LOGIN『今、佳苗さんがお付き合いしている榊原雄吾さんの幼なじみです』
悟は、その文章を何度も読み返した。
榊原雄吾。
佳苗が自分のもとを離れたあと、そばにいるようになった男。
しかも。
『幼なじみ?』
悟が返す。
『はい。子供の頃から、家族ぐるみで付き合ってきました』
「……」
悟の眉が寄った。
なぜそんな女が、自分に連絡してくる。
『それで、佳苗の何を聞きたいんですか』
返事はすぐには来なかった。
数分後。
『離婚された理由を、もし差し支えなければ教えていただけませんか』
「は?」
悟は思わず声を漏らした。
ずいぶん踏み込んだことを聞いてくる。
『何であんたにそんなこと話さないといけないんですか』
『そうですよね。申し訳ありません』
あっさり引いた。
『今、佳苗さんがお付き合いしている榊原雄吾さんの幼なじみです』 悟は、その文章を何度も読み返した。 榊原雄吾。 佳苗が自分のもとを離れたあと、そばにいるようになった男。 しかも。『幼なじみ?』 悟が返す。『はい。子供の頃から、家族ぐるみで付き合ってきました』「……」 悟の眉が寄った。 なぜそんな女が、自分に連絡してくる。『それで、佳苗の何を聞きたいんですか』 返事はすぐには来なかった。 数分後。『離婚された理由を、もし差し支えなければ教えていただけませんか』「は?」 悟は思わず声を漏らした。 ずいぶん踏み込んだことを聞いてくる。『何であんたにそんなこと話さないといけないんですか』『そうですよね。申し訳ありません』 あっさり引いた。『忘れてください』 それだけ。 悟は画面を睨んだ。「……何なんだよ」 普通なら、そこで終わる。 けれど。 妙に気になった。『あんた、榊原とどういう関係なんですか』 送る。『先ほどお伝えした通り、幼なじみです』『それだけ?』 今度は少し間があった。『……それだけです』 悟は鼻で笑った。「嘘つけ」 わざわざ佳苗の元夫を調べて。 連絡先まで手に入れて。 離婚理由を聞いてくる。 ただの幼なじみがすることではない。『榊原のこと好きなんですか』 送信。 長い間、既読だけがついていた。 やがて。『昔から、大切な人です』 それだけが返ってきた。「
藤倉悟。 名前を調べること自体は、難しくなかった。 絢子は佳苗から直接、詳しい事情を聞いたことはない。 けれど、美佐子との何気ない会話の中で、以前結婚していたことは知っている。 そして。 雄吾が佳苗と出会った頃、彼女がひどく傷ついていたことも。(どんな人なのかしら) ただ知りたいだけ。 絢子は自分にそう言い聞かせた。 佳苗を困らせたいわけではない。 雄吾がこれほど守ろうとしている女性が、どんな人生を送ってきたのか。 少し気になっただけ。 そう思いながら、絢子は知人に連絡を取った。 ◇ 数日後。「……これだけ?」 送られてきた情報を見て、絢子は眉を寄せた。 藤倉悟。 佳苗の元夫。 現在も会社員。 離婚後も同じ会社に勤務している。 ただ。『あまり評判はよくないみたい』 知人からのメッセージが続く。『最近、社内でちょっと問題になってるって話もある』「問題?」『そこまでは分からない。経費とか取引関係とか、そのあたりみたいだけど』「……」 絢子の指が止まる。 仕事上の問題など、今はどうでもいい。『それより、この人で間違いない?』 続けて一枚の写真が送られてきた。 絢子は画面を見つめる。 どこにでもいそうな男だった。 少なくとも。 雄吾とはまるで違う。「この人が……」 佳苗の夫だった人。 なぜ別れたのか。 そこまでは分からない。 けれど。 もし悟が佳苗にまだ未練を持っていたら? 絢子はそう考えて、すぐに首を横に振った。「……何考えてるの、私」 人の離婚に首を突っ込むなんて。 そんなことをしてはいけない。 スマートフォンを伏せる。 それなのに。 藤倉悟という名前は、頭から離れなかった。 ◇ 一方。 悟は会社のデスクで、目の前の書類を睨んでいた。「藤倉さん」「はい」「これ、もう一度確認してもらえます?」 経理担当者から差し戻された資料だった。「何か問題ありました?」「この支出なんですけど、添付されてる資料と金額が合ってなくて」「……ああ」 悟の喉がわずかに動く。「それ、前にも説明しましたよね?」「説明は聞きました。でも確認できる書類がないので」「細かいな……」「監査前なんで、お願いします」 担当者はそう言って去っていった。「……くそ」
「私だって、雄吾さんが好きなんです」 佳苗の声を、絢子は廊下で聞いていた。「だから、一条さんが傷つかないようにするために、私と雄吾さんの関係まで小さくすることはできません」 美佐子は何も答えない。 絢子も動かなかった。 やがて、美佐子が小さく息を吐く。「……そんなつもりじゃなかったのよ」「はい」「私はただ、絢子ちゃんも大切で」「分かっています」「小さい頃から知ってるの。娘みたいなものなのよ」「それも分かっています」 佳苗は静かだった。「だから、お母様と一条さんが家族のように付き合うことを、私はやめてほしいなんて思っていません」「……」「でも、一条さんが雄吾さんを好きなことと、それは別です」「そうね」「一条さんが雄吾さんのことで傷つくたびに、私が何かを譲らなきゃいけないなら……」 佳苗は一度言葉を切った。「私も苦しいです」「……ごめんなさい」 今度の謝罪は、これまでとは少し違って聞こえた。「私、絢子ちゃんが泣いているのを見たら、つい……」「はい」「あなたが何かしたわけでもないのにね」 佳苗は目を見開いた。「お母様……」「今日だってそうだわ。あなたは何も言っていないのに」 美佐子が苦笑する。「私が勝手に先回りして、お願いしてしまったのね」「……はい」「ごめんなさい」 佳苗の胸から、少しだけ重いものが消えた。 ようやく。 分かってもらえた気がした。「ありがとうございます」 そのときだった。「……ごめんなさい」 背後から声がした。 二人が振り返る。「絢子ちゃん?」 絢子が立っていた。 目に涙を浮かべて。
