Share

3.祈りの手順

Author: 中岡 始
last update publish date: 2026-03-26 19:59:01

最初の相談から四日後、美里はまた同じビルの前に立っていた。

前回ほど足はすくまなかった。迷わなかったわけではない。ただ、一度扉の向こうに入ってしまえば、あの白い待合と、声を荒げない人たちの空気が待っていることを知っていた。その記憶が、夜の街よりも先に身体を動かした。

相談室の受付で名前を告げると、前と同じ女性が穏やかに会釈した。二度目だからか、必要以上に確認されることもない。来ることが不自然ではない場所として、美里はもうそこに受け入れられていた。

個室で向かい合った秋山は、前回の続きから当然のように話を始めた。

「その後、眠りはいかがでしたか」

美里は、少しだけ考えてから首を横に振った。

「一晩だけ、少し楽だった気がして」

それは嘘ではなかった。最初の面談の夜、美里は帰り道にたしかに呼吸がしやすくなっていた。眠るまでの時間も、いつもより短かった。けれど次の日の夜には、また同じところに戻った。胸の奥の重さは、少し動いただけで、消えたわけではなかった。

「でも、戻りました」

そう言うと、秋山は同情しすぎない顔で頷いた。

「そうでしたか」

間違っていなかった、という響きがそこにはあった。楽になりきらないことは失敗ではなく、次の説明へつながる途中経過として扱われる。

「最初に少し緩む方は多いんです」

秋山は、テーブルの上に置いた手を動かさずに言った。

「それだけ、長く張りつめていらしたということでもありますから」

長く張りつめていた。

その言い方は、責めるより先に疲労を見つけてくれる。美里は視線を落とした。自分を責める言葉はいくらでも思いつくのに、疲れていたのだと誰かに言われるだけで、涙に近いものが喉元へ上がってくる。

秋山は、その日の面談でも、露骨な言葉を使わなかった。けれど会話は確実に、前より少しだけ深い場所へ進んだ。

「前回、終わらせられなかった感じがあるとおっしゃっていましたよね」

美里は頷く。

「はい」

「その思いは、日によって濃さが違いますか」

「違います。仕事してるときはまだ大丈夫で……帰って、一人になると」

「夜のほうが近くなるんですね」

近くなる。その言い方を秋山は何度も使った。思い出す、ではなく。苦しみが自分からやってくるように感じる語彙だった。

美里は膝の上で指を組み直す。

「……何か、してあげたほうがいいのかなって、思うことがあります」

言ってしまってから、自分で息を止めた。何を、誰に、という核心を曖昧なまま残した言い方だったが、秋山はそれを咎めなかった。

「そう思うことがあるんですね」

「はい。でも、何をしたらいいのか分からないし、そういうことを思う資格があるのかも分からなくて」

美里の声は最後のほうで細くなった。

秋山は少しだけ目を伏せ、丁寧に言葉を置いた。

「資格があるかどうかより、思いが残っていることのほうが大切です」

それから、ほんのわずかに間を置く。

「もし、心の奥に、きちんと手を合わせたい気持ちがあるなら」

その先は提案であって、命令ではない響きだった。

「簡単な祈りの時間を持つ方法があります」

祈り。

相談、ではなく、そこで初めて少しだけ宗教に近い語が出た。けれど古びた匂いのする言い方ではない。祈祷でも、除霊でも、儀式でもない。祈り。誰が口にしても違和感の少ない言葉だ。

秋山が見せたのは、白い案内用紙一枚だった。個別灯明、追想の祈り、継続相談併用可。どれも柔らかい文字で印字され、料金も小さく控えめに書かれている。一回ごとの金額は、美里が一瞬ためらえば払える程度だった。美容院を一回先延ばしにすれば。外食を二、三回減らせば。そんな計算がすぐに立つくらいの額。

高い、と即座に思わせない。

その絶妙さがいやだった。いやだと思うのに、同時に、これで少しでも楽になるなら、とも思ってしまう。

「無理におすすめはしません」

秋山はそう言った。

「ただ、言葉にするだけではほどけない苦しさもありますから」

その日の帰り、美里は案内用紙をバッグに入れたまま駅へ向かった。電車の窓に映る自分の顔を見ても、まだ決めきれていない目をしている。それなのに、家に着く前には、もう一度だけなら、と思っていた。

