LOGIN「……恵」
佳苗は思わず妹の名前を呼んだ。
最後に会った離婚協議の日よりも、恵はやつれて見えた。
丁寧に整えていたはずの髪は少し乱れ、目の下には薄く隈が浮かんでいる。
それでも佳苗を見つめる瞳だけは、鋭く揺れていた。
「久しぶり」
佳苗は努めて穏やかに声を掛ける。
恵は返事をしない。
代わりに視線を雄吾へ向けた。
雄吾も無言で軽く会釈をする。
恵はその二人を何度も見比べた。
「そうなんだ」
ぽつりと呟く。
「今度はこの人なの?」
佳苗は小さく眉を寄せた。
「違うよ」
「何が違うの?」
恵は乾いた笑いを漏らす。
「一緒に出掛けて、笑って、ご飯食べて」
商店街を見回しながら言葉を続けた。
「どう見てもデートじゃない」
「恵」
「
「……と、申しますと?」 役員の笑顔がわずかに引きつった。 雄吾は手にしていたグラスをテーブルへ置いた。「そのままの意味です。妻から少し気になる話を聞きまして」「何かございましたか?」「俺と結婚してから、『働かなくても困らない』『残業しても困らない』と言われているそうです」「それは……」「生活に困っていないからという理由で、本来の業務とは別の仕事を回されたこともあると聞いています」 役員の表情が変わった。「申し訳ございません。私は把握しておりませんでした」「でしょうね」 雄吾も、目の前の男が関与しているとは思っていない。「妻は自分で対応しています。上司にも相談したそうです」「でしたら、社内でも確認を――」「ただ、そのあとも『社長夫人には逆らわない方がいい』『仕事は社会参加みたいなものだ』と言われているようですが」「……そんなことまで?」「ええ」 役員は完全に笑顔を消した。「それは弊社としても看過できません。事実関係を確認いたします」 その言葉に、雄吾は一瞬黙った。 ――だから雄吾も、何もしないでね。 佳苗にはそう言われた。 それでも、ここまで話した以上、なかったことにはできない。「妻は仕事を辞めるつもりはありません」「はい」「あの会社で働くことを気に入っています。だから俺も、妻が安心して働ける会社であってほしいと思っています」「もちろんです」「俺の妻だから特別扱いしろと言っているわけではありません。むしろ逆です」 雄吾は相手をまっすぐ見た。「配偶者が誰であろうと、一人の社員として扱っていただきたい」「おっしゃる通りです」「よろしくお願いします」 雄吾はそこで話を終えた。
「それで?」 雄吾に促され、佳苗は少し迷ってから続きを話した。「最初は、本当にただの冗談みたいな感じだったの。旦那さんが社長なら働かなくてもいいでしょう、とか」「それだけじゃないんだろ」「……うん」 佳苗は給湯室で聞いた言葉も、仕事を押しつけられたことも話した。「私なら残業しても困らないって。生活のために働いてるわけじゃないからって」「それで仕事を回されたのか?」「一回だけね。そのときは本人にも言ったし、上司にも話したよ」「上司は?」「続くなら言ってくれって」「続いてるじゃないか」「ちょっと形が変わったの」 佳苗は苦笑した。「今度は逆。私に仕事を頼むのを怖がられるようになった」「なぜ?」「上司に言いつけられるから。あと――」 一瞬、言うのをためらう。「雄吾にも言いつけるかもしれないから、だって」 雄吾の眉間に皺が寄った。「俺?」「社長夫人には逆らわない方がいい、みたいな」「佳苗は俺の名前を出したのか?」「出してないよ。だから困ってるの」 佳苗は膝を抱えた。「私が何を言っても、『でも旦那さん社長でしょ』ってなるの。バッグも雄吾に買ってもらったものだからとか、お給料なんて全部お小遣いなんでしょうとか」「くだらないな」「うん。くだらない」 佳苗もそう思う。 けれど毎日続けば、くだらないだけでは済まない。「今日なんて、休憩室に入ったら急にみんな黙った」「それで大したことじゃないのか?」「……大したことになってほしくない、かな」 雄吾が佳苗を見る。「仕事、辞めたいのか?」「辞めたくない」 それだけは即答できた。「今の仕事、好きなの。別
給湯室での一件から、数日が経った。 表立って何かを言われることは減った。 けれど、佳苗にはかえって居心地が悪くなったように感じられた。「これ、榊原さんに頼んでも大丈夫かな」「やめといた方がいいんじゃない?」 少し離れた席から聞こえた声に、佳苗は顔を上げる。「なんで?」「だって、この前……ねえ?」「ああ」 声が小さくなる。 けれど、聞こえないほどではなかった。「下手なこと言ったら、また上司に報告されるかもしれないし」「旦那さんにもね」 くすくすと笑う声。 佳苗は唇を結んだ。 雄吾には何も話していない。 そもそも、自分の職場の人間関係に雄吾を巻き込むつもりなどなかった。「榊原さん」「はい」 声を掛けてきたのは、別の同僚だった。「この契約書、確認お願いしていいですか?」「もちろんです」「あ……急ぎじゃないんで。いつでも大丈夫です」「明日の午前中まででいいですか?」「全然! 本当に暇なときでいいので!」 妙に気を遣われる。 以前なら普通に渡されていた仕事なのに。「明日の午前中に確認しますね」「お願いします」 同僚が去ったあと、また小さな声が聞こえた。「怖いよね」「何が?」「だって社長夫人だよ? こっちとは立場違うじゃん」 佳苗は思わず振り返った。 目が合った瞬間、二人は何事もなかったようにパソコンへ視線を戻した。 ◇ 昼休みになっても、状況は変わらなかった。 休憩室へ入ると、それまで話していた三人が一瞬だけ黙る。「……お疲れさまです」「お疲れさまです」
数日後。 佳苗は朝から請求書の確認に追われていた。 月末が近い。 取引先ごとに金額と締め日を確認し、不備があれば担当部署へ戻す。昼休みまであと十分というところで、営業部から一通のメールが届いた。「……金額、違う」 添付された発注書と請求データが一致していない。 佳苗はすぐに担当者へ連絡した。「この案件、発注書は八十六万円ですけど、請求データが九十六万円になってます」『え? あ、本当だ』「このまま処理できないので、確認して修正お願いします」『今日中?』「締めが今日なので」『分かりました』 電話を切り、該当箇所に付箋を貼る。 その様子を見ていた同僚が笑った。「榊原さん、相変わらず細かいですね」「十万円違いますから」「まあ、そうですけど」 佳苗は次の書類を手に取った。 すると別の社員が、冗談めかして言う。「でも榊原さんにとって十万なんて、もう誤差みたいなものでしょ?」 佳苗は顔を上げた。「どういう意味ですか?」「旦那さん社長だし」「会社のお金と私の夫は関係ないですよね?」「あ、いや、そういう意味じゃなくて」「十万円違ったら困るから確認してるんです」 相手が気まずそうに笑う。「真面目だなあと思って」「仕事なので」 それだけ答え、佳苗は作業へ戻った。 ◇ 午後、修正されたデータが届いた。 確認すると、今度は問題ない。 処理を終えたところで、上司に呼ばれた。「榊原さん、さっきの件ありがとう。危なかったね」「いえ。締め前に気づけてよかったです」「最近ちょっと処理件数増えてるけど、大丈夫?」「はい。ただ、急ぎの依頼が重なると厳しい日もあります
翌朝。 佳苗が出社すると、昨日のことが少し気になっていた。 言いすぎただろうか。 けれど、自分の仕事を後回しにしてまで、誰かの仕事を引き受けるのが当然だと思われるのも違う。「おはようございます」「おはようございます」 いつも通り席につき、パソコンを立ち上げる。 昨日仕事を頼んできた社員も、特に何も言ってこなかった。 これで終わったのだと思った。 ◇ 昼休み。 佳苗が同僚数人と休憩室で昼食を取っていると、一人の女性が佳苗の手元を見た。「あ、そのバッグ新しくないですか?」「これ?」「そう。それ、結構高いやつですよね?」 結婚してから雄吾が贈ってくれたバッグだった。「夫からのプレゼントです」「いいなあ!」 別の女性も身を乗り出す。「やっぱり社長ってプレゼントも違うんですね」「私も社長と結婚したい」「まず知り合うところからじゃない?」 笑いが起こる。 そこまでは佳苗も笑って聞いていた。「でも榊原さん、もう自分の給料なんて全部お小遣いにできるんじゃないですか?」「え?」「生活費は旦那さんが出してくれるんでしょう?」「それは――」「羨ましい。私なんて給料入っても家賃と生活費でほとんど消えますよ」「私も。働いた分、全部自分に使えるなら仕事も楽しいのに」 悪意のない口調だった。 だからこそ、佳苗は返事に困った。「全部自分に使ってるわけじゃないですよ」「でも旦那さん、社長なんですよね?」 また、それだ。「それと私のお給料は別です」「えー、結婚したら一緒じゃないですか?」 佳苗は箸を置いた。「一緒じゃないですよ」 思ったより、はっきりした声が出た。「雄吾のお金は、雄吾が働いて得たものですから」「でも夫婦でしょう?」「夫婦だからって、夫のお金が全部私のお金になるわけじゃないでしょう?」 相手が目を瞬く。「私は私で働いて、お給料をもらってます。それをどう使うかも私が決めます」「……真面目なんですね」「普通だと思いますけど」 そこで休憩時間が終わり、話は途切れた。 ◇ 午後。 コピー機の前で資料を揃えていると、背後から声が聞こえた。「榊原さんって、意外とケチなのかな」「旦那さん?」「だって奥さん普通に働かせてるし」 佳苗の手が止まった。「バッグは買ってくれるみたい
結婚してからしばらく経っても、佳苗の仕事そのものは何も変わらなかった。 朝は決まった時間に出社し、請求書を確認して、契約書類を整理する。 月末になれば忙しいし、入力を間違えれば普通に注意される。 榊原雄吾と結婚したからといって、仕事が勝手に終わってくれるわけではない。「榊原さん、これ確認お願いします」「はい」 差し出された書類を受け取り、佳苗はパソコンへ向き直った。 結婚に伴って姓が変わったため、最初こそ呼ばれるたびに反応が遅れたが、それにもようやく慣れてきた。「あ、そういえば榊原さん」「はい?」 隣の席の女性が、ふと思い出したように尋ねた。「旦那さんって、会社の社長なんですよね?」「そうですけど」「すごいですよねえ」 結婚した頃にも何度か聞かれた話だ。 佳苗は曖昧に笑って、再び画面へ目を戻そうとした。「じゃあ、別に働かなくてもいいんじゃないですか?」 手が止まった。「……え?」「だって社長夫人でしょう?」 女性に悪意があるようには見えなかった。「私だったら絶対辞めちゃうなあ。毎日働かなくても生活できるなら、仕事なんてしたくないですもん」「私は仕事を続けたいので」「へえ」 そこで会話は終わった。 佳苗も、それ以上気にしなかった。 ◇ けれど、その日の午後。「榊原さん、これお願いしてもいい?」 同じ部署の社員から、書類の束を渡された。「これ、今日中ですか?」「できれば」「分かりました」 受け取って確認すると、単純な入力作業だった。 予定していた仕事の順番を少し変えれば対応できる。 佳苗が作業を始めようとしたところで、少し離れた席から声が聞こえた。「いいなあ、余
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし