Mag-log inその日の帰り道。
佳苗は駅からマンションまでの道を、ゆっりと歩いていた。
同期の言葉が、まだ頭の中に残っている。
『やってみないと分からないかなって』
その一言が、不思議なくらい心へ残っていた。
就職すると決めた時もそうだった。
不安だった。
失敗したらどうしよう。
仕事が覚えられなかったらどうしよう。
それでも、一歩踏み出したから今の自分がいる。
(もし、一人暮らしをするとしたら……)
そんな考えが、ふと頭をよぎる。
もちろん、今すぐではない。
資格試験もある。
仕事も、まだもっと覚えなければならない。
けれど、自分の力で生活できるようになれば――。
「……考えるのは早いよね」
佳苗は小さく苦笑した。
まだ何も決まっていない。
翌朝。 佳苗が出社すると、昨日のことが少し気になっていた。 言いすぎただろうか。 けれど、自分の仕事を後回しにしてまで、誰かの仕事を引き受けるのが当然だと思われるのも違う。「おはようございます」「おはようございます」 いつも通り席につき、パソコンを立ち上げる。 昨日仕事を頼んできた社員も、特に何も言ってこなかった。 これで終わったのだと思った。 ◇ 昼休み。 佳苗が同僚数人と休憩室で昼食を取っていると、一人の女性が佳苗の手元を見た。「あ、そのバッグ新しくないですか?」「これ?」「そう。それ、結構高いやつですよね?」 結婚してから雄吾が贈ってくれたバッグだった。「夫からのプレゼントです」「いいなあ!」 別の女性も身を乗り出す。「やっぱり社長ってプレゼントも違うんですね」「私も社長と結婚したい」「まず知り合うところからじゃない?」 笑いが起こる。 そこまでは佳苗も笑って聞いていた。「でも榊原さん、もう自分の給料なんて全部お小遣いにできるんじゃないですか?」「え?」「生活費は旦那さんが出してくれるんでしょう?」「それは――」「羨ましい。私なんて給料入っても家賃と生活費でほとんど消えますよ」「私も。働いた分、全部自分に使えるなら仕事も楽しいのに」 悪意のない口調だった。 だからこそ、佳苗は返事に困った。「全部自分に使ってるわけじゃないですよ」「でも旦那さん、社長なんですよね?」 また、それだ。「それと私のお給料は別です」「えー、結婚したら一緒じゃないですか?」 佳苗は箸を置いた。「一緒じゃないですよ」 思ったより、はっきりした声が出た。「雄吾のお金は、雄吾が働いて得たものですから」「でも夫婦でしょう?」「夫婦だからって、夫のお金が全部私のお金になるわけじゃないでしょう?」 相手が目を瞬く。「私は私で働いて、お給料をもらってます。それをどう使うかも私が決めます」「……真面目なんですね」「普通だと思いますけど」 そこで休憩時間が終わり、話は途切れた。 ◇ 午後。 コピー機の前で資料を揃えていると、背後から声が聞こえた。「榊原さんって、意外とケチなのかな」「旦那さん?」「だって奥さん普通に働かせてるし」 佳苗の手が止まった。「バッグは買ってくれるみたい
結婚してからしばらく経っても、佳苗の仕事そのものは何も変わらなかった。 朝は決まった時間に出社し、請求書を確認して、契約書類を整理する。 月末になれば忙しいし、入力を間違えれば普通に注意される。 榊原雄吾と結婚したからといって、仕事が勝手に終わってくれるわけではない。「榊原さん、これ確認お願いします」「はい」 差し出された書類を受け取り、佳苗はパソコンへ向き直った。 結婚に伴って姓が変わったため、最初こそ呼ばれるたびに反応が遅れたが、それにもようやく慣れてきた。「あ、そういえば榊原さん」「はい?」 隣の席の女性が、ふと思い出したように尋ねた。「旦那さんって、会社の社長なんですよね?」「そうですけど」「すごいですよねえ」 結婚した頃にも何度か聞かれた話だ。 佳苗は曖昧に笑って、再び画面へ目を戻そうとした。「じゃあ、別に働かなくてもいいんじゃないですか?」 手が止まった。「……え?」「だって社長夫人でしょう?」 女性に悪意があるようには見えなかった。「私だったら絶対辞めちゃうなあ。毎日働かなくても生活できるなら、仕事なんてしたくないですもん」「私は仕事を続けたいので」「へえ」 そこで会話は終わった。 佳苗も、それ以上気にしなかった。 ◇ けれど、その日の午後。「榊原さん、これお願いしてもいい?」 同じ部署の社員から、書類の束を渡された。「これ、今日中ですか?」「できれば」「分かりました」 受け取って確認すると、単純な入力作業だった。 予定していた仕事の順番を少し変えれば対応できる。 佳苗が作業を始めようとしたところで、少し離れた席から声が聞こえた。「いいなあ、余
