تسجيل الدخول個室の扉が閉まる音は、ひどく小さかった。
外の待合の気配が一枚向こうへ遠のき、部屋の中には空調の静かな音だけが残る。白い壁、明るい木の棚、角の丸い低いテーブル。窓には厚すぎない生成りのロールスクリーンが下ろされていて、夜の気配は完全には遮られず、外の灯りだけが淡く布越しに滲んでいた。どこにも仏像はなく、線香の匂いもしない。観葉植物の葉先が、照明を受けてやわらかく艶を返している。
椅子に腰を下ろした美里は、膝の上で両手を組んだ。指先がまだ少し冷たい。さっき白湯を飲んだはずなのに、身体の奥のこわばりまでは温まりきっていなかった。
向かいに座った秋山志保は、すぐには話し始めなかった。急かさず、相手の呼吸が落ち着くのを待つ人の間の取り方だった。年齢は三十代半ばほどに見える。優しいだけではない、よく研がれた静けさを持っている。柔らかい色のブラウスに、飾り気のない細い腕時計。声を張らなくても届く人の落ち着きが、その人の全身にあった。
テーブルの上に、ティッシュの箱と、蓋つきのガラスボトル、水の入った小さなグラスが置かれている。どれも最初からそこにある。泣くかもしれない人のための準備が、目立たないように整っているのだと、美里はそのときやっと気づいた。
秋山は、ごく穏やかに微笑んだ。
「緊張なさいますよね」
美里は、うまく笑い返せなかった。ただ、曖昧に頷く。
秋山はそれ以上、その頷きに意味を求めなかった。
「ここでは、無理に順番どおりに話さなくて大丈夫です」
秋山は、机の上のメモにも手を置かずに言った。
「うまく言葉にならないことは、そのままでかまいません。話せるところからでいいですし、今日は来てみただけ、でも大丈夫です」
その言い方に、美里はほんの少しだけ顔を上げた。
来てみただけでもいい。
それは、許可のように聞こえた。
これまで誰かに相談しようと考えるたび、美里の頭の中には、まず説明しなければならないことがいくつも並んだ。いつから、何があって、どこで間違えて、どこまで自分が悪くて、どうして今さらそんなことを言うのか。そうやって最初から最後まで筋道立てて話せなければ、相談する資格すらない気がしていた。
けれど今、目の前の人は、整った説明を要求していない。
それだけで、喉の奥に詰まっていたものが少しほどける。
「……何から話したらいいか、分からなくて」
やっと出た声は、自分でも驚くほど細かった。
秋山はすぐに頷いた。
「分からなくなりますよね」
責める気配のない相づちが、逆に胸に刺さる。
美里は膝の上の手を握り直した。
「最近、眠れなくて……眠れても、途中で起きてしまって」
いちばん外側のことから話す。そう決めたわけでもないのに、口は自然にそこを選んだ。
「会社にいるあいだは、まだ平気なんです。でも、一人になると、急に……息ができないみたいになることがあって」
秋山は黙って聞いている。先回りをしない。慰めの言葉で急いで埋めようともしない。その沈黙が、尋問ではなく、続きを待つための空白なのだと分かるまでに、美里には少し時間が必要だった。
「何か思い出すんですか」
問いは短く、鋭すぎなかった。
美里は唇を湿らせる。
「……思い出す、というか」
言葉がうまく並ばない。思い出しているのか、ずっと忘れられないだけなのか、その違いすら自分でも曖昧だった。
「ずっと頭の中にある感じで。普段は、見ないようにしてるだけで……何かの拍子に、急に近くなるんです」
秋山は少しだけ身を乗り出したが、それも圧をかけない角度だった。
「近くなると、どんな感じがしますか」
美里は答えようとして、言葉のかわりに呼吸が浅くなるのを感じた。胸の奥がきしむ。ここへ来る前から何度も繰り返してきた、見えない手に内側から喉を掴まれるような感覚。
「……苦しい、です」
それだけ言って、視線を落とした。
「苦しいのに、誰にも言えなくて」
それは思っていたより簡単に口から出た。言った瞬間、身体のどこかがひどく脆くなる。
秋山の声は変わらなかった。
