تسجيل الدخول亮太のいる社長室から立ち去った日菜乃は、早足で社内を歩いていた。「キャッ!」その途中で若い女性社員にぶつかったが、日菜乃は何も言わずにその場から去って行った。ぶつかられた女性社員は肩を手で押さえながら、去って行く日菜乃の後ろ姿を眺めていた。「何よあの人……」その言葉に、近くにいた別の女性社員が反応した。「アイツ、山川日菜乃よ……前までここで働いてた社員で、社長の再婚相手……」「えぇ、あんな愛想の悪い女が……!?」彼女はまだ入ったばかりで、日菜乃のことを知らなかった。日菜乃はここで社員として働いていた頃、悪い意味で社内では有名だった。誰とでも寝ると言われていた彼女は様々な男に手を出し、相手の家庭を崩壊させることもたびたびあった。そのため、女性社員で彼女と親しくしている人は一人もいなかった。「あの女が社長夫人になるだなんて……いよいよ終わりね」「あの方はそれほどとんでもない人なんですか?」「ええ、危険人物よ……権力を手に入れた今、何をするかわからないわ……」彼女は小柄な日菜乃の小さな背中を見つめながら呟いた。***荒々しく本社から出た日菜乃は、外にとめてあった羽川家の車に乗り込んだ。「……本邸へ向かってちょうだい」「はい、奥様」運転手は車を発進させた。日菜乃の機嫌が良くないということは誰から見ても明白だった。彼女は後部座席で足を組み、しかめ面で外の景色を見つめていた。今日は一体どのような癇癪を起こされるのか。運転手は気が気ではなかった。彼は何とかして日菜乃の機嫌を取ろうと、後ろに座る彼女に声をかけた。「奥様、社長のご容態はいかがでしたか?」「……最悪だったわ」日菜乃は素っ気なくそう答え、彼は失敗を悟って顔を真っ青にした。何を言えばいいか必死で思考を巡らせていると、日菜乃が悲しそうに呟いた。「社長はもう、私のことをあまり愛していないみたい……」「しゃ、社長がですか……?」運転手は耳を疑った。亮太が日菜乃を愛していない?そんなことあるわけがない。彼が見た亮太はいつだって日菜乃を心から愛していた。恋は盲目、という言葉はまさに亮太のためにあるのだろうと思うほど、彼は日菜乃にゾッコンだった。「奥様、そんなことはありません。社長は奥様のことを深く愛しておられます」「……そうかしら?」「はい、社長が愛するのは奥様一人だけですよ
亮太の言葉に、日菜乃はもちろん芹沢も驚きを隠しきれなかった。社長室に沈黙が流れ、日菜乃は暗い顔のまま俯いた。「社長……今……何て言いました……?」「……」芹沢の問いに、亮太は返事をしなかった。明らかに顔色の悪い日菜乃をただじっと見つめているだけ。その瞳には、以前のような深い愛情は見られなかった。何故、彼はこんな短期間でここまで変わってしまったのか。日菜乃はどれだけ考えてもわからなかった。「……社長はそういう考えをお持ちなんですね」「……」しばらく俯いていた日菜乃が顔を上げた。その瞳は亮太に対する敵対心を表すかのように、鋭い眼光を放っていた。それを見た芹沢がビクッと肩を上げた。穏やかで怒っているところなんて見たことのない人だったが、こんな目をするのか。日菜乃は鋭い瞳で亮太を見下ろし、彼もまた冷めた目で彼女を見つめ返している。もはやお互いを見つめ合う二人の間には、愛なんてものは存在していなかった。「しゃ、社長……奥様……」「……」芹沢が重い空気の中で何とか声を絞り出したが、二人には届いていないようだった。しばらく亮太を見下ろしていた日菜乃が、突然ニッコリと笑った。「そうですね、私にもいけないところがあったかもしれません」「ひ、日菜乃さん……?」日菜乃はさっきの冷たい表情とは打って変わって穏やかな笑みを浮かべていた。こんなにも一瞬で表情を変えてしまうだなんて。芹沢は日菜乃の変わり様に驚いた。「社長に言われたことで気が付きました。反省しています」「……そうか、それはよかった」亮太は虚ろな目をしたまま軽く頷いた。「日菜乃、今日は何をしにここへ来たんだ?」「さっきも言いましたが、社長の様子を見に来たんです。社長のことがとても心配だったので」「そうか……」いつもなら何ていじらしい女なんだと抱きしめているだろう。だが、今は何故だかそうする気になれなかった。亮太は嬉しそうな顔をすることもなく、手元の書類に視線を落としている。彼が日菜乃より仕事を優先するのは初めてのことだった。亮太は視線を書類に向けたまま、口を開いた。「……気持ちはありがたいが、今は仕事中だ。今後軽々しくこの場所に入るのは控えろ」「……ええ、わかりました」日菜乃は今度は反論することなく、返事をした。最愛の女に向けるとは思えないような言葉だった。「まだ仕事が残ってい
