FAZER LOGINまるで獲物を狙う猛獣のように、その目は鋭かった。日菜乃はこれまで、望んだものは全て手に入れてきた。そうでなければ気が済まない性格なのだ。彼女はアハハッと笑い声を上げた。「羽川家の妻に相応しいのはあの女ではなく、この私よ。あなたもそう思うでしょう?――柚果」「はい、その通りです。日菜乃さん」柚果――そう呼ばれた女が上品な笑顔で頷いた。桜庭柚果。香織の勤務先の上司であり、初対面で彼女に親しげに話しかけた唯一の人。そんな彼女が何故、日菜乃の家にいるのか。考えるまでもない。――彼女は元々、日菜乃側の人間だったのだ。高校時代、日菜乃に救われ、彼女の生き様に感銘を受けた柚果は日菜乃の者となった。元々聡明で仕事面においてかなり優秀だった柚果は、様々な会社に潜入しては日菜乃の手足となって動いていた。今は香織の父親が社長を務める九条グループに社員として潜入中だ。人当たりの良い彼女の裏の顔に、社員は誰一人として気付いていない。もちろん、つい最近後輩となった香織も。皆、彼女を善人だと信じて疑わないのだ。日菜乃にとって、柚果ほど信用できる駒は他になかった。絶対に自分を裏切ることのない、忠実なしもべ。「あなたはいつもよくやってくれているわ。会社で香織の悪い噂を広めたのもあなたなんでしょう?」「はい、日菜乃さん。おかげであの女は最初から社内での立場をなくしていました」「そう、いい気味だわ」日菜乃が柚果を気に入っている理由はいくつかあるが、一番は彼女の考えを全て把握し、命令する前に事を成し遂げるというところだ。「……あなたにはいつも世話になっているし、ドレスの件は水に流すことにするわ」「……」その言葉に、柚果の顔色が悪くなっていった。実は、香織にパーティーで着ていくドレスの色を事前に調べたのは柚果だった。彼女は何も疑われることなく香織の着ていくドレスを突き止めたが、彼女は当日違うドレスで会場へ訪れた。柚果にとっては予期せぬ事態だった。彼女は悔しさで唇を噛んだ。任務が失敗するのは、柚果にとって初めてのことだった。何としてでも、今回で前回の屈辱を挽回しなければ。柚果は口を開いた。「ですが、日菜乃さん。あの女は私を信用しきっています」「そうね、あなたは外面はいいから」日菜乃は柚果を見て不敵な笑みを浮かべた。「私は日菜乃さんに恩がありますから。どこまでもつい
日菜乃は自らの美貌を利用し、高校では様々な男と関係を持った。彼女がいようがいまいが気にもならなかった。そのため、トラブルになることも一度や二度ではなかった。日菜乃は男を魅了する術がかなり長けていた。あの日、頭を打ってからというもの、まるで別人格が彼女を乗っ取ってしまったかのようだった。(低スペックな彼氏を寝取られたくらいで騒いで……情けないったらありゃしない)大体あなたに女としての魅力がないのが原因なのに、何故私が責められなければならないのか。日菜乃はそのような自己中心的な思いを抱きながら、高校時代を過ごした。大学に上がっても彼女の性格は変わらなかった。平然と人の男と関係を持ち、そのまま略奪。そして他に良い男が見つかればあっさりと捨てる。彼女の大学生活はもはや勉強のためではなく、男漁りのために存在しているようなものだった。日菜乃は就活においても自身の美貌を最大限に活用した。面接官の男に媚びを売れば、彼らはあっという間に日菜乃の虜になった。特別優秀だったわけでもない彼女は大企業に内定が決まった。周囲の者たちは当然、そんな彼女を快く思っていなかったが、元々日菜乃は他人の目を気にしない人間だった。特に気に留めることもなく、大学を卒業した。授業をサボって遊んでばかりいた彼女は単位がかなりギリギリだったが、教授に気に入られることで難を逃れた。「今日で私、この家から出て行くから」「ひ、日菜乃!?急に何を言っているの!」社会人になる前、日菜乃は同居していた祖父母に言い放った。「大学までの学費を出してもらったことは感謝しているわ。でもね、私はこれ以上あなたたちと一緒にいるつもりはない」「ちょ、ちょっと待ちなさい日菜乃……」「二度とあなたたちと会うことはないでしょう」日菜乃はそれだけ言うと、荷物をまとめ、何の未練もなく家から出て行った。家を出た彼女は、すぐに都会のタワーマンションで生活を始めた。大学を卒業したばかりの彼女にそのような資金などあるはずがない。彼女は新しくできた裕福な恋人に生活の援助をしてもらっていた。その相手は一回り年上で妻と子供がいたが、日菜乃は自分の目的のためならそんなこと気にしなかった。何かあったとしても私にゾッコンな相手が庇ってくれるはず。今までだってそうだったのだから。彼女はタワマンから見える景色を眺めながら優越感に浸った。そ
