LOGIN「……これを、私が?」
佳苗はノートパソコンの画面を見つめた。
表示されているのは、商品の説明文。
雄吾の会社が運営している高級インテリアブランドの資料だった。
「ああ」
雄吾は隣で淡々と答える。
「誤字確認と、文章の読みやすさを見てほしい」
「でも、私……」
「専門知識は要らない」
低い声。
「普通に読んで、分かりづらいところを直せばいい」
佳苗は不安げに画面を見る。
ずっと専業主婦だった。
まともに働いたことなんてない。
本当に自分なんかにできるのだろうか。
「……失敗したら」
「その時は直せばいい」
即答だった。
「最初から完璧にできる人間なんかいない」
佳苗は少しだけ目を丸くする。
悟なら絶対に言わなかった言葉だ。
失敗すれば呆れられて、
責めら『今日、佳苗に会いました』 絢子は、そのメッセージをしばらく見つめていた。 会った。佳苗に。 胸の奥に嫌な予感が広がったが、返信はしなかった。自分はもう悟に関わらない。そう決めたのだから。 数分後、またメッセージが届いた。『会社まで行ったんです』『でも榊原が迎えに来て』『結局まともに話せませんでした』 絢子の指が止まった。 会社まで行ったのか。『あいつ、いつも邪魔するんですよ』 続けて届いた言葉に、絢子は眉を寄せた。 以前、悟と話したときにも感じていたことだった。 この男は、佳苗自身の意思を認めようとしない。佳苗が自分を拒絶しているのではなく、雄吾が邪魔をしているのだと思い込んでいる。『一条さんなら分かるでしょう?』『あんただって榊原と話したいのに、佳苗のせいで距離置かれてるんだから』「……違う」 思わず声が漏れた。 確かに、佳苗さえいなければと思ったことは何度もある。今だって佳苗が羨ましい。雄吾に選ばれた佳苗が、どうしようもなく妬ましい。 けれど、だからといって嫌がる佳苗の会社まで押しかけていいとは思わない。 絢子は画面を閉じた。 返事をするつもりはなかった。 ◇ 翌朝。「今日は送る」 朝食を終えた雄吾が言った。「会社までですか?」「ああ」「大丈夫ですよ」「昨日の今日だ」「でも、悟もさすがに――」 言いかけて、佳苗は口をつぐんだ。 ――さすがに。 その言葉はもう、悟には使えない気がした。「……お願いします」「ああ」 以前なら、雄吾に迷惑を掛けたくないと断っていたかもしれない。けれど今は、一人で何もかも抱えることだけが自立ではないと
翌朝。「本当に会社へ連絡するんですか?」「ああ」 雄吾は迷わなかった。「悟が来ると決まったわけじゃないです」「来てからじゃ遅い」「……」「大げさだと思うか?」「少しだけ」「佳苗」 雄吾が真っ直ぐ佳苗を見る。「連絡するなと言われて、普通は母親に連絡しない」「……はい」「しかも母親を使って会わせようともしない」 そう言われると、何も返せなかった。「会社には、元夫が来ても取り次がないでほしいと伝えるだけでいい」「分かりました」「帰りも、しばらく気をつけろ」「はい」「迎えが必要なら言え」「そこまでは大丈夫です」「そうか」 雄吾はそれ以上言わなかった。 佳苗も、自分の会社へ事情を伝えた。 離婚した元夫から繰り返し連絡を受けていること。 今後、訪ねてくる可能性があること。 もし来ても、自分を呼び出さないでほしいこと。 少し恥ずかしかった。 けれど。 伝え終わると、不思議と安心した。 ◇ その日の夕方。「朝倉さん」 退勤の準備をしていた佳苗に、同僚が声を掛けた。「はい?」「受付から連絡」 胸がざわつく。「……何でしょう」「藤倉悟って人、知ってる?」 身体が固まった。「……元夫です」「やっぱり」 同僚の表情が曇る。「来てるみたい」「……」「でも朝言ってたから、受付で断ってくれてるって」 来た。 本当に。「ありがとうございます」「大丈夫?」「はい」 そう答えたものの。 指先が冷たかった。 ◇「佳苗に会わせてください」 悟は受付で苛立っていた。