「失礼します、社長はいますか?」「……山川さん、いえ、今は羽川夫人になったんでしたね」日菜乃が本社へ行くと、受付の女性が彼女を見て眉をひそめた。彼女は元々ここの社員だったが、同僚たちにはあまり好かれていなかった。特に女性社員からは相当嫌われていた。男女で態度が違う上に、既婚者の社長にまで媚びを売ってのうのうと後妻の座に収まったのだから当然のことだった。しかし、今の日菜乃にとってはただの負け惜しみにしか感じない。(そんな顔をしたって痛くも痒くもないわ。私は社長夫人であなたは一介の社員なんだから)日菜乃は勝ち誇ったような笑みで受付を見下ろした。「……社長ならいますから、勝手に行ってください」「……社長夫人に対する礼儀がなってないわね」日菜乃は不快そうに呟いた。あとで亮太に言いつけて解雇してもらおう。社員一人クビにすることくらい、彼女にとってどうだってことはなかった。「……さっさと行ってきたらいかがですか?社長がお待ちですよ」「そうね、行かせてもらうわ」日菜乃は完璧な笑顔で彼女を一瞥すると、そのままエレベーターで上へと上がって行った。社長室へは何度も行ったことがある。そのたびに亮太は彼女を温かく出迎えた。社員たちに快く思われていなかろうと、トップである亮太さえいればそれでよかった。「社長」「……日菜乃」部屋に入ると、亮太と芹沢の姿が見えた。日菜乃の来訪に、芹沢は嬉しそうな顔で彼女を見た。相変わらず体調が優れないのか、亮太は無表情のままだった。「社長、体の具合はいかがですか?」「……だいぶマシになった」「それはよかったです。家にいる間、社長のことが心配でたまらなくって……」「……」日菜乃のそのような言葉を聞いても、亮太の顔色は変わらなかった。彼女はそんな彼に違和感を感じた。以前の亮太なら頬を赤く染め、彼女を胸に抱きしめていた。(……どうして、今日は抱きしめないの?)亮太が自分の思い通りにならないのは初めてだった。日菜乃は背後に控えている芹沢にチラリと目をやった。彼は彼女の鋭い視線にビクッと肩を震わせた。日菜乃と目が合った芹沢は首を何度も横に振った。亮太の様子がおかしいことは彼にも原因がわからないという意味だ。「社長、実はさっき受付の女に酷いことを言われたんです!」「……何だって?」日菜乃の弱々しい声に、亮太が顔を上げた。
「日菜乃様、どちらへ行かれるのですか?」「奥様よ、言葉に気を付けなさい」「も、申し訳ございませんッ……!」そのとき、日菜乃は羽川家の本邸で外出の準備をしていた。彼女がこの家の女主人となってからまだ日が浅い。(ようやく……ようやく邪魔な女を追い出して本妻の座を手に入れることができたわ……!)愛人として過ごした年月があまりにも長かったせいか、何だか涙が出そうになった。しかし、まだ彼女の計画が終わったわけではない。気に入らない女を痛い目に遭わせるまで彼女は諦めたりしない。「次は無いわ、次そう呼んだら亮太に言ってアンタをクビにしてもらうから」「は、はい……」使用人の一人はビクッと体を震わせながら返事をした。彼女は日菜乃の剣幕に驚きを隠せなかった。日菜乃はこんなにも怖い人だっただろうか?いつも亮太の隣で美しく穏やかに微笑み、私たち下の人間にも優しく接してくれるような人だった。社長が怒ると庇ってくれ、彼女に助けられたという羽川家の人間は多い。だからこそ、羽川家の者たちは日菜乃を好きになり、彼女にとっての邪魔者である香織を毛嫌いしていたのだ。それなのに、今はどうして日菜乃が恐ろしく感じるのか。メイドは彼女をおそるおそる見上げた。「……どうかした?」顔を上げると、日菜乃は以前と変わらず美しく笑っていた。「あ……いえ、何でもありません」さっきのは見間違いか。