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過ぎゆく日々に背を向けず

過ぎゆく日々に背を向けず

By:  夏川 建Completed
Language: Japanese
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林恵(はやし めぐみ)は三年間付き合ってきた恋人に裏切られた。 彼がひざまずいて、差し出した婚約指輪の相手は、よりによって彼女の実の姉―― その日、恋人はレストランを丸ごと貸し切り、姉のためにサプライズのプロポーズを準備していた。 その光景を恵は偶然目撃してしまった。 普通なら、心を引き裂かれ、涙を堪えてその場を逃げ出すところだろう。 だが――「私を裏切ったのは彼。恥じるべきは、裏切ったあの男のほうよ!」 そう心に決めた恵は、屈辱を呑み込む代わりに真っ向から立ち向かう決意をした。 逃げるのではなく、堂々とその場に踏み込み、裏切りを白日の下にさらすために――

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Chapter 1

第1話

「君の病気をこれ以上放っておいたら、本当に手遅れになる。

たかが男のために命まで投げ出すなんて、絶対にだめだ」

「病院も実力トップの医師も全部手配したし、来てくれさえすれば、すぐにでも入院できる」

車がひっきりなしに行き交う街角で、林恵(はやし めぐみ)は携帯を握りしめ、視線を西洋レストランの窓辺に注いだ。

そこには、一組の男女が仲睦まじく寄り添っている。

「恵!