一度だけ。

それが最初の自己説得だった。

週末の午後、白燈院の都内相談所の奥にある小さな部屋で、灯明の前に座ったときも、美里はまだ自分がたいしたことをしているとは思っていなかった。暗すぎない室内、白木の台、小さな灯り。読めない経文が延々と響くような場所ではない。秋山ではなく、別の女性が静かな声で手順を説明し、札に記す名前は本名でも、心の中で思うだけでもかまわないと言う。言い切らないまま逃げ道を残す話し方は、ここでも同じだった。

美里は何も書かなかった。

ただ、白い紙片を前にして、指先を膝の上で握った。名前にしてしまったら、本当にそこに誰かがいるみたいで怖かったからだ。けれど目を閉じたとき、浮かんでしまうものはあった。白い天井。擦れるような機械音。小さく丸められた感情。あのとき、自分の中から消えたはずのものの重さだけが、なぜか今になって残っている。

部屋を出る頃には、少しだけ身体が軽くなった気がした。ほんの少しだけだ。肩から指先までを覆っていた膜が、薄くなったような程度の変化。

それでも、美里はそのわずかな違いを見逃さなかった。

これで少しでも楽になるなら。

そう思うだけで、次の支払いは意味を持つ。

だが、その夜にはもう、胸の奥の重さが戻ってきた。

戻るどころか、日中ほんの少し緩んだぶんだけ、夜の反動が強く感じられた。効かなかったのかもしれない、という不安と、いや、自分の思いが足りなかったのかもしれない、という責めが同時に押し寄せる。白燈院が何かしたわけではない。何も押しつけていない。ただ、美里の中に生まれた不足感が、自分から次を欲しがる。

次の面談で、そのことを話すと、秋山は少しも驚かなかった。

「そういう方もいらっしゃいます」

その落ち着きが、かえって美里を安心させる。

「一度の灯明でほどけるものと、もう少し根が深いものがあるんです」

根が深い。

その曖昧な言い方には、逃げ道がない。重いと断言されたわけではないのに、自分の場合はそれなのだと自然に思わされる。

「長浜さんの場合は、個別の祈りが合うかもしれません」

個別。

その響きは特別扱いのようでいて、実際にはより深い段階への誘導だった。

案内されたのは、都内相談所では対応しきれない祈りを行う郊外の別院だった。案内カードには、最寄り駅から少し離れた場所の名前が書かれている。東京の外れまではいかないが、仕事帰りにふらりと立ち寄るには少し不便な距離。秋山は、無理のない範囲で、と前置きしたうえで言った。

「送迎もあります」

その一言が、美里を断りにくくした。アクセスの悪さが負担になるはずなのに、送迎があることで、むしろ整った導線に見えてしまう。行きやすいからではない。向こうがそこまで用意してくれるほど必要なことなのだと感じてしまうのだ。

別院へ向かったのは、その翌週の土曜の夕方だった。

都心の駅から電車に乗り、乗り換えを一度挟む。窓の外の景色が少しずつ変わる。密集したビルの窓明かりが減り、低いマンション、広い駐車場、暗い川沿いの道が増えていく。車内の広告も、都心の美容クリニックや転職サイトより、学習塾や住宅展示場の割合が多くなった気がした。たった四十分かそこらの移動なのに、街の密度が違うだけで、自分が遠くへ来てしまったように思える。

指定された駅で降りると、風が少し冷たかった。改札の外には、白燈院の名を出さない送迎車が停まっていた。濃いグレーのワンボックスで、運転席の男は事務職にしか見えない地味なスーツを着ている。乗り込んだのは美里を含めて三人だけで、互いに会話はない。全員が、ここへ来る理由を口にしない人の顔をしていた。

車窓の外を流れるのは、チェーンの飲食店、ドラッグストア、暗くなり始めた郊外の住宅街。やがて大通りを外れ、細い道に入る。白い壁が続き、舗装の色が少し変わる。小さな石畳のような通路の先に、低く整えられた建物が見えた。寺というより、研修施設か、高級な保養所のような外観だった。灯りは温かいのに、周囲は静かで、人の生活の音が薄い。そのわずかな非日常が、美里の中で行為の重大さを膨らませた。