「申し訳ございません。お取り次ぎできません」「何でですか?」「本人から、そのように申しつかっておりますので」「俺、元夫なんですよ」「存じ上げております」「だったら少しくらい――」「お取り次ぎできません」 同じ答えしか返ってこない。「話すだけなんです」「申し訳ございません」「じゃあ、ここで待ちます」「業務の妨げになりますので、お引き取りください」 悟の顔が歪む。「……佳苗がそう言ったんですか?」「お答えできません」「本人に聞くだけでも――」「できません」 周囲から視線を感じる。 悟は舌打ちした。「分かりましたよ」 仕方なく、建物を出た。 だが。 帰るつもりはなかった。
佳苗の母親の連絡先は、まだ悟のスマートフォンに残っていた。 離婚してから、一度も連絡していない。 さすがに気まずさはある。 だが。 悟はしばらく迷った末、電話を掛けた。 数回の呼び出し音。『……もしもし?』「ご無沙汰しています。藤倉です」『藤倉……悟さん?』「はい」 母親の声が明らかに変わった。『どうしたの、突然』「佳苗のことで、少しお話ししたくて」『佳苗?』「俺、佳苗に連絡してるんですけど、全部無視されてて」『……』「とうとうブロックまでされたみたいなんです」『そうなの?』「はい」 悟は少し声を落とした。「俺も、悪かったと思ってます」『……』「離婚のときは色々ありましたけど、今は反省してるんです」『そう……』「だから、一度ちゃんと話したいだけなんです」 嘘ではない。 少なくとも悟自身は、そう思っていた。「でも、佳苗が話も聞いてくれなくて」『あの子、昔から頑固なところがあるからねえ』 その言葉に。 悟の顔が少し明るくなる。 やはり。 この人なら分かってくれる。「そうなんですよ」『一度こうって決めたら、人の話を聞かないところがあるのよ』「はい」『私にも最近、ずいぶん冷たいし』「……そうなんですか?」『そうなのよ』 母親の声に、不満が混じる。『雄吾さんと暮らすようになってからかしらねえ。何だかすっかり変わっちゃって』 悟の眉が動いた。「や
『佳苗にどうしても話したいことがある』 絢子は画面を見つめた。 返信するつもりはなかった。 雄吾にも佳苗にも、もう悟とは関わらないと約束した。 それに。 佳苗が今どこにいるかなど、自分も知らない。 美佐子から聞いたのは、二人で旅行に行っているということだけだ。『知りません』 それだけ送った。 すぐに返信が来る。『旅行行ってるんですよね?』 絢子の指が止まった。『何で知ってるんですか』『一条さんが前に榊原の母親と仲いいって言ってたから』『知ってるかと思っただけです』 悟は知らない。 探りを入れただけ。 絢子は小さく息を吐いた。『場所は知りません』『知っていても教えません』『もう私に連絡しないでください』 送信する。 今度こそ。 これで終わり。 そう思った。 ◇ 一方。「……使えねえな」 悟は舌打ちした。 絢子なら何か知っていると思った。 だが。 佳苗が旅行に行っていることだけは分かった。 榊原と。 二人きりで。「何なんだよ……」 自分はこんな状態なのに。 仕事を失って。 金にも困って。 毎日どうするか考えているのに。 佳苗は金持ちの男と旅行。 あまりにも不公平ではないか。 自分と結婚していた頃。 佳苗はそんな女ではなかった。 贅沢などほとんど言わなかった。 自分のために金を使うことも少なかった。「榊原に変えられたんだ」 悟はそう呟いた。 自分が知っている佳苗なら。 こんな自分を放っておくはずがない。 困っていると言えば心配した。 頼めば助けた。 それが。 今は連絡すら無視する。「一回、ちゃんと会えば……」 話せば分かる。 そう思っていた。 ◇ 温泉地の朝。 佳苗は目を覚ますと、しばらく布団の中でぼんやりしていた。 昨夜。 雄吾と話したことを思い出す。『俺は、佳苗との先を考えてる』『ちゃんと俺たちの始まりにする』「……」 思い出すだけで顔が熱くなった。 プロポーズではなかった。 けれど。 いつか結婚する。 それを二人で確かめられた。 佳苗にとっては、それだけで十分だった。「起きたか?」「……はい」 隣の部屋から雄吾の声がする。 この旅館でも、寝室は別にしてもらっていた。 雄吾は急かさない。 何も。 佳苗