「ひとりで抱えてこられたんですね」
その一言で、美里の目の奥が熱くなった。
違う、と言いたかったわけではない。むしろ、その通りだった。けれど、その通りだとそのまま言われることに、身体が慣れていなかった。誰にも言えず、一人で抱えてきた。その事実を、同情でも断罪でもなく、ただ受け取られる。それだけで、胸の内側に固く張りついていたものが、端から剥がれていく。
「……はい」
短く答えた声が、そこで震えた。
しまったと思ったときには、もう涙がにじんでいた。瞬きをしても引っ込まず、視界の輪郭だけが先にぼやける。美里は慌てて顔を伏せた。こんなに早く泣くつもりはなかった。まだ何も話していない。泣く資格なんてないのにと、反射のように思う。
秋山はティッシュの箱をそっと手前へ寄せた。それ以外は何もしない。
「大丈夫ですよ」
その声は、泣くことを止めるためではなく、泣いていても話が終わらないと知らせるためのものに聞こえた。
美里はティッシュを一枚引き抜き、目元を押さえた。嗚咽になる前の、みっともない崩れ方だけは必死に抑える。頬に流れるほどではないのに、鼻の奥と喉だけが熱い。肩が小さく上下して、自分の呼吸がひどく不器用になる。
「すみません」
言ってから、何に対して謝っているのか分からなくなる。
泣いたことか、来たことか、生きていることか。
秋山は、少しだけ首を横に振った。
「謝らなくて大丈夫です」
それから、一拍置いて、もっと静かに言った。
「ここでは、責めません」
その言葉が落ちてきた瞬間、美里は自分の背中にどれほど力を入れていたのかを知った。肩甲骨のあたりがじんわりと痛む。ずっと身構えていたのだ。何を言っても、最後には責められると思っていた。表情には出なくても、目の奥で判断されると思っていた。
ここでは、責めません。
たったそれだけの文なのに、背中の芯から、何かが抜けた。
泣くのが恥ずかしいという気持ちはまだあった。みっともない。初対面の相手の前で、こんなふうに崩れるなんて。けれどその恥ずかしさの下に、泣いても追い返されないという安堵が、薄く、確かに広がっていく。泣けたこと自体が、少しだけ救いだった。
美里はティッシュを握ったまま、小さく息を吐いた。
秋山は急がなかった。美里の涙が静まるまで待って、それから穏やかな声で言う。
「ご自分のことを、ずっと責めていらっしゃいますか」
美里は、ゆっくり頷いた。
「……たぶん」
「たぶん、というのは」
「責めてるって、言い切るのも、違う気がして」
美里は自分でももどかしくなるほど、言葉がまわりくどかった。
「後悔、というか……でも、後悔だけじゃないです。もっと……うまく言えないんですけど」
秋山はそれを待っていたように、小さく頷いた。
「後悔だけではないんですね」
「はい」
「悲しかった、だけでもない」
その言葉に、美里の指先がぴくりと動いた。
悲しい。
その言葉を、自分は自分に許していなかったのだと、そこで気づく。悲しいと言ってしまったら、自分が傷ついた側みたいで、ずるい気がしていた。だからずっと、苦しい、最低だ、許されない、という言葉ばかり選んできた。
秋山は、美里の沈黙を確認するように、静かに続けた。
「悲しみと後悔と、罪悪感は、近いところに重なってしまうことがあります」
罪悪感。
その語彙が、部屋の空気を変えた気がした。
美里は思わず顔を上げた。秋山は何も断定していない。ただ可能性として置いただけだ。それなのに、その言葉は驚くほどしっくり来た。自分の胸の中で絡まっていたものの中心に、ようやく名前が置かれた感覚がある。
罪悪感。
それだ、と思ってしまう。
ただの不調でも、ただの後悔でもない、もっと重くて、もっと長く残るもの。自分で自分を罰するために胸の中に飼ってきたもの。
名前がついた途端、苦しみは軽くなったわけではないのに、輪郭を持ち始める。正体不明の泥ではなく、掴める形になる。その錯覚が、美里にはひどくありがたかった。
「……そう、かもしれません」
「消えない感じがありますか」
