Mag-log in食事を終える頃には、身体がすっかり温まっていた。
クロードが食器を片づけようとしたところで、僕はふと、気になっていたことを思い出した。 「ねえ、クロード」 「はい」 「昨日、僕が帰ってきたとき……何かあった?」 彼の動きが止まった。 ほんの一瞬だったけれど、確かに。 「何か、と申しますと?」 「いや、僕、何も覚えてなくて」 嘘ではない。 この身体が本宅で何をされたのか、僕は何ひとつ知らない。 ただ、腕に残る傷と、背中の痛みだけが、そこで何か恐ろしいことがあったのだと教えてくれる。 「……誰が、こんなことしたの?」 クロードは答えなかった。 銀のワゴンへ食器を置く音が、静かな部屋に響く。 「クロード?」 「……リヒト様」 振り返った彼は、いつものように微笑んでいた。 「今は、お身体を治すことだけをお考えください」 「でも」 「どうか、お願いいたします」 その声には、逆らいにくい響きがあった。 怒っているわけではない。 むしろ、僕を傷つけないよう、慎重に言葉を選んでいるように見える。 それでも、何かを隠している。 そんな気がした。 「……分かった」 「ありがとうございます」 クロードは僕の額へ手を当て、熱を確かめた。 「少しお休みになりましょう」 「うん」 ベッドへ横になると、彼は丁寧に掛け布団を整えてくれた。 僕の手が布団から出ていることに気づくと、そっと中へ戻す。 その仕草があまりにも自然で、僕は思わず笑ってしまった。 「……過保護だね」 「よく言われます」 「メシアにも?」 「ええ」 クロードは小さく微笑んだ。 「ですが、直すつもりはございません」 「なんで?」 「リヒト様が大切ですので」 また、それだ。 そんなことを何度も言われたら、勘違いしてしまうじゃないか。 僕は布団を鼻の辺りまで引き上げた。 「……おやすみ」 「おやすみなさいませ」 クロードが立ち上がる。 その気配に、なぜか胸が小さく縮んだ。 行ってしまう。 そう思った瞬間、僕の口が勝手に動いていた。 「……クロード」 「はい」 「もう少し、ここにいてくれない?」 言ってから、しまったと思った。 何を甘えているんだ、僕は。 彼には仕事があるだろうし、いつまでも僕の相手をしているわけにはいかない。 「ごめん、やっぱり」 「もちろんでございます」 言い終えるより早く、クロードが答えた。 彼はベッドの脇へ椅子を引き寄せると、迷うことなく腰を下ろした。 「リヒト様がお休みになるまで、ここにおります」 その声を聞いた途端、胸の奥がじんわりと温かくなった。 「……ありがとう」 「いいえ」 クロードは僕の手を取り、傷に触れないよう、そっと包み込んでくれる。 大きな手だった。 温かくて、安心する。 僕はその手を見つめながら、ゆっくり目を閉じた。 夏樹のことを思い出さなかったわけではない。 けれど、今、僕の手を握ってくれているのは、夏樹ではない。 クロードだ。 そのことが、なぜか少しだけ嬉しかった。 ◇◆◇ どれくらい眠ったのだろう。 ふと目を覚ますと、部屋は薄暗くなっていた。 窓の向こうでは、夕暮れの光が深紅のカーテンを淡く染めている。 クロードの姿はなかった。 代わりに、廊下から低い声が聞こえてくる。 「……本宅から、また使いが?」 クロードの声だった。 僕は思わず耳を澄ませた。 「はい。奥方様より、リヒト様を明日の朝までにお連れするようにと」 知らない男の声が答える。 明日の朝? こんな傷だらけなのに? 僕が身体を起こそうとした、そのときだった。 「お断りしなさい」 クロードの声が、静かに響いた。 「ですが、奥方様のご命令でございます」 「聞こえなかったのですか」 ぞくりとした。 それは、僕の知っているクロードの声ではなかった。 「リヒト様は、どこへも行かせません」 廊下が、しんと静まり返る。 僕は布団を握りしめた。 その声には、怒りよりもずっと冷たい、何かが滲んでいた。また、その言葉が頭に浮かぶ。 僕だけに優しくて。 僕だけに笑って。 僕のために、怒ってくれる。 そんな人が、本当にいるのだろうか。 ……いや。 いるのだ。 クロードという男が、今、この屋敷に。 ◇◆◇ 朝食を終えた頃、クロードが部屋へ戻ってきた。「おはようございます、リヒト様」「あ、おはよう」 彼は僕の顔を見るなり、嬉しそうに目を細めた。「昨夜は、よくお休みになれましたか」「うん。クロードのおかげで」「それは何よりでございます」 いつもの穏やかな微笑み。 僕はその顔を見ながら、ふと、昨夜のことを思い出した。「……ねえ、クロード」「はい」「昨日、書状を燃やしたって本当?」 彼の表情が、ほんの少しだけ変わった。 傍らにいたメシアが、びくりと肩を震わせる。 あ。 しまった。 内緒にするって約束したのに。 僕が慌てて口を開こうとすると、クロードは静かに頷いた。「はい。事実でございます」「……怒られない?」「誰に、でございましょうか」「奥方様とか」「ご心配には及びません」 あっさりとした返事だった。 クロードは僕の額へ手を当て、熱を確かめる。「今朝は、お熱も下がっておりますね」「いや、そうじゃなくて」「お食事は召し上がれましたか」「……うん」「それはよかった」 完全に話を逸らされた。 僕は少しだけ頬を膨らませる。「クロード」「はい」「僕、ちゃんと聞いてるんだけど」 彼は一瞬、驚いたように僕を見つめた。 それから、困ったように微笑む。「……申し訳ございません」 クロードは
「……遠慮しないって、何を?」 僕が尋ねると、メシアは困ったように眉を下げた。「それは、私にも分かりません。ただ、クロード様があのようなことをおっしゃるなんて、初めてでしたので」「そんなに怖かった?」「はい。使者の方も、すっかり青ざめていらっしゃいました」 メシアはそこで口を噤み、廊下の方へ視線を向けた。 どうやら、これ以上は話したくないらしい。 僕は布団の上へ目を落とした。 クロードが、奥方様の書状を燃やした。 しかも、使者の目の前で。 普通に考えれば、とんでもないことだ。 公爵家の執事が、主人の家族から届いた命令書を勝手に燃やすなんて、許されるはずがない。 それでも、不思議と怖くはなかった。 むしろ、胸の奥に小さな温かさが残っている。 僕を、あの家へ戻さないために。 そう思うと、どうしても彼を責める気にはなれなかった。「……クロードは?」「今朝は早くから、お屋敷の管理をなさっております」「そっか」「何かございましたら、すぐにお呼びいたしますが」「いや、大丈夫」 そう答えたものの、少しだけ残念だった。 目が覚めたら、またあの人がいると思っていたから。 昨日はずっと傍にいてくれたのに。 ……いや、待て。 僕は何を考えているんだ。 クロードは執事で、仕事がある。いつまでも僕の傍にいられるわけがない。 それなのに、少し姿が見えないだけで寂しいなんて。 前世の夏樹にだって、こんなことは思わなかった。 いや、思っていたかもしれない。 でも、あいつがいないときは、いつだって別の女の子と一緒だったから。 寂しいより先に、嫉妬していた気がする。「……リヒト様?」「あ、うん。何でもない」 僕は慌てて首を振った。 メシアは不思議そうにしながらも、朝食の準備
夕食までには、まだ少し時間があるらしい。 クロードは僕の傷を確かめると、薬を塗り直してくれた。 今度は、もちろん舐めたりしない。「……ねえ」「はい」「僕って、いつも本宅に呼ばれてるの?」 彼の手が止まった。「……時折、でございます」「そのたびに、こんな怪我してる?」 答えはなかった。 けれど、その沈黙だけで十分だった。「……そっか」 僕は枕へ顔を埋めた。 リヒトという人間は、いったいどんな人生を送ってきたのだろう。 家族に傷つけられ、意識を失ったまま送り返される。 そんなことが、何度もあったというのか。「……かわいそうだね」 思わず漏れた言葉に、クロードが顔を上げる。「何が、でございますか」「あ、いや……僕って、かわいそうだなって」 慌てて言い直す。 危ない。 この身体が自分のものではないような言い方をしてしまった。 クロードはしばらく僕を見つめていた。 それから、静かに口を開く。「……そう思われるのであれば」「うん?」「もう、ご自分を責めるのはおやめください」 僕は瞬きをした。「責める?」「リヒト様は、いつもご自分が悪いとおっしゃいます」 クロードの声が、少しだけ低くなった。「奥方様がお怒りになるのも、ご兄弟が冷たくなさるのも、すべてご自分に非があるのだと」 そんなことを。 この身体の持ち主は、ずっと思っていたのだろうか。「……でも、違うんでしょ?」「当然でございます」 即答だった。 クロードは僕の背中へ薬を塗りながら、静かに続ける。「あなたは、何も悪くありません」 その言葉を聞いた瞬間、胸の
