LOGIN電話を切ったあと。
佳苗はしばらくスマホを見つめていた。『何かあったか』 たったそれだけ。 なのに。 胸の奥が少し温かい。 昔の自分なら、誰かに心配をかけることを恐れていた。 だから。 大丈夫じゃなくても、大丈夫だと言っていた。 でも今は。 誰かが気にかけてくれることが、少しだけ嬉しい。「佳苗?」 知人の声に我に返る。「あ、ごめん」「大丈夫そうだね」 その言葉に、佳苗は少しだけ笑った。「うん」 以前なら、笑えなかったかもしれない。 知人と別れ。 買い物袋を提げて帰路につく。 空はよく晴れていた。 少し前までなら、外を歩くだけでも不安だったのに。翌日、高瀬から新しい担当について説明を受けた佳苗は、少し驚いていた。 これまでの事務処理に加えて、部署をまたいだ業務の調整にも関わってほしいという。「私が、ですか?」「ええ。榊原さんは問題を見つけるだけでなく、どうすれば改善できるかまで考えてくれますから」 高瀬は穏やかに答えた。「もちろん、いきなり全部任せるつもりはありません。最初は私も一緒に進めます」「ありがとうございます」 佳苗は頭を下げた。 これまで、言われた仕事をきちんとこなすことが自分の役割だと思っていた。 それが今は、仕事の進め方そのものを考える立場になろうとしている。 嬉しい反面、本当に自分に務まるのかという不安もあった。「何か心配なことはありますか?」「少しだけ、自信がなくて」「最初から完璧にできる人はいませんよ。分からないことは聞いてください」 高瀬はそう言って、今後の予定を簡単に説明した。 佳苗は話を聞きながら、少しずつ気持ちが落ち着いていくのを感じた。 ◇ 昼休み、佳苗はスマートフォンを取り出した。 雄吾に報告したい。 けれど、仕事中にわざわざ連絡するほどのことだろうか。 少し迷ってから、短いメッセージを送る。『新しい仕事の説明を聞いたよ。思ったより責任のある仕事だった!』 返信は十分ほどして届いた。『よかったな。帰ったら聞かせてくれ』 それだけの短い文章なのに、佳苗は嬉しくなった。 さらにもう一通。『今日は早く帰れそうか?』『いつもどおりだと思うよ』『分かった。待ってる』 佳苗は思わず笑った。 最近の雄吾は、以前よりずっと素直だ。 会いたいとか、一緒にいたいとか。 そういう気持ちを、隠さなくなった。 ◇ 帰宅すると、雄吾はキッチンで飲
その日の夜、佳苗は帰宅するなり雄吾を探した。「ただいま!」「おかえり。随分機嫌がいいな」 リビングにいた雄吾が顔を上げる。「分かる?」「顔を見ればな」「今日ね、すごく嬉しいことがあったの」 佳苗はバッグを置くと、雄吾の隣へ座った。「来月から、新しい仕事を任せてもらえることになりそうなの!」「そうか。よかったな」「うん! 今までの仕事もちゃんと評価してもらえてるみたいで」「何を任されるんだ?」「まだ詳しくは聞いてないけど、ほかの部署とも関わる仕事になるみたい。今の担当を少し減らして、そっちを任せてもらえるんだって」「それなら、単に仕事が増えるわけじゃないんだな」「そうなの。そこもちゃんと考えてくれてて」 佳苗は嬉しくて、つい身を乗り出した。「高瀬課長が、私の仕事ぶりを見て決めたって言ってくれたの」 雄吾の表情が、ほんのわずかに変わった。「あ」 佳苗は思わず口を押さえた。「また名前出しちゃった」「別に禁止してないだろ」「でも、嫌なんでしょう?」「気に入らないだけだ」「同じじゃない?」「違う」 いつものやり取りに、佳苗は笑ってしまった。 雄吾は呆れたように息を吐いたが、すぐに佳苗の頭を撫でた。「それだけ嬉しいなら、いい仕事なんだろうな」「うん。頑張りたい」「頑張れ」 短い言葉だった。 けれど、雄吾が本当に喜んでくれていることは分かった。 ◇ 夕食を終えたあと、佳苗はソファで新しい仕事のことを考えていた。 詳しい説明は明日だ。 どんなことを任されるのだろう。 期待もあるが、少し不安もある。「佳苗」「ん?」「何考えてる?」「明日のこと」「仕事か」「うん」 雄吾が隣へ座る。「そんなに楽しみか?」「楽しみ。でも、ちゃんとできるかなって」「できると思われたから任されるんだろ」「そうだけど」「今までやってきたことがあるんだから、自信持て」 佳苗は雄吾を見た。「……ありがとう」「ああ」 そこで雄吾が、ふと思い出したように言った。「ところで、来月から帰りは遅くなるのか?」「え?」「担当が変わるなら、しばらく忙しいだろ」「どうかな。まだ分からない」「そうか」 雄吾は少し考え込んだ。「……またデートの予定を先に押さえとくか」「えっ?」「忙しくなってからじゃ、