お願いだから恋に溺れるのはやめて、自分のことを第一に考えてくれ――」

「わかってる。

一週間だけ時間をちょうだい。

一週間後には必ず治療を受けに行く」

受話器の向こうで、佐野真也(さの しんや)は息を呑むように絶句した。

「ほ、本当か......?」

「ええ、ようやく気づいたの。

あんなくだらない男のために、身体を壊すわけにはいかないって」

出国の日程を確認すると、恵はそれ以上言葉を交わす気になれず、電話を切った。

窓の中、あの二人はまだふざけ合っていた。

ステーキを口に運び合い、同じストローを使っては笑い合っていた。

そこにいたのは、三年間付き合い、結婚の話まで出ていた恋人――千葉明(ちば あきら)。

そして、幼い頃から何でも話してきた実の姉――林華(はやし はな)。

今日は恵の二十四歳の誕生日。

だがその恋人は、姉のために一方的に彼女との関係を終わらせたのだ。

滑稽なことに、ほんの半月前には彼女を抱き寄せ、「結婚してくれるか?誕生日にプロポーズしてもいい?」と甘い声で尋ねていた。

すでに婚約指輪も用意し、自分がうなずけば明日にでも式を挙げられる、とまで言っていたのに。

その男は今や「ただ一人を愛す」と口にしていた言葉を裏切り、別の女を抱きしめて優しい言葉をささやいている。

SNSを開けば、華の最新の投稿が目に飛び込んだ。

そこにはダイヤの指輪の写真。

【やっと一生を託せる人に出会えました。祝福していただけたら嬉しいです】

余計な飾りもない簡潔な文面。

つまり、明は華にプロポーズしたのだ。

恵の誕生日に。

彼女が白血病を宣告された、わずか一か月後だった。

スマホの通知音が鳴り、ラインに新しいメッセージが届いた。

送り主は華。

十二秒の音声。

再生ボタンを押し、耳に当てると、周囲のクラクションの音さえ遠のいていった。

聞こえてきたのは、恋人の声だった。

「華、愛してる。

一生大切にするから」

一日中繋がらなかった電話で嫌な予感はしていた。

けれど、裏切りの相手がよりによって姉だったことで、心の中の何かが音を立てて崩れ落ちた。

それでも恵は不思議と冷静だった。

激しい痛みはなく、ただ凍りついたように立ち尽くしていた。

けれど三年の歳月にけじめをつけるため、彼女は歩を進め、店のドアを押し開けた。

「申し訳ありません、本日は貸切となっておりまして......」

「食事じゃないわ。

人を探してるの」

恵は窓際を指さした。

「ほら、あの二人」

薔薇の花びらでハート型が描かれ、壁には赤い風船で「marry me」の文字。

クラシカルな店内に不釣り合いな装飾は、華やかさよりも滑稽さを際立たせていた。

思わず、恵の口元に笑みが浮かぶ。

入口のざわめきに気づいたのか、二人が同時に顔を上げた。

恵の姿を確認した瞬間――

「め、恵......どうしてここに」

明の視線は泳いでいた。浮気現場を押さえられた男そのものであった。

一方の華は、一瞬だけ狼狽したが、すぐに勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

恵は二人の反応を見ながら歩み寄り、椅子を引いて腰を下ろした。

口元に冷たい笑みを浮かべて言い放つ。

「なるほどね。

私の誕生日を祝うはずだった恋人と姉が、私抜きでずいぶん楽しそうにしてるじゃない」
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Comments

