Masuk翌朝。
佳苗はカーテンの隙間から外を見つめていた。
いつも通りの街。
人が歩き、車が走り、何も変わらない朝。
なのに。
スマホで見た言葉が頭から離れない。
『最低な妻』
『金持ち男に乗り換えた』
胸がざわつく。
まるで外にいる全員が、自分を知っているような気がしてしまう。
「……馬鹿みたい」
小さく呟く。
そんなわけない。
分かっている。
それでも怖かった。
その時。
「起きてたのか」
低い声が聞こえた。
振り向くと、雄吾がネクタイを締めながらリビングへ入ってくる。
「……おはようございます」
「ああ」
短いやり取り。
けれど佳苗は、少しだけ安心した。
雄吾がいるだけで、<
「こんな人、知りません!」 思わず大きな声を出してしまい、佳苗は慌てて口を押さえた。 高瀬は写真を見下ろした。「落ち着いて。君を疑っているわけじゃないよ」「すみません。でも、本当に見覚えがなくて……」 写真には、若い頃の佳苗と悟が写っていた。 場所は、以前二人で訪れたレストランだった。悟の誕生日を祝った日のことを、佳苗は覚えている。 けれど、隣に立つ男性だけが分からない。「この写真、元は二人で撮ったものだったと思います」「そうなの?」「はい。店員さんにお願いして撮ってもらったんです」 佳苗は写真を指さした。「この人、私のすぐ隣に立っていますよね。でも、こんな人と一緒に写真を撮った覚えはありません」 高瀬は画像を拡大した。「確かに、少し不自然なところがあるね」 男性の肩と佳苗の髪が重なる部分に、わずかな違和感があった。「加工された写真かもしれないな」「……そこまでして、何がしたいんでしょう」 佳苗の声が震えた。 昔の写真を勝手に送られるだけでも嫌なのに、知らない男性との関係まで作り上げられている。「このメールについては、情報システム部門にも確認してもらっている。社内で転送しないよう周知するよ」「ありがとうございます」 佳苗は頭を下げ、席に戻った。 佐藤が田中と話している。「写真、合成じゃないかって話になってるらしいよ」「えっ、そうなの?」「だって、あんなメールを会社に送ってくる時点でおかしいじゃん」「まあねえ。でも、わざわざ写真まで作るって怖くない?」 二人は佳苗に気づくと、自然に話をやめた。 気を遣われているのだと分かる。 それでも、何とも言えない居心地の悪さが残った。 午後になり、佳苗は雄吾に写真の件を伝えた。
『明日の朝には、皆さんのお手元に届くと思いますよ』 佳苗はメッセージを読み返した。「……これ、どういう意味だと思う?」 信号待ちで車を停めた雄吾が、画面に目を向けた。「職場に写真を送るつもりだろうな」「でも、悟はまだ渡してないって言ってたのに」「そのあと渡した可能性はある」 佳苗は唇を噛んだ。 悟のことだから、十万円を目の前にちらつかされれば、簡単に気が変わってもおかしくない。「明日、会社に行くのが嫌になってきちゃった」「休んでもいいんだぞ」「ううん。仕事はちゃんとしたい」「そうか」 雄吾はそれ以上勧めなかった。「ただ、メッセージは残しておけ。何か届いたら、高瀬課長にも見せたほうがいい」「うん。そうする」 翌朝。 佳苗が出勤すると、いつもより早く来ていた佐藤が、パソコンの画面を見ながら首を傾げていた。「おはようございます」「あ、おはよう、榊原さん」 佐藤は挨拶を返したあと、少し迷うような顔をした。「ねえ、これって何なんだろう」「どうしました?」「変なメールが来てるんだよね。差出人も知らない人だし」 佳苗の胸がざわついた。「……どんなメールですか?」「榊原さんの名前が書いてあるの」 佐藤が画面を指さした。 件名は『榊原佳苗さんについてのお知らせ』。 本文には、佳苗が以前結婚していたこと、元夫と揉めて離婚したことなどが書かれていた。 そして、写真が数枚添付されている。「これ、開かないほうがいいよね?」「……はい。たぶん」 佳苗は画面から目を離せなかった。 添付ファイルの名前には、見覚えのある日付が並んでいた。 悟との結婚式の日付だっ
