Share

第421話

Author: 三佐咲美
慎一の動きが一瞬止まったが、私に構うことなく、再び唇を重ねてきた。

彼の体から漂うホルモンの匂いと、微かに混じる彼自身の香り――どこか不思議な気配に包まれる。

いつも感じていたお茶の香りは消え、代わりに血と消毒液の匂いが、淡く漂っていた。

ただの一瞬だった。私の心も理性も、彼のほとんど狂おしいほどの求めに、すぐさま沈み込んでしまった。

このキスは決して優しいものではない。むしろ、まるで千年もの間、待ち続けた救いのような、激しさと切なさに満ちていた。

駆け引きも探り合いも、すべて消え失せ、私がもう拒む気配を見せないと悟ると、彼の動きも次第に穏やかになり、唇が何度もそっと私の唇に触れる。それはまるで、勝者が証を刻むかのような仕草だった。

やがて、彼は私に身を預け、顔を私の首筋に埋めてきた。私はまるで抱き枕のように、彼の腕の中に強く抱きしめられる。

押し返そうとした私の手は、空中で止まった。

首筋を、何か温かいものが流れていくのを感じたのだ。

慎一の涙だった……

涙は首を伝い、襟元に染み込んでくる。その熱さが、胸の奥まで痛くさせた。慎一は泣いていた。

かつて、彼が涙を見せることは、稀にあった。

人は誰だって、心が動く瞬間があるものだ。慎一も例外じゃない。けれど彼は、そんな心のやわらかさを、誰にも知られたくない人だった。いつも、隠してきたのだ。

だけど今、彼は隠すことなく、泣いている。

嗚咽混じりに、彼が言う。「俺の未来は、真っ暗だ。もう何も見えない……」

何を言っているのだろう。慎一はこの白核市でもっとも若くして成功した社長だ。離婚したところで、価値の高い独身男性になるだけだ。未来が暗いなんて、そんなはずがない。

私は手を力なく下ろし、体を少し持ち上げて、黙ってそのままにしていた。

そのとき、慎一のスマホがまた鳴った。彼はようやく気まずいと思うかのように、目も合わせず、背を向けてスマホを取り出した。

けれど、私は見てしまった。画面に表示された名前――雲香。

彼は電話を切り、ラインで雲香の名前を検索し、メッセージを送る。【雲香、今ちょっと手が離せない】

雲香からの返信は早かった。【お兄ちゃん、早く帰ってきて!もうこんな時間なのに、なんで外にいるの?】

【大丈夫だ】

その一言だけ返し、慎一はスマホをポケットにしまった。

その頃、郊
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 婚約崩壊寸前!初恋は遠ざかれ   第421話

    慎一の動きが一瞬止まったが、私に構うことなく、再び唇を重ねてきた。彼の体から漂うホルモンの匂いと、微かに混じる彼自身の香り――どこか不思議な気配に包まれる。いつも感じていたお茶の香りは消え、代わりに血と消毒液の匂いが、淡く漂っていた。ただの一瞬だった。私の心も理性も、彼のほとんど狂おしいほどの求めに、すぐさま沈み込んでしまった。このキスは決して優しいものではない。むしろ、まるで千年もの間、待ち続けた救いのような、激しさと切なさに満ちていた。駆け引きも探り合いも、すべて消え失せ、私がもう拒む気配を見せないと悟ると、彼の動きも次第に穏やかになり、唇が何度もそっと私の唇に触れる。それはまるで、勝者が証を刻むかのような仕草だった。やがて、彼は私に身を預け、顔を私の首筋に埋めてきた。私はまるで抱き枕のように、彼の腕の中に強く抱きしめられる。押し返そうとした私の手は、空中で止まった。首筋を、何か温かいものが流れていくのを感じたのだ。慎一の涙だった……涙は首を伝い、襟元に染み込んでくる。その熱さが、胸の奥まで痛くさせた。慎一は泣いていた。かつて、彼が涙を見せることは、稀にあった。人は誰だって、心が動く瞬間があるものだ。慎一も例外じゃない。けれど彼は、そんな心のやわらかさを、誰にも知られたくない人だった。いつも、隠してきたのだ。だけど今、彼は隠すことなく、泣いている。嗚咽混じりに、彼が言う。「俺の未来は、真っ暗だ。もう何も見えない……」何を言っているのだろう。慎一はこの白核市でもっとも若くして成功した社長だ。離婚したところで、価値の高い独身男性になるだけだ。未来が暗いなんて、そんなはずがない。私は手を力なく下ろし、体を少し持ち上げて、黙ってそのままにしていた。そのとき、慎一のスマホがまた鳴った。彼はようやく気まずいと思うかのように、目も合わせず、背を向けてスマホを取り出した。けれど、私は見てしまった。画面に表示された名前――雲香。彼は電話を切り、ラインで雲香の名前を検索し、メッセージを送る。【雲香、今ちょっと手が離せない】雲香からの返信は早かった。【お兄ちゃん、早く帰ってきて!もうこんな時間なのに、なんで外にいるの?】【大丈夫だ】その一言だけ返し、慎一はスマホをポケットにしまった。その頃、郊