「あります」
答えるまでに、今度はあまり迷わなかった。
「何をしてても、消えないです。仕事してるときは見ないふりができるけど、なくなるわけじゃなくて……帰るとまた、同じで」
「消そうとしても、戻ってくるんですね」
「はい」
「それはつらいですね」
その単純な返しに、美里はまた泣きそうになった。つらいですね。そんな、誰でも言えるような言葉なのに、それを言われたことがなかった気がした。自分の苦しさを、苦しいものとして認めてもらえるだけで、胸が波打つ。
秋山は、グラスの水を勧めるように視線だけを動かした。美里は小さく首を振る。今はまだ、喉に何かを通せる気がしなかった。
「差し支えなければ」
秋山は声を少しだけ低くした。
「その苦しさは、何かを失ったことと関係がありますか」
失った。
その表現は正確ではない気がしたし、正確すぎる気もした。美里はすぐには頷けない。けれど否定もできなかった。
沈黙の意味を、秋山は急いで埋めない。
「誰かとの別れでも、出来事でも、形にならなかったものでも」
最後の一言に、美里の胸がひどく縮んだ。
形にならなかったもの。
まるで何も知らないふうでいて、その言葉は的確に、美里の触れたくない場所へ触れた。けれど露骨ではない。だから否定しにくい。違いますと言えば、逆に自分でそこを強調することになるような、ぎりぎりの言い方だった。
美里は目を伏せたまま、ティッシュの端を指で折る。
「……ちゃんと、終わらせられなかった感じが、ずっとあって」
やっと出たのは、その程度の言葉だった。
秋山は、それを不足だと扱わなかった。
「終わらせられなかった」
静かに繰り返す。
「見送れなかった、に近いですか」
その問いに、美里の喉がつまる。
見送る。
その言葉の持つ温度が、罪悪感とは別の場所を刺激した。いなくなったという事実だけではなく、いなくなるまでの過程を、自分がどんな顔で通り過ぎたか。目を閉じれば蘇る白い天井、乾いた匂い、薄いカーテン。あのとき、自分は何を思ったのか。何を思わないようにしていたのか。
「……分かりません」
分からない、と言いながら、美里の目からまた涙がこぼれた。
「分からないけど、たぶん……そういうこと、だと思います」
秋山は頷いた。
「それなら、なおさら苦しいはずです」
言い切るでもなく、決めつけるでもなく、その苦しさだけを先に受け取る。その順番が巧みだった。美里は気づかないまま、少しずつ深いところへ連れていかれている。
「心の奥で、まだ離れられていない思いがあるのかもしれませんね」
離れられていない。
その表現もまた、美里を責めなかった。執着しているとは言わない。間違っているとも言わない。ただ、離れられていない思いがあるかもしれない、とだけ示す。
すると、自分のぐちゃぐちゃした苦しみが、急にひとつの物語のように見えた。自分が弱いからでも、情緒不安定だからでもなく、まだ心のどこかで、終わっていない何かがあるから苦しいのかもしれない。そう考えると、息苦しさに意味が生まれる。意味のない痛みより、意味のある痛みのほうが耐えやすい。そうやって苦しみに形を与えられること自体が、もう救いになりかけていた。
美里は、そこで初めて少し楽になった気がした。
罪悪感は消えていない。何も解決していない。それでも、自分の中で言葉にならず腐っていたものが、誰かの口を通って整理されていく。その感覚が、ひどく甘かった。
「そういうご相談は、珍しいことではありません」
秋山は、ごく自然にそう言った。
「大切なものとの別れを、きちんと悲しめなかった方。事情があって、誰にも話せないまま抱えてきた方。ご自分を責め続けてしまう方」
その列挙の中に、自分が含まれている。
美里はそれだけで、少しだけ呼吸が深くなった。自分だけではないのだと思えることが、救いになる。もちろん、具体的に何があったかは話していない。けれど秋山は、話させすぎない範囲で、美里をすでに相談者のひとりとして位置づけている。その巧妙さに、美里は気づかない。
