには見知らぬ夫婦がいた。二人は警戒心に満ちた顔で彼を見ており、その手はスマートフォンの緊急通報ボタンを押しかけていた。男は怒鳴った。「お前は何者だ!?なぜうちのドアを叩き壊そうとしているんだ!?」和己はしばらく状況が飲み込めなかった。彼はかすれた声で言った。「あなたたちの?」「これ以上やめないと警察を呼ぶぞ!」和己は無意識に手を引っ込めた。頭の中は混乱しており、眉をきつく寄せて言った。「馬鹿なことを言うな。僕の婚約者がここに住んでいるんだ。どうしてお前たちの家になるんだ?!」その夫婦は一瞬黙り込み、驚いたように口を開いた。「あなたの婚約者?彼女が引っ越したの、ご存じないんですか?」「そうですよ。あのお嬢さんは、この家を私たちに売ったんです!名義変更も済んだばかりで、今はもう私たちの家ですよ!」和己は頭の中で「ブーン」という音が鳴り、一瞬、思考が停止した。絵理奈が引っ越した?なぜ自分は何も知らない
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