  • 婚約崩壊寸前!初恋は遠ざかれ   第420話

    慎一は静かに目を上げ、私の視線を追うように窓の外を見やった。この場所は、私たちにとって見覚えのある場所だった。ここに来るのは、これで三度目だった。彼の肩が小さく震え、まるでトラウマに襲われたように、逃げるようにハンドルに手をかけ、エンジンをかけようとする。私は慌てて彼の手を押さえた。また無謀な運転をされるのが怖かった。お腹の中の子と一緒に、このまま終わってしまうのは嫌だったから。私は彼を見上げ、もう片方の手でお腹を守るように押さえ、首を横に振った。その仕草に、慎一の荒ぶる気持ちが、少しずつ静まっていく。ぎこちなく引きつった顔で、彼は私の目を手で隠してきた。「佳奈……俺、俺のこんな姿、怖いって思うか?」なぜそんなことを聞くのか分からない。でも彼は、必死に言い訳を続ける。「ごめん。でも、お前が俺のもとからいなくなるって思うと、どうしても抑えきれない。でも、抑えてるんだよ……ちゃんと……」不意を突かれ、視界は彼の手で真っ暗になった。思い出されるのは、さっきの、笑おうとしても引きつってしまった、あの顔。「大丈夫」私はもう彼を刺激したくなくて、じっとそのままにしていた。暗闇の中、むしろ自分の心がよく見える気がした。「なんで大丈夫なんだよ?なんで俺のこと、どうでもいいのか?」彼は低く、不満げに唸る。「こんなふうになったのは、運命だからって思ってるんじゃないだろうな?」「わ、私……」何を言えばいいのかわからなくなってしまった。まさか、「あなたが怒ってるのは私のせい」なんて、口が裂けても言えない……彼の声は冷たく、きっぱりと否定する。「運命なんて、俺は一度も信じたことない。もし運命ってものがあるなら、きっと俺を苦しめるためのものだ」長く沈黙が流れた。密やかな車内に、私たちの呼吸だけが響く。やがて、慎一がぽつりと呟いた。「お前が決めたことだろ。運命のせいにするなよ」その腕が震えている。なのに、どこか拗ねた子どもみたいな声音だった。まさか、彼が拗ねるなんて?私は思わず苦笑する。「慎一、私たちもう五年も一緒にいる。でもあなたがくれたのは、ほんのわずかな金だけ。ほかには?」「お前が欲しいもの、全部あげる!」彼は食い気味に答える。でも、その言葉には何の重みも感じなかった。「あなたの体も心も、私のものじ

  • 婚約崩壊寸前!初恋は遠ざかれ   第419話

    慎一は、私に突然押しのけられて、全く予想していなかった様子だった。私の反応があまりにも激しかったのか、彼は慌てて起き上がった拍子に、頭をバックミラーにぶつけてしまった。ミラーは大きく歪んで、今にも外れそうだった。ガンという音が車内に響き渡り、私の取り乱した声さえもかき消してしまう。その後、車内には静寂が訪れた。慎一は痛みを感じていないのか、まったく声を漏らさない。それどころか、あの瞬間、彼の顔にはどこか解放されたような表情すら浮かんだ気がして、私は訳もなく不安になった。彼はゆっくりと目を閉じ、黙ったまま自分の感情を飲み込んでいる。どれほど時間が経っただろうか。彼のまつげが震えて、一筋の涙が閉じた瞳の端から流れ落ちた。小さな声で、彼は問いかけてきた。「なあ、佳奈。どうしてこんなことになったんだ?俺たち、一体どうしてしまったんだよ……」彼の手は私の手を強く握りしめていた。よく見れば、その手は小さく震えている。彼の言葉を聞いた瞬間、私は心の底から苛立ちを覚えた。よくもそんなこと、いけしゃあしゃあと聞けるわね。でも、その涙を見たとき、怒りのほとんどが消えてしまい、ただただ無力感に押し潰されそうだった。私は深く息を吸い、できるだけ冷静に見えるように努めて言った。「私も知りたいよ。あなた、本気で私があなたを傷つけたって思ってるの?二人がこんな風になったのは、全部私のせいだと思ってるの?」離婚調停の案件を数多く担当してきた。別れ際の夫婦は必ずと言っていいほど、どちらが悪いか言い争う。でも、結局その意味なんてほとんどない。正しいとか間違っているとかで、財産分与が変わるわけでもない。でも、それでも、どちらが悪いかという言葉は、ときに財産よりも重い。どれだけ他人のケースを見てきても、私自身はやっぱり平凡な女だった。「確かに、私から離婚したいって言った。でも、私たち、こんなに長く一緒にいて、いろんなことを乗り越えてきたんだよ?私はただ、穏やかに別れたかっただけ。あなたみたいに意地悪く、突然いなくなるなんて思ってなかった。私が妊娠していると分かったとき、どれだけ怖くて不安だったか、あなたには分かる?」「分かってる……分かってるよ……」「分かってる?何も分かってないくせに!」私は声を荒げて叫んだ。喉が裂けるほどだった。口

