LOGIN土曜日の午後、佳苗は雄吾と一緒に百貨店へ出かけた。
目的は、仕事用のバッグを買うことだ。
「どんなのが欲しいんだ?」
「書類が入って、あんまり重くなくて、ちゃんと自立するものかな」
「色は?」
「黒かベージュ。仕事で使うから、あんまり派手じゃない方がいいと思う」
「分かった」
雄吾は頷くと、バッグ売り場へ向かった。
佳苗はその後ろ姿を見ながら、少し笑った。
こういう買い物に、雄吾がどれほど興味を持つのかと思っていたが、意外と真剣らしい。
「これなんかどうだ?」
最初に雄吾が手に取ったのは、上品な革のバッグだった。
「可愛いけど……」
「けど?」
「ちょっと重いかな」
「そうか」
雄吾はすぐに戻した。
次に佳苗が選んだのは、軽い素材でできたシンプルなバッグだった。
「これ、よさそう」
佳苗は絢子から届いたメッセージを、もう一度読み返した。『直哉さんには、私から連絡があったことを言わないでくれる?』 ただ食事の誘いを断るだけなら、こんなお願いをする必要はないはずだ。「……何か事情があるのかな」 佳苗が呟くと、雄吾は隣に腰を下ろした。「かもしれないな」「でも、結婚したばかりなのに……」「結婚したからって、何もかも夫に話す必要はないだろ」「それはそうだけど」 佳苗は少し考え、絢子に返信した。『分かりました。こちらから久世さんにお話しすることはありません。ただ、何か困っていることがあるなら、無理しないでくださいね』 送信してから、余計なことを書いただろうかと思った。 絢子とは、決して親しい間柄ではない。以前のことを考えれば、むしろ距離を置いて当然の相手だ。 けれど、披露宴で見た彼女の表情が忘れられなかった。 しばらくして、返信が届いた。『ありがとう。でも大丈夫よ。おやすみなさい』 それきり、絢子からの連絡は途絶えた。「大丈夫だって」 佳苗が画面を見せると、雄吾は頷いた。「なら、今はそれ以上聞かなくていい」「うん」「それと、久世の誘いは断る」「絢子さんが嫌がってるから?」「それもあるが、俺自身、あいつと私的に付き合うつもりはない」 雄吾はスマートフォンを手に取った。「仕事なら会社を通せばいい。妻同士の付き合いまで持ち出す必要はないだろ」 佳苗はその言葉に頷いた。 雄吾が送ったのは、予定が合わないため食事は遠慮する、という簡潔な返事だった。 ところが翌朝、思いがけないことが起きた。 朝食を終えた雄吾のスマートフォンに、直哉から電話がかかってきたのだ。「久世か」 雄吾は画面を確認し、通話に出た。
「奥様にお願いしたいことって……何だろう?」 佳苗は雄吾のスマートフォンを見つめた。 結婚式で初めて会ったばかりの直哉が、自分に何を頼もうというのだろう。「さあな」 雄吾は短く答え、画面を閉じた。「返事しなくていいの?」「急ぐ話なら、向こうから用件を言ってくるだろう」「でも、絢子さんの旦那さんだし……」「それとこれとは別だ」 雄吾は佳苗の顔を見た。「気になるか?」「うん。私に何か用事があるみたいだから」「だったら聞いてみる」 雄吾はスマートフォンを操作し、簡潔な返信を送った。『妻への用件なら、先に内容を教えてくれ』 それを見て、佳苗は思わず笑った。「雄吾らしいね」「何が?」「回りくどいことをしないところ」「食事に誘う理由を聞いただけだ」 雄吾は当然のように言った。 けれど、佳苗にはそれが少し嬉しかった。 以前なら、雄吾に守られてばかりいることに戸惑ったかもしれない。今は、必要なときには頼っていいし、自分の意見もきちんと伝えられる。 そんな関係になれたことが、何より嬉しい。 自宅に着く頃になって、ようやく直哉から返信が届いた。『そんなに警戒しなくてもいいだろう。絢子が奥様と親しくなりたがっているんだよ。せっかくの機会だから、夫婦同士で交流したいと思ってね』「……絢子さんが?」 佳苗は首を傾げた。 結婚式では、絢子からそんな話は一度も出なかった。 むしろ帰り際には、直哉が食事会の話を持ち出したとき、何か言いかけていたように思う。「雄吾、これって本当なのかな」「分からん」「絢子さん、私と仲よくしたいって言ってた?」「いや。少なくとも俺は聞いてない」「だよね……」 佳苗は少し考えてから、雄吾を見上げた。「ねえ、私から絢子さんに聞いてみてもいい?」「連絡先は知ってるのか?」「前に交換したままだから。でも、ずっと連絡してないけど」「無理に関わる必要はないぞ」「うん。ただ、本人が本当にそう思ってるなら、ちゃんと返事したいなって」 雄吾は少し考え、頷いた。「分かった。ただし、嫌なことを言われたら付き合わなくていい」「分かってる」 佳苗は笑って答えた。 その夜、着替えを済ませてから、佳苗は久しぶりに絢子とのメッセージ画面を開いた。 最後のやり取りは、もうずいぶん前だ。 少し迷った末、短い文