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蘇枋美郷
クズ男は酔って間違ったと言ってたけど、養子の姉がやっぱり誘惑してたんじゃないか!( 怒)クズ男女に相応しいざまぁだった。
2025-09-10 18:30:09
0
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松坂 美枝
クズカップルにふさわしい末路だったがお姉さんはちょっと気の毒だった
2025-09-10 12:01:32
0
16 Chapters
第1話
「君の病気をこれ以上放っておいたら、本当に手遅れになる。たかが男のために命まで投げ出すなんて、絶対にだめだ」「病院も実力トップの医師も全部手配したし、来てくれさえすれば、すぐにでも入院できる」車がひっきりなしに行き交う街角で、林恵(はやし めぐみ)は携帯を握りしめ、視線を西洋レストランの窓辺に注いだ。そこには、一組の男女が仲睦まじく寄り添っている。「恵!お願いだから恋に溺れるのはやめて、自分のことを第一に考えてくれ――」「わかってる。一週間だけ時間をちょうだい。一週間後には必ず治療を受けに行く」受話器の向こうで、佐野真也(さの しんや)は息を呑むように絶句した。「ほ、本当か......?」「ええ、ようやく気づいたの。あんなくだらない男のために、身体を壊すわけにはいかないって」出国の日程を確認すると、恵はそれ以上言葉を交わす気になれず、電話を切った。窓の中、あの二人はまだふざけ合っていた。ステーキを口に運び合い、同じストローを使っては笑い合っていた。そこにいたのは、三年間付き合い、結婚の話まで出ていた恋人――千葉明(ちば あきら)。そして、幼い頃から何でも話してきた実の姉――林華(はやし はな)。今日は恵の二十四歳の誕生日。だがその恋人は、姉のために一方的に彼女との関係を終わらせたのだ。滑稽なことに、ほんの半月前には彼女を抱き寄せ、「結婚してくれるか?誕生日にプロポーズしてもいい?」と甘い声で尋ねていた。すでに婚約指輪も用意し、自分がうなずけば明日にでも式を挙げられる、とまで言っていたのに。その男は今や「ただ一人を愛す」と口にしていた言葉を裏切り、別の女を抱きしめて優しい言葉をささやいている。SNSを開けば、華の最新の投稿が目に飛び込んだ。そこにはダイヤの指輪の写真。【やっと一生を託せる人に出会えました。祝福していただけたら嬉しいです】余計な飾りもない簡潔な文面。つまり、明は華にプロポーズしたのだ。恵の誕生日に。彼女が白血病を宣告された、わずか一か月後だった。スマホの通知音が鳴り、ラインに新しいメッセージが届いた。送り主は華。十二秒の音声。再生ボタンを押し、耳に当てると、周囲のクラクションの音さえ遠のいていった。聞こえてきたのは、
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第2話
そう吐き捨てると、恵は二人の返事も待たず、まるで何事もなかったかのように、テーブルの上に置かれた婚約ケーキを取り上げ、自分で切って口に運んだ。「ちょうど注文を終えたところでね、これから君に電話しようとしてたんだ、はは......」明は慌てて言い繕い、同時に視線でウェイターに合図し、派手すぎる飾り付けを片づけさせようとした。その態度に華の怒りは爆発した。もともと甲高い声が、怒気を含んで耳をつんざく。「明!何を怖がるの?もうプロポーズまで済ませたのに、隠す必要なんてないでしょう!」言い終わるや否や、華は明の手を堂々と取り、薬指に光るダイヤをこれ見よがしに突き出した。「恵、SNSは見たでしょ?私が送った音声も聞いたはず。そうよ、私と明はもう一緒になったの。結婚式だって一週間後に決まってるのよ!」――一週間後?奇遇なことに、それは恵が海外へ旅立つ日だった。ちょうどいい、二人の晴れ舞台を見なくて済む。胸糞悪い光景に目を汚されることもない。「まあ、おめでとう。子宝にも恵まれますように」淡々と口にしながら、恵はケーキを一口、さらにもう一口と口に運ぶ。もともと体が強くないうえ、白血病の診断を受けてからは、低血糖の発作にたびたび襲われていた。今日も誕生日祝いのディナーを彼と一緒に食べるため、ほとんど食事を摂らずに待っていた。今、ここで腹に入れておかねば、本当に倒れかねない――そしてそんな姿を、この裏切り者たちに笑いものにされ、挙句「当たり屋だ」と通報されるのが関の山だ。恵が取り乱す気配を見せないことに、明は眉を寄せ、何か言いかけては飲み込み、代わりにウェイターを呼んでカトラリーとフルーツサラダを注文し、彼女の前に置いた。「恵、ゆっくり食べな」その声は、かつてと変わらぬ甘さを帯びていた。恵は危うく口の中のケーキを吹き出しそうになり、思わず皮肉を言いかけた。だがその声を、華が上書きする。「明!どういう態度なの?忘れないで、今のあなたの婚約者は私よ!」「それにあんた!何を食べてるの!これは私と明の婚約ケーキよ!よくものうのうと口にできるわね!」言い終えると華は手を振り上げ、テーブルのケーキも、ウェイターが持ってきたばかりのサラダも、まとめて床に叩き落と