彼女はそのことに安堵した。あの聖母のような日菜乃が私たちにそんな態度を取るはずがない。香織じゃないんだから。亮太と同じく、彼らの中でもまた、日菜乃は女神で香織は悪女だった。日菜乃の本当の姿など、当然知る由もない。「亮太の元へ行くのよ」「社長のところへですか?」「ええ、何か問題でも?」「い、いえそういうわけではありません!」日菜乃の機嫌を損ねるわけにはいかない。亮太にすら嫌われている香織のことは適当に扱っていたが、彼女のことは大切にしなければならなかった。日菜乃に何かあれば、亮太が黙っていないだろうから。「いってらっしゃいませ、奥様」「いってくるわ」メイドはエントランスで日菜乃を見送った。彼女は服を着替え、亮太のいる本社へ車で向かった。主人のいなくなった邸宅で、メイドはリラックスしながら中を歩き回っていた。亮太と日菜乃がいないだけでこんなにも心が楽なのか。ちょっとくらいサボっても
再婚を発表してから数日後、亮太は虚ろな目で社長室の椅子に座っていた。「社長……大丈夫ですか?」「……平気だ」心配そうに彼を見つめる芹沢に返事をしたが、とても平気そうには見えなかった。彼の目は暗くどんよりとしていて、焦点が合っていない。香織と離婚してからというもの、彼はずっとそのような調子だった。あの日、日菜乃が亮太の部屋に押し入るまで彼はずっと自室に引きこもっていた。彼女のおかげで何とか仕事に復帰したはいいものの、何故か仕事があまり手に付かなかった。最近、ずっとくだらないことばかりを考えてしまう。それに夜になると、悪夢をよく見る。ただ自分が知らない男たちから凄惨な暴力を受け続けているだけの夢。何かを思い出せそうな気がしてならない。しかし、今の彼にとってはそんなこと重要ではなかった。――この選択は、本当に正しかったのだろうか。そのような疑念が彼の心に浮かんではいつまでも消えなかった。香織と離婚した彼は、すぐに日菜乃と籍を入れた。離婚してから日も浅い再婚だ。非難の声がまだまだあるのは彼も知っている。しかし、彼が気がかりだったのはそんなことではなかった。「社長、日菜乃様がお昼に社長の様子を見に来るそうです」「日菜乃……」「いやぁ、日菜乃様は本当に良い奥様ですね。前の奥様とは大違いだ」そんなのは当たり前のことだ――といつもの亮太ならそう言っているだろう。しかし、そんな言葉が何故か口から出なかった。彼女を正式な妻にしてからというもの、亮太は日菜乃に妙な違和感を感じるようになった。彼女の傍が居心地悪いと感じるのは初めてだった。日菜乃が作った料理も味がしないし、一緒にいても安らぎを感じなかった。(香織と結婚していた頃の方が楽に過ごせていたな……)彼女を恋しく思う日が来るとは、想像もしていなかった。しかし、今さら後悔したところで全てが遅すぎるのだ。「なぁ、芹沢……香織は元気にしているか?」「……社長、急にどうなさったんですか?」芹沢が驚いたような顔で彼を見た。驚いたのは亮太も同じだった。「前の奥様のことが気になるのですか?」「いや、そういうわけでは……」否定しようとした亮太に対し、芹沢がニヤリと醜悪な笑みを浮かべた。「結婚式にはあの方も呼んだのでしょう?きっと惨めな姿を見られると思いますよ」「惨めな……」その言葉で、亮太は数ヵ月
彼女の裏切りを知ったとき、礼音はショックを隠しきれなかった。自分と付き合っていながら平然と他の男と愛を交わしていたというのか。彼は深く愛していたはずの真央に嫌悪感を抱くようにさえなった。礼音は両親の影響か、性にだらしない人間を異常なほど毛嫌いしていた。『ちょっと魔が差しただけよ。礼音のことは大好きなの。お願い、やり直しましょう?』真央は礼音を引き留めたが、彼は一方的に連絡を断った。礼音にとっては最悪な初恋の思い出となった。それ以降、彼は初恋の少女の記憶に蓋をして生きていくこととなった。「なぁ、礼音……その初恋の女の子の名前は覚えているか?」「いや……昔聞いたような気がするが……その部分だけは何故か思い出せないんだ」礼音は彼女の顔は覚えていたが、名前だけはどうしても思い出すことができなかった。理由は自分でもわからない。時が経つと共に、記憶から抜け落ちていたのだ。