LOGIN夕食までには、まだ少し時間があるらしい。
クロードは僕の傷を確かめると、薬を塗り直してくれた。 今度は、もちろん舐めたりしない。 「……ねえ」 「はい」 「僕って、いつも本宅に呼ばれてるの?」 彼の手が止まった。 「……時折、でございます」 「そのたびに、こんな怪我してる?」 答えはなかった。 けれど、その沈黙だけで十分だった。 「……そっか」 僕は枕へ顔を埋めた。 リヒトという人間は、いったいどんな人生を送ってきたのだろう。 家族に傷つけられ、意識を失ったまま送り返される。 そんなことが、何度もあったというのか。 「……かわいそうだね」 思わず漏れた言葉に、クロードが顔を上げる。 「何が、でございますか」 「あ、いや……僕って、かわいそうだなって」 慌てて言い直す。 危ない。 この身体が自分のものではないような言い方をしてしまった。 クロードはしばらく僕を見つめていた。 それから、静かに口を開く。 「……そう思われるのであれば」 「うん?」 「もう、ご自分を責めるのはおやめください」 僕は瞬きをした。 「責める?」 「リヒト様は、いつもご自分が悪いとおっしゃいます」 クロードの声が、少しだけ低くなった。 「奥方様がお怒りになるのも、ご兄弟が冷たくなさるのも、すべてご自分に非があるのだと」 そんなことを。 この身体の持ち主は、ずっと思っていたのだろうか。 「……でも、違うんでしょ?」 「当然でございます」 即答だった。 クロードは僕の背中へ薬を塗りながら、静かに続ける。 「あなたは、何も悪くありません」 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。 僕自身に向けられた言葉ではない。 分かっている。 彼が守ろうとしているのは、僕ではなく、この身体の持ち主であるリヒトなのだ。 それなのに。 「……ありがとう」 声が、少し震えた。 クロードは何も言わず、僕の肩へ柔らかな布を掛けてくれる。 その手が、あまりにも温かかった。 ◇◆◇ 「……クロードはさ」 「はい」 「僕のこと、嫌にならないの?」 口にしてから、しまったと思った。 何を聞いているんだ、僕は。 けれど、クロードは笑わなかった。 「なぜ、そのようなことを?」 「いや、だって。こんなに世話ばっかりかけてるし」 「それが私の仕事でございます」 「でも、仕事だからって、嫌になることもあるでしょ」 前世の夏樹を思い出す。 僕が何かを頼むと、面倒くさそうな顔をするくせに、自分が困ったときには平気で僕を呼び出した。 それでも、頼られることが嬉しかった。 必要とされている気がしたから。 でも、クロードは違う。 僕が何も頼まなくても、先回りして何でもしてくれる。 その優しさが、時々怖くなる。 いつか、こんな僕に愛想を尽かすのではないかと思ってしまうから。 「……リヒト様」 クロードが僕の手を取った。 「私は、あなたのお世話をすることが嫌になったことなど、一度もございません」 「……本当に?」 「はい」 彼は僕の指先を、傷に触れないよう丁寧に包み込んだ。 「むしろ、もっと頼っていただきたいくらいでございます」 「もっと?」 「ええ」 クロードは微笑んだ。 「お食事も、お着替えも、お身体を洗うことも。私にできることでしたら、何でも」 「……いや、お風呂くらい一人で入れるよ」 「今は、お怪我をなさっておりますので」 「治ったら?」 「……治られてから、考えましょう」 絶対に考える気がない。 僕は思わず笑ってしまった。 すると、クロードも嬉しそうに目を細める。 「ようやく、笑ってくださいましたね」 「え?」 「お目覚めになってから、ずっとお辛そうでしたので」 その言葉に、胸が温かくなる。 僕が笑っただけで、こんなに嬉しそうにしてくれる人がいる。 それが、なんだか不思議だった。 「……クロード」 「はい」 「僕、ここにいてもいい?」 彼の表情が、ふっと消えた。 ほんの一瞬。 何かを堪えるように、唇がわずかに動く。 