直哉が絢子の肩から手を離すと、彼女はしばらくその場に立ち尽くしていた。「絢子?」 美佐子に声をかけられ、絢子ははっとしたように顔を上げた。「……あ、すみません。少しお願いがあるんです」「お願い?」 絢子は雄吾に視線を向けた。「雄吾さん、あとで直哉さんと少しお話ししていただけないかしら」「話?」「ええ。仕事のことで、相談したいことがあるそうなの」 雄吾は直哉を見た。「仕事の話なら、改めて時間を取ればいいだろう」「そうなんだけどね」 直哉は悪びれる様子もなく笑った。「せっかく顔を合わせたんだ。少しくらいいいじゃないか。絢子からも頼んでもらおうと思ってね」 佳苗は思わず絢子を見た。 自分の結婚披露宴で、新郎に頼まれて昔の友人に仕事の話を持ちかける。 それも、あまり気持ちのいい役目ではないだろう。「直哉さん、今日はお祝いの席だから……」 絢子が控えめに言うと、直哉は彼女の言葉を遮った。「だからこそだよ。こういう席での縁を大事にするのも、経営者の仕事だからね」 そして雄吾に向き直る。「君なら分かるだろう?」「分からんな」 雄吾は即答した。「今日はお前たちの結婚式だ。仕事の話をするために来たわけじゃない」 一瞬、直哉の口元が引きつった。 しかし、すぐに笑顔を取り戻す。「相変わらず融通が利かないな、榊原は」「必要なら会社を通して連絡してくれ」「分かったよ。そうさせてもらおう」 直哉は軽く手を上げた。「絢子、次のテーブルに行こうか」「ええ……」 絢子は佳苗たちに頭を下げ、夫のあとを追った。 その背中を見送りながら、美佐子が小さくため息をついた。
披露宴が始まると、会場は華やかな祝福の空気に包まれた。 絢子と直哉の出会いを紹介する映像が流れ、招待客たちから温かな拍手が起こる。 佳苗も拍手を送りながら、壇上の二人を見つめていた。 絢子は幸せそうに微笑んでいる。少なくとも、遠目にはそう見えた。「絢子さん、本当に綺麗ね」 隣に座る美佐子が、目を細めた。「ええ。ドレスもよく似合っていますね」「小さい頃から知っている子だから、なんだか感慨深いわ」 美佐子は懐かしそうに言った。「直哉さんも立派な方だそうよ。久世家とはお仕事のお付き合いもあるみたいね」 佳苗はちらりと雄吾を見た。 雄吾はグラスを置き、静かに答えた。「仕事ができるのは確かだ」「あら、雄吾がそう言うなら間違いないわね」「それと人柄は別の話だが」 美佐子は不思議そうに息子を見たが、ちょうど料理が運ばれてきたため、それ以上は尋ねなかった。 しばらくして、新郎新婦が各テーブルを回り始めた。「皆さん、今日はありがとうございます」 直哉は朗らかな笑顔で挨拶し、絢子も隣で丁寧に頭を下げる。 佳苗たちのテーブルに来ると、直哉は真っ先に雄吾へ声をかけた。「榊原、料理はどうだい? ここのシェフには少し無理を聞いてもらったんだ」「うまいよ」「それはよかった。君は舌が肥えているからね」 直哉は満足そうに頷くと、今度は佳苗へ視線を向けた。「ところで、奥様はお仕事をされているんでしたね」「はい。会社勤めをしています」「ほう。榊原の会社で?」「いいえ、別の会社です」「それは意外だな」 直哉は目を丸くした。「社長夫人ともなれば、いろいろお忙しいでしょう。お勤めを続けるのは大変じゃありませんか?」「今のところ、問題なく働けています」「なるほど。ご自分のお仕事がお好きなんですね」
絢子の結婚式は、都内でも格式の高いホテルで開かれた。 当日、佳苗は淡いブルーのドレスに身を包み、雄吾とともに会場へ向かった。「変じゃないかな?」 車の中で、佳苗は膝の上に置いたバッグを持ち直した。「何が?」「このドレス。ちょっと地味だったかも」「似合ってる」「本当?」「ああ。綺麗だ」 雄吾があまりに自然に言うので、佳苗は頬を赤くした。「……ありがとう」「さっきから三回目だぞ」「だって、こういう結婚式って緊張するんだもの」「俺と一緒なんだから、気楽にしてろ」 そう言って、雄吾は佳苗の手を握った。 ホテルに到着すると、広々としたロビーには美しい花が飾られ、着飾った招待客たちが行き交っていた。 受付を済ませたところで、聞き慣れた声がした。「雄吾さん、佳苗さん」 振り向くと、美佐子が立っていた。「あら、佳苗さん。素敵なドレスね」「ありがとうございます。