温泉旅行から帰った日曜日の夜。 佳苗は荷物を片づけながら、寝室の扉を見つめていた。 旅行先では、今夜も一緒に寝ようと約束した。 けれど、帰宅していつもの部屋に戻ると、急にその約束が気恥ずかしくなってくる。 これまでは、それぞれの寝室で眠るのが当たり前だった。 結婚してからも変わらなかった習慣を、今夜から少し変えることになる。「佳苗」 振り返ると、雄吾が廊下に立っていた。「荷物、片づいたか?」「うん。もう少し」「そうか」 雄吾は佳苗の部屋を覗き、それから尋ねた。「今夜、どっちで寝る?」「……どっち?」「俺の部屋か、お前の部屋か」 佳苗は思わず笑ってしまった。「そんなこと考えてたの?」「一緒に寝るって言っただろ」「言ったけど」「嫌になったなら別にいいぞ」「嫌じゃないよ」 佳苗は少し考えてから答えた。「じゃあ、雄吾の部屋に行こうかな」「分かった」 雄吾はそれだけ言って、廊下を戻っていった。 あまりにもあっさりしている。 けれど、少ししてから佳苗が寝室を覗くと、雄吾はベッドの片側に置いていた本やクッションを片づけていた。「……準備してる」「寝る場所が必要だろ」「そうだけど」「何だ?」「嬉しそうだなって」 雄吾は手を止めた。「嬉しいに決まってるだろ」 また、当たり前のように言われた。 佳苗は照れくさくなって、自分の枕を取りに戻った。 ◇ 翌朝。 佳苗が目を覚ますと、隣にはもう誰もいなかった。 枕元の時計を見ると、いつもより少し遅い時間だ。 慌てて起き上がり、リビングへ向かう。
目を覚ました佳苗は、いつもと違う天井を見つめていた。 障子越しに柔らかな朝の光が差し込み、遠くから鳥の声が聞こえる。 そうだ。温泉旅行に来ていたのだった。 寝返りを打とうとして、腰に回された腕に気づいた。「……雄吾?」 隣を見ると、雄吾はまだ眠っていた。 普段は佳苗より早く起きていることが多いから、こうして寝顔を見る機会はほとんどない。 佳苗はしばらく、その顔を眺めていた。 いつもは何でも分かっているような顔をしているのに、眠っていると少し無防備に見える。 そっと頬に触れようとしたところで、雄吾が目を開けた。「……何してる」「起きてたの?」「今起きた」「おはよう」「ああ。おはよう」 雄吾は佳苗を抱き寄せると、もう一度目を閉じた。「ちょっと、起きないの?」「まだ早い」「何時?」「知らん」「雄吾がそんなこと言うなんて珍しい」 佳苗が笑うと、雄吾は薄く目を開けた。「休みの日くらいいいだろ」「それはそうだけど」「もう少しこのままでいろ」 そう言われて、佳苗は素直に雄吾の胸へ頬を寄せた。 昨日の夜は、あんなに緊張していたのに。 朝になってみれば、同じベッドで眠ったことが不思議なくらい自然に感じられた。「ねえ、雄吾」「何だ?」「家でも、たまには一緒に寝る?」 言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。 雄吾が目を開ける。「いいのか?」「嫌だったら言わないよ」「そうか」 その声が妙に嬉しそうで、佳苗は顔を上げた。「……そんなに嬉しい?」「ああ」 迷いのない返事だった。「ずっと別々だったからな」「そうだね」「俺から言って、お前に気を遣わせるのも違うと思ってた」 佳苗は少し考えた。 雄吾はいつも、佳苗の気持ちを優先してくれる。 それがありがたいと思う一方で、遠慮ばかりさせているのかもしれない。「これからは、雄吾も言ってね」「何を?」「こうしたいとか、一緒にいたいとか」 雄吾が佳苗を見つめる。「言ったら聞いてくれるのか?」「できることなら」「じゃあ、今夜も一緒に寝たい」「……早速?」「お前が言えって言ったんだろ」 佳苗は吹き出した。「分かった。今夜もね」「ああ」 雄吾は満足そうに笑うと、佳苗の額に口づけた。 ◇ 朝食を終え、チェックアウトまでの時間を使って、二