「……どこへも、行かせない?」 廊下から聞こえてきたクロードの声に、僕は思わず息を止めた。 聞き間違いだろうか。 あの穏やかなクロードが、誰かに向かってあんな冷たい声を出すなんて。「しかし、クロード様。奥方様のご命令に背くわけには」「では、あなたがリヒト様をお連れするのですか」「い、いえ。そのようなことは」「そうでしょうね」 靴音が一つ、近づいた。「昨日、どのようなお姿でお戻りになったか、ご存じでしょう」「……はい」「それでも、明日の朝までに本宅へお連れしろと?」 返事はなかった。 僕は布団を握りしめ、閉じられた扉を見つめた。 あの人は、怒っている。 僕のために。 そう思った途端、胸の奥が妙に落ち着かなくなった。「お引き取りください。奥方様には、私からお返事を差し上げます」「ですが」「これ以上、同じことを言わせないでいただきたい」 静かな声だった。 怒鳴っているわけでも、相手を脅しているわけでもない。それなのに、廊下の空気が冷え込んだような気がした。 やがて、慌ただしい足音が遠ざかっていく。 僕はようやく息を吐いた。 そのとき、扉が静かに開いた。「……リヒト様?」 クロードだった。 僕が身体を起こしているのを見ると、彼はすぐにベッドへ歩み寄ってくる。「いけません。まだお休みになっていなければ」「あ、うん。ちょっと目が覚めて」「お痛みがございますか?」「大丈夫」 彼は僕の額に手を当て、熱を確かめると、ほっとしたように微笑んだ。 さっきまでの冷たい声が嘘のようだった。「お水をお持ちいたしましょうか」「……クロード」「はい」「さっきの、聞こえちゃった」 彼の手が止まる。 僕は少しだけ迷ってから、続
食事を終える頃には、身体がすっかり温まっていた。 クロードが食器を片づけようとしたところで、僕はふと、気になっていたことを思い出した。「ねえ、クロード」「はい」「昨日、僕が帰ってきたとき……何かあった?」 彼の動きが止まった。 ほんの一瞬だったけれど、確かに。「何か、と申しますと?」「いや、僕、何も覚えてなくて」 嘘ではない。 この身体が本宅で何をされたのか、僕は何ひとつ知らない。 ただ、腕に残る傷と、背中の痛みだけが、そこで何か恐ろしいことがあったのだと教えてくれる。「……誰が、こんなことしたの?」 クロードは答えなかった。 銀のワゴンへ食器を置く音が、静かな部屋に響く。「クロード?」「……リヒト様」 振り返った彼は、いつものように微笑んでいた。「今は、お身体を治すことだけをお考えください」「でも」「どうか、お願いいたします」 その声には、逆らいにくい響きがあった。 怒っているわけではない。 むしろ、僕を傷つけないよう、慎重に言葉を選んでいるように見える。 それでも、何かを隠している。 そんな気がした。「……分かった」「ありがとうございます」 クロードは僕の額へ手を当て、熱を確かめた。「少しお休みになりましょう」「うん」 ベッドへ横になると、彼は丁寧に掛け布団を整えてくれた。 僕の手が布団から出ていることに気づくと、そっと中へ戻す。 その仕草があまりにも自然で、僕は思わず笑ってしまった。「……過保護だね」「よく言われます」「メシアにも?」「ええ」 クロードは小さく微笑んだ。「ですが、直すつもりはございません」「なんで?」「リヒト様が大切
「……内緒にしてほしいって、どうして?」 僕が尋ねると、メシアは困ったように眉を下げた。「それは、その……クロード様に叱られてしまいますので」「叱られる?」「はい。リヒト様に余計なご心配をおかけするなと、いつも言われておりますから」 彼女はそう言って、慌てて口元を押さえた。 どうやら、また余計なことを喋ってしまったらしい。 僕は思わず苦笑した。「大丈夫。言わないよ」「本当ですか?」「うん。約束する」 ようやく安心したのか、メシアは胸を撫で下ろした。 それでも、時折扉の方を気にしている。 クロードが戻ってくるのを警戒しているようにも見えた。 あの優しそうな人が、そんなに怖いのだろうか。 僕には、どうしても想像できなかった。「……クロードって、いつもあんな感じなの?」「あんな感じ、と申しますと?」「優しいっていうか、何でもしてくれるっていうか」 メシアは一瞬、不思議そうな顔をした。 それから、何かに納得したように微笑む。「リヒト様には、いつもそうでございますよ」「僕には?」「はい」 何気なく返された言葉が、妙に引っかかった。 僕には、いつも。 それなら、ほかの人にはどうなのだろう。 そう尋ねようとしたところで、扉の向こうから足音が聞こえてきた。 メシアの背筋が、ぴんと伸びる。「失礼いたします」 聞き慣れ始めた声とともに、クロードが銀のワゴンを押して入ってきた。 白い陶器の皿から、温かな湯気が立ち上っている。 ふわりと漂ってきたのは、バターと野菜を煮込んだような、どこか懐かしい香りだった。「お待たせいたしました。お食事をお持ちいたしました」「あ、ありがとう」 クロードは僕に微笑むと、すぐにメシアへ視線を移した。「メシア」「は、はい」