「……もちろんでございます」 返ってきた声は、ひどく優しかった。 「ここは、リヒト様のお屋敷です」 「でも、本宅の人たちが」 「ご心配には及びません」 クロードは僕の手を握り直した。 「あなたを、二度とあのような場所へはお戻しいたしません」 その言葉が、胸の奥へゆっくりと染み込んでいく。 僕は小さく頷いた。 「……うん」 クロードの手を、ほんの少しだけ握り返す。 すると彼は、驚いたように僕を見つめた。 それから、壊れ物に触れるように、僕の指を包み込んだ。 その顔を見て、僕は思った。 この人は、夏樹じゃない。 同じ顔でも、同じ声でも。 僕の手を、こんなふうに握ってくれるのは、クロードなのだ。 ◇◆◇ その夜。 僕が眠りについたあと、廊下では小さな騒ぎが起きていた。 もちろん、そのときの僕は何も知らなかった。 翌朝、メシアから聞くことになるのだが、本宅からの使者は、どうやら簡単には引き下がらなかったらしい。 夜遅く、再び別邸を訪れ、今度は奥方様の直筆の書状を持ってきたという。 そこには、明日の正午までにリヒトを本宅へ連れ戻すようにと、はっきり書かれていたそうだ。 けれど、クロードは書状を受け取ると、封を開けることさえしなかった。 使者の目の前で、それを暖炉へ放り込んだのだという。 「……え?」 翌朝、僕は思わず聞き返した。 「燃やしたの?」 「はい……」 メシアは青ざめた顔で頷いた。 「それで、クロード様が……」 彼女はそこで言葉を止めた。 廊下の方を、恐る恐る見つめる。 「……何?」 僕が尋ねると、メシアは小さく首を振った。 「いえ、何でもございません」 「いや、気になるんだけど」 「……あの」 彼女はしばらく迷っていた。 それから、僕の耳元へ顔を寄せる。 「クロード様、使者の方にこうおっしゃったんです」 ごくりと、喉が鳴った。 「……何て?」 メシアは声を潜めた。 「次にリヒト様を連れ戻そうとするなら、奥方様ご自身にお越しいただくように、と」 僕は思わず瞬きをした。 「……それだけ?」 「いいえ」 メシアの顔から、血の気が引いていた。 「そのあと、こうもおっしゃったんです」 彼女は震える声で、続きを口にした。 「今度こそ、私も遠慮いたしませんので、と」また、その言葉が頭に浮かぶ。 僕だけに優しくて。 僕だけに笑って。 僕のために、怒ってくれる。 そんな人が、本当にいるのだろうか。 ……いや。 いるのだ。 クロードという男が、今、この屋敷に。 ◇◆◇ 朝食を終えた頃、クロードが部屋へ戻ってきた。「おはようございます、リヒト様」「あ、おはよう」 彼は僕の顔を見るなり、嬉しそうに目を細めた。「昨夜は、よくお休みになれましたか」「うん。クロードのおかげで」「それは何よりでございます」 いつもの穏やかな微笑み。 僕はその顔を見ながら、ふと、昨夜のことを思い出した。「……ねえ、クロード」「はい」「昨日、書状を燃やしたって本当?」 彼の表情が、ほんの少しだけ変わった。 傍らにいたメシアが、びくりと肩を震わせる。 あ。 しまった。 内緒にするって約束したのに。 僕が慌てて口を開こうとすると、クロードは静かに頷いた。「はい。事実でございます」「……怒られない?」「誰に、でございましょうか」「奥方様とか」「ご心配には及びません」 あっさりとした返事だった。 クロードは僕の額へ手を当て、熱を確かめる。「今朝は、お熱も下がっておりますね」「いや、そうじゃなくて」「お食事は召し上がれましたか」「……うん」「それはよかった」 完全に話を逸らされた。 僕は少しだけ頬を膨らませる。「クロード」「はい」「僕、ちゃんと聞いてるんだけど」 彼は一瞬、驚いたように僕を見つめた。 それから、困ったように微笑む。「……申し訳ございません」 クロードは
