LOGIN「……これ、やりすぎじゃないですか?」
佳苗は思わず引きつった声を漏らした。
リビングのモニターにはマンション内の防犯映像。
エントランス。
エレベーター前。
フロア入口。
複数の警備員まで映っている。
「通常対応だ」
ソファへ座った雄吾が平然と言う。
「通常!?」
「今の状況なら当然だ」
佳苗は絶句した。
昨日のメッセージ以降、警備体制が明らかに強化されている。
エレベーターも専用キー必須。
来客は事前登録制。
フロアには常時警備員。
もはや要人警護レベルだ。
「私、そんな危険人物に狙われてるんですか……?」
「悟は執着型だ」
低い声。
「追い詰められると何をするか分からない」
佳苗は言葉を失う。
母からの連絡は、翌日には何事もなかったように届いた。『昨日買ったもの、何だったの?』 佳苗は少し迷ったが、隠すほどのことでもない。『マグカップとか日用品だよ』『写真見せて』 言われるまま送る必要はないと思った。それでも、これくらいなら構わないかと、昨日撮ったマグカップの写真を送る。『かわいいじゃない』『雄吾さんと色違い?』『うん』『新婚さんって感じね』 母の機嫌はよさそうだった。 佳苗も安心しかけたところで、次のメッセージが届いた。『今度から出かけるとき、どこに行くか教えてね』 佳苗の指が止まる。『どうして?』『何かあったとき心配だから』『雄吾さんと一緒だったよ』『それでも私は母親でしょう?』 また、その言葉だった。 佳苗は少し考えてから返信した。『心配してくれるのはありがとう。でも、出かけるたびに報告はしないよ』 しばらく返事は来なかった。 ◇ その日の夜、今度は恵から電話が掛かってきた。『お姉ちゃん、お母さんに何か言った?』「昨日からいろいろ」『やっぱり』「恵にも?」『位置情報共有しないかって言われた』「位置情報?」 佳苗は思わず声を上げた。『最近物騒だから、家族で共有しておけば安心だって』「それ、断った?」『断ったよ。何で二十四時間お母さんに居場所知られなきゃいけないの』 恵らしい答えに、佳苗は苦笑する。『そしたら、やましいことがなければ困らないでしょうって』「そういう問題じゃないよね」『でしょ?』 恵はため息をついた。『お母さん、どうしちゃったんだろ』「多分、不安なんだと思う」『何が?』
日曜日、佳苗は予定通り雄吾と出かけた。 目的は、新生活に必要なものを買うことだった。 とはいえ、結婚前から一緒に暮らしていたため、大きく買い足すものはない。タオルや食器などを見ながら、気に入ったものがあれば買おうという程度だった。「これ、どうですか?」 佳苗が白いマグカップを手に取る。「同じの二つ?」「色違いもありますけど」「佳苗はどっちがいい?」「私は白かな」「じゃあ俺は黒」「即決ですね」「悩む理由がない」 そんな他愛のない会話をしながら店内を歩く。 ふと、佳苗のスマートフォンが震えた。 母からだった。『今日、本当に出かけてるの?』 佳苗は画面を見つめた。「どうした?」「お母さんです」 雄吾には画面を見せず、簡単に説明する。「この前、今日買い物に付き合ってって言われたんです。でも雄吾さんと約束があるから、別の日ならって断ったんですよ」「それで?」「本当に出かけてるのかって」 雄吾が眉を寄せた。「確認する必要あるのか?」「ないと思います」 佳苗は少し考えてから返信した。『出かけてるよ』『どこ?』 今度は答えなかった。 ◇ その頃、母は返信の来ない画面を見つめていた。「どこにいるかくらい教えてくれてもいいじゃない」 別に邪魔をするつもりなどない。 ただ、娘がどこで何をしているのか知りたいだけだ。 以前なら、佳苗はもっと話してくれた。 何を買った。 どこへ行った。 悟と何があった。 困ったことがあれば相談もしてきた。 それなのに今は、何を聞いても必要最低限しか答えない。 母は恵へメッセージを送った。
三人で食事をした日の夜、佳苗は雄吾に母とのやり取りを話した。「お正月か」「まだだいぶ先ですけどね」「今から決めたいんだろうな」「多分」 佳苗はソファに座り、少し考える。「お母さん、前はここまでじゃなかった気がするんです」「佳苗が結婚したからじゃないか?」「やっぱりそう思います?」「ああ。結婚したことで、自分から離れたって感じてるんだろ」 雄吾の言葉は、美佐子から聞いた話とも重なった。「でも、別に会わないって言ってるわけじゃないんですよ。恵も、たまには帰るって言ってるし」「それじゃ足りないんだろ」「何が欲しいんでしょう」「優先されたいんじゃないか」 佳苗は黙った。 今日の母の言葉を思い出す。『家族なのに、予定が空いてたらなの?』 確かに、母が気にしていたのは会えるかどうかではなかった。「私、冷たいですか?」「俺に聞くな」「どうしてです?」「佳苗が母親とどれだけ会うかは、佳苗が決めることだから」 雄吾は当然のように言った。「俺が『もっと会ってやれ』って言ったら、会うのか?」「……嫌です」「なら答え出てるだろ」 佳苗は思わず笑った。「そうですね」 ◇ 一方、母は一人で食事から帰り、静かな部屋を見回していた。 佳苗は雄吾のところへ帰った。 恵も自分の部屋へ帰った。 当然のことなのに、取り残されたような気がする。 スマートフォンを開くと、三人で撮った写真があった。 今日、恵が「せっかくだから」と撮ったものだ。 三人とも笑っている。 楽しかった。 娘たちも楽しそうだった。 それなのに。「どうして&helli
