LOGIN言葉にした途端、急に怖くなった。
僕は死んだはずだった。 それなのに、知らない世界の、知らない人間の身体で目を覚ましている。 この身体が誰のものなのかも、どうしてこんな目に遭ったのかも分からない。 そして、目の前には夏樹と同じ顔をした男がいる。 何もかもがおかしい。 「……僕、どうしたらいいんだろう」 情けない声が漏れた。 クロードは何も言わなかった。 ただ、薬を塗り終えると、僕の背中へ柔らかな布を掛けてくれる。 その手つきがあまりにも丁寧で、余計に涙が出そうになった。 「今は、何もお考えにならなくて結構です」 「……でも」 「お身体を治すことだけをお考えください。ほかのことは、すべて私がいたします」 そんなことを言われたのは、初めてだった。 僕は枕に顔を埋め、しばらく動けなかった。 ◇◆◇ 処置を終えたクロードは、僕の身体を起こすと、背中に負担がかからないようクッションをいくつも重ねてくれた。 さらに水を飲ませ、額の汗を拭い、乱れた髪まで整えようとする。 「いや、髪くらい自分で」 「腕の傷が開いてしまいます」 「でも、そこまでしてもらうのは」 「私の仕事でございます」 そう言われると、何も言い返せない。 執事というのは、こんなことまでする職業なのだろうか。 僕の知っている執事なんて、映画や漫画に出てくる人くらいだ。現実にお世話になったことなど、当然一度もない。 クロードは慣れた手つきで僕の髪を梳かしながら、時折、鏡越しに顔色を確かめてくる。 「少し、お顔の色が戻りましたね」 「そう?」 「はい。ですが、まだお休みになった方がよろしいかと」 「……ずっと寝てた気がするんだけど」 「昨日から意識が戻らなかったのです。まだ十分ではございません」 昨日から。 その言葉に、僕は思わず鏡の中のクロードを見た。 「そんなに?」 「はい」 「……心配、した?」 何気なく聞いたつもりだった。 けれど、クロードの手が止まる。 鏡の中で、彼はゆっくりと目を伏せた。 「……ええ」 その声は、ひどく静かだった。 「もう二度と、目を覚ましていただけないのではないかと」 胸の奥が、どくんと鳴った。 「……大げさだな」 照れ隠しに笑ってみせる。 するとクロードは、僕の髪を梳かしていた櫛を静かに置いた。 「大げさではございません」 鏡越しに、視線が重なる。 「リヒト様がいらっしゃらなくなれば、私には何も残りませんので」 その言葉の意味を、僕はすぐには理解できなかった。 ただ、あまりにも真剣な顔をしているものだから、冗談だと笑い飛ばすこともできない。 「……そんなこと、ないだろ」 「そうでしょうか」 「クロードにだって、自分の人生があるんだし」 彼は答えなかった。 ただ、僕の肩へ掛けていた布を整え、いつもの穏やかな微笑みを浮かべる。 「お食事をお持ちいたしますね」 話を逸らされた。 そう思ったけれど、僕もそれ以上は聞けなかった。 夏樹と同じ顔をした男が、僕がいなくなったら何も残らないと言う。 そんな言葉を、僕はどう受け止めればいいのだろう。 前世では、たった一度の告白さえ最後まで聞いてもらえなかったのに。 今度は、まだ何もしていない僕を、こんなにも大切にしてくれる人がいる。 嬉しいと思ってしまう自分が、少しだけ怖かった。 ◇◆◇ クロードが部屋を出ていくと、入れ替わるように、先ほどのメイドが顔を覗かせた。 「リヒト様、お加減はいかがですか?」 「あ、うん。大丈夫」 「よかったぁ……!」 少女は胸の前で両手を握り、心底安心したように笑った。 「クロード様、ずっとお部屋から離れなかったんですよ」 「……え?」 「お食事もほとんど召し上がらず、夜もお休みにならなくて。私たちが交代いたしますって言っても、絶対に譲ってくださらなくて」 僕は思わず、閉じられた扉へ目を向けた。 あの人が? 「……そんなに?」 「はい。リヒト様が目を覚まされるまで、ずっとお手を握っていらっしゃいました」 少女は嬉しそうに微笑んだ。 「本当に、リヒト様のことが大切なんですね」 その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。 けれど、次に続いた一言で、僕は思わず顔を上げた。 「でも、昨日は少し怖かったです」 「……怖い?」 「はい。本宅からお戻りになったリヒト様を見たとき、クロード様、今まで見たこともないお顔をなさって」 少女はそこで口を噤んだ。 何かを思い出したのか、視線が扉の方へ向かう。 「……あの、これは私が勝手に言ったことですので」 「うん?」 「クロード様には、どうか内緒にしてくださいね」 その声は、さっきまでとは違っていた。 僕は何も答えられず、ただ小さく頷いた。「……内緒にしてほしいって、どうして?」 僕が尋ねると、メシアは困ったように眉を下げた。「それは、その……クロード様に叱られてしまいますので」「叱られる?」「はい。リヒト様に余計なご心配をおかけするなと、いつも言われておりますから」 彼女はそう言って、慌てて口元を押さえた。 どうやら、また余計なことを喋ってしまったらしい。 僕は思わず苦笑した。「大丈夫。言わないよ」「本当ですか?」「うん。約束する」 ようやく安心したのか、メシアは胸を撫で下ろした。 それでも、時折扉の方を気にしている。 クロードが戻ってくるのを警戒しているようにも見えた。 あの優しそうな人が、そんなに怖いのだろうか。 僕には、どうしても想像できなかった。「……クロードって、いつもあんな感じなの?」「あんな感じ、と申しますと?」「優しいっていうか、何でもしてくれるっていうか」 メシアは一瞬、不思議そうな顔をした。 それから、何かに納得したように微笑む。「リヒト様には、いつもそうでございますよ」「僕には?」「はい」 何気なく返された言葉が、妙に引っかかった。 僕には、いつも。 それなら、ほかの人にはどうなのだろう。 そう尋ねようとしたところで、扉の向こうから足音が聞こえてきた。 メシアの背筋が、ぴんと伸びる。「失礼いたします」 聞き慣れ始めた声とともに、クロードが銀のワゴンを押して入ってきた。 白い陶器の皿から、温かな湯気が立ち上っている。 ふわりと漂ってきたのは、バターと野菜を煮込んだような、どこか懐かしい香りだった。「お待たせいたしました。お食事をお持ちいたしました」「あ、ありがとう」 クロードは僕に微笑むと、すぐにメシアへ視線を移した。「メシア」「は、はい」
言葉にした途端、急に怖くなった。 僕は死んだはずだった。 それなのに、知らない世界の、知らない人間の身体で目を覚ましている。 この身体が誰のものなのかも、どうしてこんな目に遭ったのかも分からない。 そして、目の前には夏樹と同じ顔をした男がいる。 何もかもがおかしい。「……僕、どうしたらいいんだろう」 情けない声が漏れた。 クロードは何も言わなかった。 ただ、薬を塗り終えると、僕の背中へ柔らかな布を掛けてくれる。 その手つきがあまりにも丁寧で、余計に涙が出そうになった。「今は、何もお考えにならなくて結構です」「……でも」「お身体を治すことだけをお考えください。ほかのことは、すべて私がいたします」 そんなことを言われたのは、初めてだった。 僕は枕に顔を埋め、しばらく動けなかった。 ◇◆◇処置を終えたクロードは、僕の身体を起こすと、背中に負担がかからないようクッションをいくつも重ねてくれた。 さらに水を飲ませ、額の汗を拭い、乱れた髪まで整えようとする。「いや、髪くらい自分で」「腕の傷が開いてしまいます」「でも、そこまでしてもらうのは」「私の仕事でございます」 そう言われると、何も言い返せない。 執事というのは、こんなことまでする職業なのだろうか。 僕の知っている執事なんて、映画や漫画に出てくる人くらいだ。現実にお世話になったことなど、当然一度もない。 クロードは慣れた手つきで僕の髪を梳かしながら、時折、鏡越しに顔色を確かめてくる。「少し、お顔の色が戻りましたね」「そう?」「はい。ですが、まだお休みになった方がよろしいかと」「……ずっと寝てた気がするんだけど」「昨日から意識が戻らなかったのです。まだ十分ではございません」 昨日から。 その言葉に、僕は思わず鏡の中のクロードを見た。
「ちょっ、ちょっと待って!」 思わず声を上げると、背中に触れていた唇がぴたりと止まった。「……どうされましたか、リヒト様」「どうされましたか、じゃなくて! 今、何した?」「傷の処置でございますが」「処置って、舐めたよね!?」「はい」 あまりにも平然と答えられて、僕は言葉を失った。 いや、待て。待ってほしい。僕がおかしいのか? 異世界では傷口を舐めるのが一般的な治療法なのか? そんなわけがない。 少なくとも、僕の知っている医療では絶対にやってはいけない行為だったはずだ。「薬は?」「リヒト様がお嫌いですので」「だからって舐める必要ないだろ!」「……申し訳ございません」 背後で衣擦れの音がした。 恐る恐る振り返ると、男はベッドの脇に片膝をつき、深く頭を下げていた。「ご不快な思いをさせてしまいました」「え、いや、そこまでしなくても」「私の配慮が足りませんでした。どうか、お許しください」 その声が、ひどく沈んでいる。 まるで僕が取り返しのつかないことを言ってしまったかのようで、胸の奥がきゅっと縮んだ。 顔を上げてほしい。 そう思った瞬間、僕は自分が何を考えているのか分からなくなった。 だって、その顔は夏樹なのだ。 僕の告白を最後まで聞かず、別の女の子のところへ行ってしまった、あの夏樹。 なのに今、同じ顔をした男が僕の前で頭を下げている。「……怒ってないから」「ですが」「本当に。ちょっとびっくりしただけ」 男はゆっくりと顔を上げた。 その瞳に浮かんだ安堵を見て、僕はますます困ってしまう。 夏樹なら、こんな顔はしない。 きっと「お前、何勘違いしてんの」と笑って終わりだ。 そう考えた途端、胸の奥に小さな痛みが走った。「……あのさ」「はい」「名前、聞いてもいい?」 男の表情が、わずかに強張った。「私の、でございますか」「うん」「……クロードでございます」「クロード」 口の中で、その名前を繰り返す。 夏樹ではない。 分かっていたはずなのに、改めて別の名前を聞くと、妙に寂しかった。「クロード、さん」「どうか、いつものようにお呼びください」「いつも?」「クロード、と」 その声があまりにも優しくて、僕は思わず目を伏せた。「……クロード」「はい、リヒト様」 たったそれだけで、彼は嬉しそう
「ここはどこ」 男は僕の問いには答えず、傍らの机から白い布を取り上げると、迷いなく僕の腕へ手を伸ばした。 「触らないで」 想像以上にか細い声が部屋に響いた。 反射的に腕を引こうにも、痛みで全く動かない。 傷口が裂け、新しい血が床へ滴り落ちた。 男は困ったように眉を下げる。 「そのままでは傷が悪化いたします」 「大丈夫…………」 拒絶と映ったのだろうか、夏樹の顔をした知らない男が、辛そうな表情をして、僕はそれに心がざわついた。 こんな知らない場所で、知らない男に触れられる理由なんてない。 ……いや。 知らない男じゃない。 その顔を見れば見るほど、心臓が苦しくなる。 同じだった。 高校の頃より少し大人びてはいるけれど、伏せた睫毛も、少し癖のある黒髪も、静かな眼差しも。なんなら、その声も。 全部。 全部、夏樹だった。 夏樹が、僕を心配している。僕に優しそうに触っている。 ここはいったいどこなのだろうか。 (なんで……) 喉が詰まる。 「なんで、ここにいるんだよ……」 男は一瞬だけ目を細めた。「リヒト様? 何をおっしゃっておられるのですか」 穏やかな声だった。 それなのに。 僕は、その一言だけで背筋が凍る。 「……違う」 「?」 「僕はリヒトなんて名前じゃない!」 男は何も言わない。 静かに僕を見つめ、わずかに困っている様に見えた。 その沈黙が、かえって怖かった。 「ここはどこなんだ!」 「エヴァーハルト公爵家別邸でございます。意識を失って帰ってこられたので、動揺されているのでしょう。お水を持ってまいります」 「……どこってきいてるんだけど?」 「…………? リヒト様のお部屋ですよ」 何を言っているんだ、この人は。 公爵? 別邸? 意味が分からない。 「ふざけないでよ」 「ふざけてはおりませんが、どうされましたか。誰かお医者様をお呼びして」 「ドッキリなら、もう十分だから」 「……どっきり? どっきりとは何でしょうか。そんな事よりお医者様が来る前に、いつもの処置をいたしますから、うつぶせになって下さい」 「待って、何言ってるかわからないんだけど」 初めて男の表情が揺れた。 本当に困っている?
そのとき、夏樹のスマートフォンが鳴った。 やべっ 小さな声が夏樹から漏れる。 「もしもし。あ、ごめん。え? いや、虫が煩くてさ、ゴキブリ退治してたらちょっと遅くなっただけだよ。今から向かうよ。そんな怒るなよ、なんでも買ってやるから」 僕の言葉を遮るように、夏樹は画面へ目を落とした。 その顔はまるで破顔一笑。 こんな嬉しそうな彼を、僕は見たことがなかった。 彼は傘を肩で支えながら、その場で話し出し、もう僕の事なんか、いないも同然だった。 あと少しだった。 ほんの数秒あれば、言えたはずだった。 僕は雨に濡れた袖を握りしめ、乱れた呼吸を整えようと深く深呼吸をする。 空唾を嚥下し、そのうち口内に唾が溜まり出すのを感じていた。 口の中に溜まるその異様な感覚に呼応するように、喉から熱が込み上げ、目じりから熱い何かが零れてくる。 泣くな。 電話が終わったら、今度こそ言う。 そう決めたはずなのに、通話を終えた夏樹の表情は、先ほどまでとは違っていた。「悪い。行かないと」「え?」「りかちゃんがもう駅にいるんだよ」「でも、僕の話は」「そんなの今度でいいだろ。どうせ、大した話じゃないんだし」 ————なんで決めつけるの。「夏樹」「また連絡する」 それだけ言うと、彼は駅とは反対の方向へ歩き出した。 赤信号になりそうなギリギリを、夏樹は一気に走り出す。 僕は咄嗟にその背中を追った。「待って」 聞こえなかったのか、夏樹は振り返らない。「夏樹、待ってよ!」 強く踏み出した足が雨に拐われ、濡れた縁石で滑った。 身体が車道側へ傾き、手から離れた傘が、雨風に煽られて宙を舞う。 顔を上げた瞬間、白い光が視界いっぱいに迫っていた。「え」 甲高いブレーキ音と、誰かの叫び声が重なる。 逃げなければと思ったのに、身体は凍りついたように動かなかった。 最後に見えたのは、こちらへ駆け戻ってくる夏樹の顔。 「最後くらい、僕だけを見てくれたね」 小さな独り言は、僕の本心だったのだろう。 彼が何かを叫んでいた。 けれど、その声が僕の名前だったのかさえ分からないまま、鈍い衝撃が全身を貫いた。 結局、僕は何ひとつ伝えられなかった。 たった「好き」の二文字さえ。 ————————————————————
真っ白なシーツに、赤い血が散っていた。 (なんだよ、これ) ぽたり。 ぽたり、と。 真っ白なシーツは一面の銀世界のようで、その上に咲いた血は曼珠沙華を思わせた。 その赤が自分の身体から落ちているのだと気づくまで、少し時間がかかった。僕は震える掌を見つめ、指先から手首へ伝う生温かな感触に、遅れて息を呑んだ。 (……僕、死んだはずじゃ) 身体を起こそうと腕へ力を込めた瞬間、皮膚を引き裂くような痛みが走る。(痛っ……) 両腕には、何かに強く縛られていたような傷が残っていた。擦り切れた皮膚の間から鮮血が滲み、腕を動かすたび、新しい赤い血が白い寝具へ落ちていく。 痛みがある。(痛覚があるということは、もしかして生きているのか?) 肌へ張りつくシーツの感触も、荒く上下する胸の苦しさも、夢だと片づけるにはあまりに生々しかった。 僕は息を整えながら、見覚えのない部屋を見回した。 天井はやけに高く、淡い金色の装飾が複雑な蔓草模様を描いている。窓を覆う深紅のカーテンは、僕の部屋にある安物とは比べものにならないほど重厚で、壁際には天井へ届きそうな書棚が並んでいた。 病院ではない。 もちろん、僕の部屋でもない。 「ここ、どこだよ……」 呟いた途端、さっきまでぼんやりと見えていた景色が、いっきに鮮明に映る。 ――数分前、僕――妹尾晶は、車にはねられて死んだ、はずなのだ。 ———————————————————————————— 二十二歳。 四月からは県外の会社へ就職することが決まり、生まれてから一度も離れたことのない町とも、今日でしばらくお別れになる。 だから、今日だけは、どうしても伝えたかった。 物心がついた頃からずっと隣にいた、幼馴染の夏樹に。 ――好きだって。 返事なんて勿論期待していない。 付き合ってほしいなんて、最初から望んでいない。 そんなことあるわけがない。 ただ、一度だけ。 たった一度だけでいいから。 この胸の奥へ押し込め続けた想いを、自分の言葉で伝えたかった。 玉砕覚悟。 幼馴染以上の何物でもない。 とっかえひっかえ変える、セフレにすらなれない。 だから、今日を逃せば、きっと僕は一生言えない。 ――弱虫で、