ANMELDEN翌日の夜、綾香のスマートフォンに美月からメッセージが届いた。『昨日はありがとう。久しぶりにゆっくり話せて嬉しかった』『私もよ』『おじさまもお元気そうで安心したわ』 そこまでは、ごく普通のやり取りだった。『そういえば、おじさまに九条先生のことを話しちゃってごめんね』『もういいわ』『私、つい嬉しくなっちゃって。綾香が誰かとあんなに仲良くしてるの、なんだか新鮮だから』 綾香は画面を見つめた。 また遥臣の話だ。『遥臣のことは、そんなに気にしなくていいのよ』 少しして、返事が届いた。『そうだよね。ごめんなさい』 そして、もう一通。『でも、おじさまも九条先生のこと気に入ってるみたいでよかったね』 綾香は眉を寄せた。『お父様は、そんなこと言っていなかったでしょう?』『そうだった?』『ええ』『ごめんね。反対してないみたいだったから、そうなのかなって』 綾香は返信せず、スマートフォンを置いた。 美月はいつもそうだ。 ほんの少しだけ、話を先へ進める。 父が「好きにすればいい」と言えば、「遥臣を気に入っている」。 綾香が遥臣と親しいと知れば、「大切な人」。 そして、それをまるで自分も最初から知っていることのように話す。 小さなことだった。 けれど、その小さなことが妙に引っかかった。◇◆◇ 数日後。 綾香は遥臣と夕食を取っていた。「お父様がね、最近また仕事を増やしたみたいなの」「体調は?」「問題ないって言ってるわ。無理はしない約束もしてくれた」「ならいい」「遥臣にも心配をかけたものね」「別に」 遥臣はそう言って水を飲んだ。 綾香は少し笑う。「そういえば、美月がね」
数日後、美月が御影家を訪れた。 父に送った菓子のお礼を伝えたところ、「久しぶりに綾香ともお茶したい」と言われたのだ。「この前のお菓子、ありがとう。お父様も喜んでいたわ」「よかった。おじさま、お忙しそうだったから」 美月は穏やかに微笑んだ。「北海道から戻られたばかりなのに、もうお仕事に戻っているんでしょう?」「少しずつね。前みたいに無理はしていないわ」「安心した」 美月は紅茶のカップを両手で包む。「綾香も、ずっと心配していたものね」「ええ」「九条先生も安心したでしょうね」 綾香は美月を見た。 美月も気づいたらしい。「あ……ごめんなさい」「別に名前を出してはいけないとは言っていないわ」「でも、もうあまり聞かないって約束したから」「今のは聞いていないでしょう?」「そうだけど」 美月は少し困ったように笑った。「なんだか意識しすぎて、かえって変になっちゃうね」 綾香は紅茶を口に運んだ。 その時、父がリビングへ入ってきた。「美月さん、来ていたのか」「おじさま。先日は突然お菓子を送ってしまって、すみません」「いや、ありがとう。皆でいただいたよ」「お口に合ったならよかったです」「いつも気を遣わせて悪いね」「そんなことありません。昔からお世話になっていますから」 美月は柔らかく微笑んだ。 父も笑って、自分の部屋へ戻ろうとする。 その背中へ、美月が声をかけた。「おじさま」「ん?」「綾香、最近とても楽しそうですね」 父が綾香を見た。「ああ。そうだな」「九条先生と仲がいいみたいで。私も安心してるんです」「美月」 綾香が呼ぶと、美月が振り返った。「なに?」「その話、お父様にしなくてもいいでしょう?」「あ……ごめんなさい」 美月はすぐに頭を下げた。「おじさまもご存じだと思っていたから」「知っているけれど」「そうよね。余計なこと言っちゃった」 父は二人を見比べたあと、苦笑した。「まあ、綾香も大人なんだから、好きにすればいい」「お父様」「邪魔はしないよ」 そう言って父は出ていった。 美月が小さく笑った。「優しいお父様ね」「ええ」「九条先生なら、おじさまも安心でしょうね」「美月」「あ、ごめんなさい。また言っちゃった」 美月は口元へ指を添えた。「本当にごめんね。綾香が幸せそうだから
ガーデンショップを出たあと、綾香と遥臣は近くのカフェに入った。 窓際の席に座り、綾香は買ったばかりの小さな鉢植えをテーブルの端へ置く。「今日はこれだけにしたのか」「増やしすぎても、お世話できなくなるでしょう?」「意外と冷静だな」「どういう意味?」「もっと買うと思ってた」「失礼ね」 綾香が笑うと、遥臣もわずかに笑った。 さっき美月と会った時には少し乱された気持ちも、いつの間にか落ち着いていた。「そういえば」 綾香は紅茶のカップを置いた。「さっきのことだけど、美月に何か言われても気にしないでね」「何を?」「私が嫌がったとか、怒ったとか」「ああ」 遥臣はあまり興味がなさそうだった。「君から聞いてるから分かってる」「ならいいの」「それより」「なに?」「嫌なら嫌だって言っていいんじゃないか」 綾香は少し目を瞬いた。「言ったわよ。少し嫌だったって」「なら十分だ」 簡単な答えだった。 綾香は思わず笑う。「遥臣って、そういうところは単純ね」「複雑にする必要あるか?」「ないのかもしれないわね」 少なくとも、遥臣との間では。◇◆◇ 夜になって、美月からメッセージが届いた。『今日はびっくりしたわ。偶然会うなんて』『そうね』『せっかく二人でいたのに、ごめんなさい』『別にいいわ』 少しして、また届く。『でも、九条先生に余計なことまで言っちゃったね』『そうね。あれは言わなくてもよかったと思うわ』 今度は返事が来るまで少し時間があった。『ごめんなさい』『私、綾香に嫌な思いをさせたことをちゃんと謝っておきたかっただけなの』
日曜日。 綾香は遥臣と待ち合わせをして、少し郊外にある大きなガーデンショップを訪れていた。 広い温室には色とりどりの花が並び、その先には季節の草花を集めた庭園もある。「こんなところがあったのね」「気に入ったか?」「ええ。ずっと見ていられそう」「前にも似たようなこと言ってたな」「だって、好きなんだもの」 綾香が笑うと、遥臣もわずかに口元を緩めた。 二人で苗や鉢植えを眺めながら歩く。 白い花の前で足を止めた綾香に、遥臣が言った。「この前買ったやつは?」「元気よ。ちゃんと窓辺に置いてるわ」「そうか」「遥臣が選んでくれたものだもの。大事にしてる」 そう答えると、遥臣が少しだけ視線を逸らした。 その反応がおかしくて、綾香は笑った。 今日はゆっくり過ごせそうだった。 そう思っていた時だった。「あら、綾香?」 聞き覚えのある声に振り返る。 少し離れたところに、美月が立っていた。「美月」「偶然ね」 美月は淡い色のワンピースを着て、小さな紙袋を手にしていた。「私、ここの近くに用事があったの。それで少し寄ってみたくなって」 それから遥臣を見て、柔らかく微笑む。「九条先生もご一緒だったんですね。こんにちは」「ああ」 遥臣は短く答えた。「この前は失礼しました」 美月が丁寧に頭を下げる。「お仕事中だったのに、声をかけてしまって」「別にいい」「でも、綾香にも怒られてしまったんです」「美月」 綾香が名前を呼ぶ。 美月は少し驚いたようにこちらを見た。「怒ってはいないわ」「あ、ごめんなさい。そうよね」 美月は困ったように笑った。「私が九条先生のことをいろいろ聞きすぎたから、綾香が少し嫌だったみたいで」 遥臣の視線が綾香へ向いた。 綾香は小さく息を吐いた。 それは美月との間で済んだ話だ。 遥臣本人に説明する必要などない。「だから、もう聞かないって約束したんです」「そう」 綾香はそれだけ答えた。「親友でも、何でも聞いていいわけじゃないものね。私、ちょっと距離が近すぎたのかもしれない」 美月はそう言って、申し訳なさそうに笑った。 言っていることは間違っていない。 謝っているだけだ。 それでも綾香は、胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚を覚えた。「九条先生」 美月が遥臣を見る。「綾香のこと、よ
