LOGIN恵が帰ったあとも、母は一人でその言葉を考えていた。
『必要だから一緒にいるんじゃなくて、会いたいから会うんじゃ駄目?』
言っていることは分かる。
今日だって恵は、頼み事があったわけでもないのに訪ねてきた。
それは嬉しかった。
けれど同時に、妙な寂しさもあった。
昔は違った。
「お母さん、これどうしたらいい?」
「お母さん、分からないから教えて」
娘たちは何度も自分を頼った。
自分が答えを教えれば安心した顔をした。
いつの間に、それがなくなったのだろう。
「大人になったんだから、当たり前なのよね……」
口にしてみても、胸の奥はすっきりしなかった。
◇
数日後。
佳苗のスマートフォンに母から写真が届いた。
見覚えのある料理だった。
『これ覚えてる?』
『覚えて
恵が帰ったあとも、母は一人でその言葉を考えていた。『必要だから一緒にいるんじゃなくて、会いたいから会うんじゃ駄目?』 言っていることは分かる。 今日だって恵は、頼み事があったわけでもないのに訪ねてきた。 それは嬉しかった。 けれど同時に、妙な寂しさもあった。 昔は違った。「お母さん、これどうしたらいい?」「お母さん、分からないから教えて」 娘たちは何度も自分を頼った。 自分が答えを教えれば安心した顔をした。 いつの間に、それがなくなったのだろう。「大人になったんだから、当たり前なのよね……」 口にしてみても、胸の奥はすっきりしなかった。 ◇ 数日後。 佳苗のスマートフォンに母から写真が届いた。 見覚えのある料理だった。『これ覚えてる?』『覚えてるよ。昔よく作ってくれたよね』『そう。久しぶりに作ったの』 懐かしくなり、佳苗は素直に返信した。『おいしそう』『今度作ってあげようか?』『食べたい』 すぐに返事が来る。『じゃあ今度持っていくわね』 佳苗の指が止まった。『うちに?』『そうよ。雄吾さんにも食べてもらいたいし』 母が家へ来る。 それ自体が嫌なわけではない。 ただ、勝手に日程を決められるのは困る。『来るなら先に日を相談してね』『もちろんよ』 その返事に、佳苗はほっとした。 ◇ 翌週。『土曜日はどう?』 母から連絡が来た。 佳苗は雄吾に確認してから返信する。『午後なら大丈夫だよ』『じゃあ持っていくわね』『ありがとう』 土曜日、母
母からの『必要ないのね』というメッセージには、結局返信しなかった。 何を返しても、同じ話を繰り返すことになりそうだったからだ。 それから数日、母から連絡はなかった。 ◇「お母さんから連絡来てる?」 恵から電話があったのは、週末だった。「最近は来てないよ」『やっぱり? 私のところに来てる』「何て?」『仕事のこととか、ちゃんと相談してって』 佳苗は思わず眉を寄せた。「恵にも?」『うん。転職先探してるって前に話したじゃん。それで、応募する前に相談してほしいって』「それは恵が決めることでしょう?」『そう言ったよ』 恵がため息をつく。『そしたら、お母さんの意見なんて聞く価値もないのねって』「……同じだ」『何が?』「私も似たようなこと言われた」 佳苗は研修の件を説明した。『あー……』 恵は納得したような声を出した。『お母さん、相談されたいんだ』「多分」『でもさ、相談することないのに相談できなくない?』「そうなんだよね」 佳苗も困っていた。 母の意見を聞きたいことがあれば、聞けばいい。 けれど、自分で決められることまで相談する必要はない。『じゃあ、お姉ちゃん』「何?」『お母さんに相談するための相談事、作る?』「何それ」『今日の夕飯、カレーとパスタどっちがいいと思う? とか』 佳苗は吹き出した。「それ、余計怒られるんじゃない?」『だよね』 二人で笑った。 以前なら、母のことで恵とこんなふうに話すことなどなかった。 ◇ その日の夕方。 恵は母の家
