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「その手を離したくない」

last update publish date: 2026-10-02 19:30:33

 また、その言葉が頭に浮かぶ。

 僕だけに優しくて。

 僕だけに笑って。

 僕のために、怒ってくれる。

 そんな人が、本当にいるのだろうか。

 ……いや。

 いるのだ。

 クロードという男が、今、この屋敷に。

     ◇◆◇

 朝食を終えた頃、クロードが部屋へ戻ってきた。

「おはようございます、リヒト様」

「あ、おはよう」

 彼は僕の顔を見るなり、嬉しそうに目を細めた。

「昨夜は、よくお休みになれましたか」

「うん。クロードのおかげで」

「それは何よりでございます」

 いつもの穏やかな微笑み。

 僕はその顔を見ながら、ふと、昨夜のことを思い出した。

「……ねえ、クロード」

「はい」

「昨日、書状を燃やしたって本当?」

 彼の表情が、ほんの少しだけ変わった。

 傍らにいたメシアが、びくりと肩を震わせる。

 あ。

 しまった。

 内緒にするって約束したのに。

 僕が慌てて口を開こうとすると、クロードは静かに頷いた。

「はい。事実でございます」

「……怒られない?」

「誰に、でございましょうか」

「奥方様とか」

「ご心配には及びません」

 あっさりとした返事だった。

 クロードは僕の額へ手を当て、熱を確かめる。

「今朝は、お熱も下がっておりますね」

「いや、そうじゃなくて」

「お食事は召し上がれましたか」

「……うん」

「それはよかった」

 完全に話を逸らされた。

 僕は少しだけ頬を膨らませる。

「クロード」

「はい」

「僕、ちゃんと聞いてるんだけど」

 彼は一瞬、驚いたように僕を見つめた。

 それから、困ったように微笑む。

「……申し訳ございません」

 クロードはベッドの脇へ椅子を引き寄せ、腰を下ろした。

「ですが、リヒト様がご心配なさるようなことは、何もございません」

「本当に?」

「はい」

「……僕のせいで、クロードが怒られたりしない?」

 その瞬間、彼の表情が消えた。

 怒ったのかと思って、僕は思わず息を呑む。

 けれど、クロードはゆっくりと僕の手を取った。

「リヒト様」

「……うん」

「どうか、ご自分のせいだなどとお考えにならないでください」

 その声は、ひどく優しかった。

「私が、自分の意思でいたしたことです」

「でも」

「あなたをお守りしたかった。それだけでございます」

 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。

 そんなふうに言われたら。

 僕は、どうしたらいいのだろう。

「……ありがとう」

 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。

 クロードは僕の指先へ、そっと唇を寄せた。

「どういたしまして」

 その仕草に、頬が一気に熱くなる。

「ちょっ、クロード!」

「はい?」

「今、何した!?」

「感謝をお伝えしただけでございますが」

「いや、口で言えばいいだろ!」

「……お嫌でしたか?」

 また、その顔だ。

 少しだけ眉を下げて、悲しそうに僕を見る。

 ずるい。

 本当に、ずるい。

「……嫌じゃ、ないけど」

 思わず呟くと、クロードの瞳がわずかに揺れた。

「……左様でございますか」

 その声が、いつもより少しだけ低く聞こえた。

 僕は慌てて手を引っ込めようとしたけれど、彼はすぐに離してくれた。

 指先に残った唇の感触が、妙に気になった。

     ◇◆◇

昼過ぎになると、少しだけ身体を起こしていられるようになった。

 クロードは窓際の椅子へ僕を移そうとしたけれど、僕が自分で歩けると言い張ると、ようやく折れてくれた。

 もっとも、腕を支えられ、腰に手を添えられていたので、一人で歩いたとは言い難い。

「……過保護」

「存じております」

「直す気ないんだよね」

「はい」

 即答だった。

 僕は思わず吹き出した。

 すると、クロードも小さく笑う。

 その顔を見て、ふと気づいた。

 夏樹と、笑い方が違う。

 顔はそっくりなのに。

 夏樹は、いつも少し意地悪そうに口角を上げていた。

 僕が困ると、楽しそうに笑った。

 けれど、クロードは違う。

 僕が笑うと、嬉しそうに笑う。

 僕が痛がると、自分まで苦しそうな顔をする。

 そんな当たり前の違いに、今さら気づくなんて。

「……リヒト様?」

「あ、いや。何でもない」

 僕は慌てて窓の外へ目を向けた。

 庭には、淡い色の花が咲いていた。

 名前は分からない。

 けれど、春の陽射しを受けて揺れる花々が、ひどく綺麗に見えた。

「……外、出たいな」

 何気なく呟くと、クロードが僕の隣へ立った。

「お身体が回復なさいましたら、お庭をご案内いたしましょう」

「本当?」

「もちろんでございます」