――私、何をしていたのかしら。目が覚めた日菜乃は、目に涙を浮かべる教師や医師たちを冷めた目で見つめていた。彼らが何故そんなに喜んでいるのかがわからなかった。あぁ、いっそあのまま死んでくれた方がよかっただろうに。日菜乃は自身を抱きしめる女教師の背中に腕を回しながらニヤリと笑った。――信じられないことだが、あの事故が原因で日菜乃の性格は一変してしまったのだ。***「ちょっと日菜乃!こんなに遅くまでどこに行っていたのよ!」目覚めてから数日後、祖母が彼女に声を荒らげた。「こんな夜遅くまで外で遊んでいるなんて、何かあったらどうするのよ!」「……」日菜乃は鬼の形相で自分を叱る祖母を冷めたような目で見つめた。時刻は夜の十二時だった。まだ中学三年生の彼女がこんな時間まで外で遊び歩いているのは明らかに危険だった。今回ばかりは祖母の言い分が正しい。そんなことは誰から見ても明白だ。しかし、日菜乃はそのことを悪いとも思っていなかった。「ちょっと彼氏とデートしてただけよ、いちいちくだらないことでキレないでよね」「な、何ですって!?」反抗的な日菜乃の態度に、祖母は顔を真っ赤にした。明らかに異常だった。以前の彼女はこのような人ではなかった。祖父も祖母も、突然変わった彼女に困惑を隠しきれなかった。そしてこの頃、日菜乃には初めての恋人ができていた。「お待たせ、直哉」「ああ、日菜乃」彼女よりも四つ年上の有名企業の御曹司だった。日菜乃は新しい恋人――直哉の運転する高級車に乗り込んだ。(同級生は子供すぎて嫌になるわ……彼は何でも買ってくれるし、どこへでも連れて行ってくれる。これほど良い相手はいない)中学三年生にして既に美貌が完成していた日菜乃は、学校終わりにはいつも派手なメイクをして直哉とのデートに出かけていた。その姿を見るたびに、祖父母はいつも眉をひそめた。しかし、そんなこと気にもならなかった。すれ違うたびに驚いたような顔で自分を見つめる同級生たちの目も。(ふふ、私はアンタたちとは違うんだから。高級車なんて乗ったことも無いでしょう?高価なランチやディナーにも行ったことがないなんて可哀相だわ)日菜乃はむしろ、同級生たちを見て優越感に浸っていた。あなたたちの低スペックな恋人なんて全然羨ましくない。私は有名企業の御曹司と付き合っているんだから。直哉と付き合っ
日菜乃は生まれたときから、母親しかいなかった。父親は顔すら知らず、母はいわゆる未婚のシングルマザーというやつだった。しかし、それでも別に不幸には感じなかった。母はとても優しい人で、日菜乃にたくさんの愛情を注いでくれたから。今ではもうあまり思い出せない母だが、幼い頃はただただ幸せだった。いつも日菜乃の隣で美しく微笑んでいた母が、いなくなったのはいつからだっただろうか。日菜乃が中学生の頃、母が亡くなった。不運にも交通事故に遭い、三十歳という若さで命を落とした。日菜乃の母は高校時代に同級生の子を妊娠し、相手に逃げられたという過去を持っていたことを知っていたのはそのときだった。『こんなにも早く亡くなってしまうだなんて……』『残されたお子さんが可哀相だわ……』葬儀では、日菜乃は参列客たちに憐憫の目を向けられた。父親には捨てられ、母親にも先立たれてしまった。彼女に残されたものは何もなかった。その後のことはよく覚えていない。日菜乃は祖父母を名乗る人――母の両親に引き取られることとなった。その日から、日菜乃の幸せだった暮らしは一変した。祖父母はとても厳格な人で、未成年で妊娠した彼女の母のことを嫌っていたのだ。日菜乃の母親には兄弟が何人かいたが、全員有名大学を卒業して今はエリートの道を着々と歩んでいた。――彼らにとって、日菜乃の母の存在は唯一の汚点なのだろう。