翌日の夕方。 遥臣の車が御影家の前に停まると、綾香は足早に玄関を出た。「お待たせ」「いや。今来たところだ」 助手席に乗り込むと、遥臣が綾香を見る。「何か食べたいものあるか?」「今日は遥臣に任せるわ」「一番困る答えだな」「たまにはいいでしょう?」 遥臣は少し考え、車を走らせた。 連れていかれたのは、少し離れた場所にある小さな洋食店だった。「ここ、よく来るの?」「仕事が早く終わった時にたまにな」「じゃあ、遥臣のお気に入りね」「そこまで大げさなものじゃない」 そう言いながら扉を開けてくれる。 そんな何気ない仕草まで嬉しくて、綾香は笑った。◇◆◇ 食事の途中、バッグの中でスマートフォンが震えた。 画面を見ると、美月からだった。『今何してる?』 綾香はそのまま伏せた。「出なくていいのか?」「美月よ。急ぎじゃないと思うわ」「そうか」「せっかく遥臣といるんだもの」 綾香が笑うと、遥臣はわずかに目を細めた。「最近、よく連絡が来るんだな」「前から多かったけれど、最近は特にね」「この前の病院の件もある。嫌なら無理に相手するなよ」「ええ。そうするわ」 以前なら、美月から連絡が来ればすぐに返していた。 親友を待たせるのは悪いと思っていた。 今考えれば、それも美月を自分の生活の奥深くまで入り込ませた理由の一つだったのかもしれない。「それより、次はどこへ連れていってくれるの?」「もう次の話か」「だって、会える予定がある方が嬉しいもの」 遥臣は少し考えた。「来週の日曜なら空けられる」「本当?」「ああ」「じゃあ、今度こそゆっくりお花を見たいわ。こ
それから数日、美月から遥臣について尋ねられることはなかった。 届くメッセージも、最近買った洋服や食事の話ばかりだった。『昨日、理央とディナー行ってきたよ』 料理の写真と一緒に送られてきたメッセージを見て、綾香は小さく息を吐いた。『素敵なお店ね』『でしょ? 理央が予約してくれたの』 以前と同じだ。 理央との親密さを見せつけるような言葉にも、綾香は淡々と返した。 すると美月から、『今度、綾香とも行きたいな』 と返ってきた。『機会があればね』 それで会話は終わった。 遥臣の名前は、一度も出なかった。◇◆◇ 週末、綾香は一人で買い物に出かけていた。 化粧品を見たあと、上の階へ移動しようとエスカレーターへ向かう。「綾香!」 振り返ると、美月がいた。「あら、美月」「また会ったね」 美月は嬉しそうに駆け寄ってくる。「今日は一人?」「ええ」「私も。よかったらお茶しない?」「少しだけなら」 二人は同じ百貨店のカフェへ入った。 美月は最近行ったレストランの話や、欲しいバッグの話を楽しそうに続けていた。「そういえば、この前はごめんね」 不意に美月が言った。「何が?」「九条先生のこと。私、ちょっと聞きすぎちゃったでしょう?」「そうね」「綾香が嫌がってるって気づいてなかったの」 美月は申し訳なさそうに笑った。「だから、もう聞かないって決めたの」「ありがとう」「親友でも、何でも話さなきゃいけないわけじゃないもんね」 綾香は美月を見た。 その言葉だけを聞けば、何もおかしくなかった。「分かってくれたならいいの」「うん」 美月は笑顔で頷き、紅茶を飲んだ。 しばらくして、スマートフォンを取り出す。「あ、そうだ。見て」 差し出された画面には、一枚の写真が表示されていた。 先日、美月が理央と行ったというレストランだった。「ここ、本当に綺麗だったの。夜景もすごくて」「そうなのね」「理央がね、次はもっと景色のいいところに連れていってくれるって」「楽しみね」「うん!」 美月は嬉しそうに笑った。 そして何気ない調子で続けた。「綾香もこういうところ好きでしょう? 今度デートで行ってみたら?」「そうね」「九条先生も――」 そこで、美月が口を閉じた。「あ、ごめん」 照れたように笑う。「もう聞かない