LOGIN週末、恵は母に呼ばれて実家を訪れた。
「最近、ちゃんと食べてるの?」
「食べてるよ」
「仕事は?」
「普通」
母が淹れたお茶を飲みながら、他愛のない話をする。
こうして会うこと自体は嫌ではなかった。
問題は、その先だった。
「ねえ、恵」
「何?」
「この前話したこと、考えてくれた?」
一緒に暮らさないかという話だ。
「考えたけど、やっぱり無理」
「どうして?」
「今の生活変えたくないから」
「でも、一人暮らしだってお金かかるでしょう? ここなら家賃も浮くじゃない」
「お母さんと暮らすために仕事してるわけじゃないし」
母の顔が曇る。
「そんな言い方しなくてもいいでしょう」
「ごめん。でも、一緒には住まないよ」
「佳苗も結婚して出ていったし、あなたまで……」
<週末、恵は母に呼ばれて実家を訪れた。「最近、ちゃんと食べてるの?」「食べてるよ」「仕事は?」「普通」 母が淹れたお茶を飲みながら、他愛のない話をする。 こうして会うこと自体は嫌ではなかった。 問題は、その先だった。「ねえ、恵」「何?」「この前話したこと、考えてくれた?」 一緒に暮らさないかという話だ。「考えたけど、やっぱり無理」「どうして?」「今の生活変えたくないから」「でも、一人暮らしだってお金かかるでしょう? ここなら家賃も浮くじゃない」「お母さんと暮らすために仕事してるわけじゃないし」 母の顔が曇る。「そんな言い方しなくてもいいでしょう」「ごめん。でも、一緒には住まないよ」「佳苗も結婚して出ていったし、あなたまで……」「お姉ちゃんは前からここに住んでないじゃん」 恵は思わず突っ込んだ。 佳苗は悟と結婚していた頃から、母とは別に暮らしていた。雄吾と結婚したから突然家を出たわけではない。「そういう意味じゃないわよ。もう完全に向こうの家の人になったってこと」「結婚しても娘でしょ?」「だったら、もう少し親のことを考えてくれてもいいじゃない」 結局、そこへ戻る。 恵は小さく息を吐いた。「お母さん、寂しいの?」「……何よ、急に」「寂しいから、私に一緒に住んでほしいんでしょ?」「親が娘と暮らしたいと思うのは普通でしょう」「普通かどうかじゃなくて、お母さんがどうなのって聞いてるの」 母は答えなかった。 その沈黙で十分だった。「寂しいなら、ときどき来るよ。ご飯も食べようよ」「だったら一緒に住めばいいでしょう?」「それは
数日後、美佐子から佳苗へ連絡があった。『少しだけ、お話ししておきたいことがありますの』「何でしょう?」『先日、偶然お母様にお会いしたの』「母に?」 佳苗は思わず聞き返した。『ええ。ホテルでね。少しお茶をご一緒したのだけれど、そのとき食事代のお話が出たの』「……すみません」『佳苗さん』 美佐子の声が少しだけ強くなる。『あなたが謝ることではありませんでしょう?』「あ……はい」『私も雄吾から、お金のことで何か言われても勝手に返事をしないようにと言われていましたから。何もお約束していません』「ありがとうございます」『ただ、お母様は少し寂しく感じていらっしゃるようでした』 佳苗は黙った。『もちろん、だから佳苗さんが何かして差し上げるべきだと言っているわけではありませんよ』「はい」『以前の私なら、そう言ってしまったかもしれませんけれど』 美佐子は小さく笑った。『でも今は、親が寂しいことと、子供がそれを埋めなければならないことは別なのだと思っています』 その言葉に、佳苗は少し驚いた。「お母様、変わりましたね」『まあ。褒めてくださっているの?』「もちろんです」『それなら素直に喜んでおきますわ』 電話を切ったあと、佳苗はしばらく考えていた。 母が寂しい。 それ自体は理解できる。 けれど、だからといって以前のように母の機嫌を取るため、自分が折れるつもりはなかった。 ◇ その日の夜、恵からメッセージが届いた。『お母さんとなんかあった?』『どうして?』『最近めっちゃ面倒くさい』 佳苗は思わず笑ってしまった。『何て言ってるの?』『私たち二人とも結婚したら、お母さん一人になるとか』
それから数日は何も起きなかった。 佳苗も母へ連絡せず、向こうからも連絡は来ない。 そんなある日、美佐子は知人との食事を終え、ホテルのロビーを歩いていた。「美佐子さん?」 名前を呼ばれて振り返ると、見覚えのある女性が立っていた。「あら、佳苗さんのお母様」「やっぱり! こんなところで会うなんて」 顔合わせ以来だった。「今日はどうなさったの?」「ちょっと近くまで買い物に来たんです。美佐子さんは?」「私は友人と食事をしていたところです。もしお時間があるようでしたら、お茶でもいかが?」「いいんですか?」「ええ、もちろん」 二人はそのままロビーラウンジへ向かった。 ◇ 最初は当たり障りのない話だった。 結婚した二人のことや仕事のこと。先日、雄吾が家を訪ねたことを話すと、美佐子は楽しそうに笑った。「雄吾さん、本当に優しいですね。食器まで運んでくれて、『もう家族でしょう』なんて言ってくれたんですよ」「まあ。雄吾がそんなことを?」「本当に、いい人と結婚できてよかったと思ってるんです」「そう言っていただけると、私も嬉しいですわ」 そこまでは和やかだった。「ただ……」 佳苗の母がわずかに表情を曇らせる。「何かございました?」「こんなこと、美佐子さんに言うことじゃないんですけど。最近、佳苗が少し冷たくて」 その前置きで、美佐子は先日の雄吾からの電話を思い出した。「二人が来るから、ちょっと張り切って食事を用意したんです。それで思ったよりお金がかかってしまって……あとから佳苗に、一万円だけ出してくれないかって頼んだんですよ」「そうでしたの」「でも、招待したのにあとから請求するのはおかしいって言われてしまって」 困ったように笑ってから、探るように美佐子を