「結婚した日と、離婚した日?」 佳苗は思わず聞き返した。「ああ。できれば日付が分かる書類も欲しいって」「……何それ」「俺だって知らねえよ。久世って男がそう言ったんだ」 悟は不機嫌そうに顔をしかめた。「昔の写真なんか、何に使うつもりなんだろうな」 佳苗には、嫌な予感があった。 結婚式の写真。二人で出かけたときの写真。そして、婚姻期間を示す日付。 それらを並べれば、佳苗と悟が夫婦だったことは簡単に証明できる。 けれど、直哉がわざわざそんなものを集める理由が分からない。「それで、悟はどうするつもりなの?」「どうするって……」「写真を渡すの?」 悟は口ごもった。「金を払うって言われてるんだよ」「いくら?」「……十万」 佳苗は呆れてしまった。「十万円で私の写真を売るつもりだったの?」「まだ売ってねえだろ!」 悟が声を荒らげた。 通りかかった女性が振り返り、佳苗は思わず周囲を見回した。「大きな声を出さないで」「悪い。でも、俺だって金に困ってるんだよ」「だからって、私に相談されても困るよ」「じゃあ、どうすりゃいいんだよ!」 悟は苛立たしげに頭をかいた。 佳苗は時計を見た。もう会社に戻らなければならない。「写真を渡すかどうかは悟が決めることだけど、私に何かあったら、あなたが協力したことも分かるからね」「脅すのかよ」「先に私の写真を売ろうとしてるのは誰?」 悟は黙り込んだ。「もう行くね」 佳苗は今度こそ歩き出した。 背後から呼び止める声が聞こえたが、振り返らなかった。 会社に戻ると、昼休みは残りわずかだった。 佳苗
『藤倉さんは、あなたについて随分と言いたいことがあるようですよ』 佳苗は画面を見つめたまま、眉をひそめた。 悟と直哉が接触したらしい。 以前、絢子が悟に近づいたときも、彼は簡単に話に乗っていた。お金になると思えば、今度も喜んで協力するだろう。 佳苗はメッセージを保存し、そのまま駅へ向かった。 帰宅すると、雄吾はすでにリビングにいた。「おかえり」「ただいま。ねえ、また直哉さんから連絡が来たの」 佳苗が画面を見せると、雄吾は黙って目を通した。「藤倉と会ったらしいな」「うん。あの人なら、私の悪口くらいいくらでも言うと思う」「金を要求しているかもしれないな」「悟が?」「ああ。久世から金を引き出せると思えばな」 佳苗は思わず苦笑した。「……ありそう」 以前の悟は、仕事を失ったあと、佳苗にまで金を無心してきた。 直哉のような裕福な男が現れれば、利用しようと考えても不思議ではない。「でも、二人が勝手に揉めるだけならいいんだけど」「そうもいかないだろうな」 雄吾はスマートフォンを返した。「久世の狙いは佳苗だ。藤倉の話を使って、何か仕掛けてくるかもしれない」「……そうだね」 佳苗はソファに腰を下ろした。「私、職場では普通に仕事をしていたいだけなのにな」「分かってる」 雄吾は隣に座り、佳苗の手を取った。「何かあれば俺にも知らせろ」「うん。ありがとう」 翌朝、佳苗はいつもより少し早く出勤した。 高瀬から頼まれていた資料を仕上げ、午前中は落ち着いて仕事を進めることができた。 昼休みになり、佐藤が声をかけてきた。「榊原さん、お昼どうする?」「今日は外で買ってこようかなと思ってます」「そうなんだ。じゃあ、またあとでね」 佳苗は財布を持って会社を出た。 近くのコンビニで昼食を買い、戻ろうとしたときだった。「……佳苗?」 背後から聞こえた声に、足が止まった。 振り返ると、見覚えのある男が立っていた。「……悟?」 藤倉悟だった。 以前より痩せたように見えるが、間違いない。 悟は気まずそうに笑った。「久しぶりだな」「……どうして会社の近くにいるの?」「お前に会いに来たんだよ」 佳苗は眉をひそめた。「久世直哉さんに言われて?」「……知ってたのか」 悟の表情が変わった。「私に何か用?」「いや、別に責め
