LOGIN林恵(はやし めぐみ)は三年間付き合ってきた恋人に裏切られた。 彼がひざまずいて、差し出した婚約指輪の相手は、よりによって彼女の実の姉―― その日、恋人はレストランを丸ごと貸し切り、姉のためにサプライズのプロポーズを準備していた。 その光景を恵は偶然目撃してしまった。 普通なら、心を引き裂かれ、涙を堪えてその場を逃げ出すところだろう。 だが――「私を裏切ったのは彼。恥じるべきは、裏切ったあの男のほうよ!」 そう心に決めた恵は、屈辱を呑み込む代わりに真っ向から立ち向かう決意をした。 逃げるのではなく、堂々とその場に踏み込み、裏切りを白日の下にさらすために――
View More海雲市立病院の産婦人科病棟は、騒然としていた。華は中絶手術を受けて病室に移され、意識を取り戻すと、泣き叫ぶのを繰り返した。「恵、恵はどこ?お姉ちゃんが悪かったの、早く戻ってきて......!」「いやぁぁぁ、私の恵は死んじゃった、死んだのよ、私が殺した、全部私のせいだ!」「私の子供もいなくなった、全部なくなった、全部私のせいだ、ああああ!」絶え間ない号泣に、医師も看護師も手を焼き、ついに警察を呼ぶことになった。そして登録情報を辿り、連絡を受けたのは恵だった。そのとき、恵と真也は空港へ向かう車の中にいた。警察からの説明を聞いた恵の目に、一瞬ためらいの色がよぎる。それを見た真也が先に口を開いた。「行こう、恵。飛行機の便は変更できる。今日中に戻れればいいんだから」恵はうなずき、彼に付き添われて病院へ向かった。病室に入ると、華は身の回りの物を次々と床へ投げ落とし、「自分が悪い」と呟き続けていた。恵がおそるおそる近づいても、彼女は妹の存在にまったく気づかず、虚ろな幻想の中に閉じ込められている。看護師が説明してくれた。「先生のお話では、以前から強いショックで記憶に障害があったようです。加えて、転落の際に頭を打ったせいで......この様子だと、一生回復は難しいかもしれません」恵はその姿にため息をつき、瞳の奥にかすかな哀しみを宿したが、それもすぐに消えた。「こちらに精神科はありますか?」「はい、ございます」「では、体が回復したら転科させてください。ここで余生を送れば、衣食に困ることもないでしょう。それで十分です」たしかに一瞬、かつての姉妹の絆を思い出し、胸が揺れた。けれど華が与えた傷は、取り返しのつかないものだった。無条件で許し、人生を犠牲にしてまで彼女の回復にすがることなど、もはやあり得ない。生涯を安らかに送れる場所を与える――それが恵にできる、最大限の譲歩であり、最後の慈しみだった。「行きましょう」恵はもう一度だけ、華をじっと見つめ、それから真也の腕に自分の腕を絡めて病室を後にした。病院を出る直前、二人の看護師が彼らの脇を通り過ぎながら話しているのが耳に入った。「すごい事故だったわ。あの出血と全身の怪我......助からないかも」「そうそう
「恵ちゃん、これは......どういうことだ?」明は信じられないとばかりに、震える指で結婚指輪を指さした。「そんな呼び方をしないで。あなたと私は何の関係もない」恵の瞳には、深い嫌悪がありありと浮かんでいた。「これから夫と食事に行くの。邪魔だから退いて」「......夫?」その言葉で、明の胸にわずかに灯っていた希望は瞬時に吹き消された。先ほど意識の外に追いやっていた数々の細部が、鋭く脳裏に突き刺さる――隣に並んでいた男、役所で婚姻届を出したと言う事実......目の縁が一気に赤く染まる。恵は真也の手を引き、明を避けて通ろうとした。だが、不意に手首を掴まれる。怒りの言葉を発するより先に、隣の真也が険しい声を放った。「放せ」長い付き合いの中で、恵が初めて耳にするほど冷たく、鋭い声音だった。だが明はなおも執拗に手を離さない。次の瞬間、真也が一気に動いた。明の手をつかみ、背中へねじり上げる。「ぐあっ、痛いっ!離せ!今すぐ離せ!さもないと――」悲鳴と脅しが入り交じる声。だが真也の力はむしろ強まるばかりだった。「千葉、恵に二度と近づくな。さもないと、この街で二度と立場を得られなくなるぞ」低く、冷徹な声。そう告げてからようやく手を放し、汚れを払うように手首を振った。その仕草を見て、恵の胸に溜まっていた不快感は消え、代わりに温かな思いが満ちる。彼女はバッグから取り出したウェットティッシュを差し出した。真也は自然に受け取り、そのまま屈み込んで恵の口元に軽く唇を触れさせる。二人のやり取りはあまりにも自然で、息の合ったものだった。その光景に明の顔は真っ赤になり、手首の痛みも忘れて飛びかかろうとする。だが、その身体は真也の鮮やかな背負い投げにより地面へ叩きつけられた。「ぐっ......!」うめき声を上げ、地に伏す明。しばらくの間、起き上がることすらできなかった。恵は冷ややかな目でその姿を見下ろす。そこにあるのは嘲笑でも怒りでもなく、ただ一片の関わりも持たない冷淡さだった。彼女は真也の手を取り、明の呼びかけを一顧だにせず、振り返らずにその場を去った。車に乗り込むと、真也は恵の前に手を差し出し、いかにも困ったような顔を作った。「恵