数日後。 美佐子から佳苗へ、一通のメッセージが届いた。『来月、主人の誕生日なの。佳苗さんも一緒にお祝いしてくれない?』 佳苗は少しだけ緊張した。 美佐子との関係は、以前よりぎくしゃくしている。 それでも、雄吾の父親の誕生日なら断る理由はない。『はい。ぜひ』 そう返信した。 ◇「父さんの誕生日?」「はい。お母様から誘っていただきました」「俺にも来てる」 雄吾がスマートフォンを見る。「行くか?」「もちろんです」「そうか」 佳苗は少し笑った。「何を持っていけばいいでしょう」「何もいらないだろ」「そういうわけにはいきません」「じゃあ酒」「お酒がお好きなんですか?」「ああ」「じゃあ、一緒に選んでください」「分かった」 久しぶりに。 何の不安もない話ができた。 佳苗は少し嬉しくなった。 ◇ 誕生日当日。 雄吾と佳苗が美佐子の家へ着くと、玄関には見覚えのある靴があった。 佳苗の足が止まる。「……もしかして」 雄吾も気づいたらしい。 眉を寄せた。「絢子か」 リビングへ入る。「あ、来たわね」 美佐子が笑顔で迎えた。 そしてその隣には。「こんにちは」 絢子が立っていた。「……こんにちは」「絢子ちゃんも呼んだの」 美佐子は当然のように言った。「主人も小さい頃から知っているし、毎年お祝いしてくれてるから」「そうなんですね」 佳苗は笑顔を作った。 美佐子と絢子
「ただいま」 夜。 帰宅した雄吾の声を聞いて、佳苗はリビングから顔を上げた。「おかえりなさい」「……どうした?」「え?」「また何かあっただろ」 すぐに気づかれてしまう。 佳苗は少し迷ったが、今度は隠さなかった。「今日、お母様と電話でお話ししました」「母と?」「はい」「何を言われた?」「結婚のことです」 雄吾の眉が寄る。「また?」「一条さんと、私たちの結婚について話したそうです」「……絢子と?」「はい」 佳苗は、美佐子から聞いたことをそのまま話した。 絢子が、雄吾は大切なことほど慎重だと言ったこと。 佳苗が前の結婚で傷ついているから、急がないようにしているのではないかと話したこと。「それで私……」 佳苗は少し俯いた。「私たちの結婚のことは、一条さんと話さないでほしいって言いました」「ああ」「お母様、少し嫌そうでした」「だから?」「……」「佳苗」 雄吾は佳苗の向かいに座った。「それの何が悪い?」「悪くないって思いたいです」「思いたいじゃなくて、悪くない」「でも、お母様は一条さんと昔から何でも話していたみたいだから」「俺たちのことまで話す必要はない」「……はい」「それに」 雄吾の声が低くなる。「絢子が何で俺たちの結婚について意見してるんだ」「意見というほどでは……」「同じだ」 雄吾は明らかに不快そうだった。「俺が結婚をどう考え
「あなたと雄吾って……結婚するの?」 佳苗は答えられなかった。 考えたことがなかったわけではない。 雄吾と暮らすようになって。 一緒に食事をして。 帰る場所が同じになって。 この生活がずっと続けばいいと思うことは、何度もあった。 けれど。「……まだ、そういうお話は」「あら、そうなの?」「はい」「てっきり、もう具体的な話が出ているのかと思ってたわ」 美佐子は意外そうだった。「雄吾、あなたのことをずいぶん大切にしているでしょう?」「……はい」「一緒に暮らしてもいるし」「はい」「だから私、当然そのつもりなのかと」 佳苗は曖昧に笑った。「まだ何も聞いていません」「そう……」 美佐子は紅茶に口をつける。「ごめんなさいね。余計なことを聞いて」「いえ」「あなたを急かしたいわけじゃないのよ」「分かっています」「ただ……」 美佐子が少し考えるように首を傾げた。「雄吾ももう、将来のことをきちんと考える年齢でしょう?」「……」「佳苗さんは、結婚したい?」 また答えに困る。「私は……」 したい。 そう答えてしまっていいのだろうか。 雄吾が何も言っていないのに。「できたら……いつかは」「そう」 美佐子は優しく微笑んだ。「だったら、雄吾もちゃんと考えてくれてるといいわね」「……はい」 何も悪い言葉ではなかった。 それなのに。 帰り道も、その言葉がずっと胸に残った。 ◇「ただいま」「おかえり」 家へ戻ると、雄吾は先に帰っていた。「母と会ってたんだろ?」「はい」「また何か言われたか?」「え?」「絢子のこと」「あ……今日は違います」「ならいい」 雄吾はそれ以上聞かなかった。 佳苗も、すぐには言えなかった。 ――私たち、結婚するんですか? そんなことを突然聞けば。 まるで結婚を迫っているようではないか。「佳苗?」「はい?」「何かあっただろ」「……どうして分かるんですか」「顔」 佳苗は困って笑った。「雄吾さんって、そういうところだけよく見てますよね」「そういうところだけって何だ」「何でもありません」 誤魔化そうとした。 けれど雄吾はじっと佳苗を見ている。「母に何を言われた?」「……」「佳苗」「結婚するのかって」 とうとう口にした。 雄吾の表情が
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。