ここまで来たのだから。

そう思うこと自体が、もう引き返しにくさになっている。

別院の受付でも、誰も大声を出さない。靴音が吸われる床、低い照明、白い壁、木の手すり。都内相談所よりわずかに宗教性が濃いが、それでもいかにもな異界ではない。現代的に整えられた空間の中に、手を合わせるための台や、薄い香の匂いが控えめに紛れている程度だ。

個別の祈りと呼ばれたそれは、実際には短い面談と、札への記名、灯明、数分の黙祷を組み合わせたようなものだった。担当したのは五十代くらいの女性で、秋山よりさらに母性的に見える人だったが、話し方はよく似ていた。

「ご自身を責めるためではなく、思いに形を与える時間です」

形を与える。

その表現も、きれいだった。

美里はついに、札の裏に何も書けなかった。代わりに、名前を書かないまま手の中で紙を折り、開き、また折った。担当の女性はそれを咎めず、ただ小さく頷いた。

「まだ言葉にならない方もいらっしゃいます」

それだけで済む。

その受容のやわらかさが、美里にはありがたく、同時に逃げられないものにも思えた。

祈りが終わると、小さな封筒が手渡された。次回の継続浄化の案内、月例の供養会、相談予約先。どれも一つひとつは高額ではない。だが、一枚一枚が、自分の苦しみに段階があることを前提にしている。最初の相談、一度きりの灯明、個別の祈り、その先の継続。終わりは明言されない。必要なら、という言葉だけが静かに添えられている。

帰りの電車で、美里はバッグの中の封筒を何度も指でなぞった。車窓には夜の郊外が流れ、黒いガラスに自分の顔が重なる。疲れているのに、心のどこかは少しだけ静かだった。ここまで来て、何もしないまま帰るよりはいい。そう思えてしまう。

だから、次も行ってしまう。

その反復が始まった。

平日の夜、仕事を終えてから都内相談所へ寄る。週末、郊外の別院へ向かう。供養のたびに少しだけ軽くなる気がして、その日の夜か翌朝にはまた戻る。戻るたびに、足りなかったのだと思う。自分の祈りが浅かったのかもしれない。まだ向き合えていないのかもしれない。白燈院がそう断言したわけではない。けれど、言葉を与えられた苦しみは、その言葉の続きを自分から求める。

支払いは、毎回小さい。

相談料、灯明料、個別祈りの献納、継続浄化の申込み金。財布から現金を出すこともあれば、アプリ決済で済ませることもある。一回ごとなら払えてしまう。二千円、五千円、八千円。ときどき一万を少し超える。服一着を我慢すれば。カフェに寄らなければ。そんなふうに換算できる額ばかりだ。

けれど生活は、目に見えないところから削れた。

コンビニでサラダとスープを買っていた夜に、おにぎり一つで済ませることが増えた。ヨーグルトを棚に戻し、値引きシールの貼られたパンを選ぶ。ドラッグストアで化粧水の補充を迷い、まだ少し残っているはずだと自分に言い聞かせる。美容院の予約サイトを開いて、来週にしよう、いや来月でもいいかもしれないと閉じる。部屋の流しに立ちながら、夕食を作る気力はないのに、何か買い足すのもためらって、水だけ飲んで寝る夜ができる。

その一つひとつは大きな破綻ではない。だが、いつの間にか、生活のほうが祈りに場所を譲り始めていた。

兄からの連絡が来たのは、郊外の別院へ二度目に行った週の水曜だった。

残業を終え、駅のホームで電車を待っていると、スマートフォンの画面に通知が浮かぶ。和希、という文字を見た瞬間、美里の胸がきゅっと縮んだ。

今度ごはん行こう。最近どう?

たったそれだけの文面だった。軽い、何でもない兄の連絡。昔からそうだった。踏み込みすぎず、でも気にしていることだけは分かる温度。画面を見たまま、美里はしばらく指を動かせなかった。

返したいと思う。

ほんの少し前までなら、普通に返せたはずだ。仕事が落ち着いたらね、とか、また休み合わせよう、とか。そのくらいの会話に、何の問題もなかったはずなのに、今は兄の名前を見ているだけで呼吸が浅くなる。

