私は、前田凛。2年前、啓介と付き合っていた。知り合った時には啓介は社長として活躍しており、一目見てこの人に近付きたいと思った。そして結婚して社長の妻になることを夢見ていた。
啓介との出会いは、私が受付嬢として働いている会社に彼が取引先として訪れたことだった。私の職場は、都内の一等地にそびえ立つ高層ビルの中にあり、受付嬢という仕事は、会社の顔として来訪者を最初に迎え会社の印象を決定づける重要な役割を担う。だからこそ、誰でもなれるわけではなく一定以上の容姿やコミュニケーション能力が求められる。
私はこの仕事以外でも、容姿を活かせる職業、例えばテレビ局のアナウンサーや百貨店の受付嬢などの面接をいくつも受け、その中で今の会社を選んだ。
その日、いつものように受付カウンターで業務をこなしていると、エントランスに一人の男性が現れた。
ネイビーのスーツを完璧に着こなし、無駄のない洗練された立ち居振る舞い。整った顔立ちと綺麗にセットされている髪からは、知性と落ち着きが感じられる。そして、彼が持っていた上質な革の鞄やさりげなく光る腕時計が彼の経済的な成功を物語っている。それが啓介だった。
(只者じゃないな……)
私は、啓介の姿を一目見た瞬間そう確信した。彼の纏う雰囲気は他の来訪者とは明らかに違っていた。単なる「訪問者」ではなく、何か特別なオーラを放つ「成功者」のオーラだった。
「担当の方にお繋ぎしますので、名刺を頂けますでしょうか」
「あー今日はお時間を作って頂きありがとうございます。また会えて嬉しいです」遠くから、夏也で手を大きく振りこちらに近づいてきた。『佳奈も含めて食事がしたい』夏也から来たメールを無視するわけにもいかず、社交辞令で「都合がつけば行きましょう」と返信した。しかし、夏也は具体的な候補をいくつも送ってきて会うしかない状況に追い込まれた。佳奈に話すと、驚くことなくむしろ呆れたように笑って返した。「あー、夏也は社交辞令とか知らない人だからね。誘ったら何が何でも時間を見つけて会おうとするタイプ。」(マジかよ……。)俺も社交辞令は好きではないが、今回ばかりは流れてくれるのを期待していた。だが、佳奈の言葉通り、時間が合わないようなら前泊するなど調整する姿勢を崩さなかった。こうして二週間後、別の取引先との商談を終えた夏也と、佳奈も交えて食事に行くことになった。佳奈と、佳奈の元カレで俺の会社の取引先社長の夏也という奇妙な関係の三人での食事は、どんな展開になるのか全く予想がつかなかった。夏也の希望で都内のクラフトビールの多い飲み屋に入った。店の喧騒が、この奇妙な三人の空気を少しだけ紛らわせてくれる。グラスを合わせると夏也はまるで昔からの親友と再会したかのように満面の笑みで言った。
佳奈side実家を訪問して、もしかしたら会うかもと思っていた夏也と顔を合わせた。私と別れた後も、海外に行っている時も日本に戻ってきてからも夏也は私の家族と親交を深めている。家族はみんな、私と夏也が付き合っていたことも、もちろん別れたことも知っている。それでも、小学生の小さい頃から知っている幼馴染として、私がいない今でも顔を出してくれる夏也を、内心、喜んでいた。「子どもが大きくなると、家に友達が遊びに来ることがなくなるじゃない。まして、佳奈は一緒に暮らしていないから、佳奈の仲良かった友達の顔を見ることがないのよね。だから、たまに『元気にしているのかな?』って思うの。夏也君が顔出してくれると、昔を思い出して楽しいのよ」以前、帰省した時に母がぽつりと言っていたことを思い出す。母にとって夏也は、単なる娘の元カレではなく、幼少期から成長を見てきた可愛い息子のような存在でもあるのだ。母や三奈は啓介の前では気を遣って言わなかったが、頻繁に実家を訪れる夏也を見て、「夏也君、まだ気があるんじゃない?」と何度もからかわれていた。そのたびに私は「もう、そんなことないってば!」と笑って否定していた。私たちの恋は、学生時代にとっくに終わっている。少なくとも、私はそう思っている。私たちはあの日、お互いの未来のために「幼馴染」に戻ったのだ。そこに後悔も未練もないはずだ。そんな夏也が、啓介の会社に仕事
啓介side「月に1〜2回打ち合わせで都内に行くことがありますので、今度は佳奈も含めて食事致しませんか?」俺は思わず、眉間にシワを寄せた。IT化を推進する企業がわざわざ訪問するのか、と内心疑問に思っていた。今の時代、WEB会議システムも充実しているし、システムによっては議事録も自動で作成できる。初回からWEBで打ち合わせを行うこともマナー違反と思う企業はほとんどなくなっている。むしろ、移動費用や時間など効率面を考えれば、対面での打ち合わせは必ずしも必要ではない。しかし、WEB会議では担当者の連絡先しか分からない。今後のやり取りは、現場担当者と行うことになるため、俺が関与する予定はなかった。夏也はそれを見越していたのだろう。初回は、俺の連絡先を把握するために、顔を合わせ名刺交換できる対面を希望した。そして、お礼も兼ねてこの食事の誘いーー資料なら担当者同士で行えばいい。俺へのメールの目的は、佳奈との食事をするための口実ではないのか?そんな疑問が再び再熱していた。「それにしても、俺の考えが合っているなら、元カノに未練があるからって、婚約者と知っていて俺に連絡を取るって、相当自分に自信がないとできないよな。」業務後、誰もいなくなったオフィスで夏也とのやり取りを思い返し、思わず
「やっぱり!同じ名前だからもしかして、と思ったんですよね。これからよろしくお願いします」問い合わせのメールから2週間後、夏也は社員を連れて俺のオフィスにやってきた。この日も人懐っこい笑顔で笑いかけ、俺に握手を求めてきた。「私もです。地域と名前を見て、思わず声をあげてしまいましたよ」俺たち二人のどこかよそよそしいながらも親密さも漂う会話に、同席していた社員たちは不思議そうな顔をしていた。「お二人はお知り合いだったんですか?」「……ああ、まあ。ちょっとね」俺が言葉を濁すと、夏也は口角を上げニヤニヤと意味ありげな笑みを浮かべてこちらを見てくる。その視線に俺は、彼が「佳奈の元カレ」なんて口にしないか内心ヒヤヒヤした。しかし、彼はそこまで良識のない社会人ではなかったようだ。だが、その黙り方は、雄弁にすべてを物語っていた。夏也の会社は、『観光ではなく居住する街へ』をコンセプトに、地方創生に取り組むベンチャー企業だった。農業のIT化や、数年前に流行ったサテライトオフィスの長期実現化を実現して、若い人材を誘致しようと取り組んでいる。自治体や観光庁・農林水産省といった官公庁とも連携している見た目以上に堅実な会社だった。打ち合わせ中は、お互いに真面目な議論を交
「ないない。もう別れてから何年も経っているし、未練なんかないよ。あったとしても、友人とか家族みたいな気持ちとかじゃない?」「彼とは長かったの?」「んー、四、五年かな?元々小学生の頃から近所に住んでいて仲が良くて、いつも一緒に学校に行ったりしていたの。私が中学二年生で夏也が三年生の時に付き合って私が大学に入学するまでかな。」(四、五年!?学生時代に?)佳奈が淡々と語る過去に俺は耳を疑った。思春期と大人になってからの四、五年では重さや記憶に残る濃さが違う。恋愛が生活の中心になるあの時期に色々な思い出を共有した相手……。「でも、喧嘩すると勢いで『もう別れる!』って言って、一時的に離れた時期もあるから実質四年間くらいかな?」四年間でも十分に長い。俺はよりを戻したことがないから分からないが、しかも、一度は別れたのに再び付き合うということは、他の人では駄目だと思うくらい二人の間に深い絆があったことを物語っているように思えた。切っても切れないような関係。佳奈が言う「家族みたい」という言葉は、俺の想像を遥かに超える、濃密な時間を過ごした人にしか分からない深い絆を表す言葉なのかもしれない。俺は、どうしようもない劣等感を覚えた。「結局、夏也は県外の専門学校に進
数日後、オフィスで夏也から来た依頼メールを再確認していたが、いてもたってもいられずに佳奈に連絡を取った。「木下さんの、今の職業って知ってる?」恐る恐る尋ねる俺の問いに、佳奈は不思議そうに答えた。「え?ううん、知らない。夏也、昔からやりたいことが色々あったみたいで、仕事を転々としていたから……。なんで?」事の経緯を説明すると、佳奈は「え!?」と驚きの声をあげ、すぐに両親や妹に確認してくれた。そして、依頼主はやはりあの時に会った夏也だったことが確定した。DVDを届けに来た日、夏也は俺たちを見送った後に三奈を誘い、ご飯に行ったそうだ。そこで俺たちのことを根掘り葉掘り聞かれ、俺がIT会社の経営者だと話したらしい。しかし、三奈は会社名までは覚えていなかったので、ネットで探して見つけたのではないか、とのことだった。「三奈も口は堅い方なんだけど、夏也とは本当に長い付き合いだから、つい色々話してしまったんだと思う。」「別にいいよ。ただ、俺の会社に依頼が来たことに驚いただけ。」佳奈が申し訳なさそうにしているのが伝わってきたが、俺はそれ以上触れなかった。三奈が話してしまったことよりも、「長い付き合い」という言葉に、俺の胸はまたざわついていた。「それにしても、啓