それからしばらく、母との関係は落ち着いていた。 連絡は来るものの、以前のように何度も電話が掛かってくることはない。 佳苗も、ときどき自分から連絡した。 これなら大丈夫かもしれない。 そう思い始めた頃だった。 ◇「どうしよう……」 昼休み、佳苗はスマートフォンを見ながら呟いた。 会社から、来月の研修について連絡が来ていた。 一泊二日。 参加は任意だが、今後の仕事を考えれば行っておきたい。 問題は、その日が雄吾の両親との食事の予定と重なっていることだった。「日程変えてもらえるかな……」 まず雄吾に相談しよう。 そう思っていると、母からメッセージが届いた。『元気?』『元気だよ』『仕事忙しい?』『ちょっとね。来月研修もあって』 何気なく返しただけだった。 すぐに電話が掛かってくる。「もしもし?」『研修って何?』「会社の。一泊二日なんだけど」『泊まりなの? どこ?』「まだ詳しく見てないよ」『雄吾さんは何て?』「まだ話してない」 その瞬間、母の声が少し弾んだ。『じゃあ、先に私に相談してくれたのね』「え?」『だって雄吾さんにもまだ話してないんでしょう?』「相談っていうか……今聞いたから」『でも私には話してくれたじゃない』 佳苗は返事に困った。「お母さんから仕事忙しいか聞かれたから答えただけだよ」『そうなの?』「うん」 母の声が少し沈んだ。『何か困ってるんじゃないの?』「食事の予定と重なってるから、雄吾さんと相談しようかなって」『私じゃ駄目
約束した土曜日、佳苗は母と二人で昼食を取った。 前回とは違い、母が選んだのは駅前の小さな和食店だった。「ここ、前に来たことあるの?」「一度だけ。ランチならそんなに高くないし、おいしかったから」「そうなんだ」 注文を済ませると、母は少し落ち着かない様子で佳苗を見た。「雄吾さん、今日は何してるの?」「仕事。午後から打ち合わせがあるって」「土曜日なのに大変ね」「その代わり、平日に休むこともあるから」「そう」 以前なら、そこから雄吾の仕事や収入について質問が続いたかもしれない。 けれど今日は、それだけだった。 ◇「そういえば、これ」 食事の途中、母がバッグから小さな紙袋を取り出した。「何?」「この前、あなたが好きそうなの見つけたから」 中に入っていたのは、焼き菓子だった。「買ってくれたの?」「大したものじゃないわよ」「ありがとう」 佳苗が笑うと、母も少し嬉しそうにした。 こういう関係ならいい。 佳苗は素直にそう思った。「お母さん」「何?」「この前言ったこと、怒ってる?」 母は箸を止めた。「……ちょっとはね」「そっか」「でも、考えたのよ。あなたももう結婚して、自分の家庭があるんだものね」「うん」「いつまでも子供じゃないって、分かってはいるのよ」 母は苦笑した。「ただ、急に何もしてあげられなくなった気がして」「何もしてくれなくていいって意味じゃないよ」「そうなの?」「今日のお菓子だって嬉しいし」 佳苗は紙袋を見る。「何か困ったとき、お母さんに相談することもあると思う」「…&he
母の家から帰る途中、佳苗は何度か今日の会話を思い返した。 言いすぎただろうか。 母を傷つけたのではないか。 そんな考えが浮かぶたび、以前の癖がまだ残っていることに気づく。 けれど、言ったことを後悔はしていなかった。 母を嫌いになったわけではない。 だからこそ、我慢を積み重ねて、いつか本当に会いたくなくなるような関係にはしたくなかった。 ◇「ただいま」「おかえり」 帰宅すると、雄吾がリビングにいた。「どうだった?」「ちゃんと話してきました」 佳苗は隣に座り、母との会話を簡単に説明した。「何でも言うことを聞く娘には戻れないって言いました」「そうか」「お母さん、黙っちゃいましたけど」「佳苗はどうした?」「私も黙ってました」 雄吾が少し笑った。「成長したな」「子供みたいに言わないでください」「前なら慌てて機嫌取ってただろ」「……そうですけど」 図星だった。「でも、難しいですね」「何が?」「お母さんのこと、大事なんです。困ってたら助けたいとも思うし」「なら助ければいい」「でも、どこまで?」 雄吾は少し考えた。「佳苗が助けたいと思えるところまででいいんじゃないか」「そんな基準でいいんですか?」「ほかに誰が決める?」 佳苗は黙った。 母親だから、ここまでしなければならない。 娘だから、これくらい当然。 そんな明確な線が、どこかに存在するような気がしていた。「自分で決めていいんですね」「佳苗の母親だろ。俺が決めることじゃない」「はい」 佳苗は少しだけ笑った。 ◇ 数日後、母から珍しく短いメッセージが届いた。『この前はごめんね』 佳苗は驚いて画面を見つめた。 続けて届く。『ちょっと寂しくなってたみたい』 佳苗はすぐには返信しなかった。 母が自分からそんなことを認めるとは思っていなかった。『うん』『寂しいなら、またご飯食べよう』 少しして返事が来る。『来週は?』 佳苗は予定を確認した。『土曜日なら空いてるよ』『雄吾さんも来る?』『聞いてみるけど、二人でもいいよ』『じゃあ二人でいい』 その返事に、佳苗は少し安心した。 雄吾を連れてくることにも、何かを期待することにもこだわらず、ただ娘と食事をする。 それなら、自分も嬉しい。 ◇ けれど、