『絶対に母親のようになってはいけないわ』事あるごとに日菜乃にそう言い、彼女の行動を制限した。一言で言えば過干渉というやつだろう。これまで穏やかな母の元で比較的自由に過ごしてきた日菜乃にとっては窮屈だった。彼らと過ごしていると、母が何故未成年で過ちを犯してしまったのかわかるような気がした。きっと母も窮屈に感じていたのだろう。生前の母は誰も頼れる人がおらず、貧困に苦しんでいた。交通事故に遭ったのも、夜遅くに仕事に行かなければならなかったせいだ。(あなたたちがお母さんに救いの手を差し伸べていれば……)――あんなにも早く死ぬことはなかったのではないか。日菜乃は祖父母を憎んだ。何もせずに傍観しているのも同罪である。そんな彼女は、中学生活をできるだけ目立たないように大人しく過ごしていた。高校は近くにある私立高校に進学することが決まった。母の家庭は元々裕福で、祖父母もまだ若い。いくら嫌っていたとしても、大
亮太のいる社長室から立ち去った日菜乃は、早足で社内を歩いていた。「キャッ!」その途中で若い女性社員にぶつかったが、日菜乃は何も言わずにその場から去って行った。ぶつかられた女性社員は肩を手で押さえながら、去って行く日菜乃の後ろ姿を眺めていた。「何よあの人……」その言葉に、近くにいた別の女性社員が反応した。「アイツ、山川日菜乃よ……前までここで働いてた社員で、社長の再婚相手……」「えぇ、あんな愛想の悪い女が……!?」彼女はまだ入ったばかりで、日菜乃のことを知らなかった。日菜乃はここで社員として働いていた頃、悪い意味で社内では有名だった。誰とでも寝ると言われていた彼女は様々な男に手を出し、相手の家庭を崩壊させることもたびたびあった。そのため、女性社員で彼女と親しくしている人は一人もいなかった。「あの女が社長夫人になるだなんて……いよいよ終わりね」「あの方はそれほどとんでもない人なんですか?」「ええ、危険人物よ……権力を手に入れた今、何をするかわからないわ……」彼女は小柄な日菜乃の小さな背中を見つめながら呟いた。***荒々しく本社から出た日菜乃は、外にとめてあった羽川家の車に乗り込んだ。「……本邸へ向かってちょうだい」「はい、奥様」運転手は車を発進させた。日菜乃の機嫌が良くないということは誰から見ても明白だった。彼女は後部座席で足を組み、しかめ面で外の景色を見つめていた。今日は一体どのような癇癪を起こされるのか。運転手は気が気ではなかった。彼は何とかして日菜乃の機嫌を取ろうと、後ろに座る彼女に声をかけた。「奥様、社長のご容態はいかがでしたか?」「……最悪だったわ」日菜乃は素っ気なくそう答え、彼は失敗を悟って顔を真っ青にした。何を言えばいいか必死で思考を巡らせていると、日菜乃が悲しそうに呟いた。「社長はもう、私のことをあまり愛していないみたい……」「しゃ、社長がですか……?」運転手は耳を疑った。亮太が日菜乃を愛していない?そんなことあるわけがない。彼が見た亮太はいつだって日菜乃を心から愛していた。恋は盲目、という言葉はまさに亮太のためにあるのだろうと思うほど、彼は日菜乃にゾッコンだった。「奥様、そんなことはありません。社長は奥様のことを深く愛しておられます」「……そうかしら?」「はい、社長が愛するのは奥様一人だけですよ
亮太の言葉に、日菜乃はもちろん芹沢も驚きを隠しきれなかった。社長室に沈黙が流れ、日菜乃は暗い顔のまま俯いた。「社長……今……何て言いました……?」「……」芹沢の問いに、亮太は返事をしなかった。明らかに顔色の悪い日菜乃をただじっと見つめているだけ。その瞳には、以前のような深い愛情は見られなかった。何故、彼はこんな短期間でここまで変わってしまったのか。日菜乃はどれだけ考えてもわからなかった。「……社長はそういう考えをお持ちなんですね」「……」しばらく俯いていた日菜乃が顔を上げた。その瞳は亮太に対する敵対心を表すかのように、鋭い眼光を放っていた。それを見た芹沢がビクッと肩を上げた。穏やかで怒っているところなんて見たことのない人だったが、こんな目をするのか。日菜乃は鋭い瞳で亮太を見下ろし、彼もまた冷めた目で彼女を見つめ返している。もはやお互いを見つめ合う二人の間には、愛なんてものは存在していなかった。