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第3話
恵が六歳のとき、両親は全身傷だらけの十歳の少女を家に連れ帰った。その子が華だった。その頃の華は傷口の炎症で高熱を出し、熱が下がった後も自分の名前さえ思い出せなかった。もちろん実の両親のことなど知る由もない。恵の両親は、彼女を医者に診せながら、あらゆる手段を尽くして身寄りを探した。だが手がかりは得られないまま――。やがて学校に通わせるため、両親は養子縁組の手続きを整え、華を正式に家族として迎えた。そして外には「田舎に預けていた長女だ」と言い続けてきた。本当の事情を知っているのは、恵だけだった。両親が仕事帰りの道で、暴行されている彼女を見つけ、通報すると脅して加害者を退かせ、保護したことを。警察に届け出はしたものの、人攫いは結局捕まらず、華はそのまま恵の「姉」の身分を背負い続けることになったこと。――それが一年前、すべてが壊れる。両親が亡くなって二年目、華はどこからか「自分は養子だ」と知り、言い放った。「私は買われてきた。あんな人たちがいたから、人攫いがはびこるのよ。あの人たちも人攫いと同じくらい卑劣よ」その瞬間から、二人の姉妹関係は完全に決裂した。華はあらゆる場面で恵に対立するようになった。「華、胸に手を当てて思い出して。私の両親があなたに冷たかったことが、一度でもあった?二人が亡くなった後に、よくもそんなことが言えるわね。良心は痛まないの?」四人で過ごした、かつての穏やかな家庭の情景。両親が華をどれほど気遣っていたか。その思い出と今の彼女の冷酷な態度が胸を引き裂き、恵の目からは涙が止めどなくこぼれ落ちた。華は視線を逸らして答えない。代わりに明がティッシュを取り、しゃがみ込んで華の脚の血を拭いながら、冷ややかに言った。「恵、君の両親がどんなに彼女を大事にしたところで、それは元をたどれば華を親から引き離された傷を埋め合わせるためだったんだ。もしあの人たちがいなければ、華は人攫いに遭うこともなかった」そう言うと、華を抱き上げ、失望を浮かべた視線を恵に投げる。「両親にあんな目に遭わされても、華はなお君を姉妹だと思っているのに。君はその仕打ちか。本当に見損なったよ」去り際に残されたのは「見損なった」というひと言。恵はただ呆然と、言葉を失ったままベ
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第4話
明の声は、わずかに震えているようにも聞こえたが、それは恵の錯覚だったかもしれない。彼女は冷たい顔で、鬱陶しげに救急箱を押しつける。「泣いてなんかないわ。くだらない連中に呆れただけ。持っていって、さっさと消えて」そう言って明を部屋から押し出し、ドアを乱暴に閉めた。視線も、偽りの心配も、それで遮断する。強烈な頭痛と感情の揺さぶりで、体が鉛のように重くなっていく。壁にすがりつきながらベッドへ戻り、携帯を取り出して真也に電話をかけた。「恵、どうした?また具合が悪いのか?」心配する声に、恵の目尻が熱を帯びる。こみ上げる涙を必死に押し殺し、平静を装った。「違うの、真也。当日、たぶん夜中の三時に到着するから。空港まで迎えに来てくれる?」「もちろんだ!君が一言言えば、今すぐにでも飛行機に乗って迎えに行く」その言葉に、胸の奥が温かく満たされる。恵は微笑みながら首を振った。「それじゃ大げさよ。そこまでさせられない」「恵、病院にはもう骨髄の適合者を探すよう依頼した。すぐ見つかるはずだ。移植を受ければ体はきっと良くなる。君は若くて優秀なんだから、病気さえ治れば未来はいくらでも広がる。明なんか、君には全然釣り合わない!」あまりに真っ直ぐな慰めに、恵は一瞬黙り、やがて小さく笑った。「ふふ......その未来に出会う誰かの中に、真也も入ってる?」受話器の向こうで、一瞬だけ呼吸が止まった気配がする。掠れた声が答えた。「......入ってるさ」恵は確信を得て、柔らかく笑い、話題を変えて昔話を少しだけした。やがて通話を切る。階下から、明と華が「病院へ行こう」と話す声が聞こえた。二人が出かけたのを確認し、恵はサッと麺を茹でて食べ、部屋に戻るとすぐに眠りに落ちた。――次に目を覚ましたのは深夜。鼻先を刺す生臭い血の匂い。頬にまとわりつく湿った感覚。灯りをつけると、枕に大きな血の染みが広がっていた。また鼻血だ。慣れた手つきで洗面所へ行き、顔を洗い、ティッシュを詰める。止血剤を取ろうと下へ降りると――ソファには明と華。二人は抱き合いながらホラー映画を見て、華が甘ったるい悲鳴をあげるたび、明は優しく抱き寄せた。恵は視線を逸らし、二人を空