  • 婚約崩壊寸前!初恋は遠ざかれ   第418話

    離婚しなくても、私たちはもうやっていけない。そんな思いが、胸の奥で何度もこだましていた。慎一の愛は、まるでガラス温室の中のバラみたいだった。見た目は艶やかで、命に溢れていて、誰もが憧れるものだった。でも、私はその温室の鍵を持っていない。彼の愛はいつも言葉だけ。私はバラの香りさえ知らない。だけど、バラには棘があることくらい、誰よりも知っている。触れたら最後、全身傷だらけになるって。たとえ私が、心のすべてを削って慎一の形に変えたとしても、結局ふたりは溶け合えない。それが痛いほど、分かってしまう。私が歩み寄ろうとすると、彼は突然、私の世界から消え去ってしまう。感情の波に一人きりで耐えて、誰にも言えず、やっとのことで立ち直った頃に、今さら離婚をやめるなんて、どういうつもり?私は乾いた笑いを浮かべた。「だいたいさ、元カノが良かったって思う男って、今の女がイマイチだからでしょ?」慎一が頭のいい人間だってことは分かってる。私だって、雲香と朔也に何かあったのは気付いてた。慎一が気付かないはずがない。それとも、全部分かってて知らないフリをしてる?曖昧な関係のままで雲香と一緒にいるのが、そんなに幸せ?ああ、本当に、彼は彼女のことが好きなんだな。「佳奈、俺には他に誰もいない。頼むから、赤ちゃんの前でそんなこと言わないでくれよ。もしこの子がお腹の中の記憶を持って生まれたら、きっとパパのこと嫌いになるぞ?」慎一は小さく反論しながら、私のお腹をじっと見つめていた。私は思わずお腹を手で隠した。「今はまだ胎芽だよ?記憶なんてあるはずないし、そもそもこの子は私の子。あなたには関係ない」慎一はそっと体を寄せてきて、私の拒絶の言葉なんて聞こえないふりをして、自分の世界で喋り続ける。「俺たちの子は絶対俺に似てるはずだ。きっと頭が良くて、物心つく前から記憶もあるはず。俺も胎児の時のこと覚えてるから、うちの子だってそうだよ」「よく言うわね、そんなホラ話」私は冷たく突き放した。もし私が理想の結婚をしていたら、妊娠中、夫はどんなふうに私と話してくれたんだろう。たぶん、私は彼の腕の中で甘えてただろう。「疲れたよ」「気持ち悪い」「お腹の子がね、あれ食べたいって言ってるの」そんなふうに、わがままを言って、最愛の人に守られて……妊娠中は、思う