「……約束ね」

 僕が小指を差し出すと、クロードは不思議そうに首を傾げた。

「これは?」

「あ、指切り。約束するときにするんだよ」

「……指切り、でございますか」

「うん。こうやって、小指を絡めるの」

 僕は彼の手を取り、自分の小指を絡めた。

 クロードの指は、僕のものよりずっと長かった。

 白い手袋越しなのに、妙に意識してしまう。

「……約束」

 そう言って笑うと、クロードはしばらく僕の手を見つめていた。

 それから、ゆっくりと指を絡め返してくれる。

「はい。お約束いたします」

 その声が、ひどく優しかった。

 僕は嬉しくなって、もう一度笑った。

 けれど、指を離そうとしたとき。

 クロードの小指が、ほんの少しだけ強く絡んだ。

「……クロード?」

「……失礼いたしました」

 彼はすぐに手を離した。

 何事もなかったように微笑んでいる。

 僕は自分の小指を見つめた。

 手袋越しに残った、わずかな感触。

 どうしてだろう。

 もう一度、触れてほしいと思ってしまった。

     ◇◆◇

夕方、クロードは仕事のために一度部屋を離れた。

 僕は窓際の椅子に座り、庭を眺めていた。

 春の風が花を揺らし、淡い花びらが石畳へ舞い落ちていく。

 静かな時間だった。

 こんなに穏やかな気持ちで過ごすのは、いつ以来だろう。

 前世では、いつも夏樹のことを考えていた。

 今、何をしているのか。

 誰と一緒にいるのか。

 僕のことを、少しでも思い出してくれているのか。

 そんなことばかり考えて、勝手に苦しくなっていた。

 けれど、今は。

 僕はふと、扉の方へ目を向けた。

 クロード、まだかな。

 そう思った瞬間、自分でも驚いた。

 ……あれ?

 僕、今。

 夏樹じゃなくて、クロードのことを考えていた?

 いや、別におかしくはない。

 ここで頼れるのは、クロードくらいなのだから。

 それに、彼は僕の執事だ。

 戻ってくるのを待つくらい、普通だろう。

 そう自分へ言い聞かせたところで、扉が開いた。

「リヒト様」

 聞き慣れ始めた声。

 僕は反射的に顔を上げた。

「あ、クロード!」

 思った以上に大きな声が出た。

 クロードは少し驚いたように目を見開き、それから嬉しそうに微笑んだ。

「お待たせいたしました」

「……別に、待ってないけど」

 何を言っているんだ、僕は。

 さっきまで、あんなに待っていたくせに。

 クロードは何も言わず、僕の傍へ歩み寄ってきた。

「お寒くはございませんか」

「大丈夫」

「お身体のお加減は?」

「うん。さっきより、ずっといい」

「それは何よりでございます」

 彼が微笑む。

 僕も、つられて笑った。

 その瞬間、胸の奥がふわりと温かくなる。

 ああ。

 僕は、この人が笑う顔を、もっと見たい。

 そう思った。

 夏樹に似ているからじゃない。

 僕に優しくしてくれるからでもない。

 ただ、クロードが嬉しそうに笑うと、僕まで嬉しくなる。

 そのことに気づいて、少しだけ戸惑った。

「……リヒト様?」

「ううん。何でもない」

 僕は小さく首を振った。

 クロードは不思議そうにしながらも、僕の肩へ柔らかな上着を掛けてくれる。

 その手が離れようとしたとき、僕は思わず彼の袖を掴んでいた。

「……あ」

 自分でも、何をしているのか分からなかった。

 クロードが足を止める。

「どうされましたか?」

「……いや、その」

 言葉が出てこない。

 別に、用事があるわけじゃない。

 ただ。

 もう少し、傍にいてほしかった。

「……ここ、座らない?」

 僕は隣の椅子を指さした。

 クロードは一瞬、驚いたように僕を見つめた。

 それから、ゆっくりと微笑む。

「……よろしいのですか」

「うん」

 彼は静かに椅子へ腰を下ろした。

 窓の外では、春の花が風に揺れている。

 僕はその景色を眺めながら、隣にいるクロードの気配を感じていた。

 何も話さなくても、居心地がいい。

 そんなことを思える相手がいるなんて、知らなかった。

 しばらくして、クロードが静かに口を開いた。

「……リヒト様」

「ん?」

「本日は、随分とお元気そうでございますね」

「そう?」

「はい。よく笑ってくださいます」

 僕は少しだけ照れくさくなった。

「……クロードがいるから、かな」

 何気なく言ったつもりだった。

 けれど、隣から返事がない。

 不思議に思って顔を向けると、クロードは僕を見つめたまま、動かなくなっていた。

「……クロード?」

「……失礼いたしました」

 彼はゆっくりと目を伏せた。

 その表情が、なぜか少しだけ苦しそうに見えた。

「……そのようなことをおっしゃられると」

「え?」

 クロードは僕の手を取った。

 白い手袋に包まれた指が、僕の指先へそっと触れる。

「……ますます、あなたのお傍を離れられなくなってしまいます」

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