会えば、気づかれる気がした。痩せたこと。化粧の乗りが悪いこと。笑うときに目元がちゃんと上がらないこと。何より、自分がずっと何かを隠している顔をしていること。

兄は責めないだろう。

その確信があるから、なおさら会えない。

ホームに電車が滑り込んできて、風が頬に当たる。美里は並んだ人たちに押されるように乗り込み、つり革につかまりながら、短い文だけを返した。

また予定見て連絡するね

送信すると、すぐに既読がついた。返信はない。その沈黙が優しさだと分かるから、余計に痛かった。

スマートフォンを伏せるようにバッグへしまい、美里は窓の外に流れる闇を見る。その闇の中に、自分が誰からも遠ざかっていく感覚だけがあった。

祈りのたびに、少しだけ軽くなる。

その反復は、薬に似ていた。効いているのかどうか分からないほど薄いのに、切れると不安になる。やめて、何も変わらなかったらどうしよう。その恐怖が、美里をまた相談所へ向かわせる。

ある日の面談で、秋山は静かな声で言った。

「苦しみが戻るのは、前に進めていないというより、まだ途中だからかもしれません」

途中。

「個別の祈りに加えて、月例の供養会にいらっしゃる方もいます」

月例、という語は重いのに、秋山の口から出ると予定表のひとコマみたいに軽く聞こえる。

「無理のない範囲で大丈夫です。ただ、ひとりで抱える時間が長い方ほど、定期的に手を合わせるほうが落ち着くこともあるんです」

美里はその場で返事をしなかった。しなかったはずなのに、帰る頃には案内封筒を受け取っていた。断れなかったのではない。自分で持ち帰ったのだと思える程度の距離感が、いつも保たれている。

だからこそ、すべてが自分の選択に思えてしまう。

深夜、ワンルームの部屋に戻ると、冷蔵庫の音がやけに大きく聞こえる日があった。メイクを落とし、洗面台の鏡に映る自分の顔を見る。頬が少しこけた気がする。髪の毛のまとまりも悪い。美容院に行っていないせいだと分かっていても、その程度のことにお金を使うのがためらわれる。

床に座ってコンビニの細巻きを食べながら、何気なく家計アプリを開く。食費、交通費、雑費。そこに、最近やけに増えた項目がある。明細の名前は教団色を薄めたものばかりだ。相談、献納、灯明、会場利用、送迎。単体で見れば異様ではない。だが並ぶと、生活の中で不自然に存在感を持つ。

美里は一度画面を閉じた。

見たくないものほど、数字になると逃げ場がない。

それでも、その夜はなぜかもう一度開いてしまった。クレジットアプリの履歴。銀行アプリの残高。今月の引き落とし予定。来週の家賃。携帯料金。定期代。

数字が白い画面に整然と並んでいる。

冷たい。

そこに言い訳の余地はなかった。

相談室へ行った日。別院へ行った日。供養会の申込み。交通費。小さな支払いの積み重ねが、想像していたより確実に生活費を削っている。給料日からまだそんなに経っていないのに、残高はもう安心できる位置ではない。月末までの日数を頭の中で数えた瞬間、胃の奥がひやりとした。

これまで、美里はずっと目をそらしていたのだ。

一回ごとなら払える。

少しでも楽になるなら。

今だけだから。

その全部を重ねた先にある額を、見ないようにしていた。

スマートフォンの光が、暗い部屋で指先を青白く照らす。画面を持つ手が少し震えた。喉が急に乾く。飲みかけの水を取りに立とうとして、膝に力が入らない。床に置いた財布の中身を思い出す。明日の昼は、もうコンビニに寄らないほうがいい。美容院は来月でもいい。いや、来月も無理かもしれない。

そんな計算が、祈りより先に頭を埋めた。

救われるためにしているはずのことが、目の前の現実を静かに壊している。

その当たり前の事実を、美里は初めて真正面から見た。

白いアプリ画面の残高を見つめたまま、美里の顔から血の気が引いていった。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 妹を殺した教団に復讐するはずが、愛を教え込まれた~罰ではなく、おまえを選ぶまで   83.朝のドア