「私、たぶん」
涙で掠れた声のまま、美里は言った。
「すごく、最低なことをしたんです」
秋山は、すぐには否定しなかった。その間が、美里にはかえってありがたかった。軽々しく大丈夫と言われたら、たぶんもっと苦しかった。
しばらくして、秋山は落ち着いた声で言う。
「長浜さんご自身は、そう思っていらっしゃるんですね」
「……はい」
「でも、少なくとも」
秋山は一度だけ言葉を選んだ。
「苦しんでいる人を、ここでさらに断罪することはしません」
そのあと、ほんの少しだけ、美里の目を見た。
「あなたは悪い人ではありません」
その言葉に、美里は息を呑んだ。
悪くない、ではない。悪い人ではありません。
それは免罪ではなく、人としての値踏みを拒否する言い方だった。美里が自分に向け続けてきた最低、という判決から、ほんの少しだけ距離を取らせる響きがあった。
涙がまたこみあげる。
自分は悪くないなどと思えない。そんな簡単な話ではない。けれど、少なくとも今この部屋では、ひとりの人間として見てもらえている。そのことが、痛いほどありがたかった。
しばらく話したあと、秋山は初めて、テーブルの端に置いていた小さなカードに手を触れた。ベージュに近い生成り色の厚紙で、白燈院の名は隅に控えめに入っているだけだ。表には、追想相談会、灯りの供養案内、とやわらかな字体で書かれていた。金額の話はどこにもない。日時と、短い説明だけ。
「今日は、無理に決めなくて大丈夫です」
秋山はカードを美里の手の届く位置へ置いた。
「ただ、もし心の中に、きちんと向き合いたいお気持ちが残るなら」
そこで言葉を切る。
「一度だけでも、こういう小さな供養の時間を持つ方もいらっしゃいます」
一度だけでも。
無理のない範囲で。
必要なら次回も。
押し売りではない、と思わせる言葉ばかりが並ぶ。その控えめさが、逆に断りづらい。断っても責められないだろうと分かるからこそ、自分で選べる気がしてしまう。
「次も、話すだけでもかまいません」
秋山は続けた。
「苦しさに名前がついただけでも、少し楽になることがありますから」
その表現に、美里は胸の奥を見透かされた気がした。まさに今、自分はそれを感じていた。何も終わっていないのに、少しだけ楽だ。罪悪感という言葉。見送れていないという見立て。離れられていない思い。そうした語彙が、自分の苦しみを整理してくれた。そのことに、もう依りかかり始めている。
美里はカードを手に取った。
紙は薄すぎず、指先に静かな重みがある。角はきれいに丸く落とされていて、診察券よりも柔らかい印象を与える。裏には相談室の連絡先と、次回予約は受付まで、という短い文。あまりに簡素で、営業の匂いがしない。
「……考えてみます」
そう答えると、秋山はほほえんだ。
「はい。それで大丈夫です」
面談が終わり、個室を出る頃には、時計の針は思っていたより進んでいた。待合にはもう最初の女性はいなくて、代わりに照明が少しだけ落とされている。閉室前の静けさが、空間をいっそう上品に見せていた。
受付で次回の案内を受けるときも、誰も急かさなかった。予約はその場で取らなくてもいいと言われた。カードの裏に、空きの多い曜日だけが小さく手書きで記される。その控えめな親切が、むしろ帰ってからも思い出せるようにできている。
扉の外へ出ると、夜気は思っていたより冷たかった。
階段を下りながら、美里はバッグの中のカードの角を指先で確かめる。そこにあるだけで、今夜のことが夢ではなかったと分かる。大通りへ戻るまでの道は来たときと同じはずなのに、少しだけ色が違って見えた。街路樹の影、マンションのエントランスの灯り、自販機の白さ。世界そのものは何も変わっていないのに、自分の中の圧だけが少し和らいでいる。
駅へ向かう途中、美里は一度だけ立ち止まり、深く息を吸った。
胸はまだ重い。思い出せば、すぐに苦しくなることも分かっている。自分が何をしたか、何を失ったか、その事実は少しも変わらない。けれど、ただの闇だった苦しみに、さっき、いくつか名前がついた。
