LOGIN結婚して5年目、私――城島結愛(じょうじま ゆあ)と夫の城島啓斗(じょうじま けいと)が共有している家族用のメモは、いつの間にか、ある一人の名前で埋め尽くされていた。 水野澄佳(みずの すみか)――息子の城島勇太(じょうじま ゆうた)を担当する心理カウンセラーだ。 親子遊びや屋外活動、次回のカウンセリング――勇太の治療に関する予定に混じって、澄佳の生理予定日まで細かく書き込まれていた。 腹が立って問い詰めると、啓斗は気にも留めず、淡々と返した。 「勇太の治療予定を組むには、澄佳の体調も把握しておいたほうがいいんだ。いちいち騒ぐな」 それから勇太の症状は目に見えて良くなっていった。その一方で、澄佳への依存はますます強まっていった。 そんな中、また屋外活動の日がやってきた。私は電車を乗り継ぎ、遊園地へ急いだ。 ようやく入口まで駆けつけると、啓斗と澄佳が勇太を真ん中に挟み、両側からその手をつないでいた。 「俺たちはもうファミリーチケットを買ったから、先に入ってる。結愛は自分のチケットを買って、あとから来て」 澄佳は勇太の頭を撫でながら言った。 「結愛さん、これも勇太くんの治療の一環なんです。気にしないでくださいね」 私はスマホをぎゅっと握りしめ、どうにか笑みを作った。 ふいにスマホが震えた。勇太からだった。 【パパ、今回も帰ったら、まだよくなってないってことにするの?】 数秒もしないうちに、そのメッセージは取り消された。 私は人の行き交う遊園地の入口に立ち尽くし、胸の奥がすっと冷えていくのを感じた。 家族のように寄り添う3人の姿が、ひどく目に刺さった。もう、見ていたくなかった。
View More啓斗は立ち上がろうとせず、濡れた土に膝をついたまま、何度も私に頭を下げた。「結愛、本当にごめん。俺が間違ってた。俺、変わるから。今度こそちゃんとする。だから……もう一度だけ、3人でやり直せないか」あれほど強気だった啓斗が、今はただ必死に私にすがっていた。それでも、もう気持ちは揺れなかった。「啓斗、もう無理なの。あなたを愛してないし、やり直すつもりもない。離婚協議書にサインして。財産も、勇太の親権も求めない。せめて最後くらい、ちゃんと終わらせよう」啓斗は肩を落とし、膝をついたままうつむいた。さっきまで必死にすがっていた姿が、急にひどく弱々しく見えた。しばらくして、啓斗がかすれた声で口を開いた。「分かった。サインする。ただ……離婚届を出すのは、一か月だけ待ってくれないか」まだ諦めきれないのだろう。啓斗の目には、わずかな期待が残っていた。私はしばらく黙っていたが、結局その頼みを断らなかった。それから一か月、啓斗は村に残った。最初の頃は毎日のように私のところへ来て、何か手伝おうとしたり、少しでも話しかけようとしたりしていた。けれど、日が経つにつれて、それもしなくなった。少し離れたところから、私が子どもたちと本を読んだり絵を描いたり、できることが増えるたびに一緒になって喜んだりする様子を、黙って見ているだけだった。ここで笑って過ごす私を見れば、もう答えは分かっていたはずだ。私は腹立ちまぎれに家を出たのではない。ここでの暮らしを選んだのだ。もう啓斗のいる家にも、我慢ばかりしていたあの頃の生活にも戻るつもりはなかった。約束の一か月が過ぎ、私は離婚届を出すために街へ戻った。よく晴れた日だった。市役所に着くと、啓斗はもう待っていた。私を見ると、何か言いたげに口を開いたものの、出てきたのは名前だけだった。「結愛……」私たちは一緒に市役所へ入り、離婚届を書いて窓口に出した。離婚届が受理されたと告げられた瞬間、ずっと胸につかえていたものが、ふっと消えた気がした。5年間抱えてきた寂しさも、何度も味わった失望も、これでようやく終わった。隣にいた啓斗は何も言わなかった。私は最後に啓斗を見て、静かに言った。「啓斗、これで本当に終わりだね」これから先、もう同じ道を歩くことはない
ほどなくして、澄佳への処分が正式に決まった。私が提出した記録や資料も含めて調査が行われ、澄佳がカウンセラーという立場を利用して、利用者の家庭に必要以上に踏み込んでいたことが問題になった。その結果、澄佳は勤務先を解雇され、所属していたカウンセラー団体にも報告され、登録も取り消された。仕事を失い、啓斗にも勇太にも拒まれ、澄佳はすっかり行き場をなくした。啓斗に連絡しても返事はなく、ほかのカウンセリング施設に応募しても、処分の経緯が分かると採用を断られた。以前は評判のよかった澄佳も、とうとう仕事を失い、その後どこへ行ったのかは誰も知らなかった。家に残ったのは、啓斗と勇太だけだった。勇太は夜になると枕を抱えて泣き、ママはいつ帰ってくるのかと何度も啓斗に聞いた。ときには、私を探しに行ってほしいと泣き叫ぶこともあった。そのたびに、啓斗は何も言えなかった。私がいなくなってから、勇太は以前より不安定になり、夜中に泣いて目を覚ますことも増えていた。それを見て、啓斗もようやく、勇太がこれまで落ち着いて過ごせていたのは、私が毎日そばで支えていたからだと気づいたのだろう。啓斗は家に残っていた書類を片っ端から探し、やがて机の引き出しの奥から、海外教育ボランティアの派遣決定通知書を見つけた。その頃の私は、啓斗が私の居場所を探していることなど、何も知らなかった。あの街を離れ、海外の山あいにある小さな村へ来てから、ようやく肩の力を抜いて暮らせるようになった。この5年間、私の生活はいつも家族を中心に回っていた。妻として、母親として、家のことを優先するのがいつの間にか当たり前になっていた。疲れていないか、つらくないか、本当はどうしたいのか。そんなふうに私のことを気にかけてくれる人は、誰もいなかった。でも、ここではもう誰かの顔色をうかがわなくていい。朝は山に薄い霧がかかり、夕方には空が一面赤く染まった。空気もきれいで、村の人たちは飾らず、気さくに接してくれた。木の実や畑の野菜、採れたての卵などを、村の人たちはよく私にも分けてくれた。子どもたちも素直で、顔を合わせると「先生!」と笑って駆け寄ってきた。大事に取っておいたお菓子を、そっと差し出してくれる子もいた。毎日、子どもたちと本を読んだり、絵を描いたりした。時間があれば