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第5話
華の耳障りな声が、布団をかぶってもなお恵の頭の中に突き刺さる。「恵!呼んでるのに聞こえないの?私は妊婦なのよ、お腹には赤ちゃんがいるの。さっさと起きて朝ごはんを作りなさい!嫌なら明に言いつけるわよ、そのとき後悔しても遅いから!」理不尽で筋の通らない言葉を矢継ぎ早に浴びせられ、恵は堪らず布団を放り投げ、ドアを乱暴に開け放った。「妊娠したからって、私に何の関係があるの?どうして私がご飯を作らなきゃならないの?それに明に言いつけるって?ここは私もお金を出して買った家よ。恋人を横取りしたうえに、今度は私に尽くせって?華、頭でも打ったの?恥知らずって言葉を辞書で引いてみたら?」「恥知らず?笑わせないで!恥を知らないのはあんたのほうでしょ!ここは私と明の新居なの。私はあんたがしばらく住むのを我慢してやってるんだから食事作りと家賃を払うくらい当然じゃない!私に仕えるのは栄誉なことよ。それにお腹の子はあんたにとっても血縁になるんだから!生まれたらおばさんって呼ばれるのよ?」言葉の刃が胸に突き刺さる。反論もできず、息苦しさに喉が詰まる。――恥知らずな人間は見てきた。だが、ここまで堂々と、理屈をこじつけてまで開き直る相手は初めてだった。怒りの極みに達し、ふと恵は静かに笑った。「......華、私が間違ってた」「え?」思いがけない謝罪に、華は目を瞬かせ、しばらく言葉を失う。続きを待つようにじっと恵を見た。恵は深く息を吸い込み、その瞳から感情の色を消し去った。「私の過ち――それはまだあなたを姉だと思っていたこと。あなたと明に、ほんの少しでも期待を抱いていたこと」「二人が一緒になったと知ったとき、私に無数の考えが巡った。何か事情があるのかもしれない、わざと私に見せているのかもしれない、と」「あなたか明のどちらかが不治の病を抱えていて、私を遠ざけるために憎ませようとしているのかもしれない......そんなふうにさえ考えていたわ」「でも昨日、あなたが両親を侮辱したとき――」両親のことを口にした瞬間、視界の端に明の姿が映る。こちらに歩み寄ってくる。「そして明。あなたが彼女をかばい、私を無視したとき」恵の言葉に、明の足が一瞬止まった。だが次の瞬間
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第6話
病院の病室。恵はベッドに横たわり、不安げに眉をひそめていた。階段から転落したときの怪我はすでに手当てを受け、筋肉や骨には異常はなかった。だが彼女は丸一日以上も眠り続け、ようやく目を覚ましたのだった。夢の中で、恵は十五歳のときを思い出していた。高熱にうなされ、両親は仕事で不在。授業を抜け出してまで家に戻り、甲斐甲斐しく看病してくれた華の姿。濡らしたタオルを何度も取り替え、三十分ごとに体温を計り、丁寧に作ってくれた海鮮粥の香り――「ああ、いい匂い。懐かしい味。もう長いこと口にしていない」ぼんやりとした感覚の中、その香りを確かに嗅いだ気がした。瞼を開けると、枕元のテーブルに本当に海鮮粥が置かれていた。看護師が点滴の針を外しながら言った。「おでこの傷は三日間、水に濡らさないでくださいね。それから食事はしばらく消化のいいものを」恵はうなずき、お粥のことを尋ねる。「食堂でお昼に出たんです。患者さん皆さんに配られてますよ」――やっぱり。華が自分のために作ってくれるはずがない。看護師が出て行くと、恵はお椀を持ち上げ、少しずつ口にした。香りは確かに懐かしかったが、味はあの頃に比べると雲泥の差。数口で箸を置き、携帯電話を手に取る。画面を開けば、十数件の不在着信と数十件のメッセージ。すべて真也からだった。恵はすぐに電話をかけ直した。「恵!やっと出たか!あと二分返事がなかったら、飛行機に乗って帰国するところだったぞ!」「ごめん、携帯の電池が切れてた」簡単に説明してから問いかける。「メッセージにあった適合者が見つかったって......本当?」「本当だ!四百万円追加で寄付したら、病院が本気で探してくれて。もう準備は整ってる。こっちに来て体調を少し整えれば、すぐにでも移植できるぞ!」電話越しにも伝わる真也の高揚。恵は数日ぶりに、心から笑みを浮かべた。「ありがとう、真也。あなたが支えてくれなければ、私はきっと諦めて、このまま死を待っていた」病を告げられたとき、彼女は無力で恐怖に沈んでいた。だが明を心配させまいと、打ち明けられずにいた。仕事を変えて首都へ行きたいと切り出したこともあったが、明は「慣れた土地を離れたくない」「仕事が安