母との関係が少しずつ落ち着いてきた頃、佳苗の仕事も忙しくなっていた。 月末の処理に加え、新しい社内システムへの移行が重なり、ここ数日は帰宅時間も遅い。「ただいま……」「おかえり。遅かったな」「疲れた」 玄関で靴を脱ぎながら、佳苗は大きく息を吐いた。「ご飯あるぞ」「雄吾が作ったの?」「買った」「ですよね」「何を期待した?」「ちょっとだけ」 リビングへ入ると、テーブルには温めるだけの惣菜とスープが並んでいた。「十分。ありがとう」 佳苗が席につく。「そういえば、来月また研修あるかもしれない」「泊まりか?」「今度は日帰り。ただ土曜日」「行きたいのか?」「うん。新しいシステムの実務研修だから、受けといた方が楽そう」「なら行けばいい」「うん」 以前なら、休日に仕事の予定を入れることへ少し罪悪感があった。 雄吾との時間が減る。 結婚したのだから、休日くらい一緒に過ごした方がいいのではないか。 そんなことを考えていたかもしれない。「雄吾、その日予定ある?」「ある」「あるんだ」「取引先とゴルフ」「じゃあちょうどいいね」「そうだな」 あっさり話が終わる。 佳苗はスープを一口飲んで、ふっと笑った。「何だ?」「いや。夫婦って、もっと何でも一緒にするものだと思ってたなって」「毎週一緒にいるだろ」「そうなんだけど」「別々の予定があったら別々に動けばいい」「うん。今はそう思う」 ◇ 翌日の昼休み。 母からメッセージが届いた。『来月、また美術館へ行くことになったの』
翌朝。 窓の外には、朝の光を反射した海が広がっていた。「雄吾、起きて。海きれい」「……何時だ」「七時」「早いな」「朝ご飯八時だよ」「なら七時半でいいだろ」 そう言いながらも、雄吾は起き上がった。 佳苗は窓辺から何枚か写真を撮る。 昨日とは違う海。 帰ったら母にも見せようと思った。 ◇ チェックアウトを済ませたあとは、昨日見つけた店へ向かった。「これがお母さん。こっちが恵で……」「美佐子には?」「今選んでる」「会社は?」「それも」「自分たちの分は?」 佳苗の手が止まる。「忘れてた」「人の分ばっかりだな」「じゃあ何か買おう」 二人で店内を見て回り、結局、自宅用には小さな瓶詰めを選んだ。「これなら朝ご飯にも使えるね」「佳苗、朝食べるのか?」「旅行から帰った直後くらいは食べるかもしれない」「期間限定か」「努力目標です」 雄吾が笑った。 ◇ 帰宅した翌日の夜。 佳苗は母へメッセージを送った。『旅行、楽しかったよ。今度写真見せるね』 返事はすぐに来た。『おかえりなさい。よかったわね』『お母さんの美術館は?』『楽しかったわ。思ったより長居しちゃった』『じゃあ、お互い話すこといっぱいあるね』 送ってから、佳苗は少し笑った。 以前は母と会えば、何を聞かれるのだろうと警戒していた。 今度は、自分から話したいことがある。『そうね。今度お茶しましょう』『来週なら土曜の午後空いてるよ』『私も大丈夫』 そこで約束は決まった。 ◇ 土曜日。 以前と同じ駅前のカフェで、佳苗は母と向かい合った。「これ、お土産」「いらないって言ったでしょう?」「私が買いたかったの」「……ありがとう」 母は小さな箱を受け取り、嬉しそうに眺めた。「それでね、部屋からの海がすごかったの」 佳苗はスマートフォンを取り出した。「ほら」「まあ、きれい」「こっちは朝」「全然違うのね」「あとこれが夕食」「すごい量ね」「これ目当てで宿決めたの」「やっぱり佳苗は食べ物なのね」「お母さんまで雄吾と同じこと言う」 二人で笑った。 今度は母が美術館のパンフレットを取り出す。「私はこれを見てきたの」「へえ。きれい」「実物はもっとよかったわよ。それでね――」 話す母の顔を見ながら