それと、もう一つ思い出せそうで思い出せない記憶があるような……そのとき、彼の脳裏にちょっと前に見た雨の日の記憶がよぎった。死体を抱きしめて泣き叫んでいる自分の姿だ。あの日からちょくちょく似たような夢を見ていた。結局あれが何だったのかは未だにわからない。だが、何故かあの記憶を見るととても辛い気持ちになった。胸が張り裂けそうで……こんな気持ちになるのは初めてだった。「……音、礼音。聞いてるのか?」「……あぁ、すまない。考え事をしていた」我に返って返事をすると、琢磨がアハハッと笑った。「お前がボーッとするなんて珍しいな。よほどあの子に心を揺さぶられているようだ」「……どうだかな」礼音は否定も肯定もしなかった。香織に感情を乱されているのはたしかだったから。そのような彼の姿がよほど珍しいのか、琢磨は笑いを堪えるのに必死だった。「お前、いい加減にしろ」「悪い悪い、お前も血の通った人間なんだなーって思っただけだよ」「どういう意味だ」彼はその問いには答えなかった。「まぁ、俺はたしかめてみる価値はあると思うぞ」「……香織が彼女だとでも?」「調べてみないとわからないだろ」琢磨は面白そうに笑った。礼音はそんな彼の悪ふざけをまともに取り合うつもりはなかった。「まぁ、余裕があったら調査してみろ。香織ちゃんがあの子でないなら切ればいいし……」「お前、何てことを言うんだ?」その発言にイ
あっという間に五日が過ぎ、パーティーの日になった。「香織お嬢様、本当によくお似合いです。会場にいる全員がお嬢様に目を奪われるでしょう!」「そうかしら?」華やかな青いドレスに身を包み、長い黒髪を結い上げた香織は、行きつけの美容院の店長――鏑木壮太(かぶらぎそうた)の手を取り、彼の車へと向かっていた。「あなたの腕がいいのよ、いつも感謝しているわ」「それはこちらのほうですよ、お嬢様。お嬢様の父君には感謝してもしきれません」壮太は優雅に香織をエスコートし、車のドアを開けた。香織が黒のSUVの後部座席に乗り込むと、壮太が運転席に座った。「あなたが運転してくれるのね」「安物の車で申し訳
有真は結婚する十年前まで、忠嗣の経営する会社の社員として働いていた。彼女は一般家庭の生まれだったが、努力を重ねて有名大学を卒業後、大企業へと就職することができた。そんな有真は、学生時代から明るい性格でクラスの人気者だった。絶世の美人というわけではなかったが、穏やかで優しく、いつだって周囲に気さくに振舞うその姿は男女問わず魅了した。――そんなところが、彼を虜にしたのかもしれない。彼女が九条グループに入社してから一ヵ月、有真は広い会社内で迷子になっていた。(道に迷っちゃったわ……会議室はどこかしら……)会議が始まるまではあと少しだ。入社早々遅刻するわけにはいかない。有真は焦っていた。彼
夜になり、ドキドキ初出勤を終えた香織は九条邸へと戻った。結婚前はどんな小さな用でも車で送り迎えをしてもらっていた香織だったが、今日は歩きだった。(職場まではそう遠くないし……運動のためにも歩こう)羽川家では車に乗れないのが普通だったせいか、歩きに慣れてしまったようだ。しばらく歩くと、羽川家の邸宅に到着した。(今でもここへ帰るのは慣れないわね)香織はそう思いながら鍵を使って中に入った。「香織さん、おかえりなさい」「ただいま、有真さん」帰宅した香織を、継母の有真が出迎えた。夜ご飯を作っている最中だったのか、長い髪を一つにまとめてエプロンを着ていた。有真は忠嗣の二十歳年下で、香織の
それから一週間後。「初めまして、九条香織です。これからよろしくお願いいたします」「……」香織は父親の会社で新入社員として入社していた。彼女を見た社員たちはしばらく固まったあと、ヒソヒソと噂話をし始めた。「九条って言った……?もしかして社長の娘さん……?」「間違いないわ。社長の娘、夫と離婚して実家に帰ったらしいわよ」「よりによって何でこの部署に……社長の娘とか気使うわー……」「……」香織の第一印象はあまり良くなかった。コネ入社、血筋が良いだけ、だとか散々な言われようだ。しかし香織はそんな中傷など気にも留めなかった。彼女が羽川家で受けた屈辱に比べれば、こんなもの大したことないか