それから母からの連絡は、ぱたりと途絶えた。 三日経っても、一週間経っても来ない。 佳苗からも連絡しなかった。「気になるのか?」 夕食を終えたあと、雄吾に尋ねられ、佳苗は少し迷ってから頷いた。「気にはなります」「連絡したい?」「……分かりません」 以前なら、母を怒らせたと思った時点で自分から謝っていただろう。 けれど今回は、謝るようなことをしたとは思っていない。「連絡したら、また私が折れたことになるのかなって」「別に連絡することと、言うことを聞くことは同じじゃないだろ」 佳苗は顔を上げた。「会いたいなら会えばいいし、話したいなら話せばいい。嫌なことを言われたら断ればいい」「……そうですね」 距離を取ることと、縁を切ることも違う。 佳苗はようやく、少しだけ肩の力を抜いた。 ◇ 翌日、佳苗は母へメッセージを送った。『元気?』 返事が来たのは一時間ほど後だった。『元気よ』『ならよかった』 それだけで終わらせようとしたところで、もう一通届く。『もう私のことなんて気にしてないと思ってた』 佳苗は画面を見つめた。『そんなことないよ』『だって連絡もくれなかったでしょう』『お母さんからも来なかったよ』 既読がつく。『私が連絡しなかったら、そのままだったの?』 佳苗はため息をつきそうになった。 また試されている。『今日は私から連絡したでしょう?』 しばらくして。『そうね』 返ってきたのは、それだけだった。 ◇ その週末、佳苗は一人で母の家を訪れた。「雄吾さんは?」 玄関を開けるなり聞かれた。「今日は私だけ」「そう」 どこか残念そうだったが、母は佳苗を中へ通した。 お茶を飲みながら話していると、母がぽつりと言った。「昔の佳苗は、もっと優しかったわよね」「そう?」「私が困ってたらすぐ来てくれたし、何でも話してくれたでしょう?」 佳苗はカップを置いた。「昔は、お母さんに嫌われたくなかったから」「……何よ、それ」「怒らせたくなかったし、がっかりされたくなかった。だから嫌でも言うこと聞いてたこと、結構あったよ」 母の表情が固まる。「そんなふうに思ってたの?」「うん」「私はあなたのためを思って――」「分かってるよ」 佳苗は遮るように否定しなかった。「お母さんがわざ
ホテルへ入る佳苗と雄吾。 暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。「……どうして」 佳苗の指先が震える。 まるで誰かに見張られていたみたいだった。『ねぇお姉ちゃん』『その人、誰?』『もしかして浮気?』 次々届くメッセージ。 佳苗は顔を青ざめさせた。 浮気。 その言葉に胸が痛む。 裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。「見せろ」 雄吾が静かにスマホを受け取る。 メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。「……なるほど」「先輩」「撮られていたな」 低い声。 感情を押し殺したような響き。「どうしよう……」
「俺は昔から、お前しか欲しくない」 低い声が耳元で響く。 佳苗は息を呑んだ。 車内の空気が熱い。 逃げ場がない。 雄吾の視線は真っ直ぐで、冗談の気配なんて微塵もなかった。「……先輩」 喉が震える。 理解が追いつかない。 昔から? ずっと? そんなはずない。 自分は特別な人間じゃない。 妹みたいに愛嬌があるわけでも、美人なわけでもない。 ただ都合よく利用されるだけの女だった。「信じられないか」 雄吾が静かに言う。 佳苗は答えられなかった。 すると雄吾は小さく息を吐き、身体を離す。「まあいい」「え……」「今すぐ答えを求める気はない」 その言葉に、佳苗は
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。