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第7話
「林さん、あの二人を見て、ようやくわかったの。あなたがどうしてそんな選択をしたのか」女医は恵の肩にそっと手を置き、安心させるように微笑んだ。「心配しないで。病気のことは、あの二人には話していないわ」「でも......治療は一刻も早く始めるべきよ。わかるわね?」恵は小さくうなずき、まもなく国外へ行く予定を打ち明けた。医師は安堵の笑みを浮かべ、さらに二本の止血剤を渡し、繰り返し注意を言い含めてから、彼女を抱きしめた。「あなたはまだ若い。必ずよくなるわ」「ええ、私もそう信じています」ミカンを手に病院を出ると、そのまま近くのゴミ箱に放り込み、タクシーに乗って明と華と暮らしていた家へ戻った。家の中は静まり返っていて、二人の姿はない。恵は胸を撫で下ろし、自室へ戻ると、途中のままのスーツケースを引き寄せ、荷物を一つひとつ詰めていった。荷物といっても、自分のものは多くない。服や化粧品の多くは明から贈られたものばかりで、もう手元に置く意味はなかった。それらを次々に選り分け、ゴミ箱に放り込む。入りきらなくなれば一度下へ運んで捨て、また戻って続けた。――かつては明も、自分を大切にしてくれていた。多忙で資金繰りに苦しみながらも、節約してまでブランド品を贈ってくれた。驚きと喜びに包まれ、結婚後の未来を夢見ていた。なのに今、すべては変わり果ててしまった。胸に微かな痛みはあったが、涙はもう出なかった。「コンコンコン!」「すみませーん、宅配便です」階下からのノックに応じて玄関を開けると、配達員が大きな荷物を差し出した。伝票に記された店名を見て、恵は思い出す。――これは、自分が明のために誂えたオーダーメイドのスーツだった。プロポーズを受けたあと、婚約の日に着てもらおうと準備したもの。店には特別に頼み、襟の内側に「AM」と二人の頭文字を刻ませていた。包みを抱えて階段を上がり、スーツを取り出した瞬間、恵の瞳は虚ろになった。脳裏に浮かぶのは――明がこれを着て、華と並ぶ結婚式の光景。仕立てのスーツは返品できず、他人に譲ることもできない。残しておく気にもなれず、彼女ははさみを手に取り、迷わず切り裂いた。邪魔になる前に、視界から消してしまうために。「明、やっぱり優しいわ
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第8話
部屋の調度は、恵が最後に訪れたときのまま、一つも変わっていなかった。スーツケースを置くと、迷いなく寝室に入り、金庫を開ける。中には二冊の不動産権利証。一冊を取り出して開くと、そこに記されていたのは華の名前だった。両親は決して偏ってはいなかった。古い家を恵に残す一方で、華にも新しいマンションを購入し、将来の嫁入り道具にと用意していたのだ。だがその夢は、彼らが交通事故で命を落としたことで潰えてしまった。恵は不動産権利証を撫で、脳裏にあの日の記憶――華が両親を「人攫い」と罵った日の光景がよみがえった。胸が強く締めつけられ、権利証を握る指先が真っ白になり、小刻みに震え始めた。しばらくして、ようやく息を整え、権利証の皺を伸ばし、書類を鞄に収める。そして宅配業者を呼び、華宛に送る手続きをした。――あの人が憎い。両親の同情心であんなものを拾って帰らなければ、と怨みさえした。けれど、両親がこの世を去るとき、最後まで案じていたのは華だった。ならば、この新居を嫁入り道具にと遺した願いくらい、娘である自分が果たさなければ。通常の十倍の料金を支払い、「四日目の朝六時までに必ず届けて」と何度も念を押す。荷物を託した瞬間、これまでにないほどの疲労が押し寄せた。わずか三日間で、まるで三年を生きたかのように、心身ともにすり減っていた。荷物も身支度も顧みず、ベッドに倒れ込み、そのまま眠り続けた。次に目を覚ましたのは翌朝九時。電話の着信音が彼女を叩き起こした。「林、仕事する気あるのか!休暇はとっくに終わってるんだぞ!今何時だと思ってる!あと十分で出社できなければ、もう辞めてもらうからな!」部長の怒鳴り声が一方的に続き、返事をする間もなく通話は切れた。恵は深くため息をつき、諦めたように身を起こす。軽く身支度を整え、外で朝食を買って出勤した。あの日――明がプロポーズしてくれると信じ、二人で出かけるために有給を五日も取った。まさかその後、こんな出来事が連鎖するとは思いもしなかった。海外での治療には時間がかかる。出発前にすべての仕事を引き継ぎ、退職してからでなければ落ち着いて旅立てない。そうでなければ、病床でも仕事のことが頭を離れないだろう。そう考えれば、部長の怒声もある意味で助