罪悪感。
見送れていない思い。
離れられていないもの。
それらは本当に正しい言葉なのか分からない。それでも、美里には、その言葉がひどくよく効いた。
苦しいのは、自分が壊れているからではなく、まだ向き合えていないものがあるからかもしれない。
そう思えたことが、救いのようだった。
改札を抜け、ホームへ上がる。滑り込んできた電車の窓に、自分の顔が薄く映る。泣いたあとの目元はまだ少し赤い。それでも、来る前の顔よりは、いくらか呼吸ができているように見えた。
バッグの中のカードに、もう一度指先が触れる。
帰り道の美里は、自分でも認めたくないほど、少しだけ楽になっていた。
目を開けた時、部屋の中にはもう朝の気配が満ちていた。カーテンは半分だけ開いていて、その隙間から入る白い光が、床とテーブルの縁を静かに照らしている。夜の名残はまだ完全には消えていないのに、空気だけは確かに朝へ傾いていた。和希はしばらく動かず、その薄い明るさを見ていた。隣の気配はもう起きているらしい。シーツの皺の向こうに残る体温だけが、夜がたしかにここにあったことを示していた。小さな音がする。キッチンでカップが触れ合う音。湯が細く落ちる音。床を踏む足音。どれもごく小さいのに、不思議なくらい自然に耳へ入ってきた。以前なら、こういう朝の静けさはどこか居心地が悪かったかもしれない。体温の残り方も、カップの音も、窓から入る光も、どこか自分には早すぎるもののように思えただろう。けれど今は、強い違和感がない。ただ、朝が来ていて、自分はその朝の中にいるのだと、静かに分かる。和希は上半身を起こした。テーブルの上には、飲み終えたカップが二つ置かれている。どちらも底に少しだけコーヒーの色を残したまま、もう役目を終えた顔をしていた。特別な幸福の朝という感じではない。誰かの部屋で、ただ一日が始まりかけているだけの光景だった。芳人は背を向けてネクタイを締めていた。白いシャツの襟元に指を入れ、いつもの手つきで結び目を整える。その横顔は落ち着いていて、夜の余韻をわざわざ確かめようとはしない。和希はその背中を見ながら、胸の奥にある静かな重さを意識した。窓の外の光が、少しだけ強くなる。美里は、こういう朝をもう見ない。その事実が、不意に胸へ落ちた。痛くないわけではない。むしろ、いつでも少しは痛いのだろうと思う。けれど今の和希は、その痛みから目を逸らさなかった。逸らさずに、そのまま胸の内へ置いておける。もういない。それでも朝は来る。そして自分は、その朝をちゃんと生きるしかない。言葉にしたわけではない。けれど気持ちは、自然にその方向へ向いていた。芳人が時計を見て、ジャケットを手に取った。鍵の触れ合う小さな音がする。振り向いたが、長い確認はしない。
ドアが開いたとき、芳人は何も聞かなかった。深夜に近い時間だった。廊下の白い灯りを背に立つ和希を一目見て、ただ身体を半歩だけ引き、入れるための隙間を作る。それだけだった。どうしたとも、何があったとも言わない。和希もまた、言い訳のような前置きはしなかった。靴を脱ぎ、部屋へ入る。芳人の部屋は、前と同じ静けさを持っていた。けれど今夜、その静けさは和希を追い詰めなかった。整いすぎた家具の輪郭、低い灯り、窓の向こうの夜の薄い気配。どれも知っている。知っているまま、前とは違う場所のように見える。芳人はキッチンへ向かった。湯を沸かす、小さな音がする。和希はソファの端に座り、テーブルの木目を見た。自分から来たくせに、喉の奥だけが少し乾いている。ここに来るまでの道で、何度も引き返すことはできた。メッセージだって、送らずに済ませることはできた。それでも来た。今夜は、それで十分だった。マグカップが目の前に置かれる。湯気がかすかに立っている。芳人は向かいではなく、少し離れた位置へ腰を下ろした。近づきすぎない。手も伸ばさない。その待ち方だけで、以前と違うのだと分かる。和希はカップに口をつけた。熱が舌に触れ、喉を落ちる。そのあいだ、芳人は何も言わなかった。