三人での食事は、翌週の日曜日になった。 佳苗が選んだのは、駅近くの気軽なレストランだった。「こうやって三人で食事するの、久しぶりね」 母は嬉しそうだった。「そうだね」「昔はもっと一緒に出かけたのに」「二人とも大人になったんだから、仕方ないでしょ」 恵が笑う。 母も笑い返した。 最初のうちは穏やかだった。 料理を食べながら、恵の仕事の話を聞き、佳苗の新しい名字にもまだ慣れないと笑う。「そういえば、会社ではもう榊原さんって呼ばれてるの?」「うん。まだ自分のことじゃないみたいだけど」「いいわねえ、榊原佳苗か」 母がどこか満足そうに言った。「立派な名字になったわね」「朝倉だって別に悪くないでしょう」 恵が呆れる。「そういう意味じゃないわよ」「じゃあ、どういう意味?」「雄吾さんの家に入ったんだなって思っただけ」 佳苗は箸を置いた。「私は雄吾さんの家に入ったわけじゃないよ」「結婚したんだから同じでしょう?」「同じじゃないよ。雄吾さんと私で新しい家庭を作ったの」 母は納得していない様子だったが、それ以上は言わなかった。 ◇ 食後のコーヒーが運ばれてきた頃、母が何気ない調子で言った。「そういえば、お正月はどうするの?」「お正月?」「今年から結婚したんでしょう? 榊原家に行くの?」「まだ決めてないよ」「じゃあ、うちにも来られるわよね?」 佳苗は少し考えた。「予定が合えばね」「予定って、お正月くらい家族で過ごすものでしょう?」 隣で恵が顔を上げた。「お母さん、またそれ?」「何が?」「この前も私に毎週帰ってこいって言ってたじゃん」「毎週なんて言
週末、恵は母に呼ばれて実家を訪れた。「最近、ちゃんと食べてるの?」「食べてるよ」「仕事は?」「普通」 母が淹れたお茶を飲みながら、他愛のない話をする。 こうして会うこと自体は嫌ではなかった。 問題は、その先だった。「ねえ、恵」「何?」「この前話したこと、考えてくれた?」 一緒に暮らさないかという話だ。「考えたけど、やっぱり無理」「どうして?」「今の生活変えたくないから」「でも、一人暮らしだってお金かかるでしょう? ここなら家賃も浮くじゃない」「お母さんと暮らすために仕事してるわけじゃないし」 母の顔が曇る。「そんな言い方しなくてもいいでしょう」「ごめん。でも、一緒には住まないよ」「佳苗も結婚して出ていったし、あなたまで……」「お姉ちゃんは前からここに住んでないじゃん」 恵は思わず突っ込んだ。 佳苗は悟と結婚していた頃から、母とは別に暮らしていた。雄吾と結婚したから突然家を出たわけではない。「そういう意味じゃないわよ。もう完全に向こうの家の人になったってこと」「結婚しても娘でしょ?」「だったら、もう少し親のことを考えてくれてもいいじゃない」 結局、そこへ戻る。 恵は小さく息を吐いた。「お母さん、寂しいの?」「……何よ、急に」「寂しいから、私に一緒に住んでほしいんでしょ?」「親が娘と暮らしたいと思うのは普通でしょう」「普通かどうかじゃなくて、お母さんがどうなのって聞いてるの」 母は答えなかった。 その沈黙で十分だった。「寂しいなら、ときどき来るよ。ご飯も食べようよ」「だったら一緒に住めばいいでしょう?」「それは
数日後、美佐子から佳苗へ連絡があった。『少しだけ、お話ししておきたいことがありますの』「何でしょう?」『先日、偶然お母様にお会いしたの』「母に?」 佳苗は思わず聞き返した。『ええ。ホテルでね。少しお茶をご一緒したのだけれど、そのとき食事代のお話が出たの』「……すみません」『佳苗さん』 美佐子の声が少しだけ強くなる。『あなたが謝ることではありませんでしょう?』「あ……はい」『私も雄吾から、お金のことで何か言われても勝手に返事をしないようにと言われていましたから。何もお約束していません』「ありがとうございます」『ただ、お母様は少し寂しく感じていらっしゃるようでした』 佳苗は黙った。『もちろん、だから佳苗さんが何かして差し上げるべきだと言っているわけではありませんよ』「はい」『以前の私なら、そう言ってしまったかもしれませんけれど』 美佐子は小さく笑った。『でも今は、親が寂しいことと、子供がそれを埋めなければならないことは別なのだと思っています』 その言葉に、佳苗は少し驚いた。「お母様、変わりましたね」『まあ。褒めてくださっているの?』「もちろんです」『それなら素直に喜んでおきますわ』 電話を切ったあと、佳苗はしばらく考えていた。 母が寂しい。 それ自体は理解できる。 けれど、だからといって以前のように母の機嫌を取るため、自分が折れるつもりはなかった。 ◇ その日の夜、恵からメッセージが届いた。『お母さんとなんかあった?』『どうして?』『最近めっちゃ面倒くさい』 佳苗は思わず笑ってしまった。『何て言ってるの?』『私たち二人とも結婚したら、お母さん一人になるとか』
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。