露天風呂から上がった佳苗は、用意されていた浴衣に着替え、鏡の前で髪を整えていた。 普段なら、風呂上がりはそのまま自分の部屋へ戻る。 けれど今日は、そうはいかない。 寝室には大きなベッドが一つ。 旅館へ着いたときから分かっていたことなのに、今になって妙に気になってしまう。「佳苗、まだか?」「もう出る!」 返事をしてから、佳苗は小さく息を吐いた。 何をそんなに緊張しているのだろう。 雄吾とはもう夫婦なのに。 部屋へ戻ると、雄吾はソファに座ってテレビを見ていた。「髪、乾かしたか?」「うん」「こっち来いよ」 隣を示され、佳苗は素直に腰を下ろした。 窓の外では、庭の灯りが静かに揺れている。「いい旅館だね」「ああ」「ご飯もおいしかったし、温泉もよかった」「気に入ったなら、また来ればいい」「そんな簡単に言うけど、高いでしょう?」「気に入った場所にまた来るくらい、別にいいだろ」 雄吾らしい答えに、佳苗は笑った。 しばらくテレビを眺めていると、雄吾が肩を抱き寄せてきた。 佳苗は抵抗せず、その胸に頭を預ける。「眠いか?」「まだ眠くない」「そうか」 雄吾の手が、佳苗の髪をゆっくり撫でた。 その心地よさに目を閉じかけたところで、ふと気づく。 こんなふうに甘えているうちに、夜はどんどん更けていく。 やがて寝る時間になれば、二人であのベッドに入るのだ。「……雄吾」「何だ?」「今日、同じベッドだね」「ああ」「気づいてた?」「気づかないわけないだろ」 あまりにも当然の返事に、佳苗は少しむっとした。「なんでそんなに平気なの?」「平気だと
旅館へ戻るころには、外はすっかり暗くなっていた。 部屋に入ると、夕食の準備が整えられている。「すごい」 佳苗は並んだ料理を見て、思わず声を上げた。「温泉まんじゅう食べなきゃよかったかも」「だから言っただろ」「一個だけだもん。これくらい食べられるよ」「無理するなよ」「しないって」 向かい合って食事を始める。 季節の料理を少しずつ味わいながら、他愛のない話をした。 仕事の話はしなかった。 どちらからそう決めたわけでもないのに、今日は自然と別の話ばかりになった。 次はどこへ行きたいとか、帰りに何を買うとか。 そんな話をしているだけで楽しかった。 ◇ 食事が終わり、しばらくして。「先に入っていいよ」 佳苗は露天風呂を指した。「佳苗は?」「あとで入る」「一緒に入らないのか?」「えっ」 あまりにも普通に聞かれて、佳苗は固まった。「……入るの?」「部屋の風呂なんだから、別にいいだろ」「いいけど!」 夫婦なのだから、おかしくはない。 分かっている。 分かっているのだが、雄吾が平然としているせいで、自分ばかり意識しているような気がして悔しい。「嫌なら別でいいぞ」「嫌とは言ってない」「じゃあ入るか?」「……入る」 言ってから、早まったかもしれないと思った。 けれど今さら撤回するのも恥ずかしい。 佳苗は浴衣を持って立ち上がった。 ◇ 湯気の向こうに夜の庭が見える。 肩まで湯に浸かりながら、佳苗はなるべくそちらを見るようにしていた。「佳苗」「何?」「さ
「俺は昔から、お前しか欲しくない」 低い声が耳元で響く。 佳苗は息を呑んだ。 車内の空気が熱い。 逃げ場がない。 雄吾の視線は真っ直ぐで、冗談の気配なんて微塵もなかった。「……先輩」 喉が震える。 理解が追いつかない。 昔から? ずっと? そんなはずない。 自分は特別な人間じゃない。 妹みたいに愛嬌があるわけでも、美人なわけでもない。 ただ都合よく利用されるだけの女だった。「信じられないか」 雄吾が静かに言う。 佳苗は答えられなかった。 すると雄吾は小さく息を吐き、身体を離す。「まあいい」「え……」「今すぐ答えを求める気はない」 その言葉に、佳苗は
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ







