LOGIN応募を済ませてから三日後。
佳苗は朝から落ち着かなかった。
理由は分かっている。
メールだ。
応募した会社からの連絡が来るかもしれない。
そう思うだけで。
何度もスマホを確認してしまう。
「気になるなら見ればいいだろ」
コーヒーを飲みながら雄吾が言った。
佳苗は苦笑する。
「見てるんです」
「じゃあ待て」
正論だった。
佳苗は反論できない。
その時。
スマホが震えた。
二人とも視線を向ける。
佳苗の心臓が跳ねた。
画面を見る。
メール。
応募先の会社だった。
「えっ」
思わず声が出る。
佳苗は慌ててメールを開いた。
数秒。
画面を見つめる。
そして。
「面接です」
恵が謝ってから、姉妹のやり取りは少しずつ増えていった。 毎日連絡を取るわけではない。 面白そうな店を見つけたとき。 昔好きだったものを見かけたとき。 そんなときに、短いメッセージを送り合う程度だった。 佳苗には、そのくらいの距離が心地よかった。 何もなかった頃へ無理に戻るのではなく、今の二人で新しい関係を作っていけばいい。 そう思えるようになっていた。 ◇「入籍日、どうします?」 ある夜、夕食を終えたあとで佳苗が尋ねた。 雄吾がカレンダーを開く。「佳苗は希望あるか?」「特には。でも、あんまり先にする理由もないですよね」「ああ」「式をするかどうか決めてからじゃなくてもいいですし」「別でいいだろ」 二人で候補の日をいくつか挙げていく。 仕事の都合。 役所へ行ける時間。 縁起を気にするかどうか。「雄吾さん、こういうの気にします?」「全く」「私もあんまり」「じゃあ、大安は条件から外すか」「はい」 そんな話をしながら決めていくことが、佳苗には楽しかった。 誰かから指定された日ではない。 家族が決めたわけでもない。 二人で相談し、二人で選ぶ。「この日なら、二人とも午後空けられそうですね」「じゃあ、ここにするか」「いいんですか?」「佳苗は?」「私はいいです」「なら決まりだな」 あまりにもあっさり決まって、佳苗は笑った。「もっと特別な決め方するのかと思ってました」「例えば?」「記念日とか」「作ればその日が記念日になるだろ」「……確かに」 雄吾らしい。 佳苗はカレン
恵と会った翌朝。 佳苗は出勤の支度をしながら、昨日のことを思い返していた。 大きな問題はなかった。 恵も雄吾に失礼なことは言わなかったし、金を無心したわけでもない。最後には「お姉ちゃんのこと、よろしくお願いします」とまで言っていた。 それなのに、何となく引っかかっている。「どうした?」 ネクタイを締めていた雄吾が、鏡越しに佳苗を見た。「昨日のこと考えてました」「妹?」「はい」「何か気になることでもあったか?」「分からないんです」 佳苗は正直に答えた。「何もされてないのに疑うのも嫌だし。でも、前のことがあるから……」 恵と悟の関係を知ったときのことを思い出す。 あのときも、最初から疑っていたわけではなかった。「無理に信用する必要も、疑う必要もないだろ」 雄吾が言った。「今は何も起きてない。それでいいんじゃないか」「……そうですね」「何かあったら、そのとき考えればいい」 佳苗は頷いた。 未来のことまで怖がっていても仕方がない。 ただし、自分の嫌なことまで我慢する必要もない。 その二つを混同しないようにしようと思った。 ◇ 一方、恵は昨日から何度も雄吾のことを思い出していた。 顔が好みだったから、というだけではない。 もちろん、実際に会えば魅力的な男性だとは思った。 けれど、それ以上に引っかかったのは、雄吾が佳苗を見るときの態度だった。 佳苗が席を立つとき。 戻ってきたとき。 話しているとき。 特別に甘い言葉を口にするわけでもないのに、自然と佳苗を気に掛けているのが分かった。「……悟と全然違う」 悟と一緒にいた頃の佳苗は、いつも悟の様子を見ていた。 機嫌は悪くないか。 何か必要ではないか。 自分が何か失敗していないか。 恵には、それがひどくつまらない女に見えていた。 もっと好きなことをすればいいのに。 言いたいことを言えばいいのに。 そう思っていたはずなのに。 いざ佳苗がそうなれば、それも面白くない。「何なの、私」 恵は自嘲するように笑った。 佳苗が不幸なら、勝ったような気がする。 佳苗が幸せなら、負けたような気がする。 そんな勝負など、最初から誰もしていないのに。 スマートフォンが鳴った。 母親からだった。 ◇『この前、雄吾さんに会ったんでしょう?
恵と雄吾が会うことになったのは、翌週の日曜日だった。 場所は佳苗が選んだ。 駅から近いレストランで、昼間は家族連れも多い。個室ではなく、周囲にほかの客もいる店だ。「わざわざ付き合わせてすみません」 店へ向かう途中、佳苗が言うと、雄吾は隣で眉を上げた。「何で謝る?」「だって、私の妹に会うために休日を使ってもらってるので」「結婚するなら、いずれ会う可能性はあるだろ」「そうですけど」「それに、嫌なら最初から断ってる」「……はい」 また謝るところだった。 佳苗は小さく笑った。「何だ?」「いえ。雄吾さんといると、私、謝る回数が減ったなって」「まだ多いけどな」「減ってはいます」「じゃあ、そのうちゼロを目指せ」「それは無理です。悪いことしたら謝ります」「それでいい」 そんな話をしているうちに、店へ着いた。 ◇「お姉ちゃん!」 恵はすでに店の前で待っていた。 佳苗に手を振ったあと、その視線が隣の雄吾へ移る。 一瞬。 恵の顔が止まった。「初めまして」 雄吾が先に声を掛ける。「榊原雄吾です」「あ……初めまして。佳苗の妹の恵です」 恵は慌てて頭を下げた。「今日はすみません。私が会ってみたいって言ったから」「いや」 雄吾はそれだけ答えた。 写真では何度も見た。 けれど実際に会うと、印象が違う。 恵は店へ入ってからも、何度か雄吾を見てしまった。「恵?」「え?」「メニュー」「ああ、ごめん」 佳苗に声を掛けられ、慌てて視線を落とす。「何にしようかな」
恵と会うことになったのは、次の日曜日だった。 待ち合わせに選んだのは駅近くのカフェだ。人通りも多く、食事を終えればそのまま別れられる。 約束の時間より少し早く着いた佳苗は、店の前で恵を待った。「お姉ちゃん!」 声に振り向くと、恵が手を振りながら歩いてくる。「久しぶり」「うん。待った?」「今来たところ」「よかった」 思っていたより、普通だった。 以前のような険悪な空気もない。 二人で店へ入り、向かい合って座る。「お姉ちゃん、何にする?」「私はこれかな」「じゃあ私もそれにしようかな」 注文を済ませると、恵は佳苗の顔をじっと見た。「何?」「なんか変わったなって」「そう?」「うん。前より明るくなった」 悪意のない言い方だった。「そうかも」「幸せ?」 佳苗は少し驚いた。 けれど、迷わず頷く。「うん」「そっか」 恵は笑った。「よかったね」「……ありがとう」 本当に。 ただ祝ってくれるだけなのかもしれない。 佳苗の警戒心が、ほんの少し緩んだ。 ◇ 料理が運ばれてくると、話題は自然と近況へ移った。 佳苗は仕事を続けていることを話し、恵も今の生活について簡単に話した。「仕事は?」「今ちょっと探してる」「そうなんだ」「お母さんとも喧嘩しちゃったしね」 恵は苦笑した。「この前は家に行ったみたいだけど」「聞いた?」「お母さんからじゃないよ。結婚のことを聞いたって言ってたから」「ああ」 恵は肩をすくめる。「まあ、ずっと喧嘩してるわけにもいかないし」「そうだね」「でも、一緒に暮らすのは無理かな」「それは二人で決めたらいいと思う」 以前なら、母親と仲直りするよう勧めていたかもしれない。 あるいは、恵が困っているなら自分が何とかしなければと思ったかもしれない。 けれど今は、それぞれの問題だと思える。 恵はそんな佳苗を少し不思議そうに見た。「お姉ちゃん、本当に変わったね」「最近よく言われる」「榊原さんのおかげ?」 その言葉に、佳苗は少しだけ笑った。「違うよ」「違うの?」「雄吾さんにはたくさん助けてもらったけど、私が変わろうって決めたのは私だから」「……ふうん」 恵はストローを指で弄んだ。「お母さんも言ってた。お姉ちゃん、前と違うって」「そう」「悟もそう思ってる
