LOGINほんの一瞬だった。
美佐子に向けていた柔らかな笑顔が消えた。
驚いたというより。
苛立ったような――。
「……そうよね」
けれど次の瞬間には、絢子はいつもの表情に戻っていた。
「ごめんなさい、おばさま。やっぱり旅行はやめましょう」
「でも絢子ちゃん」
「雄吾さんの言う通りよ」
絢子は困ったように笑う。
「昔と今は違うもの」
「……」
「私、つい昔と同じ気持ちでいちゃうから駄目なのね」
「絢子ちゃんが悪いわけじゃ――」
「ううん」
絢子は首を横に振った。
「私もちゃんと変わらないと」
そして雄吾を見る。
「ごめんね、雄吾さん」
「……」
「もう昔のことを持ち出さないようにする」
「ああ」
ほんの一瞬だった。 美佐子に向けていた柔らかな笑顔が消えた。 驚いたというより。 苛立ったような――。「……そうよね」 けれど次の瞬間には、絢子はいつもの表情に戻っていた。「ごめんなさい、おばさま。やっぱり旅行はやめましょう」「でも絢子ちゃん」「雄吾さんの言う通りよ」 絢子は困ったように笑う。「昔と今は違うもの」「……」「私、つい昔と同じ気持ちでいちゃうから駄目なのね」「絢子ちゃんが悪いわけじゃ――」「ううん」 絢子は首を横に振った。「私もちゃんと変わらないと」 そして雄吾を見る。「ごめんね、雄吾さん」「……」「もう昔のことを持ち出さないようにする」「ああ」「じゃあ、私はこれで」 絢子は美佐子にも頭を下げ、その場を離れていった。 雄吾は、その後ろ姿をじっと見つめていた。「雄吾?」「何?」「さっきからどうしたの?」「別に」「絢子ちゃんに冷たすぎない?」「普通だろ」「どこがよ」 美佐子はため息をついた。「旅行くらい、みんなで行けばいいじゃない」「行きたいなら母さんと絢子で行けばいい」「佳苗さんも誘って、仲良くなれば――」「無理に仲良くなる必要はない」「どうしてそんな言い方するの?」 雄吾は母を見る。「母さん」「何?」「最近、絢子から昔の話をよく聞くのか?」「……どういう意味?」「俺と絢子の結婚の話。昔の旅行。それまでほとんど話してなかっただろ」「それは、この前ア
二十年以上。 その時間を、佳苗は知らない。 雄吾がどんな子供だったのか。 どんな学生だったのか。 何を好きで、何を嫌って、どんなふうに笑っていたのか。 絢子は知っている。 美佐子も知っている。 自分だけが知らない。(……だからって、今の雄吾さんとは関係ない) 佳苗は自分に言い聞かせた。 雄吾も言ってくれた。 絢子との結婚話など、親が勝手に盛り上がっていただけ。 婚約していたわけでも、二人で将来を約束したわけでもない。 それでも。 心のどこかに、小さな棘が残った。 ◇ 数日後。「佳苗さん、これ見て」 美佐子の家で、佳苗は古いアルバムを差し出された。「この前昔の話をしたでしょう? それで懐かしくなっちゃって」「……アルバムですか?」「雄吾の小さい頃の」 佳苗の表情が明るくなる。「見たいです」「でしょう?」 美佐子が嬉しそうに隣へ座る。 幼稚園の入園式。 小学校の運動会。 家族旅行。「雄吾さん、昔からあまり笑わないんですね」「そうなのよ。この頃なんて写真を撮るって言うと逃げて」「ふふ」 佳苗はページをめくった。 知らない雄吾を知ることができる。 純粋に嬉しかった。 けれど。「あ……」 途中から、絢子の姿が増えていった。 並んで海辺に立つ二人。 誕生日会。 制服姿。 家族同士の旅行らしい写真まである。「この頃は一条家とよく一緒に旅行してたの」「そうだったんですね」「ほら、これなんて可愛