  • 婚約崩壊寸前!初恋は遠ざかれ   第417話

    慎一は私の手を強引に引き、何も言わせずに車に押し込んだ!シートベルトも締めずに、エンジンを唸らせながら一気に300キロまで加速する。夜中とはいえ、こんな速度は街中じゃ命知らずもいいところだ。私の顔は真っ青になり、吐き気とめまいで意識が遠のきそうになる。震える手で座席の横を探りながら、どうにかシートベルトを引き寄せる。「あんた、頭おかしいんじゃないの?」彼は真っ赤な目で前を睨みつけていて、一瞬たりとも私を見ようともしない。返事すらしないまま、車はさらに320キロまで加速した。「慎一!死にたいなら一人で死んでよ!止めて!降りるから!」私がそう叫ぶと、慎一の瞳孔がぎゅっと縮まった。私の言葉のどこかに、彼を刺激する何かがあったのかもしれない。やっと反応を見せた彼は、低い声で言った。「いっそ一緒に死ねたらよかったのにな!」車は350キロまで跳ね上がる。もうこれ以上刺激したら本当にやばい。彼がこのまま更にスピードを上げるんじゃないかと、私は必死で冷静を装った。「じゃあ……止まらなくていいから、せめてもう少しゆっくり走って。どこに連れていくの?ついでに話でもしようよ、久しぶりなんだし」だけど、私は慎一の狂気を甘く見ていた。何を言っても彼の耳には届いていないみたいで、私は本気で、自分の声が届いていないのかと疑った。「佳奈、康平の結婚式で一緒に死ねば、ずっと一緒にいられるし、康平にも一生忘れられない式をプレゼントできるだろう?」車は400キロまで跳ね上がった!これ以上はもう、この車も限界だ。道に小石一つでもあれば、私も彼も即死だろう。慎一は本当に正気じゃない!自分だけじゃなく、私まで巻き込むつもりだ!康平と幸福の結婚も、もう終わったはずなのに、彼はどこまで壊れていくのだろう。一瞬、心のどこかで、「ここで死ぬのも、もう楽になれるかも」とさえ思った。疲れた。私は真っ赤な目で彼を睨みつけ、叫んだ。「じゃあ一緒に死ねばいいでしょ!」涙が堰を切ったように溢れ出し、私はお腹を両手で抱えながら、声を張り上げた。「あなたの子どもと一緒に、みんなで死ねばいい!」「なんだって?」慎一がこちらを振り向いた。さっきまで蒼白だった顔が一気に紅潮し、全身が真っ赤になった。信じられないという目で私を見て、「佳奈、今なんて言った?も

  • 婚約崩壊寸前!初恋は遠ざかれ   第416話

    彼の問いかけは、まるで王様のように一方的で、だけどどこか壊れそうに脆かった。お前のために歌ったって、彼は強く言った。「俺と一生添い遂げたいなんて考えたこともないって言いながら、新しい相手を前に、俺たちの過去を懐かしんでるんだろ?」慎一は低く笑ったけれど、その瞳には言い知れぬ痛みがあふれ出していて、整った顔立ちを濡らしていた。「佳奈、お前さ、本当は心と口が違うんじゃないか?」胸の奥がきゅっと痛んで、不満が波のように心の中を満たしていく。どうしようもなく、彼の少し年を重ねた顔をじっと見つめると、なんとも言えない寂しさがこみ上げてくる。私たちはもう若くない。今こうして見つめ合っていても、今日が終われば、互いにただの思い出の人になるだけ。気持ちを落ち着けて、思ったよりもずっと冷静な声が口からこぼれた。それは慎一に向けた言葉じゃなかった。「電話して。警備員と支配人をここに呼んで。今日は私たちが貸切にしてるのに、勝手に人を上げたのはどういうことか、ちゃんと説明してもらうから」男たちは私が本気で追及しようとしているのを感じて、顔色を失った。今日のシャンパンのバックも全部パーだし、罰金まで取られるかもしれないからだ。憎しみがこみ上げ、数人がかりで慎一を押さえつけようとするが、彼も必死で抵抗して、しばらくは互角の押し合いだった。けれど、結局人数には敵わない。人生で初めて、慎一が他人に無様に床に押さえつけられる姿を見た。涙と埃が混じって顔を汚し、まるで折れた翼の天使が悪魔へと堕ちる瞬間のようだった。それは華やかでありながら、避けられないいじめだった。もう彼は抗えない。飲み込まれていく。男たちは得意げに言う。「お姉さん、怒らないで。こんなの大したことじゃないっす。支配人なんか呼ばなくていい。全部俺らがなんとかしますから」慎一は床にうずくまりながら、なおもマイクを手離さず、どれだけ押さえつけられても、彼のプライドは沈まなかった。「佳奈!お前、やっぱり心と口が違うんだろ!」「この野郎!お姉さんが支配人呼ぶのを止めてくれって言ってないのに、まだ口答えするのか?お前の口、二度と開かせねぇぞ!」一人が言いながら、慎一の顔めがけて足を振り上げた。狙いはその口元。ダメ!慎一が殴られるなんて、しかも顔を!私は思わず立ち上がる。その瞬間、

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status