    目を開けた時、部屋の中にはもう朝の気配が満ちていた。カーテンは半分だけ開いていて、その隙間から入る白い光が、床とテーブルの縁を静かに照らしている。夜の名残はまだ完全には消えていないのに、空気だけは確かに朝へ傾いていた。和希はしばらく動かず、その薄い明るさを見ていた。隣の気配はもう起きているらしい。シーツの皺の向こうに残る体温だけが、夜がたしかにここにあったことを示していた。小さな音がする。キッチンでカップが触れ合う音。湯が細く落ちる音。床を踏む足音。どれもごく小さいのに、不思議なくらい自然に耳へ入ってきた。以前なら、こういう朝の静けさはどこか居心地が悪かったかもしれない。体温の残り方も、カップの音も、窓から入る光も、どこか自分には早すぎるもののように思えただろう。けれど今は、強い違和感がない。ただ、朝が来ていて、自分はその朝の中にいるのだと、静かに分かる。和希は上半身を起こした。テーブルの上には、飲み終えたカップが二つ置かれている。どちらも底に少しだけコーヒーの色を残したまま、もう役目を終えた顔をしていた。特別な幸福の朝という感じではない。誰かの部屋で、ただ一日が始まりかけているだけの光景だった。芳人は背を向けてネクタイを締めていた。白いシャツの襟元に指を入れ、いつもの手つきで結び目を整える。その横顔は落ち着いていて、夜の余韻をわざわざ確かめようとはしない。和希はその背中を見ながら、胸の奥にある静かな重さを意識した。窓の外の光が、少しだけ強くなる。美里は、こういう朝をもう見ない。その事実が、不意に胸へ落ちた。痛くないわけではない。むしろ、いつでも少しは痛いのだろうと思う。けれど今の和希は、その痛みから目を逸らさなかった。逸らさずに、そのまま胸の内へ置いておける。もういない。それでも朝は来る。そして自分は、その朝をちゃんと生きるしかない。言葉にしたわけではない。けれど気持ちは、自然にその方向へ向いていた。芳人が時計を見て、ジャケットを手に取った。鍵の触れ合う小さな音がする。振り向いたが、長い確認はしない。

  • 妹を殺した教団に復讐するはずが、愛を教え込まれた~罰ではなく、おまえを選ぶまで   82.もう罰じゃない

    ドアが開いたとき、芳人は何も聞かなかった。深夜に近い時間だった。廊下の白い灯りを背に立つ和希を一目見て、ただ身体を半歩だけ引き、入れるための隙間を作る。それだけだった。どうしたとも、何があったとも言わない。和希もまた、言い訳のような前置きはしなかった。靴を脱ぎ、部屋へ入る。芳人の部屋は、前と同じ静けさを持っていた。けれど今夜、その静けさは和希を追い詰めなかった。整いすぎた家具の輪郭、低い灯り、窓の向こうの夜の薄い気配。どれも知っている。知っているまま、前とは違う場所のように見える。芳人はキッチンへ向かった。湯を沸かす、小さな音がする。和希はソファの端に座り、テーブルの木目を見た。自分から来たくせに、喉の奥だけが少し乾いている。ここに来るまでの道で、何度も引き返すことはできた。メッセージだって、送らずに済ませることはできた。それでも来た。今夜は、それで十分だった。マグカップが目の前に置かれる。湯気がかすかに立っている。芳人は向かいではなく、少し離れた位置へ腰を下ろした。近づきすぎない。手も伸ばさない。その待ち方だけで、以前と違うのだと分かる。和希はカップに口をつけた。熱が舌に触れ、喉を落ちる。そのあいだ、芳人は何も言わなかった。沈黙は長かったが、重くはなかった。言葉を急かされないことが、今夜はむしろ必要だった。和希はしばらく視線を落としていた。手の中の熱、部屋の静けさ、芳人の気配。どれも近いのに、奪うような圧がない。そのことに、少しずつ呼吸が整っていくのを感じる。前は違った。最初の夜、自分は払う側だった。妹のため、復讐のため、自分を罰するため、そういう理由を重ねて、自分を差し出した。芳人に触れることも、その熱に沈むことも、全部どこかで代価の形をしていた。苦しい夜には麻酔として使い、壊れそうなときには自分を罰するために求めた。好きだからではない、と何度も言い聞かせながら、結局はその言い訳ごと芳人の方へ落ちていった。今夜は違う。その違いをどう言えばいいのか、さっきまでうまく分からなかった。だが、いまこうして黙って向かい合っていると、その言葉だけは、ようやく形になった。