恵と真也は、結婚式を一か月後に定め、前日に帰国して婚姻届を提出し、翌日には国外で式を挙げることにした。場所を決める前、真也は何度も国内での挙式を提案した。彼がそう言ったのは、恵の友人たちが国内に多いことを考慮してのことだとわかっていた。けれど恵は、明や華と顔を合わせることを思うと、迷わず首を振った。真也の実家の事業はすべて国外にあり、両親もM国に定住している。恵は二人の老いた両親をわざわざ奔走させたくはなかった。結婚の日取りが決まると、あとは式までの準備が待っていた。二人でウェディングフォトを撮り、ドレスとタキシードを選び、真也は心を込めて招待状まで作り上げた。結婚式の前日、二人は帰国し、恵は真也を連れて両親の墓前を訪れた。「お父さん、お母さん、こちらが真也です。私の婚約者で、これからのお婿さんです」恵が笑みを浮かべて紹介すると、二人は固く手を握り合った。真也も墓碑に向かい、厳かに誓う。「お義父さん、お義母さん、どうかご安心ください。俺は必ず恵を大切にし、決して苦しませたりはしません」太陽の光が墓碑の写真に降り注ぎ、その瞬間、恵にはまるで両親が満足そうに微笑んでいる姿が見えた気がした。――二人がウェディングフォトを撮っていたちょうどその頃。国内では、華がかつて恵の部屋だった部屋に座っていた。ピンクのドレスを着た人形を抱きしめ、泣いたり笑ったりを繰り返している。「恵、泣かないで。お姉ちゃんが抱っこしてあげる」「お姉ちゃんはあなたを愛してるのよ」「恵、病気なのね、血が出てる、いっぱい血が......ああ、死んじゃだめ、お姉ちゃんが助けるから!」その狂気じみた声は、開いたままのドアを通して明の耳に届いた。彼は深いため息をつき、錯乱する華を一瞥すると、手にした灰色のスーツの針を進めた。それは恵が彼に買い与え、特別に誂えてくれたものだった。彼はゴミ捨て場から必死に掘り出してきたのだ。店員は言った――そのスーツを注文したとき、恵は「大切な人に贈る」と語り、その顔には一目で深い愛情がわかるほどの表情が浮かんでいたと。その言葉を思い出すと、明の唇には柔らかな笑みが浮かんだ。恵が切り刻んだ痕は、ほとんど縫い直し終えていた。針を収め、襟の内側に刺繍されたイニシャルを指
手術室の前、病床に横たわる恵に、真也が身をかがめて額にそっと口づけ、優しく髪を撫でた。「恵、怖がるな。ずっと外で待っているから」「うん」恵はふっと笑みを浮かべた。心には一片の恐れもなかった。ベッドが手術室に押し入れられる直前、彼女の胸を占めていた唯一の思い――それは「生きて戻る」そして、真也を待たせはしない、という決意だった。その頃、M国の空港。明と華はスーツケースを引き、タクシーで市内最大の病院へ直行していた。病院を一軒ずつ探し回る覚悟だったが、思いがけず最初の病院で足が止まる。二人が息を切らして駆けつけた先は、まさに手術室の前だった。ちょうどその時、医師が悲しげな表情で扉から出てきた。「......先生!」明が駆け寄ると、医師は彼を抱き寄せ、耳元で低く告げた。「......申し訳ありません。全力を尽くしましたが......ご冥福をお祈りします」小さな声だったが、華の耳にもはっきり届いた。頭の中が真っ白になる。「......先生、誰が、お亡くなりに?」明の声はかすれていた。「林恩(はやし めぐみ)。手術は失敗しました。死亡時刻、十一時三十二分」――林恵?林恵!耳にした瞬間、明は足元から崩れ落ち、床に倒れ込んだ。華の慟哭が響き渡り、明の目からも涙が滝のようにあふれる。膝の古傷が再び疼いたが、そんな痛みなど心臓の痛みに比べれば取るに足らない。胸が引き裂かれ、一片一片がもみくちゃにされるような、耐え難い激痛と虚しさ。「ご遺体に最後のお別れをなさいますか?」医師の声が、まるで異世界から届くように遠く感じられた。死者?恵が......?「......結構です。俺の恵は死んでいません。死ぬはずがない」明は涙をこらえ、必死に言葉を絞り出した。医師はその呼び方に眉をひそめたが、やがてすべてを察したように頷き、遺体の火葬手続きを進めるよう指示を出した。しかし次に廊下へ出てきたとき、そこに二人の姿はなかった。残されていたのは、わずかな血痕と濡れた足跡だけ。――病院を出た二人は、目的もなく街をさまよっていた。頬には乾いた涙の跡が残り、一列になって歩く姿は影のように心許ない。明は携帯を開き、写真を探した。だが恵と写った