お義母さんも、とてもお綺麗です」「まあ、ありがとう。絢子さんの花嫁姿、楽しみね」 美佐子は嬉しそうだった。 絢子とは長い付き合いがあるのだから、結婚を喜ぶ気持ちも大きいのだろう。 やがて挙式が始まり、佳苗たちはチャペルへ案内された。 純白のウェディングドレスをまとった絢子は、息を呑むほど美しかった。 ゆっくりとバージンロードを歩く姿は堂々としていて、以前のような刺々しさは感じられない。 新郎の久世直哉は、背が高く、端正な顔立ちの男性だった。 柔らかな笑みを浮かべて絢子を迎える姿は、絵に描いたような新郎に見えた。 佳苗は小さく息をついた。 よかった。 絢子は本当に、新しい幸せを見つけたのかもしれない。 挙式が終わり、披露宴会場へ移動すると、絢子と直哉が招待客を迎えていた。「雄吾さん。今日は来てくださってありがとう」 絢子が微笑んだ。「結婚おめでとう」「ありがとう。佳苗さんも、来てくださって嬉しいわ」「ご結婚おめでとうございます。とても綺麗でした」「ありがとう」 絢子は少し照れたように笑った。 その表情は以前よりずっと穏やかで、佳苗はほっとした。 ところが、その隣にいた直哉が口を開いた。「榊原。まさか本当に来てくれるとは思わなかったよ」 親しげな口調だった。 けれど、雄吾は表情を変えない。「招待されたからな。結婚おめでとう」「ありがとう
土曜日の午後、佳苗が買い物から帰ると、雄吾がリビングで一通の封筒を眺めていた。「ただいま。何か届いたの?」「ああ。結婚式の招待状だ」「結婚式?」 雄吾の知人だろうか。 佳苗が何気なく尋ねると、雄吾は封筒をテーブルに置いた。「絢子からだ」「……えっ?」 思いがけない名前に、佳苗は足を止めた。 一条絢子。 雄吾の幼なじみで、以前は家族ぐるみの付き合いがあった女性だ。 佳苗に対して何かと含みのある言動を繰り返し、最後には悟にまで接触していたことが発覚した。 あれ以来、ほとんど名前を聞かなくなっていたのに。「絢子さん、結婚するの?」「そうらしい」「知らなかった……」「俺もだ。母さんは聞いていたみたいだが」 雄吾は招待状を佳苗に渡した。 上質な紙に、結婚式の日付と会場が記されている。 そして、新郎の名前。『久世直哉』「久世……さん?」「ああ」「雄吾の知ってる人?」「知ってる」 短い返事だった。 佳苗が顔を上げると、雄吾はわずかに眉を寄せていた。「仲がいいの?」「いや」「……そうなんだ」 それ以上聞いていいものか迷っていると、雄吾が続けた。「同業の会社を経営してる男だ。仕事で何度かぶつかったことがある」「ライバル会社ってこと?」「まあ、そうだな」 佳苗は改めて招待状を見た。 絢子の結婚相手が、雄吾の仕事上のライバル。 偶然なのだろうか。「それにしても、どうして私たちを招待したんだろう」「昔からの付き合いがあるからだろ。母さんにも届いてる」「そうなん
ホテルへ入る佳苗と雄吾。 暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。「……どうして」 佳苗の指先が震える。 まるで誰かに見張られていたみたいだった。『ねぇお姉ちゃん』『その人、誰?』『もしかして浮気?』 次々届くメッセージ。 佳苗は顔を青ざめさせた。 浮気。 その言葉に胸が痛む。 裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。「見せろ」 雄吾が静かにスマホを受け取る。 メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。「……なるほど」「先輩」「撮られていたな」 低い声。 感情を押し殺したような響き。「どうしよう……」
「俺は昔から、お前しか欲しくない」 低い声が耳元で響く。 佳苗は息を呑んだ。 車内の空気が熱い。 逃げ場がない。 雄吾の視線は真っ直ぐで、冗談の気配なんて微塵もなかった。「……先輩」 喉が震える。 理解が追いつかない。 昔から? ずっと? そんなはずない。 自分は特別な人間じゃない。 妹みたいに愛嬌があるわけでも、美人なわけでもない。 ただ都合よく利用されるだけの女だった。「信じられないか」 雄吾が静かに言う。 佳苗は答えられなかった。 すると雄吾は小さく息を吐き、身体を離す。「まあいい」「え……」「今すぐ答えを求める気はない」 その言葉に、佳苗は
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。