  • 妹を殺した教団に復讐するはずが、愛を教え込まれた~罰ではなく、おまえを選ぶまで   81.罰ではなく

    部屋に戻ると、最初に聞こえたのは冷蔵庫の低い音だった。靴を脱ぎ、鍵を置き、ネクタイを緩める。どれも毎日の終わりに繰り返している動作なのに、今夜はそのひとつひとつが、少しだけ軽かった。軽いと言っても、何かが消えたわけではない。美里のことも、白燈院のことも、鳴海の乾いた声も、まだ身体のどこかに残っている。ただ、前のように、扉を閉めた瞬間に全部がいっせいに胸へ押し寄せてくる感じではなかった。部屋は静かだった。以前なら、その静けさはすぐに別のものへ変わった。何も音がしないだけで、自分の頭の中の声ばかり大きくなる。遅かった、救えなかった、もっと早く気づいていれば、という同じ場所を、何度でも思考が巡っていた。静かさは休まるためのものではなく、罪悪感が形を持つための器みたいなものだった。今夜も、静かではある。けれど、その静けさの底が少し違う。和希は上着を椅子の背にかけ、キッチンで水を飲んだ。冷たい水が喉を落ちる。窓の外では、遠くで車が一台通り過ぎた。部屋の中はそれきりまた静かになったが、息が詰まる感じは来なかった。代わりに、もっと別の感覚がじわじわと浮いてくる。何だろうと考えるより先に、ひとつの気配が頭に差した。芳人だった。会っていたときの顔ではない。給湯室で告げられた重すぎる言葉でも、訴状の前に座る弁護士の横顔でもない。もっとどうでもいい断片だった。駅前で紙カップを二つ持って待っていたこと。砂糖は入れないだろうと、当然みたいに無糖のコーヒーを渡した手つき。何も話さないまま、歩幅だけを合わせて隣を歩いた帰り道。別れ際の短い「またな」。その程度のことが、妙にはっきり胸に残っている。和希は流しの縁に片手をついたまま、少しだけ目を閉じた。今までの自分なら、こういう夜に誰かを思い出す理由は、もっと切迫していたはずだった。考えたくないから。眠れないから。壊れそうだから。埋めてもらわないと持たないから。そういう理由が先にあって、その先に芳人がいた。今は違う。今日、誰かに追い詰められたわけではない。録音を聞いた夜みたいに息が壊れているわけでもない。白燈院の文書を読

  • 妹を殺した教団に復讐するはずが、愛を教え込まれた~罰ではなく、おまえを選ぶまで   80.隣に立つだけ

    仕事を終えたあと、和希は駅前の小さなコーヒースタンドで芳人と落ち合った。約束らしい約束はなかった。昼過ぎに、仕事が終わったら少し顔を見るか、と短いメッセージが来て、それに和希が、遅くなるかもしれない、とだけ返した。結局、少し遅れて着いたときにも、芳人は何も言わなかった。ただ、紙のカップを二つ持って店先の脇に立っていた。「こっち、熱いから気をつけろ」差し出されたカップを受け取る。砂糖もミルクも入っていない匂いがして、和希はそれだけで少しだけ息をついた。以前なら、そういうことに気づかれるのが嫌だったかもしれない。今は違う。気づかれていること自体より、それをわざわざ言葉にしないまま置かれる方が、胸に静かに残る。駅前はまだ人が多かった。会社帰りの流れが途切れず、信号のたびに小さな塊ができてはほどけていく。二人はそのまま歩き出した。行き先を先に決めるでもなく、ただ大通りを外れて、少し静かな裏道へ入る。芳人は、必要なことしか聞かなかった。「今日、佐伯から連絡はあったか」「来た」「鳴海は」「来週、また出るらしい」それだけで会話は途切れる。途切れても、埋める必要がない。以前の二人なら、その沈黙の裏にはいつも別のものがあった。緊張だったり、欲だったり、どちらかがどこまで踏み込むかを測る気配だったり。今はそういう棘が薄い。和希は歩きながら、横の芳人を見た。相変わらず、表情は大きく変わらない。ネクタイを少し緩め、上着のポケットに片手を入れたまま、歩幅だけを和希に合わせている。無理に近づいてくることもなければ、妙に気を遣った言葉を足すこともない。ただ、隣にいる。それが前と違うのだと、和希にも分かった。以前の芳人は、もっと分かりやすく引き寄せようとしていた。和希が崩れそうになれば、その重さごと自分の側へ寄せようとしたし、和希もまた、考えずに済むための熱としてそれに触れた。今は違う。芳人はもう、抱えて片づけようとしない。慰めの形へ誘導もしない。欲しがっている気配が消えたわけではないのだろうが、それを前へ出してこない。和希の方も、それを完全には言葉にでき