「……遠慮しないって、何を?」 僕が尋ねると、メシアは困ったように眉を下げた。「それは、私にも分かりません。ただ、クロード様があのようなことをおっしゃるなんて、初めてでしたので」「そんなに怖かった?」「はい。使者の方も、すっかり青ざめていらっしゃいました」 メシアはそこで口を噤み、廊下の方へ視線を向けた。 どうやら、これ以上は話したくないらしい。 僕は布団の上へ目を落とした。 クロードが、奥方様の書状を燃やした。 しかも、使者の目の前で。 普通に考えれば、とんでもないことだ。 公爵家の執事が、主人の家族から届いた命令書を勝手に燃やすなんて、許されるはずがない。 それでも、不思議と怖くはなかった。 むしろ、胸の奥に小さな温かさが残っている。 僕を、あの家へ戻さないために。 そう思うと、どうしても彼を責める気にはなれなかった。「……クロードは?」「今朝は早くから、お屋敷の管理をなさっております」「そっか」「何かございましたら、すぐにお呼びいたしますが」「いや、大丈夫」 そう答えたものの、少しだけ残念だった。 目が覚めたら、またあの人がいると思っていたから。 昨日はずっと傍にいてくれたのに。 ……いや、待て。 僕は何を考えているんだ。 クロードは執事で、仕事がある。いつまでも僕の傍にいられるわけがない。 それなのに、少し姿が見えないだけで寂しいなんて。 前世の夏樹にだって、こんなことは思わなかった。 いや、思っていたかもしれない。 でも、あいつがいないときは、いつだって別の女の子と一緒だったから。 寂しいより先に、嫉妬していた気がする。「……リヒト様?」「あ、うん。何でもない」 僕は慌てて首を振った。 メシアは不思議そうにしながらも、朝食の準備
夕食までには、まだ少し時間があるらしい。 クロードは僕の傷を確かめると、薬を塗り直してくれた。 今度は、もちろん舐めたりしない。「……ねえ」「はい」「僕って、いつも本宅に呼ばれてるの?」 彼の手が止まった。「……時折、でございます」「そのたびに、こんな怪我してる?」 答えはなかった。 けれど、その沈黙だけで十分だった。「……そっか」 僕は枕へ顔を埋めた。 リヒトという人間は、いったいどんな人生を送ってきたのだろう。 家族に傷つけられ、意識を失ったまま送り返される。 そんなことが、何度もあったというのか。「……かわいそうだね」 思わず漏れた言葉に、クロードが顔を上げる。「何が、でございますか」「あ、いや……僕って、かわいそうだなって」 慌てて言い直す。 危ない。 この身体が自分のものではないような言い方をしてしまった。 クロードはしばらく僕を見つめていた。 それから、静かに口を開く。「……そう思われるのであれば」「うん?」「もう、ご自分を責めるのはおやめください」 僕は瞬きをした。「責める?」「リヒト様は、いつもご自分が悪いとおっしゃいます」 クロードの声が、少しだけ低くなった。「奥方様がお怒りになるのも、ご兄弟が冷たくなさるのも、すべてご自分に非があるのだと」 そんなことを。 この身体の持ち主は、ずっと思っていたのだろうか。「……でも、違うんでしょ?」「当然でございます」 即答だった。 クロードは僕の背中へ薬を塗りながら、静かに続ける。「あなたは、何も悪くありません」 その言葉を聞いた瞬間、胸の
「……どこへも、行かせない?」 廊下から聞こえてきたクロードの声に、僕は思わず息を止めた。 聞き間違いだろうか。 あの穏やかなクロードが、誰かに向かってあんな冷たい声を出すなんて。「しかし、クロード様。奥方様のご命令に背くわけには」「では、あなたがリヒト様をお連れするのですか」「い、いえ。そのようなことは」「そうでしょうね」 靴音が一つ、近づいた。「昨日、どのようなお姿でお戻りになったか、ご存じでしょう」「……はい」「それでも、明日の朝までに本宅へお連れしろと?」 返事はなかった。 僕は布団を握りしめ、閉じられた扉を見つめた。 あの人は、怒っている。 僕のために。 そう思った途端、胸の奥が妙に落ち着かなくなった。「お引き取りください。奥方様には、私からお返事を差し上げます」「ですが」「これ以上、同じことを言わせないでいただきたい」 静かな声だった。 怒鳴っているわけでも、相手を脅しているわけでもない。それなのに、廊下の空気が冷え込んだような気がした。 