「また怒らせたかな」 夜。 佳苗が今日のやり取りを雄吾に見せると、雄吾は一通り読んでからスマートフォンを返した。「怒ってるだろうな」「やっぱり」「でも、それと佳苗が間違ってるかは別だろ」「はい」「母さんにも言っておくか?」「何をですか?」「もし佳苗の母親から何か言われても、俺たちに確認してから返事してくれって」 佳苗は少し迷った。「そこまでしなくてもいい気もするんですけど……」「連絡先知らないんだろ?」「多分」「なら今すぐ何かあるとは思わないけどな」 雄吾も強くは勧めなかった。「ただ、金の話が出たら勝手に約束しないようには前から言っておく」「それは……お願いします」「ああ」「なんか、すみません」 言った直後、佳苗は口を押さえた。「また謝った」「分かってるならいい」「でも、私の家族のことで」「佳苗が頼んでやらせてるわけじゃないだろ」「はい」「なら佳苗が謝ることじゃない」 佳苗は頷いた。 ◇ 翌日。 雄吾は美佐子へ電話を掛けた。『何?』「一つだけ言っとく」『何よ、改まって』「佳苗の母親から、もし金の話をされたら、その場で何も約束するな」 電話の向こうが静かになる。『……何かあったの?』「少しな」『佳苗さん、大丈夫?』「ああ」『お母様と揉めたの?』「詳しい話は佳苗と母親の間のことだから、俺からは言わない」『そう』 美佐子はそれ以上聞かなかった。
翌朝になっても、母親の怒りは収まっていなかった。 むしろ一晩考えたことで、自分の方が正しいという気持ちが強くなっていた。 二万円すべてを払えと言ったわけではない。 半分だけ。 しかも、佳苗たちをもてなすために使った金だ。「それくらい普通でしょう」 呟きながら、母親はスマートフォンを操作した。 昨夜、美佐子へ連絡する方法を探してみたものの、当然ながら個人の連絡先など出てこない。 雄吾の会社へ電話することも考えた。 しかし、それはやめた。 悟が会社へ押しかけた話を思い出したからだ。 自分まで同じことをすれば、佳苗に何を言われるか分からない。 それに。 雄吾へ話したいわけではない。 美佐子と話したいのだ。「今度会ったときに聞けばいいか……」 結婚したのだから、これから両家で会う機会もあるだろう。 そう考え、母親はいったんスマートフォンを置いた。 ◇ 数日後。 佳苗のもとへ、美佐子から電話が掛かってきた。『佳苗さん、今大丈夫?』「はい。どうしました?」『ちょっと聞きたいことがあって』「何ですか?」『お母様のことなんだけど』 佳苗の胸がわずかに緊張した。「母が何かしました?」『違うの。何もされてないわよ』 美佐子はすぐに否定した。『ただ、今度こちらからご挨拶に伺った方がいいのかしらと思って』「挨拶?」『結婚したでしょう? 顔合わせはしたけど、その後は何もしてないし』「別に大丈夫だと思います」『そう?』「はい。母もこの前、私たちを家に呼んでくれましたし」『まあ、そうなの?』「はい」『雄吾も行ったの?』「一緒に」
◇ 仕事を終え、帰宅した佳苗は、そのことを雄吾に話した。「一万円?」「はい」「払ったのか?」「払ってません」「そうか」「……やっぱり払った方がよかったですか?」 雄吾が佳苗を見る。「佳苗は払いたかったのか?」「払いたくはなかったです」「なら、それでいいだろ」「でも、一万円くらいなら出せるし……」「出せるかどうかと、出したいかどうかは別だ」 顔合わせのときにも似た話をした。 雄吾にとって三十万円が大きいかどうかと、悟に貸す理由があるかどうかは別。 金額が小さければ、嫌なことでも受け入れなければならないわけではない。「次から、食事代が必要なら先に言ってって伝えました」「それで十分だと思う」「はい」 佳苗は頷いた。 それでも、胸の奥には少しだけ罪悪感が残っていた。 ◇ その頃。 母親は一人、昨日の残り物を食べていた。「何よ……」 二万円も使った。 娘夫婦のために。 雄吾が来るから恥をかかないように、普段なら買わないものまで用意した。 なのに一万円さえ出してくれない。「家族なのに」 雄吾は言った。『もう家族でしょう?』 あれは嘘だったのだろうか。 家族なら。 少しくらい困ったときに助けてくれてもいいはずだ。 別に、贅沢をさせろと言っているわけではない。 たった一万円。 それさえ拒む佳苗の方がおかしいのではないか。 母親はそう考えながら、スマートフォンを手に取った。 佳苗にはもう言いたくない。 雄吾にも直接言えば、また佳苗の味
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。