顔合わせから数日。 佳苗の母親からは、何の連絡もなかった。 普段なら、少し言い合いになったあとでも翌日には何事もなかったように連絡してくることが多い。それが今回は珍しく静かだった。「怒ってるのかな……」 佳苗はスマートフォンを見ながら呟いた。「母親?」 向かいに座っていた雄吾が顔を上げる。「はい。顔合わせから一度も連絡がなくて」「放っておけばいいだろ」「そうなんですけど」 嫌われたくない。 怒らせたくない。 そう思う癖は、まだ完全には消えていない。 けれど、だからといって自分から謝るのは違う。「私、言いすぎましたか?」「何を?」「お母さんの生活が変わるって期待しないで、って」「事実だろ」「そうなんですけど……」「じゃあ、謝る必要はない」 雄吾はそう言ってから、少し考えるように続けた。「ただ、今後どう付き合うかは佳苗が決めればいい。縁を切れって話でもない」「はい」「普通に話したくなったら話せばいいし、今は話したくないなら連絡しなくていい」 佳苗は頷いた。 何も、母親との関係をすべて断つ必要はない。 ただ、自分が嫌だと言ったことまで受け入れなくていい。「もう少し、このままにしておきます」「ああ」 ◇ 一方。 母親もまた、佳苗から連絡が来ないことを気にしていた。「……普通、娘の方から何か言ってくるでしょう」 顔合わせでは恥をかいた。 そう思っている。 服の話など、ほんの軽い冗談のようなものだった。それなのに佳苗は皆の前で止め、雄吾まで自分を拒絶した。 ただ。 冷静になればなるほど、母親にも一つ
顔合わせの日程は、翌月の土曜日に決まった。 雄吾が選んだのは、ホテル内にある日本料理店の個室だった。格式ばりすぎず、それでも両家が初めて顔を合わせる場としては十分に落ち着いている。 佳苗も店の写真を見せてもらい、すぐに賛成した。「ここなら、お母さんも文句ないと思います」「文句が出る前提なのか」「この前、ホテルじゃないのって言われたので」「じゃあ条件は満たしたな」 雄吾はそう言って笑った。 母親には店名と時間だけを伝えた。 すると、すぐに返信が来る。『ここ、結構いいところじゃない!』 続けて。『やっぱりちゃんとした顔合わせにするのね。安心したわ』 佳苗は画面を見て、何とも言えない気持ちになった。 自分たちは「ちゃんとした顔合わせ」にするためにこの店を選んだわけではない。個室でゆっくり話せて、両家が落ち着いて食事のできる場所を探した結果だ。 けれど、わざわざ訂正するほどでもないだろう。『当日はよろしくね』 それだけ返した。 ◇ 顔合わせ当日。「佳苗!」 待ち合わせ場所へ現れた母親を見て、佳苗は目を瞬いた。 見覚えのない服だった。 落ち着いた色合いではあるが、普段の母親が着ているものより明らかに華やかだ。「その服……」「買ったのよ」「そうなんだ」「せっかくの顔合わせだもの。さすがに普段着ってわけにはいかないでしょう?」「似合ってるよ」「でしょう?」 母親は満足そうだった。 自分で用意したのなら、それでいい。「雄吾さんは?」「もうご両親と中にいるよ」「そう」 母親は少し緊張したように服を整えた。「変じゃない?」「大丈夫だよ」「本当に?
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。
ホテルへ入る佳苗と雄吾。 暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。「……どうして」 佳苗の指先が震える。 まるで誰かに見張られていたみたいだった。『ねぇお姉ちゃん』『その人、誰?』『もしかして浮気?』 次々届くメッセージ。 佳苗は顔を青ざめさせた。 浮気。 その言葉に胸が痛む。 裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。「見せろ」 雄吾が静かにスマホを受け取る。 メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。「……なるほど」「先輩」「撮られていたな」 低い声。 感情を押し殺したような響き。「どうしよう……」