夕食は、佳苗が宿を決めるきっかけになった料理だった。「これ見て。写真より豪華じゃない?」「それが決め手だったんだろ」「海も決め手だよ」「二番目くらいか?」「……同率一位」 雄吾が笑う。 料理が運ばれてくるたびに、佳苗は写真を撮った。「それも母親に見せるのか?」「これは恵かな。絶対『ずるい』って言うと思う」「食べる前に冷めるぞ」「あ、待って。これで最後」 慌ててスマートフォンを置き、箸を取る。 結婚してから初めての旅行。 そう考えると特別な気もするのに、雄吾と話していることは普段とあまり変わらなかった。 仕事のこと。 家のこと。 途中で見つけた変な土産物のこと。 それが佳苗には心地よかった。 ◇ 食事を終えて部屋へ戻ると、窓の外はすっかり暗くなっていた。 昼間とは違い、遠くにいくつもの灯りが浮かんでいる。「きれい」 佳苗は窓際の椅子に座った。 雄吾も向かいに腰を下ろす。「また来たいな」「気に入ったのか?」「うん。でも次は違うところでもいいかも」「どっちだよ」「だって、まだ行ったことないところいっぱいあるし」 佳苗は笑ってから、ふと考えた。「雄吾は、どこか行きたいところないの?」「海外」「急に規模が大きい」「聞いたのは佳苗だろ」「そうだけど」「休み取れるならな」「じゃあ、そのうち行こうよ」「ああ」「そのうちって、いつ?」 以前なら、そこで話を終わらせていたかもしれない。 いつか。 そのうち。 できたら。 けれど今は、それでは少しもったい
旅行当日。 電車を降りると、潮の匂いがした。「海!」 駅前から遠くに見える青い水面に、佳苗は思わず声を上げた。「まだ遠いぞ」「見えたからいいの」 佳苗はスマートフォンを取り出し、さっそく一枚撮る。「それ、駅前の道路が半分入ってるけどいいのか?」「記録だからいいの」「俺の写真には厳しかっただろ」「雄吾は上手に撮るって言ったじゃん」「言ってない」 二人でそんなことを言いながら、宿へ向かった。 ◇ チェックインにはまだ早かったため、荷物だけ預けて海沿いを歩く。 観光客向けの店が並び、干物や菓子の看板が目に入った。「これ、お母さん好きそう」 佳苗が足を止める。「土産はいらないって言われてなかったか?」「言われたけど、買っちゃ駄目とは言われてない」「そういう理屈か」「小さいのならいいでしょう?」 佳苗は焼き菓子を一箱手に取った。 その隣に、別の味が並んでいる。「あ。こっちは恵が好きそう」「結局二つ買うのか」「雄吾のお母様にも買うよ?」「じゃあ三つだな」「会社にもいるかな」「増えてるぞ」 雄吾が呆れたように笑った。 佳苗も笑いながら商品を戻す。「帰る日に買おう。荷物になるし」「それがいい」 海辺まで降りると、風が強かった。「わ、髪すごい!」「写真撮るか?」「今は絶対嫌!」 そう言ったのに、雄吾がスマートフォンを向ける。「ちょっと!」「母親に見せるんだろ?」「こんなの見せないよ!」「自然でいいんじゃないか?」「雄吾も撮るからね」 佳苗はすぐに自分のスマートフォンを構えた。
ホテルへ入る佳苗と雄吾。 暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。「……どうして」 佳苗の指先が震える。 まるで誰かに見張られていたみたいだった。『ねぇお姉ちゃん』『その人、誰?』『もしかして浮気?』 次々届くメッセージ。 佳苗は顔を青ざめさせた。 浮気。 その言葉に胸が痛む。 裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。「見せろ」 雄吾が静かにスマホを受け取る。 メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。「……なるほど」「先輩」「撮られていたな」 低い声。 感情を押し殺したような響き。「どうしよう……」
「俺は昔から、お前しか欲しくない」 低い声が耳元で響く。 佳苗は息を呑んだ。 車内の空気が熱い。 逃げ場がない。 雄吾の視線は真っ直ぐで、冗談の気配なんて微塵もなかった。「……先輩」 喉が震える。 理解が追いつかない。 昔から? ずっと? そんなはずない。 自分は特別な人間じゃない。 妹みたいに愛嬌があるわけでも、美人なわけでもない。 ただ都合よく利用されるだけの女だった。「信じられないか」 雄吾が静かに言う。 佳苗は答えられなかった。 すると雄吾は小さく息を吐き、身体を離す。「まあいい」「え……」「今すぐ答えを求める気はない」 その言葉に、佳苗は
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。