絢子が電話を掛けた相手は、父だった。『絢子? 珍しいな』「お父様、今少しいい?」『ああ。どうした』「榊原さんのところとの共同案件のことなんだけど」『何か問題でもあったか?』「ううん。仕事は順調よ」 絢子は一度言葉を切った。「ただ……雄吾さん、結婚するつもりなのかなと思って」『雄吾君が?』「今、お付き合いしている方がいるでしょう?」『ああ。美佐子さんから聞いたことはあるな』 絢子は窓の外を見る。「お父様、昔……覚えてる?」『何をだ?』「私と雄吾さんが結婚したら、なんて話してたこと」 電話の向こうで父が笑った。『そんな昔の話か』「やっぱり覚えてたんだ」『お前たちがまだ学生の頃だろう。美佐子さんたちと酒を飲みながら、そんな話もしたな』「……そうよね」 ただの昔話。 正式な婚約でもない。 両家が交わした約束でもない。 だから絢子も、それ以上は言わなかった。『どうした。まだ雄吾君が好きなのか?』「……分からない」『絢子』「でも、今さら何かするつもりはないわ」 絢子は小さく笑った。「ただ、昔そんな話もあったなって思い出しただけ」『そうか』「お母様も覚えてたかな」『さあな』「今度会ったら聞いてみようかな」『変な波風を立てるなよ』「分かってる」 絢子は笑った。「ただの思い出話よ」 ◇ 数日後。 美佐子は久しぶりに夫と外で食事をしていた。「そういえば」 料理を待ちながら、夫がふと思い
『佳苗さん。お願い』 美佐子の声が耳に残る。『絢子ちゃんを止めてくれない?』「……私が、ですか?」『ええ』「どうして……」『だって、あの子が日本を離れるなんて』 美佐子の声は本気で動揺していた。『仕事だってあるのに。お父様の会社のことだってあるでしょう? それなのに、急に海外へ戻るなんて言い出すから』「……」『きっと、相当傷ついてるのよ』 佳苗は隣の雄吾を見る。 雄吾は黙って手を差し出した。「代われ」という意味だ。 けれど佳苗は、少し迷ってから首を横に振った。 今度は。 自分で話したかった。「お母様」『なあに?』「私には、止められません」『佳苗さん?』「一条さんが海外へ行くかどうかは、一条さんが決めることです」『でも、原因は――』 そこで美佐子が言葉を止める。 佳苗の胸が痛んだ。「原因は、私ですか?」『そういう意味じゃないのよ』「では、どういう意味ですか?」『……』「一条さんが雄吾さんを好きなのは、私のせいではありません」『それは分かってるわ』「雄吾さんが一条さんと距離を置くと決めたのも、私のせいではありません」『でも――』「一条さんが海外へ行くと決めることもです」 声が震えそうになる。 それでも佳苗は続けた。「それまで私が何とかしなきゃいけないんですか?」『……』「一条さんが悲しんだら、私が慰めて。離れると言ったら、私が引き止めて」『佳苗さん、私はそんなつもりで――』「だったら」 佳苗は息を吸った。「お母様が止めてあげてください」『え?』「お母様は、一条さんに日本にいてほしいんですよね?」『もちろんよ』「なら、お母様がそう伝えてください」『でも、絢子ちゃんがこうなったのは雄吾とのことが――』「だったら雄吾さんと話してください」 美佐子が黙った。「私を間に入れないでください」 言ってしまった。 胸が激しく鳴る。 嫌われる。 そんな恐怖はまだある。 けれど。 もう引き受けたくなかった。「ごめんなさい」 佳苗は静かに言った。「私は、一条さんが自分で決めたことの責任までは取れません」 ◇『……分かったわ』 長い沈黙のあと。 美佐子が答えた。 その声は硬かった。『ごめんなさいね。無理なお願いをして』「お母様……」『雄吾にもよろしく』
翌日の昼休み。 佳苗のスマートフォンに、絢子からメッセージが届いた。『少しだけ、お話しできますか?』 画面を見た瞬間、佳苗の指が止まる。 返事をしないと決めたはずだった。 けれど続けて届いた文面を見て、眉を寄せた。『おばさまから、昨日のことを聞きました』『私のせいで佳苗さんに嫌な思いをさせてしまって、本当にごめんなさい』「……」 やはり、美佐子から聞いたらしい。『おばさまが佳苗さんにあんなお願いをするなんて、私は知らなかったの』『私が頼んだわけじゃないことだけ、信じてもらえたら嬉しいです』 佳苗はしばらく考えてから、短く返信した。『分かっています。一条さんが頼んだとは思っていません』 嘘ではない。 美佐子が自分で考えて行動したことだとは理解している。 