「ねえ、榊原さん。あの人、どうしてそんなことまで知ってるの?」 佐藤の問いに、佳苗はすぐには答えられなかった。 直哉が自分の過去について何か知っているらしいことは、昨日のメッセージからも感じていた。 けれど、以前の結婚生活まで持ち出してくるとは思わなかった。「……何なんでしょうね、その人」「ほんと、変な電話だったよ。いきなり人の家庭の話をされても困るよね」 佐藤はそう言って肩をすくめた。「仕事に戻ろっか」「はい」 佳苗もパソコンに向き直った。 佐藤に悪気はないのだろう。突然かかってきた電話の内容を、不審に思っているだけだ。 それでも、胸の奥が落ち着かなかった。 直哉は、どうしてそこまで知っているのだろう。 以前、絢子が悟に接触していたことを思い出す。 絢子から聞いたのか、それとも直哉自身が悟に接触したのか。 どちらにしても、気味が悪かった。 昼休みになり、佳苗は給湯室へ向かった。 中から、佐藤と田中の話し声が聞こえてくる。「昨日さ、ほんと変な電話があったんだよ」「ああ、言ってたね。榊原さんのことでしょ?」「そうそう。なんか、奥さんを連れ出したとか、家庭を壊したとか。こっちは仕事中なのにさ」「何それ。痴話喧嘩?」「知らないよ。しかも、前の旦那さんとも揉めてたとか言い出して」 佳苗は足を止めた。「えっ、榊原さんって再婚なの?」「らしいよ。私も知らなかった」「そうなんだ。全然そんな話しないもんね」「まあ、普通は会社でわざわざ言わないでしょ」 二人は笑いながら、別の話題に移った。 佳苗はそのまま給湯室に入ることができず、廊下を引き返した。 佐藤たちが悪口を言っていたわけではない。 むしろ、迷惑な電話だったと話していただけだ。 それなのに、
「私宛て、ですか?」 佳苗は高瀬の差し出した封筒を見つめた。 宛名は確かに自分の名前だった。けれど、差出人の記載はない。「総務から回ってきたんだ。心当たりはある?」「……いえ」 佳苗は封筒を受け取った。 見覚えがあるように感じた筆跡も、よく見ると誰のものなのか分からなかった。「最近の件もあるから、念のため僕のところに持ってきたらしい」「そうだったんですね」「開けるなら、ここで確認する?」「はい。お願いします」 佳苗は封を切り、中に入っていた紙を取り出した。 便箋ではなく、パソコンで印刷された一枚の紙だった。『榊原佳苗様 あなたは久世絢子さんの家庭に介入し、ご主人から奥様を引き離しました。 他人の夫婦関係に口を出すことが、どれほど無責任な行為か理解していますか。 あなたがしていることを、ご主人や勤務先の方々は本当にご存じなのでしょうか』 そこまで読んで、佳苗はため息をついた。「……久世さんだと思います」「例の電話の男性?」「はい。書いてある内容が、電話でおっしゃっていたことと同じなので」 高瀬も紙に目を通し、眉をひそめた。「これは、会社に送ってくるようなものじゃないね」「すみません。何度も……」「朝倉さんが謝ることじゃないよ。むしろ、ここまでされるなら記録を残しておいたほうがいい」 高瀬は封筒を指さした。「それも捨てずに持っておいて。こちらでも、届いた日時は控えておくから」「ありがとうございます」 佳苗は紙を折り直そうとして、ふと手を止めた。 文章の最後に、もう一行あったのだ。『なお、あなたの周囲には、あなたの行動を快く思っていない方がいることもお忘れなく』 昨日のメッセージと、ほとんど同じ内容だった。 佳苗は紙を封筒に戻した。 直哉は、職場の誰かが自分に不満を持っていると思わせたいらしい。 けれど、それが事実かどうかは分からない。「課長、もしまた何か届いたら、教えていただけますか?」「もちろん。ただ、仕事中はあまり気にしないようにね」「はい」 佳苗は席に戻った。 佐藤がいつものように書類を渡してくれる。「榊原さん、これ、確認お願いしてもいい?」「はい。午後までで大丈夫ですか?」「うん、助かる!」 何も変わらない会話だった。 それなのに、佳苗は一瞬、佐藤の顔をじっと見てしまった。
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫