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第9話
恵には、華が仕事まで奪おうとする心理が理解できなかった。だが病身の自分が考える価値もないと切り捨て、会社を去った。すると元同僚たちから次々にメッセージが届く。【気を落とすな】【仕事はまた見つかる】――真心もあれば、上辺だけの言葉もあった。どれも似たような慰めに、恵は一瞥しただけで、まとめて【ありがとう】と一文を打ち、送信。――だが、それは取り返しのつかない誤送信となった。通知音が鳴り、画面を開くと、そこに表示されていたのは華からのメッセージ。【私の結婚式にまだブライズメイドが足りないの。あんたが来なさい。ピンクのドレスは自分で用意して】そして、自分が送った【ありがとう】の一文が、その命令口調の直後に表示されていた。その瞬間、恵は頭を抱えた。慌てて二分以内に撤回し、既読も残さぬように処理する。華の続けざまの【当日はお酒の相手もお願いね】という一文は、完全に無視した。ブロックと削除――一連の操作はわずか三十秒で完了した。だが、その直後に華からの電話が鳴り響く。恵は迷わず切り、番号ごと着信拒否に放り込んだ。次は明の連絡先を整理しようとした矢先、今度は彼から画像が届く。開くと――婚礼衣装に身を包んだ明と華が、仲睦まじく寄り添う写真。ウェディングドレスとタキシード、様々なデザインの写真が何枚も。そして最後に添えられた一文。【恵、この中から一着選んでくれ】書きぶりからして、華の差し金であることは明らかだった。恵はすぐにネットで【狼の毛皮をまとったハンター】の画像を探し出し、送り返した。「これにしたら?白と黒でちょうどお似合いだわ」そう書き込むと、即座に送信を削除した。だが数秒後、電話のベルが鳴る。恵はためらい、心の中で――まだ家の半分の代金が振り込まれていないことを思い出す。三度目のコールで通話を受けた。「恵、どうして華をブロックするんだ。俺たちの関係が気まずいのはわかる。でも彼女は君の姉だぞ。しかも妊娠してるんだ」「妊娠?それが私と何の関係があるの」冷ややかに遮り、話題を切り替える。「家の価値は一億二千万。そのうち私の分の六千万、いつ振り込むの?」明は息を吸い込み、声を低くした。「二日後、俺と華の結婚式がある。その
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第10話
出発の前日――それは恵の両親の命日だった。虚弱な体はまた微熱を出していたが、それでも彼女は早朝に起きて出かけた。母は花を愛し、とりわけチューリップを好んでいた。父は暇を見つけては酒を嗜み、つまみに城西第二の門前で売られていた焼き鴨を、よく買ってきた。思い出す。毎年、年末年始や祭日のたびに、家の中にチューリップの花束が飾られ、焼き鴨をめぐっては父や華と奪い合ったこと。そのときに勝ち取った鴨の脚――あれが人生で一番美味しいご馳走だと思っていた。けれど今となっては、丸ごと一羽を独り占めしたところで、食欲は湧かなかった。焼き鴨の香ばしい匂いを鼻先に感じても、胸の奥は空洞のままだ。「......お父さん、お母さん。会いに来たよ」持参した花や供物をひとつひとつ墓前に並べ、ビニール袋を敷いてその場に座る。墓碑に刻まれた写真を見つめれば、まるで両親がすぐ目の前に座っているような気がする。「前に来たのは、白血病を告げられたあの日。華や明に心配かけたくなくて、誰にも言えず、ここでしか吐き出せなかった」「夜中に夢に出てきて、治療を受けろって、あれは二人の仕業だったのかな」自嘲のように笑みを漏らす。両親以外、誰も自分を気にかけない現実が痛かった。風が吹き、頬にかかる髪をそっと耳にかけてくれるように揺らした。恵は長く黙り、震える声で呟く。「......お母さん、あなたなの?」返事はなかった。ただ、墓碑に刻まれた母の写真に、一滴の水滴が伝った。雨粒か、それとも――涙のように見えた。「お父さん、お母さん......私、外国で治療を受けるよ」次の瞬間、空は裂け、大粒の雨が地を叩いた。墓石も、服も、瞬く間にびしょ濡れになった。それでも恵は去ることなく、母の写真にそっと手を伸ばし、頬を撫でた。「心配しないで。必ず元気になって、また戻ってくるから」こめかみを襲う鋭い痛みに顔をしかめながら、墓碑に手をついて立ち上がる。振り返った先、厚い雨幕の向こうに二つの人影が近づいてきた。やがて耳に馴染んだ声が届く。――華と明だ。さきほどまで胸に溢れていた追憶と慕情は、一瞬にして憎悪と嫌悪に塗りつぶされ、恵の表情は氷のように冷えた。「......あなたたち、ここで何をしているの」
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