恵が口にしてきた一つひとつの言葉、この数週間の不可解な言動――鼻血、弱り切った体、そして数々の異変。そのすべてが、明と華の脳裏で鮮烈に甦った。二人は手元の診断書を何度も見直し、裏付けを取ろうと電話をかけ続けた。だが返ってくる答えはどれも老人が渡した資料と寸分違わず、覆す余地はなかった。「......華、ごめん。結婚式は、もうできない」声を震わせながら、明は診断書を握りしめた。彼の心の底から愛しているのは、恵ただ一人だった。酒に酔い、華を恵と錯覚して一夜を過ごした。その責任を取るために華を選んだが、それは結局、己を欺く行為にすぎなかった。恵が涙を流せば胸が引き裂かれるように痛み、血を流せば自分を憎んだ。そして今、白血病を患っていると知った瞬間、その後悔は憤怒に変わり、過去の自分を殺したいほどの激情に飲み込まれていた。――あのときに戻れるなら、恵を粗末に扱った自分を叩き殺したい。華やその腹の子をどうすべきか、そんなことを考える余裕などなかった。ただ恵を見つけ出し、病院に連れて行き、命を繋ぎとめたい――その思いだけだった。驚いたことに、華はすぐに頷いた。「......結婚式はやめましょう。二人で恵を探しに行きましょう」顔を上げた明は、華の頬をすでに涙が伝っているのに気づいた。思えば、華が恵を憎んでいたのは「自分は買われた子」だという誤解からだった。だが今、当時の警察の記録、関係者の証言、人攫いたちの供述がすべてそろっている。さらに両親は学区内の家を彼女に残していた。両親の愛は本物だった。姉妹の情も本物だった。すべての誤解が解けた今、華はあの頃の妹を大切に思う姉に戻っていた。妹が白血病で命の危機にあるこのときに、結婚式などできるはずがない。「......行きましょう。二人で」二人は顔を見合わせ、来賓に「結婚式は中止です」とだけ告げて会場を後にした。その後、恵の友人や同僚に片っ端から連絡を取ったが、誰一人として彼女の行方を知らなかった。両親の残した家、病院、かつての同居先――探せる場所はすべて訪ねた。だが恵の姿はどこにもなかった。最後に、彼女を診察した医師を訪ねた。「もし発症直後に治療を受けていれば、回復の可能性は高かった。だが、ここまで引き
「恵、動かないで!傷が深い、今すぐ病院に行かないと!」恵は痛みに息を呑み、言葉も出なかった。拒もうにも、声にならない。明が抱き上げようとした、その瞬間――「......ああっ、明、お腹が......急に痛い!」華が地面に崩れ落ち、腹を抱えて呻いた。明の瞳に迷いが走る。華と恵を交互に見つめ――結局、彼は華を抱き上げてしまった。「恵、華は妊娠してるんだ。少し我慢してくれ。彼女を病院に連れていったら、すぐに戻ってくるから!」そう言い残し、振り返ることなく歩き去る背中。恵の視界から二人の姿が遠ざかっていく。――結局、私は置いていかれる。立ち上がろうとするが、全身の痛みがそれを許さない。冷たい雨に打たれながら、意識は次第に遠のき、闇に落ちた。――これで終わりだと思った。だが、次に目を開けたとき、目の前にあったのは真也の顔だった。唇に触れるひんやりとした感触。驚いて瞳を大きく開けば、真也の顔が真っ赤に染まっている。彼は慌てて咳払いをし、平然を装った。「......気がついたか?体はどう?」恵は小さく笑い、さっきの口づけには触れなかった。「大丈夫。でも、どうして......帰国してたの?」「君を迎えに戻ったんだ。驚かせようと思ったら......危うく心臓が止まるとこだった」真也の瞳には、安堵と恐怖が入り混じっている。「一体どうして墓前で倒れてたんだ?」恵は昏倒する直前の出来事を簡潔に語った。怒りがこみ上げて声が震えたが、その間、真也の表情は暗く沈み、黙って携帯を操作していた。点滴が終わり、看護師に針を抜かれた後、真也は恵を支えて立たせた。「飛行機まで四時間ある。まずは食事をして、そのあと空港へ行こう」差し出されたお椀から、香り高いお粥の匂いが立ちのぼる。「いい匂い」ひと口すすると、思わず頬がゆるむ。記憶にあるどの味よりも優しく、香り深かった。「どこで買ったの?戻ってきたらまた食べたいな」「俺が作ったんだ。バカだな」真也は微笑み、恵の鼻を指で軽くつつく。「食べたいときはいつでも言ってくれ。いくらでも作る」「うん!」恵は素直にうなずいた。胸の奥から不思議な力が湧き、未来への希望が広がっていく
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