母は話しているうちに、声が少しずつ震えていった。私が何年も飲み込んできた悔しさまで、代わりに全部吐き出してくれているようだった。啓斗は目を赤くしたままうつむき、深く頭を下げた。「すべて俺が悪かったんです。本当に反省してます。お願いします。もう一度だけ、やり直すチャンスをください」母はそんな啓斗を冷たく見た。「もう遅いのよ。結愛ならここにはいないわ。一週間前に一度帰ってきたけど、荷物を置いてすぐ出ていったの。私だって、今どこにいるのか知らない」母はそれだけ言って、ドアを閉めた。啓斗はしばらく玄関先に立ち尽くしたあと、力なく帰っていった。それから啓斗は、私を捜し回った。私を知る人には片っ端から連絡し、行きそうな場所も思いつく限り当たった。それでも、私の居場所につながるものは何ひとつ見つからなかった。家に戻っても、部屋はがらんとして、物音ひとつしなかった。夜になると一人でリビングに座り、酒を飲みながら離婚協議書を眺め、そのまま朝を迎える日も増えていった。そんなある日、マンションの管理人から啓斗に連絡が入った。私の名前で申し込まれていた寄付に出された品物に、業者が来ているらしい。啓斗はマンションの入り口へ向かった。作業員がまとめている段ボールに近づくと、いちばん上に見覚えのあるガラスの置物がいくつかあった。啓斗はその場で足を止め、一つを手に取った。冷たいガラスを握る指が、かすかに震えた。どれも、私がこれまで大切にしまっていたものだった。それを全部手放したのだと分かった途端、二人で過ごした何気ない日々が次々と思い出された。そのとき、啓斗はようやく気づいたのだろう。私が啓斗なしでは生きていけなかったわけじゃない。ずっとそばにいる、家のことも勇太のこともやってくれる――そう思い込んで、私に甘えきっていたのは啓斗のほうだった。そのせいで何度も私を傷つけ、最後には家族まで壊してしまった。それから、啓斗が酒を飲む夜はますます増えていった。ある夜、澄佳が水の入ったグラスを手に啓斗のそばへ来て、そっと肩に手を置いた。「啓斗、もうそんなに思いつめないで。結愛さんだって、あんなに恵まれてたのに、それでも離婚したいなんて……私には分からないわ。私だったら、どんなにつらくても、啓斗と勇太くんを置いて出ていくなん
私を乗せた飛行機が離陸した頃、勇太の誕生日会をしていた店には、澄佳の勤務先の責任者が来ていた。「水野さん、少しいいですか。勇太くんのお母さまから、あなたについて申告がありました。確認したいことがあるので、一度戻ってください」澄佳は顔色を変え、とっさに啓斗の後ろへ身を寄せた。啓斗はすぐに澄佳をかばうように前へ出た。「すみません、勇太の父親ですけど、何かの誤解じゃないですか。水野先生にはずっと勇太を見てもらっていますが、問題になるようなことは何もありません」責任者は手元の書類に目を落としてから、静かに答えた。「そうかもしれません。ただ、ご家族との私的な関わりについて、確認が必要な内容が含まれています。こちらとしても、そのままにしておくことはできません。確認が終わるまでは、カウンセリング業務も休んでもらいます」「だから、誤解ですって」啓斗は声を強めた。「妻には俺から話します。申告も取り下げさせますから」そばにいた勇太も澄佳の脚にしがみついた。「おじさん、澄佳お姉ちゃんを連れていかないで。ママが意地悪してるだけだよ。澄佳お姉ちゃん、何も悪くないもん」さっきまで笑い声でいっぱいだった個室が、一気に静かになった。やがて周りから、澄佳のことを話すひそひそ声が聞こえ始めた。啓斗はすぐに私へ電話をかけたが、何度かけてもつながらなかった。苛立ったまま澄佳と勇太を連れて家に戻ると、啓斗はまっすぐ寝室へ向かった。ドアを開けると、開け放したままのクローゼットは半分以上空になっていて、テーブルの上には書類が置かれていた。啓斗はそれを手に取り、目を通した。次の瞬間、顔からさっと血の気が引いた。それは、私が署名した離婚協議書だった。書類を持つ啓斗の指先が、かすかに震えた。澄佳も横から書類を覗き込み、啓斗に声をかけた。「啓斗、そんなに心配しなくても大丈夫よ。結愛さんも、今は感情的になってるだけだと思う。何日かしたら落ち着いて、きっと自分から帰ってくるわ」勇太も啓斗の服の裾を引っ張った。「パパ、ママは離婚するって言って、僕たちを困らせたいだけだよ。僕たちを置いていけるわけないもん」二人にそう言われ、啓斗も次第に落ち着きを取り戻した。離婚協議書をテーブルに放り出すと、ふっと鼻で笑った。「そうだよな。結愛は
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