LOGIN月曜日の朝。
目覚まし時計が鳴る少し前に、佳苗は目を覚ました。
カーテンを開けると、青空が広がっている。
昨日までの休日が夢だったように、いつもの朝が始まった。
身支度を整え、リビングへ向かう。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
キッチンから味噌汁の香りが漂ってくる。
雄吾はエプロン姿で朝食の準備をしていた。
その姿も、もうすっかり見慣れた光景になっている。
「今日は私がやります」
佳苗がエプロンへ手を伸ばすと、雄吾は首を横に振った。
「昨日は出掛けて疲れただろ」
「でも……」
「今日は俺がやる」
その言い方があまりにも雄吾らしくて、佳苗は思わず笑ってしまう。
「分かりました」
二人で朝食を囲む。
味噌汁を飲み、ご飯を口へ運ぶ。
恋人になったからといって、
佳苗の母親の連絡先は、まだ悟のスマートフォンに残っていた。 離婚してから、一度も連絡していない。 さすがに気まずさはある。 だが。 悟はしばらく迷った末、電話を掛けた。 数回の呼び出し音。『……もしもし?』「ご無沙汰しています。藤倉です」『藤倉……悟さん?』「はい」 母親の声が明らかに変わった。『どうしたの、突然』「佳苗のことで、少しお話ししたくて」『佳苗?』「俺、佳苗に連絡してるんですけど、全部無視されてて」『……』「とうとうブロックまでされたみたいなんです」『そうなの?』「はい」 悟は少し声を落とした。「俺も、悪かったと思ってます」『……』「離婚のときは色々ありましたけど、今は反省してるんです」『そう……』「だから、一度ちゃんと話したいだけなんです」 嘘ではない。 少なくとも悟自身は、そう思っていた。「でも、佳苗が話も聞いてくれなくて」『あの子、昔から頑固なところがあるからねえ』 その言葉に。 悟の顔が少し明るくなる。 やはり。 この人なら分かってくれる。「そうなんですよ」『一度こうって決めたら、人の話を聞かないところがあるのよ』「はい」『私にも最近、ずいぶん冷たいし』「……そうなんですか?」『そうなのよ』 母親の声に、不満が混じる。『雄吾さんと暮らすようになってからかしらねえ。何だかすっかり変わっちゃって』 悟の眉が動いた。「や
『佳苗にどうしても話したいことがある』 絢子は画面を見つめた。 返信するつもりはなかった。 雄吾にも佳苗にも、もう悟とは関わらないと約束した。 それに。 佳苗が今どこにいるかなど、自分も知らない。 美佐子から聞いたのは、二人で旅行に行っているということだけだ。『知りません』 それだけ送った。 すぐに返信が来る。『旅行行ってるんですよね?』 絢子の指が止まった。『何で知ってるんですか』『一条さんが前に榊原の母親と仲いいって言ってたから』『知ってるかと思っただけです』 悟は知らない。 探りを入れただけ。 絢子は小さく息を吐いた。『場所は知りません』『知っていても教えません』『もう私に連絡しないでください』 送信する。 今度こそ。 これで終わり。 そう思った。 ◇ 一方。「……使えねえな」 悟は舌打ちした。 絢子なら何か知っていると思った。 だが。 佳苗が旅行に行っていることだけは分かった。 榊原と。 二人きりで。「何なんだよ……」 自分はこんな状態なのに。 仕事を失って。 金にも困って。 毎日どうするか考えているのに。 佳苗は金持ちの男と旅行。 あまりにも不公平ではないか。 自分と結婚していた頃。 佳苗はそんな女ではなかった。 贅沢などほとんど言わなかった。 自分のために金を使うことも少なかった。「榊原に変えられたんだ」 悟はそう呟いた。 自分が知っている佳苗なら。 こんな自分を放っておくはずがない。 困っていると言えば心配した。 頼めば助けた。 それが。 今は連絡すら無視する。