LOGIN藤倉悟。 名前を調べること自体は、難しくなかった。 絢子は佳苗から直接、詳しい事情を聞いたことはない。 けれど、美佐子との何気ない会話の中で、以前結婚していたことは知っている。 そして。 雄吾が佳苗と出会った頃、彼女がひどく傷ついていたことも。(どんな人なのかしら) ただ知りたいだけ。 絢子は自分にそう言い聞かせた。 佳苗を困らせたいわけではない。 雄吾がこれほど守ろうとしている女性が、どんな人生を送ってきたのか。 少し気になっただけ。 そう思いながら、絢子は知人に連絡を取った。 ◇ 数日後。「……これだけ?」 送られてきた情報を見て、絢子は眉を寄せた。 藤倉悟。 佳苗の元夫。 現在も会社員。 離婚後も同じ会社に勤務している。 ただ。『あまり評判はよくないみたい』 知人からのメッセージが続く。『最近、社内でちょっと問題になってるって話もある』「問題?」『そこまでは分からない。経費とか取引関係とか、そのあたりみたいだけど』「……」 絢子の指が止まる。 仕事上の問題など、今はどうでもいい。『それより、この人で間違いない?』 続けて一枚の写真が送られてきた。 絢子は画面を見つめる。 どこにでもいそうな男だった。 少なくとも。 雄吾とはまるで違う。「この人が……」 佳苗の夫だった人。 なぜ別れたのか。 そこまでは分からない。 けれど。 もし悟が佳苗にまだ未練を持っていたら? 絢子はそう考えて、すぐに首を横に振った。「……何考えてるの、私」 人の離婚に首を突っ込むなんて。 そんなことをしてはいけない。 スマートフォンを伏せる。 それなのに。 藤倉悟という名前は、頭から離れなかった。 ◇ 一方。 悟は会社のデスクで、目の前の書類を睨んでいた。「藤倉さん」「はい」「これ、もう一度確認してもらえます?」 経理担当者から差し戻された資料だった。「何か問題ありました?」「この支出なんですけど、添付されてる資料と金額が合ってなくて」「……ああ」 悟の喉がわずかに動く。「それ、前にも説明しましたよね?」「説明は聞きました。でも確認できる書類がないので」「細かいな……」「監査前なんで、お願いします」 担当者はそう言って去っていった。「……くそ」
「私だって、雄吾さんが好きなんです」 佳苗の声を、絢子は廊下で聞いていた。「だから、一条さんが傷つかないようにするために、私と雄吾さんの関係まで小さくすることはできません」 美佐子は何も答えない。 絢子も動かなかった。 やがて、美佐子が小さく息を吐く。「……そんなつもりじゃなかったのよ」「はい」「私はただ、絢子ちゃんも大切で」「分かっています」「小さい頃から知ってるの。娘みたいなものなのよ」「それも分かっています」 佳苗は静かだった。「だから、お母様と一条さんが家族のように付き合うことを、私はやめてほしいなんて思っていません」「……」「でも、一条さんが雄吾さんを好きなことと、それは別です」「そうね」「一条さんが雄吾さんのことで傷つくたびに、私が何かを譲らなきゃいけないなら……」 佳苗は一度言葉を切った。「私も苦しいです」「……ごめんなさい」 今度の謝罪は、これまでとは少し違って聞こえた。「私、絢子ちゃんが泣いているのを見たら、つい……」「はい」「あなたが何かしたわけでもないのにね」 佳苗は目を見開いた。「お母様……」「今日だってそうだわ。あなたは何も言っていないのに」 美佐子が苦笑する。「私が勝手に先回りして、お願いしてしまったのね」「……はい」「ごめんなさい」 佳苗の胸から、少しだけ重いものが消えた。 ようやく。 分かってもらえた気がした。「ありがとうございます」 そのときだった。「……ごめんなさい」 背後から声がした。 二人が振り返る。「絢子ちゃん?」 絢子が立っていた。 目に涙を浮かべて。
数日後。 美佐子から佳苗へ、一通のメッセージが届いた。『来月、主人の誕生日なの。佳苗さんも一緒にお祝いしてくれない?』 佳苗は少しだけ緊張した。 美佐子との関係は、以前よりぎくしゃくしている。 それでも、雄吾の父親の誕生日なら断る理由はない。『はい。ぜひ』 そう返信した。 ◇「父さんの誕生日?」「はい。お母様から誘っていただきました」「俺にも来てる」 雄吾がスマートフォンを見る。「行くか?」「もちろんです」「そうか」 佳苗は少し笑った。「何を持っていけばいいでしょう」「何もいらないだろ」「そういうわけにはいきません」「じゃあ酒」「お酒がお好きなんですか?」「ああ」「じゃあ、一緒に選んでください」「分かった」 久しぶりに。 何の不安もない話ができた。 佳苗は少し嬉しくなった。 ◇ 誕生日当日。 雄吾と佳苗が美佐子の家へ着くと、玄関には見覚えのある靴があった。 佳苗の足が止まる。「……もしかして」 雄吾も気づいたらしい。 眉を寄せた。「絢子か」 リビングへ入る。「あ、来たわね」 美佐子が笑顔で迎えた。 そしてその隣には。「こんにちは」 絢子が立っていた。「……こんにちは」「絢子ちゃんも呼んだの」 美佐子は当然のように言った。「主人も小さい頃から知っているし、毎年お祝いしてくれてるから」「そうなんですね」 佳苗は笑顔を作った。 美佐子と絢子
「ただいま」 夜。 帰宅した雄吾の声を聞いて、佳苗はリビングから顔を上げた。「おかえりなさい」「……どうした?」「え?」「また何かあっただろ」 すぐに気づかれてしまう。 佳苗は少し迷ったが、今度は隠さなかった。「今日、お母様と電話でお話ししました」「母と?」「はい」「何を言われた?」「結婚のことです」 雄吾の眉が寄る。「また?」「一条さんと、私たちの結婚について話したそうです」「……絢子と?」「はい」 佳苗は、美佐子から聞いたことをそのまま話した。 絢子が、雄吾は大切なことほど慎重だと言ったこと。 佳苗が前の結婚で傷ついているから、急がないようにしているのではないかと話したこと。「それで私……」 佳苗は少し俯いた。「私たちの結婚のことは、一条さんと話さないでほしいって言いました」「ああ」「お母様、少し嫌そうでした」「だから?」「……」「佳苗」 雄吾は佳苗の向かいに座った。「それの何が悪い?」「悪くないって思いたいです」「思いたいじゃなくて、悪くない」「でも、お母様は一条さんと昔から何でも話していたみたいだから」「俺たちのことまで話す必要はない」「……はい」「それに」 雄吾の声が低くなる。「絢子が何で俺たちの結婚について意見してるんだ」「意見というほどでは……」「同じだ」 雄吾は明らかに不快そうだった。「俺が結婚をどう考え
「あなたと雄吾って……結婚するの?」 佳苗は答えられなかった。 考えたことがなかったわけではない。 雄吾と暮らすようになって。 一緒に食事をして。 帰る場所が同じになって。 この生活がずっと続けばいいと思うことは、何度もあった。 けれど。「……まだ、そういうお話は」「あら、そうなの?」「はい」「てっきり、もう具体的な話が出ているのかと思ってたわ」 美佐子は意外そうだった。「雄吾、あなたのことをずいぶん大切にしているでしょう?」「……はい」「一緒に暮らしてもいるし」「はい」「だから私、当然そのつもりなのかと」 佳苗は曖昧に笑った。「まだ何も聞いていません」「そう……」 美佐子は紅茶に口をつける。「ごめんなさいね。余計なことを聞いて」「いえ」「あなたを急かしたいわけじゃないのよ」「分かっています」「ただ……」 美佐子が少し考えるように首を傾げた。「雄吾ももう、将来のことをきちんと考える年齢でしょう?」「……」「佳苗さんは、結婚したい?」 また答えに困る。「私は……」 したい。 そう答えてしまっていいのだろうか。 雄吾が何も言っていないのに。「できたら……いつかは」「そう」 美佐子は優しく微笑んだ。「だったら、雄吾もちゃんと考えてくれてるといいわね」「……はい」 何も悪い言葉ではなかった。 それなのに。 帰り道も、その言葉がずっと胸に残った。 ◇「ただいま」「おかえり」 家へ戻ると、雄吾は先に帰っていた。「母と会ってたんだろ?」「はい」「また何か言われたか?」「え?」「絢子のこと」「あ……今日は違います」「ならいい」 雄吾はそれ以上聞かなかった。 佳苗も、すぐには言えなかった。 ――私たち、結婚するんですか? そんなことを突然聞けば。 まるで結婚を迫っているようではないか。「佳苗?」「はい?」「何かあっただろ」「……どうして分かるんですか」「顔」 佳苗は困って笑った。「雄吾さんって、そういうところだけよく見てますよね」「そういうところだけって何だ」「何でもありません」 誤魔化そうとした。 けれど雄吾はじっと佳苗を見ている。「母に何を言われた?」「……」「佳苗」「結婚するのかって」 とうとう口にした。 雄吾の表情が
ほんの一瞬だった。 美佐子に向けていた柔らかな笑顔が消えた。 驚いたというより。 苛立ったような――。「……そうよね」 けれど次の瞬間には、絢子はいつもの表情に戻っていた。「ごめんなさい、おばさま。やっぱり旅行はやめましょう」「でも絢子ちゃん」「雄吾さんの言う通りよ」 絢子は困ったように笑う。「昔と今は違うもの」「……」「私、つい昔と同じ気持ちでいちゃうから駄目なのね」「絢子ちゃんが悪いわけじゃ――」「ううん」 絢子は首を横に振った。「私もちゃんと変わらないと」 そして雄吾を見る。「ごめんね、雄吾さん」「……」「もう昔のことを持ち出さないようにする」「ああ」「じゃあ、私はこれで」 絢子は美佐子にも頭を下げ、その場を離れていった。 雄吾は、その後ろ姿をじっと見つめていた。「雄吾?」「何?」「さっきからどうしたの?」「別に」「絢子ちゃんに冷たすぎない?」「普通だろ」「どこがよ」 美佐子はため息をついた。「旅行くらい、みんなで行けばいいじゃない」「行きたいなら母さんと絢子で行けばいい」「佳苗さんも誘って、仲良くなれば――」「無理に仲良くなる必要はない」「どうしてそんな言い方するの?」 雄吾は母を見る。「母さん」「何?」「最近、絢子から昔の話をよく聞くのか?」「……どういう意味?」「俺と絢子の結婚の話。昔の旅行。それまでほとんど話してなかっただろ」「それは、この前ア
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫







