LOGIN「……どこへも、行かせない?」 廊下から聞こえてきたクロードの声に、僕は思わず息を止めた。 聞き間違いだろうか。 あの穏やかなクロードが、誰かに向かってあんな冷たい声を出すなんて。「しかし、クロード様。奥方様のご命令に背くわけには」「では、あなたがリヒト様をお連れするのですか」「い、いえ。そのようなことは」「そうでしょうね」 靴音が一つ、近づいた。「昨日、どのようなお姿でお戻りになったか、ご存じでしょう」「……はい」「それでも、明日の朝までに本宅へお連れしろと?」 返事はなかった。 僕は布団を握りしめ、閉じられた扉を見つめた。 あの人は、怒っている。 僕のために。 そう思った途端、胸の奥が妙に落ち着かなくなった。「お引き取りください。奥方様には、私からお返事を差し上げます」「ですが」「これ以上、同じことを言わせないでいただきたい」 静かな声だった。 怒鳴っているわけでも、相手を脅しているわけでもない。それなのに、廊下の空気が冷え込んだような気がした。 やがて、慌ただしい足音が遠ざかっていく。 僕はようやく息を吐いた。 そのとき、扉が静かに開いた。「……リヒト様?」 クロードだった。 僕が身体を起こしているのを見ると、彼はすぐにベッドへ歩み寄ってくる。「いけません。まだお休みになっていなければ」「あ、うん。ちょっと目が覚めて」「お痛みがございますか?」「大丈夫」 彼は僕の額に手を当て、熱を確かめると、ほっとしたように微笑んだ。 さっきまでの冷たい声が嘘のようだった。「お水をお持ちいたしましょうか」「……クロード」「はい」「さっきの、聞こえちゃった」 彼の手が止まる。 僕は少しだけ迷ってから、続
食事を終える頃には、身体がすっかり温まっていた。 クロードが食器を片づけようとしたところで、僕はふと、気になっていたことを思い出した。「ねえ、クロード」「はい」「昨日、僕が帰ってきたとき……何かあった?」 彼の動きが止まった。 ほんの一瞬だったけれど、確かに。「何か、と申しますと?」「いや、僕、何も覚えてなくて」 嘘ではない。 この身体が本宅で何をされたのか、僕は何ひとつ知らない。 ただ、腕に残る傷と、背中の痛みだけが、そこで何か恐ろしいことがあったのだと教えてくれる。「……誰が、こんなことしたの?」 クロードは答えなかった。 銀のワゴンへ食器を置く音が、静かな部屋に響く。「クロード?」「……リヒト様」 振り返った彼は、いつものように微笑んでいた。「今は、お身体を治すことだけをお考えください」「でも」「どうか、お願いいたします」 その声には、逆らいにくい響きがあった。 怒っているわけではない。 むしろ、僕を傷つけないよう、慎重に言葉を選んでいるように見える。 それでも、何かを隠している。 そんな気がした。「……分かった」「ありがとうございます」 クロードは僕の額へ手を当て、熱を確かめた。「少しお休みになりましょう」「うん」 ベッドへ横になると、彼は丁寧に掛け布団を整えてくれた。 僕の手が布団から出ていることに気づくと、そっと中へ戻す。 その仕草があまりにも自然で、僕は思わず笑ってしまった。「……過保護だね」「よく言われます」「メシアにも?」「ええ」 クロードは小さく微笑んだ。「ですが、直すつもりはございません」「なんで?」「リヒト様が大切
「……内緒にしてほしいって、どうして?」 僕が尋ねると、メシアは困ったように眉を下げた。「それは、その……クロード様に叱られてしまいますので」「叱られる?」「はい。リヒト様に余計なご心配をおかけするなと、いつも言われておりますから」 彼女はそう言って、慌てて口元を押さえた。 どうやら、また余計なことを喋ってしまったらしい。 僕は思わず苦笑した。「大丈夫。言わないよ」「本当ですか?」「うん。約束する」 ようやく安心したのか、メシアは胸を撫で下ろした。 それでも、時折扉の方を気にしている。 クロードが戻ってくるのを警戒しているようにも見えた。 あの優しそうな人が、そんなに怖いのだろうか。 僕には、どうしても想像できなかった。「……クロードって、いつもあんな感じなの?」「あんな感じ、と申しますと?」「優しいっていうか、何でもしてくれるっていうか」 メシアは一瞬、不思議そうな顔をした。 それから、何かに納得したように微笑む。「リヒト様には、いつもそうでございますよ」「僕には?」「はい」 何気なく返された言葉が、妙に引っかかった。 僕には、いつも。 それなら、ほかの人にはどうなのだろう。 そう尋ねようとしたところで、扉の向こうから足音が聞こえてきた。 メシアの背筋が、ぴんと伸びる。「失礼いたします」 聞き慣れ始めた声とともに、クロードが銀のワゴンを押して入ってきた。 白い陶器の皿から、温かな湯気が立ち上っている。 ふわりと漂ってきたのは、バターと野菜を煮込んだような、どこか懐かしい香りだった。「お待たせいたしました。お食事をお持ちいたしました」「あ、ありがとう」 クロードは僕に微笑むと、すぐにメシアへ視線を移した。「メシア」「は、はい」
言葉にした途端、急に怖くなった。 僕は死んだはずだった。 それなのに、知らない世界の、知らない人間の身体で目を覚ましている。 この身体が誰のものなのかも、どうしてこんな目に遭ったのかも分からない。 そして、目の前には夏樹と同じ顔をした男がいる。 何もかもがおかしい。「……僕、どうしたらいいんだろう」 情けない声が漏れた。 クロードは何も言わなかった。 ただ、薬を塗り終えると、僕の背中へ柔らかな布を掛けてくれる。 その手つきがあまりにも丁寧で、余計に涙が出そうになった。「今は、何もお考えにならなくて結構です」「……でも」「お身体を治すことだけをお考えください。ほかのことは、すべて私がいたします」 そんなことを言われたのは、初めてだった。 僕は枕に顔を埋め、しばらく動けなかった。 ◇◆◇処置を終えたクロードは、僕の身体を起こすと、背中に負担がかからないようクッションをいくつも重ねてくれた。 さらに水を飲ませ、額の汗を拭い、乱れた髪まで整えようとする。「いや、髪くらい自分で」「腕の傷が開いてしまいます」「でも、そこまでしてもらうのは」「私の仕事でございます」 そう言われると、何も言い返せない。 執事というのは、こんなことまでする職業なのだろうか。 僕の知っている執事なんて、映画や漫画に出てくる人くらいだ。現実にお世話になったことなど、当然一度もない。 クロードは慣れた手つきで僕の髪を梳かしながら、時折、鏡越しに顔色を確かめてくる。「少し、お顔の色が戻りましたね」「そう?」「はい。ですが、まだお休みになった方がよろしいかと」「……ずっと寝てた気がするんだけど」「昨日から意識が戻らなかったのです。まだ十分ではございません」 昨日から。 その言葉に、僕は思わず鏡の中のクロードを見た。
「ちょっ、ちょっと待って!」 思わず声を上げると、背中に触れていた唇がぴたりと止まった。「……どうされましたか、リヒト様」「どうされましたか、じゃなくて! 今、何した?」「傷の処置でございますが」「処置って、舐めたよね!?」「はい」 あまりにも平然と答えられて、僕は言葉を失った。 いや、待て。待ってほしい。僕がおかしいのか? 異世界では傷口を舐めるのが一般的な治療法なのか? そんなわけがない。 少なくとも、僕の知っている医療では絶対にやってはいけない行為だったはずだ。「薬は?」「リヒト様がお嫌いですので」「だからって舐める必要ないだろ!」