沈黙は長かったが、重くはなかった。言葉を急かされないことが、今夜はむしろ必要だった。和希はしばらく視線を落としていた。手の中の熱、部屋の静けさ、芳人の気配。どれも近いのに、奪うような圧がない。そのことに、少しずつ呼吸が整っていくのを感じる。前は違った。最初の夜、自分は払う側だった。妹のため、復讐のため、自分を罰するため、そういう理由を重ねて、自分を差し出した。芳人に触れることも、その熱に沈むことも、全部どこかで代価の形をしていた。苦しい夜には麻酔として使い、壊れそうなときには自分を罰するために求めた。好きだからではない、と何度も言い聞かせながら、結局はその言い訳ごと芳人の方へ落ちていった。今夜は違う。その違いをどう言えばいいのか、さっきまでうまく分からなかった。だが、いまこうして黙って向かい合っていると、その言葉だけは、ようやく形になった。
部屋に戻ると、最初に聞こえたのは冷蔵庫の低い音だった。靴を脱ぎ、鍵を置き、ネクタイを緩める。どれも毎日の終わりに繰り返している動作なのに、今夜はそのひとつひとつが、少しだけ軽かった。軽いと言っても、何かが消えたわけではない。美里のことも、白燈院のことも、鳴海の乾いた声も、まだ身体のどこかに残っている。ただ、前のように、扉を閉めた瞬間に全部がいっせいに胸へ押し寄せてくる感じではなかった。部屋は静かだった。以前なら、その静けさはすぐに別のものへ変わった。何も音がしないだけで、自分の頭の中の声ばかり大きくなる。遅かった、救えなかった、もっと早く気づいていれば、という同じ場所を、何度でも思考が巡っていた。静かさは休まるためのものではなく、罪悪感が形を持つための器みたいなものだった。今夜も、静かではある。けれど、その静けさの底が少し違う。和希は上着を椅子の背にかけ、キッチンで水を飲んだ。冷たい水が喉を落ちる。窓の外では、遠くで車が一台通り過ぎた。部屋の中はそれきりまた静かになったが、息が詰まる感じは来なかった。代わりに、もっと別の感覚がじわじわと浮いてくる。何だろうと考えるより先に、ひとつの気配が頭に差した。芳人だった。会っていたときの顔ではない。給湯室で告げられた重すぎる言葉でも、訴状の前に座る弁護士の横顔でもない。もっとどうでもいい断片だった。駅前で紙カップを二つ持って待っていたこと。砂糖は入れないだろうと、当然みたいに無糖のコーヒーを渡した手つき。何も話さないまま、歩幅だけを合わせて隣を歩いた帰り道。別れ際の短い「またな」。その程度のことが、妙にはっきり胸に残っている。和希は流しの縁に片手をついたまま、少しだけ目を閉じた。今までの自分なら、こういう夜に誰かを思い出す理由は、もっと切迫していたはずだった。考えたくないから。眠れないから。壊れそうだから。埋めてもらわないと持たないから。そういう理由が先にあって、その先に芳人がいた。今は違う。今日、誰かに追い詰められたわけではない。録音を聞いた夜みたいに息が壊れているわけでもない。白燈院の文書を読
仕事を終えたあと、和希は駅前の小さなコーヒースタンドで芳人と落ち合った。約束らしい約束はなかった。昼過ぎに、仕事が終わったら少し顔を見るか、と短いメッセージが来て、それに和希が、遅くなるかもしれない、とだけ返した。結局、少し遅れて着いたときにも、芳人は何も言わなかった。ただ、紙のカップを二つ持って店先の脇に立っていた。「こっち、熱いから気をつけろ」差し出されたカップを受け取る。砂糖もミルクも入っていない匂いがして、和希はそれだけで少しだけ息をついた。以前なら、そういうことに気づかれるのが嫌だったかもしれない。今は違う。気づかれていること自体より、それをわざわざ言葉にしないまま置かれる方が、胸に静かに残る。駅前はまだ人が多かった。会社帰りの流れが途切れず、信号のたびに小さな塊ができてはほどけていく。二人はそのまま歩き出した。行き先を先に決めるでもなく、ただ大通りを外れて、少し静かな裏道へ入る。芳人は、必要なことしか聞かなかった。