すぐに既読がついた。『ありがとう』『それだけ伝えたかったの』 そこで終わるかと思った。 けれど。『それと、もう一つだけ』 佳苗の胸がざわついた。『雄吾さんが私と距離を置きたいのは、自分の意思だって聞きました』「……」『だから、もう佳苗さんには何も言いません』『私と雄吾さんのことは、私たち二人の問題だから』 佳苗はその文章を何度も読み返した。 何もおかしくない。 雄吾自身がそう言ったのだから。 それなのに。 最後の一文だけが妙に引っかかった。 ――私たち二人の問題。 ◇ その日の午後。「榊原社長」 会議を終えて廊下へ出た雄吾を、絢子が呼び止めた。「少しだけいい?」「仕事の話か?」「ううん」「なら――」「これ
「絢子ちゃんと雄吾が、昔みたいに友達でいることを許してあげてくれないかしら」 佳苗はしばらく、美佐子の顔を見つめていた。「……許す、ですか?」「言い方が悪かったわね」 美佐子は困ったように笑う。「別に、あなたに許可をもらわなければいけないという意味じゃないのよ」「でも……」「ただ、雄吾もあなたが嫌がるから、絢子ちゃんと距離を置いているでしょう?」「それは雄吾さんが自分で決めたことです」「そう言うけれど」 美佐子は小さく息を吐いた。「あなたが嫌だと言わなければ、雄吾だって今まで通りだったんじゃない?」 胸に刺さる。 確かに。 佳苗が嫌だと言ったから、雄吾は距離を取ると決めた。「お母様は……私に我慢してほしいんですか?」「我慢なんて」「一条さんが雄吾さんを好きでも?」「それは昔のことでしょう?」「今も好きじゃないとは言い切れないと、一条さん本人から聞きました」「……」 美佐子が言葉に詰まる。「それでも、私は気にせず二人を今まで通りにさせた方がいいんでしょうか」「でも絢子ちゃんは、何もしないと言っているんでしょう?」「……はい」「だったら、信じてあげてもいいんじゃないかしら」 佳苗は俯いた。 また同じだ。 信じない自分が悪い。 許せない自分が狭量。 そんな話になっていく。「私ね」 美佐子が優しく続ける。「佳苗さんの気持ちも分かるのよ。恋人の近くに、自分を好きな女性がいるのは嫌でしょう」「はい」「でも、二十年以上の友情までなくさせるのは、少し違うと思うの」「……」「雄吾にとっても、絢子ちゃんは大切な友人なのよ」 佳苗はゆっくり顔を上げた。「それ、雄吾さんが言ったんですか?」「え?」「一条さんと昔みたいに友達でいたいって、雄吾さんがお母様に言ったんですか?」「それは……」「言ってないんですよね?」 美佐子が黙った。 佳苗の胸は痛かった。 それでも、今度は引かなかった。「雄吾さんは私に、自分で決めたと言いました」「でも、あなたに気を遣っているだけかもしれないでしょう?」「だったら」 佳苗は静かに答える。「それは雄吾さんに聞いてください」「佳苗さん……」「私ではなくて」 初めてだった。 美佐子に対して、こんなにはっきり言ったのは。「雄吾さんと一条さんの関係をどうするか
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。
ホテルへ入る佳苗と雄吾。 暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。「……どうして」 佳苗の指先が震える。 まるで誰かに見張られていたみたいだった。『ねぇお姉ちゃん』『その人、誰?』『もしかして浮気?』 次々届くメッセージ。 佳苗は顔を青ざめさせた。 浮気。 その言葉に胸が痛む。 裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。「見せろ」 雄吾が静かにスマホを受け取る。 メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。「……なるほど」「先輩」「撮られていたな」 低い声。 感情を押し殺したような響き。「どうしよう……」