  • 妹を殺した教団に復讐するはずが、愛を教え込まれた~罰ではなく、おまえを選ぶまで   79.被害者ではなく、妹

    しゃがみ込んだまま、和希はしばらく動けなかった。スマートフォンの画面はまだ明るく、短いやり取りだけが白く残っている。今度ごはん行こう。忙しい。じゃあまた今度。その四文字の軽さが、逆に息を詰まらせた。約束ですらない、いつでも作り直せるはずだった予定の断片。だからこそ、その先が永遠に来ないことが、容赦なく分かってしまう。部屋は静かだった。窓の外の光はもうほとんどなく、棚の輪郭も少しずつ暗さへ溶けていく。和希はようやく画面を伏せ、床に落ちていた小さなポーチへ視線をやった。前にも見たことのある、何でもない布のポーチだった。淡い色で、端が少し擦れている。化粧品か、目薬か、飴でも入れていたのだろうと、いつもそれくらいにしか思っていなかった。手を伸ばして拾い上げる。軽い。中には細いリップクリームと、小さな包み紙の切れ端、それから丸めたレシートが一枚入っていた。レシートの店名はコンビニで、甘いパンとカフェラテの文字が読める。日付はもう数か月前だった。そのとき、和希の頭に、ごく小さな場面が不意に戻った。美里は甘いものを選ぶとき、少しだけ迷う顔をした。大げさに悩むわけではない。棚の前で数秒だけ立ち止まり、結局、いちばん無難そうなものを手に取る。派手な新商品ではなく、何度も買ったことのある、安い焼き菓子とか、クリームの入ったパンとか、そういうものを選ぶ。そのくせ一口目だけは、いつも少しだけ嬉しそうだった。どうでもいい記憶のはずなのに、その顔だけが妙にはっきり浮かぶ。白燈院とは何の関係もない。不倫とも、中絶とも、録音とも関係ない。ただコンビニで甘いものを選ぶ、美里の顔だった。和希はポーチを膝の上へ置いたまま、静かに息を吐いた。胸の奥にあった硬いものが、少しだけ違う形へ変わる。痛みが消えるわけではない。ただ、同じ痛みの中に、別の温度が混じり始める。スマートフォンの履歴に残っていた他愛ないスタンプも、ふと頭に浮かんだ。返事が面倒なときに美里がよく送ってきた、やる気のない猫のスタンプ。笑っているのか眠いのか分からない、微妙な顔のやつで、あれが来ると、ああ今は深く話したくないんだなと、何となく分かった。気を遣わせないように、け

  • 妹を殺した教団に復讐するはずが、愛を教え込まれた~罰ではなく、おまえを選ぶまで   78.戻らないもの

    夕方の光が薄く傾くころ、和希はまた美里の部屋へ来ていた。この部屋へ入るたび、最初に感じるのは静けさではなく、音のなさの不自然さだった。人が住んでいればあるはずの、ごく細かな生活の気配がない。冷蔵庫の開閉も、水道の一瞬の音も、床を踏む体重の揺れもない。そのくせ、目に入るものはどれも、いまでもここで暮らしが続いているみたいな顔をしている。カーテンの端。棚の上の雑誌。ヘアゴムの置き方。小さなゴミ箱の脇に立てかけられた紙袋。そういうものが、主を失った部屋のくせに、まだ生活の途中みたいに見える。和希は玄関を閉め、しばらくそこに立っていた。訴訟が始まり、会見が終わり、白燈院は崩れ始めた。御影の顔も、黒瀬の数字も、前のようには人を飲み込めないところまで来ている。それは確かなことだった。崩せたものはある。奪い返せたものもある。理屈では、そう言える。けれどこの部屋の前に立つと、その理屈はひどく遠かった。ここには、白燈院を崩すための証拠だけが残っているわけではない。むしろ逆だった。役に立たないものの方が多い。使いかけのハンドクリーム。裏が少しだけ破れた菓子の箱。付録つきの雑誌。洗面所の隅に残った細いヘアピン。そういう何でもないものばかりが、かえってこの部屋を美里のものとして強く残している。和希は部屋の奥へ入り、テーブルの前で立ち止まった。前に来たときは、ノートや履歴や予約メールや、読むべきものばかり見ていた。そこに残る意味を探して、繋がる線だけを追っていた。今は違う。今日は最初から、何かを調べに来たわけではない。それでも足がここへ向いたのは、静かになったあとにだけ戻ってくる現実が、この部屋に一番濃く残っている気がしたからだった。テーブルの端に、小さく折られたレシートがあった。買い物の途中で財布にしまいそびれたまま置いたのだろう。ドラッグストアの印字は少し薄れ、日付だけがかろうじて読める。洗剤、ヘアオイル、ティッシュ、ミネラルウォーター。どれも生活そのものみたいな品目だった。白燈院とも、供養とも、裁判とも、何の関係もない。なのに、そういうものの方が、和希には胸の奥へまっすぐ刺さる。美里はその日、確かにここで暮