やがて、慌ただしい足音が遠ざかっていく。 僕はようやく息を吐いた。 そのとき、扉が静かに開いた。「……リヒト様?」 クロードだった。 僕が身体を起こしているのを見ると、彼はすぐにベッドへ歩み寄ってくる。「いけません。まだお休みになっていなければ」「あ、うん。ちょっと目が覚めて」「お痛みがございますか?」「大丈夫」 彼は僕の額に手を当て、熱を確かめると、ほっとしたように微笑んだ。 さっきまでの冷たい声が嘘のようだった。「お水をお持ちいたしましょうか」「……クロード」「はい」「さっきの、聞こえちゃった」 彼の手が止まる。 僕は少しだけ迷ってから、続
食事を終える頃には、身体がすっかり温まっていた。 クロードが食器を片づけようとしたところで、僕はふと、気になっていたことを思い出した。「ねえ、クロード」「はい」「昨日、僕が帰ってきたとき……何かあった?」 彼の動きが止まった。 ほんの一瞬だったけれど、確かに。「何か、と申しますと?」「いや、僕、何も覚えてなくて」 嘘ではない。 この身体が本宅で何をされたのか、僕は何ひとつ知らない。 ただ、腕に残る傷と、背中の痛みだけが、そこで何か恐ろしいことがあったのだと教えてくれる。「……誰が、こんなことしたの?」 クロードは答えなかった。 銀のワゴンへ食器を置く音が、静かな部屋に響く。「クロード?」「……リヒト様」 振り返った彼は、いつものように微笑んでいた。「今は、お身体を治すことだけをお考えください」「でも」「どうか、お願いいたします」 その声には、逆らいにくい響きがあった。 怒っているわけではない。 むしろ、僕を傷つけないよう、慎重に言葉を選んでいるように見える。 それでも、何かを隠している。 そんな気がした。「……分かった」「ありがとうございます」 クロードは僕の額へ手を当て、熱を確かめた。「少しお休みになりましょう」「うん」 ベッドへ横になると、彼は丁寧に掛け布団を整えてくれた。 僕の手が布団から出ていることに気づくと、そっと中へ戻す。 その仕草があまりにも自然で、僕は思わず笑ってしまった。「……過保護だね」「よく言われます」「メシアにも?」「ええ」 クロードは小さく微笑んだ。「ですが、直すつもりはございません」「なんで?」「リヒト様が大切
「……内緒にしてほしいって、どうして?」 僕が尋ねると、メシアは困ったように眉を下げた。「それは、その……クロード様に叱られてしまいますので」「叱られる?」「はい。リヒト様に余計なご心配をおかけするなと、いつも言われておりますから」 彼女はそう言って、慌てて口元を押さえた。 どうやら、また余計なことを喋ってしまったらしい。 僕は思わず苦笑した。「大丈夫。言わないよ」「本当ですか?」「うん。約束する」 ようやく安心したのか、メシアは胸を撫で下ろした。 それでも、時折扉の方を気にしている。 クロードが戻ってくるのを警戒しているようにも見えた。 あの優しそうな人が、そんなに怖いのだろうか。 僕には、どうしても想像できなかった。「……クロードって、いつもあんな感じなの?」「あんな感じ、と申しますと?」「優しいっていうか、何でもしてくれるっていうか」 メシアは一瞬、不思議そうな顔をした。 それから、何かに納得したように微笑む。「リヒト様には、いつもそうでございますよ」「僕には?」「はい」 何気なく返された言葉が、妙に引っかかった。 僕には、いつも。 それなら、ほかの人にはどうなのだろう。 そう尋ねようとしたところで、扉の向こうから足音が聞こえてきた。 メシアの背筋が、ぴんと伸びる。「失礼いたします」 聞き慣れ始めた声とともに、クロードが銀のワゴンを押して入ってきた。 白い陶器の皿から、温かな湯気が立ち上っている。 ふわりと漂ってきたのは、バターと野菜を煮込んだような、どこか懐かしい香りだった。「お待たせいたしました。お食事をお持ちいたしました」「あ、ありがとう」 クロードは僕に微笑むと、すぐにメシアへ視線を移した。「メシア」「は、はい」