「一回、ちゃんと会えば……」 話せば分かる。 そう思っていた。 ◇ 温泉地の朝。 佳苗は目を覚ますと、しばらく布団の中でぼんやりしていた。 昨夜。 雄吾と話したことを思い出す。『俺は、佳苗との先を考えてる』『ちゃんと俺たちの始まりにする』「……」 思い出すだけで顔が熱くなった。 プロポーズではなかった。 けれど。 いつか結婚する。 それを二人で確かめられた。 佳苗にとっては、それだけで十分だった。「起きたか?」「……はい」 隣の部屋から雄吾の声がする。 この旅館でも、寝室は別にしてもらっていた。 雄吾は急かさない。 何も。 佳苗
「いつ行くんですか?」 佳苗はパンフレットを開きながら尋ねた。「来週末。空いてるか?」「はい」「じゃあ予約する」「……早いですね」「嫌か?」「嫌じゃないです」 むしろ。 二人きりで旅行へ行くことが嬉しかった。 雄吾と暮らしていても、最近は絢子や美佐子、悟の話ばかりだった。 誰かの気持ちを考えて。 誰かとの境界を決めて。 いつの間にか、二人だけの時間が減っていた。「楽しみです」「そうか」 雄吾が笑う。 その顔を見て。 佳苗も自然と笑った。 ◇ 一週間後。 二人が訪れたのは、山間にある静かな温泉地だった。「すごい……」 案内された部屋の窓からは、山々が見渡せた。 少し色づき始めた木々。 川の流れる音。 そして、部屋には小さな露天風呂までついている。「雄吾さん」「ん?」「ここ、高かったんじゃないですか?」「最初に言うことがそれか」「だって……」「気にするな」「でも」「佳苗」「はい」「今日は金の心配禁止」「……そんな禁止あります?」「今作った」 佳苗は思わず笑った。「横暴です」「知ってる」 そんなやり取りさえ。 今日は妙に楽しかった。 ◇ 夕食を終えて。 二人は部屋へ戻った。 窓際の椅子に並んで座る。「静かですね」「ああ」「家も静かですけど」
「絢子から、話があった」 その夜。 雄吾が帰宅すると、すぐに佳苗へそう告げた。「……はい」「悟を調べて連絡したことも認めた」「何て言っていました?」「佳苗に嫉妬したって」 佳苗は目を伏せた。 メッセージで聞いた言葉と同じだった。「俺がどうして佳苗を大切にするのか、知りたかったらしい」「……そうですか」「納得はしてない」 雄吾ははっきり言った。「嫉妬したからって、元夫まで調べて連絡するのはおかしい」「はい」「もう佳苗のことは調べない。悟にも連絡しないとは言ってた」「それなら……」 佳苗は少し迷ってから続けた。「もう、それでいいです」「いいのか?」「許すとかじゃありません」 佳苗は首を横に振る。「ただ、これ以上一条さんが何を考えていたのか考え続けたくないんです」 悟から逃げたあと。 佳苗はずっと。 他人の機嫌や気持ちを考えていた。 どうすれば怒らせないか。 どうすれば傷つけないか。 自分が我慢すれば済むのではないか。 絢子と出会ってからも、いつの間にか同じことをしていた。「一条さんが雄吾さんを好きでも、それは一条さんの気持ちです」「ああ」「私にはどうにもできません」「ああ」「だから私は、私が嫌なことだけ言います」 雄吾が少し笑った。「それでいい」「はい」「俺も同じにする」「雄吾さんも?」「絢子がどういうつもりかじゃなくて、何をしたかで判断する」 佳苗は頷いた。 それなら。 もう絢子の言葉一つ一つに、振り回されなくていい。 そう思えた。 ◇ けれど。 絢子が悟への連絡を絶っても。 悟の方は終わっていなかった。『あの女と話した』 佳苗のスマートフォンに、またメッセージが届いた。『一条って女、榊原のこと好きなんだろ』 佳苗は返信しなかった。『お前、知ってたのか?』 無視する。『榊原の母親とも家族みたいな付き合いらしいな』『お前、あの家で本当にうまくやれてるのか?』 佳苗の指が止まった。 絢子が悟へ話した内容なのだろう。 以前なら。 胸の奥に刺さっていたかもしれない。 けれど今は。 佳苗は画面を閉じた。「……関係ない」 悟に心配されることではない。 自分と雄吾の関係は。 自分と雄吾で決める。 ◇ 数日後。 悟は焦っていた。