「今日、佐伯から連絡はあったか」「来た」「鳴海は」「来週、また出るらしい」それだけで会話は途切れる。途切れても、埋める必要がない。以前の二人なら、その沈黙の裏にはいつも別のものがあった。緊張だったり、欲だったり、どちらかがどこまで踏み込むかを測る気配だったり。今はそういう棘が薄い。和希は歩きながら、横の芳人を見た。相変わらず、表情は大きく変わらない。ネクタイを少し緩め、上着のポケットに片手を入れたまま、歩幅だけを和希に合わせている。無理に近づいてくることもなければ、妙に気を遣った言葉を足すこともない。ただ、隣にいる。それが前と違うのだと、和希にも分かった。以前の芳人は、もっと分かりやすく引き寄せようとしていた。和希が崩れそうになれば、その重さごと自分の側へ寄せようとしたし、和希もまた、考えずに済むための熱としてそれに触れた。今は違う。芳人はもう、抱えて片づけようとしない。慰めの形へ誘導もしない。欲しがっている気配が消えたわけではないのだろうが、それを前へ出してこない。和希の方も、それを完全には言葉にでき
しゃがみ込んだまま、和希はしばらく動けなかった。スマートフォンの画面はまだ明るく、短いやり取りだけが白く残っている。今度ごはん行こう。忙しい。じゃあまた今度。その四文字の軽さが、逆に息を詰まらせた。約束ですらない、いつでも作り直せるはずだった予定の断片。だからこそ、その先が永遠に来ないことが、容赦なく分かってしまう。部屋は静かだった。窓の外の光はもうほとんどなく、棚の輪郭も少しずつ暗さへ溶けていく。和希はようやく画面を伏せ、床に落ちていた小さなポーチへ視線をやった。前にも見たことのある、何でもない布のポーチだった。淡い色で、端が少し擦れている。化粧品か、目薬か、飴でも入れていたのだろうと、いつもそれくらいにしか思っていなかった。手を伸ばして拾い上げる。軽い。中には細いリップクリームと、小さな包み紙の切れ端、それから丸めたレシートが一枚入っていた。レシートの店名はコンビニで、甘いパンとカフェラテの文字が読める。日付はもう数か月前だった。そのとき、和希の頭に、ごく小さな場面が不意に戻った。美里は甘いものを選ぶとき、少しだけ迷う顔をした。大げさに悩むわけではない。棚の前で数秒だけ立ち止まり、結局、いちばん無難そうなものを手に取る。派手な新商品ではなく、何度も買ったことのある、安い焼き菓子とか、クリームの入ったパンとか、そういうものを選ぶ。そのくせ一口目だけは、いつも少しだけ嬉しそうだった。どうでもいい記憶のはずなのに、その顔だけが妙にはっきり浮かぶ。白燈院とは何の関係もない。不倫とも、中絶とも、録音とも関係ない。ただコンビニで甘いものを選ぶ、美里の顔だった。和希はポーチを膝の上へ置いたまま、静かに息を吐いた。胸の奥にあった硬いものが、少しだけ違う形へ変わる。痛みが消えるわけではない。ただ、同じ痛みの中に、別の温度が混じり始める。スマートフォンの履歴に残っていた他愛ないスタンプも、ふと頭に浮かんだ。返事が面倒なときに美里がよく送ってきた、やる気のない猫のスタンプ。笑っているのか眠いのか分からない、微妙な顔のやつで、あれが来ると、ああ今は深く話したくないんだなと、何となく分かった。気を遣わせないように、け
夕方の光が薄く傾くころ、和希はまた美里の部屋へ来ていた。この部屋へ入るたび、最初に感じるのは静けさではなく、音のなさの不自然さだった。人が住んでいればあるはずの、ごく細かな生活の気配がない。冷蔵庫の開閉も、水道の一瞬の音も、床を踏む体重の揺れもない。そのくせ、目に入るものはどれも、いまでもここで暮らしが続いているみたいな顔をしている。カーテンの端。棚の上の雑誌。ヘアゴムの置き方。小さなゴミ箱の脇に立てかけられた紙袋。そういうものが、主を失った部屋のくせに、まだ生活の途中みたいに見える。和希は玄関を閉め、しばらくそこに立っていた。訴訟が始まり、会見が終わり、白燈院は崩れ始めた。御影の顔も、黒瀬の数字も、前のようには人を飲み込めないところまで来ている。それは確かなことだった。崩せたものはある。奪い返せたものもある。理屈では、そう言える。けれどこの部屋の前に立つと、その理屈はひどく遠かった。ここには、白燈院を崩すための証拠だけが残っているわけではない。むしろ逆だった。役に立たないものの方が多い。使いかけのハンドクリーム。裏が少しだけ破れた菓子の箱。付録つきの雑誌。洗面所の隅に残った細いヘアピン。そういう何でもないものばかりが、かえってこの部屋を美里のものとして強く残している。和希は部屋の奥へ入り、テーブルの前で立ち止まった。前に来たときは、ノートや履歴や予約メールや、読むべきものばかり見ていた。そこに残る意味を探して、繋がる線だけを追っていた。今は違う。今日は最初から、何かを調べに来たわけではない。それでも足がここへ向いたのは、静かになったあとにだけ戻ってくる現実が、この部屋に一番濃く残っている気がしたからだった。テーブルの端に、小さく折られたレシートがあった。買い物の途中で財布にしまいそびれたまま置いたのだろう。ドラッグストアの印字は少し薄れ、日付だけがかろうじて読める。洗剤、ヘアオイル、ティッシュ、ミネラルウォーター。どれも生活そのものみたいな品目だった。白燈院とも、供養とも、裁判とも、何の関係もない。なのに、そういうものの方が、和希には胸の奥へまっすぐ刺さる。美里はその日、確かにここで暮
芳人の事務所で地図を見ていたときには、西峰別院という名前はまだ紙の上の一点にすぎなかった。都内相談室から西へ伸びる路線図の先、乗り換えを二度挟んだ郊外の駅。その先に、白燈院西峰別院と記された建物群がある。送金履歴の増額と、移動距離の変化と、案内メールの文面が、そこできれいに噛み合っていた。和希はその地図を見下ろしたまま、しばらく何も言えなかった。東京相談室だけなら、まだ分かる。仕事帰りでも寄れる。駅から近い。相談に行く場所として、ぎりぎり現実の範囲にある。だが西峰別院は違う。ここへ行くには、時間も、交通費も、意志もいる。少し苦しいから寄って
芳人はしばらく和希を見ていた。顔を背け、肩だけを固くして、早くしろと投げるように言った和希を、そのまま飲み込むような視線では見なかった。むしろ、ひどく冷静に観察していた。ここへ来た理由が欲望ではないことも、差し出しているつもりで実際には自分を切り離そうとしていることも、全部見抜いている目だった。「立て」低い声で言われ、和希は一瞬だけ動かなかった。命令されること自体は想定していたはずなのに、その短い一言がひどく現実味を持った。和希は舌打ちしたい気分のまま、ソファから腰を浮かせる。立ち上がった瞬間、部屋の広さが変わる。整いすぎた
白い花は、近くで見ると少しだけ冷たい。菊も百合も、会場の照明の下ではきれいすぎるほど整っていて、触れれば水気を含んだ花弁が指にひやりと張りつきそうだった。祭壇の前には、同じ高さに揃えられた供花が並び、そこへ細い香の煙がゆっくりと上がっている。煙は真っ直ぐではなく、空調の弱い流れに押されるように揺れ、会場全体へ薄く溶けていく。和希は遺族席の横に立ったまま、何人目か分からない会葬者へ頭を下げた。「本日はありがとうございます」その言葉は、もうほとんど反射だった。相手の顔を見て、会釈の角度を少し変え、香典を受け取り、係の人に渡し、ま
実家へ着いたときには、夜がすでに深くなっていた。駅からタクシーで十分ほどの住宅街は、見慣れているはずなのに、その夜はどこか色を失って見えた。街灯の白さが道路の端に細く落ち、並んだ家々の窓には、それぞれの生活の灯りがともっている。誰かが風呂に入り、誰かが夕飯の片づけをし、誰かがテレビを見ている。そういう普通の夜の中に、和希の実家だけが急に別の用途の家になってしまった気がした。玄関の灯りはついていた。インターホンを押す前に、鍵は開いた。父だった。ネクタイを外していないワイシャツ姿のまま、顔だけがひどく疲れている。泣いた顔ではない。むしろ逆だった