「しゃ、社長……奥様……」「……」芹沢が重い空気の中で何とか声を絞り出したが、二人には届いていないようだった。しばらく亮太を見下ろしていた日菜乃が、突然ニッコリと笑った。「そうですね、私にもいけないところがあったかもしれません」「ひ、日菜乃さん……?」日菜乃はさっきの冷たい表情とは打って変わって穏やかな笑みを浮かべていた。こんなにも一瞬で表情を変えてしまうだなんて。芹沢は日菜乃の変わり様に驚いた。「社長に言われたことで気が付きました。反省しています」「……そうか、それはよかった」亮太は虚ろな目をしたまま軽く頷いた。「日菜乃、今日は何をしにここへ来たんだ?」「さっきも言いましたが、社長の様子を見に来たんです。社長のことがとても心配だったので」「そうか……」いつもなら何ていじらしい女なんだと抱きしめているだろう。だが、今は何故だかそうする気になれなかった。亮太は嬉しそうな顔をすることもなく、手元の書類に視線を落としている。彼が日菜乃より仕事を優先するのは初めてのことだった。亮太は視線を書類に向けたまま、口を開いた。「……気持ちはありがたいが、今は仕事中だ。今後軽々しくこの場所に入るのは控えろ」「……ええ、わかりました」日菜乃は今度は反論することなく、返事をした。最愛の女に向けるとは思えないような言葉だった。「まだ仕事が残ってい
あっという間に五日が過ぎ、パーティーの日になった。「香織お嬢様、本当によくお似合いです。会場にいる全員がお嬢様に目を奪われるでしょう!」「そうかしら?」華やかな青いドレスに身を包み、長い黒髪を結い上げた香織は、行きつけの美容院の店長――鏑木壮太(かぶらぎそうた)の手を取り、彼の車へと向かっていた。「あなたの腕がいいのよ、いつも感謝しているわ」「それはこちらのほうですよ、お嬢様。お嬢様の父君には感謝してもしきれません」壮太は優雅に香織をエスコートし、車のドアを開けた。香織が黒のSUVの後部座席に乗り込むと、壮太が運転席に座った。「あなたが運転してくれるのね」「安物の車で申し訳
有真は結婚する十年前まで、忠嗣の経営する会社の社員として働いていた。彼女は一般家庭の生まれだったが、努力を重ねて有名大学を卒業後、大企業へと就職することができた。そんな有真は、学生時代から明るい性格でクラスの人気者だった。絶世の美人というわけではなかったが、穏やかで優しく、いつだって周囲に気さくに振舞うその姿は男女問わず魅了した。――そんなところが、彼を虜にしたのかもしれない。彼女が九条グループに入社してから一ヵ月、有真は広い会社内で迷子になっていた。(道に迷っちゃったわ……会議室はどこかしら……)会議が始まるまではあと少しだ。入社早々遅刻するわけにはいかない。有真は焦っていた。彼
夜になり、ドキドキ初出勤を終えた香織は九条邸へと戻った。結婚前はどんな小さな用でも車で送り迎えをしてもらっていた香織だったが、今日は歩きだった。(職場まではそう遠くないし……運動のためにも歩こう)羽川家では車に乗れないのが普通だったせいか、歩きに慣れてしまったようだ。しばらく歩くと、羽川家の邸宅に到着した。(今でもここへ帰るのは慣れないわね)香織はそう思いながら鍵を使って中に入った。「香織さん、おかえりなさい」「ただいま、有真さん」帰宅した香織を、継母の有真が出迎えた。夜ご飯を作っている最中だったのか、長い髪を一つにまとめてエプロンを着ていた。有真は忠嗣の二十歳年下で、香織の
それから一週間後。「初めまして、九条香織です。これからよろしくお願いいたします」「……」香織は父親の会社で新入社員として入社していた。彼女を見た社員たちはしばらく固まったあと、ヒソヒソと噂話をし始めた。「九条って言った……?もしかして社長の娘さん……?」「間違いないわ。社長の娘、夫と離婚して実家に帰ったらしいわよ」「よりによって何でこの部署に……社長の娘とか気使うわー……」「……」香織の第一印象はあまり良くなかった。コネ入社、血筋が良いだけ、だとか散々な言われようだ。しかし香織はそんな中傷など気にも留めなかった。彼女が羽川家で受けた屈辱に比べれば、こんなもの大したことないか