『昨日、一条絢子って女から俺に連絡が来た』 佳苗は、その文章を何度も読み返した。 意味は分かる。 けれど。 理解したくなかった。 絢子が。 自分から悟を探して、連絡した。「……どうして」「佳苗?」 雄吾の声がした。 顔を上げる。 リビングへ入ってきた雄吾が、佳苗の様子に気づいて足を止めた。「どうした?」「悟から……」 佳苗はスマートフォンを差し出した。「連絡が来ました」 雄吾の表情が変わる。 画面を読む。『一条絢子って女、知ってるか?』『榊原の幼なじみらしいな』『昨日、向こうから俺に連絡してきた』「……絢子から?」「そう書いてあります」「何であいつが悟の連絡先を知ってるんだ」「分かりません」 佳苗の声が震えた。「私、一条さんに悟のことなんて話してません」「ああ」「お母様から、以前結婚していたことくらいは聞いていたかもしれません。でも……」 連絡先まで。 偶然知るはずがない。「佳苗」「はい」「悟に聞けるか?」 佳苗は迷った。 悟とは関わりたくない。 けれど。 これは確かめなければならないと思った。『一条さんから連絡が来たって本当?』 送信する。 すぐに既読がついた。『やっと返事したな』「……」 佳苗はその言葉を無視した。『何を話したの?』 今度の返事は長かった。『あの女が俺を調べて連絡してきた』
『今、佳苗さんがお付き合いしている榊原雄吾さんの幼なじみです』 悟は、その文章を何度も読み返した。 榊原雄吾。 佳苗が自分のもとを離れたあと、そばにいるようになった男。 しかも。『幼なじみ?』 悟が返す。『はい。子供の頃から、家族ぐるみで付き合ってきました』「……」 悟の眉が寄った。 なぜそんな女が、自分に連絡してくる。『それで、佳苗の何を聞きたいんですか』 返事はすぐには来なかった。 数分後。『離婚された理由を、もし差し支えなければ教えていただけませんか』「は?」 悟は思わず声を漏らした。 ずいぶん踏み込んだことを聞いてくる。『何であんたにそんなこと話さないといけないんですか』『そうですよね。申し訳ありません』 あっさり引いた。『忘れてください』 それだけ。 悟は画面を睨んだ。「……何なんだよ」 普通なら、そこで終わる。 けれど。 妙に気になった。『あんた、榊原とどういう関係なんですか』 送る。『先ほどお伝えした通り、幼なじみです』『それだけ?』 今度は少し間があった。『……それだけです』 悟は鼻で笑った。「嘘つけ」 わざわざ佳苗の元夫を調べて。 連絡先まで手に入れて。 離婚理由を聞いてくる。 ただの幼なじみがすることではない。『榊原のこと好きなんですか』 送信。 長い間、既読だけがついていた。 やがて。『昔から、大切な人です』 それだけが返ってきた。「
「俺は昔から、お前しか欲しくない」 低い声が耳元で響く。 佳苗は息を呑んだ。 車内の空気が熱い。 逃げ場がない。 雄吾の視線は真っ直ぐで、冗談の気配なんて微塵もなかった。「……先輩」 喉が震える。 理解が追いつかない。 昔から? ずっと? そんなはずない。 自分は特別な人間じゃない。 妹みたいに愛嬌があるわけでも、美人なわけでもない。 ただ都合よく利用されるだけの女だった。「信じられないか」 雄吾が静かに言う。 佳苗は答えられなかった。 すると雄吾は小さく息を吐き、身体を離す。「まあいい」「え……」「今すぐ答えを求める気はない」 その言葉に、佳苗は
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