「……申し訳ございません」 背後で衣擦れの音がした。 恐る恐る振り返ると、男はベッドの脇に片膝をつき、深く頭を下げていた。「ご不快な思いをさせてしまいました」「え、いや、そこまでしなくても」「私の配慮が足りませんでした。どうか、お許しください」 その声が、ひどく沈んでいる。 まるで僕が取り返しのつかないことを言ってしまったかのようで、胸の奥がきゅっと縮んだ。 顔を上げてほしい。 そう思った瞬間、僕は自分が何を考えているのか分からなくなった。 だって、その顔は夏樹なのだ。 僕の告白を最後まで聞かず、別の女の子のところへ行ってしまった、あの夏樹。 なのに今、同じ顔をした男が僕の前で頭を下げている。「……怒ってないから」「ですが」「本当に。ちょっとびっくりしただけ」 男はゆっくりと顔を上げた。 その瞳に浮かんだ安堵を見て、僕はますます困ってしまう。 夏樹なら、こんな顔はしない。 きっと「お前、何勘違いしてんの」と笑って終わりだ。 そう考えた途端、胸の奥に小さな痛みが走った。「……あのさ」「はい」「名前、聞いてもいい?」 男の表情が、わずかに強張った。「私の、でございますか」「うん」「……クロードでございます」「クロード」 口の中で、その名前を繰り返す。 夏樹ではない。 分かっていたはずなのに、改めて別の名前を聞くと、妙に寂しかった。「クロード、さん」「どうか、いつものようにお呼びください」「いつも?」「クロード、と」 その声があまりにも優しくて、僕は思わず目を伏せた。「……クロード」「はい、リヒト様」 たったそれだけで、彼は嬉しそう
「ここはどこ」 男は僕の問いには答えず、傍らの机から白い布を取り上げると、迷いなく僕の腕へ手を伸ばした。 「触らないで」 想像以上にか細い声が部屋に響いた。 反射的に腕を引こうにも、痛みで全く動かない。 傷口が裂け、新しい血が床へ滴り落ちた。 男は困ったように眉を下げる。 「そのままでは傷が悪化いたします」 「大丈夫…………」 拒絶と映ったのだろうか、夏樹の顔をした知らない男が、辛そうな表情をして、僕はそれに心がざわついた。 こんな知らない場所で、知らない男に触れられる理由なんてない。 ……いや。 知らない男じゃない。 その顔を見れば見るほど、心臓が苦しくなる。 同じだった。 高校の頃より少し大人びてはいるけれど、伏せた睫毛も、少し癖のある黒髪も、静かな眼差しも。なんなら、その声も。 全部。 全部、夏樹だった。 夏樹が、僕を心配している。僕に優しそうに触っている。 ここはいったいどこなのだろうか。 (なんで……) 喉が詰まる。 「なんで、ここにいるんだよ……」 男は一瞬だけ目を細めた。「リヒト様? 何をおっしゃっておられるのですか」 穏やかな声だった。 それなのに。 僕は、その一言だけで背筋が凍る。 「……違う」 「?」 「僕はリヒトなんて名前じゃない!」 男は何も言わない。 静かに僕を見つめ、わずかに困っている様に見えた。 その沈黙が、かえって怖かった。 「ここはどこなんだ!」 「エヴァーハルト公爵家別邸でございます。意識を失って帰ってこられたので、動揺されているのでしょう。お水を持ってまいります」 「……どこってきいてるんだけど?」 「…………? リヒト様のお部屋ですよ」 何を言っているんだ、この人は。 公爵? 別邸? 意味が分からない。 「ふざけないでよ」 「ふざけてはおりませんが、どうされましたか。誰かお医者様をお呼びして」 「ドッキリなら、もう十分だから」 「……どっきり? どっきりとは何でしょうか。そんな事よりお医者様が来る前に、いつもの処置をいたしますから、うつぶせになって下さい」 「待って、何言ってるかわからないんだけど」 初めて男の表情が揺れた。 本当に困っている?