「いつ行くんですか?」 佳苗はパンフレットを開きながら尋ねた。「来週末。空いてるか?」「はい」「じゃあ予約する」「……早いですね」「嫌か?」「嫌じゃないです」 むしろ。 二人きりで旅行へ行くことが嬉しかった。 雄吾と暮らしていても、最近は絢子や美佐子、悟の話ばかりだった。 誰かの気持ちを考えて。 誰かとの境界を決めて。 いつの間にか、二人だけの時間が減っていた。「楽しみです」「そうか」 雄吾が笑う。 その顔を見て。 佳苗も自然と笑った。 ◇ 一週間後。 二人が訪れたのは、山間にある静かな温泉地だった。「すごい……」 案内された部屋の窓からは、山々が見渡せた。 少し色づき始めた木々。 川の流れる音。 そして、部屋には小さな露天風呂までついている。「雄吾さん」「ん?」「ここ、高かったんじゃないですか?」「最初に言うことがそれか」「だって……」「気にするな」「でも」「佳苗」「はい」「今日は金の心配禁止」「……そんな禁止あります?」「今作った」 佳苗は思わず笑った。「横暴です」「知ってる」 そんなやり取りさえ。 今日は妙に楽しかった。 ◇ 夕食を終えて。 二人は部屋へ戻った。 窓際の椅子に並んで座る。「静かですね」「ああ」「家も静かですけど」
「絢子から、話があった」 その夜。 雄吾が帰宅すると、すぐに佳苗へそう告げた。「……はい」「悟を調べて連絡したことも認めた」「何て言っていました?」「佳苗に嫉妬したって」 佳苗は目を伏せた。 メッセージで聞いた言葉と同じだった。「俺がどうして佳苗を大切にするのか、知りたかったらしい」「……そうですか」「納得はしてない」 雄吾ははっきり言った。「嫉妬したからって、元夫まで調べて連絡するのはおかしい」「はい」「もう佳苗のことは調べない。悟にも連絡しないとは言ってた」「それなら……」 佳苗は少し迷ってから続けた。「もう、それでいいです」「いいのか?」「許すとかじゃありません」 佳苗は首を横に振る。「ただ、これ以上一条さんが何を考えていたのか考え続けたくないんです」 悟から逃げたあと。 佳苗はずっと。 他人の機嫌や気持ちを考えていた。 どうすれば怒らせないか。 どうすれば傷つけないか。 自分が我慢すれば済むのではないか。 絢子と出会ってからも、いつの間にか同じことをしていた。「一条さんが雄吾さんを好きでも、それは一条さんの気持ちです」「ああ」「私にはどうにもできません」「ああ」「だから私は、私が嫌なことだけ言います」 雄吾が少し笑った。「それでいい」「はい」「俺も同じにする」「雄吾さんも?」「絢子がどういうつもりかじゃなくて、何をしたかで判断する」 佳苗は頷いた。 それなら。 もう絢子の言葉一つ一つに、振り回されなくていい。 そう思えた。 ◇ けれど。 絢子が悟への連絡を絶っても。 悟の方は終わっていなかった。『あの女と話した』 佳苗のスマートフォンに、またメッセージが届いた。『一条って女、榊原のこと好きなんだろ』 佳苗は返信しなかった。『お前、知ってたのか?』 無視する。『榊原の母親とも家族みたいな付き合いらしいな』『お前、あの家で本当にうまくやれてるのか?』 佳苗の指が止まった。 絢子が悟へ話した内容なのだろう。 以前なら。 胸の奥に刺さっていたかもしれない。 けれど今は。 佳苗は画面を閉じた。「……関係ない」 悟に心配されることではない。 自分と雄吾の関係は。 自分と雄吾で決める。 ◇ 数日後。 悟は焦っていた。
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