  • 妹を殺した教団に復讐するはずが、愛を教え込まれた~罰ではなく、おまえを選ぶまで   38.西峰別院

    芳人の事務所で地図を見ていたときには、西峰別院という名前はまだ紙の上の一点にすぎなかった。都内相談室から西へ伸びる路線図の先、乗り換えを二度挟んだ郊外の駅。その先に、白燈院西峰別院と記された建物群がある。送金履歴の増額と、移動距離の変化と、案内メールの文面が、そこできれいに噛み合っていた。和希はその地図を見下ろしたまま、しばらく何も言えなかった。東京相談室だけなら、まだ分かる。仕事帰りでも寄れる。駅から近い。相談に行く場所として、ぎりぎり現実の範囲にある。だが西峰別院は違う。ここへ行くには、時間も、交通費も、意志もいる。少し苦しいから寄って

  • 妹を殺した教団に復讐するはずが、愛を教え込まれた~罰ではなく、おまえを選ぶまで   21.覚えさせる指

    芳人はしばらく和希を見ていた。顔を背け、肩だけを固くして、早くしろと投げるように言った和希を、そのまま飲み込むような視線では見なかった。むしろ、ひどく冷静に観察していた。ここへ来た理由が欲望ではないことも、差し出しているつもりで実際には自分を切り離そうとしていることも、全部見抜いている目だった。「立て」低い声で言われ、和希は一瞬だけ動かなかった。命令されること自体は想定していたはずなのに、その短い一言がひどく現実味を持った。和希は舌打ちしたい気分のまま、ソファから腰を浮かせる。立ち上がった瞬間、部屋の広さが変わる。整いすぎた

  • 妹を殺した教団に復讐するはずが、愛を教え込まれた~罰ではなく、おまえを選ぶまで   9.焼香の向こう側

    白い花は、近くで見ると少しだけ冷たい。菊も百合も、会場の照明の下ではきれいすぎるほど整っていて、触れれば水気を含んだ花弁が指にひやりと張りつきそうだった。祭壇の前には、同じ高さに揃えられた供花が並び、そこへ細い香の煙がゆっくりと上がっている。煙は真っ直ぐではなく、空調の弱い流れに押されるように揺れ、会場全体へ薄く溶けていく。和希は遺族席の横に立ったまま、何人目か分からない会葬者へ頭を下げた。「本日はありがとうございます」その言葉は、もうほとんど反射だった。相手の顔を見て、会釈の角度を少し変え、香典を受け取り、係の人に渡し、ま

  • 妹を殺した教団に復讐するはずが、愛を教え込まれた~罰ではなく、おまえを選ぶまで   8.喪服の手順

    実家へ着いたときには、夜がすでに深くなっていた。駅からタクシーで十分ほどの住宅街は、見慣れているはずなのに、その夜はどこか色を失って見えた。街灯の白さが道路の端に細く落ち、並んだ家々の窓には、それぞれの生活の灯りがともっている。誰かが風呂に入り、誰かが夕飯の片づけをし、誰かがテレビを見ている。そういう普通の夜の中に、和希の実家だけが急に別の用途の家になってしまった気がした。玄関の灯りはついていた。インターホンを押す前に、鍵は開いた。父だった。ネクタイを外していないワイシャツ姿のまま、顔だけがひどく疲れている。泣いた顔ではない。むしろ逆だった

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status