LOGIN御影槙人(みかげ まきと)の浮気現場を押さえたあの日、彼とベッドにいた女は、自らの顔を傷つけた。 槙人はその女を腕の中へきつく抱き寄せた。私が取り乱して叫んでも、槙人は決して女の顔を見せようとはしなかった。 私を見据える彼の目は、何かをこらえるように赤く血走っていた。 「全部、俺が悪い。残りの人生すべてをかけて、必ず償う。 依織(いおり)、頼むから……彼女を追い詰めないでくれ」 その日から、槙人は私にすべてをさらし、何ひとつ隠さなくなった。 毎日スマートフォンを差し出し、自分から車内の至るところに小型カメラを取りつけた。 女性患者からメッセージが届いただけでも、私に何度も説明を求められた。 槙人は文句ひとつ言わず、私の要求にすべて応じた。もう一度、自分を受け入れてもらうためだけに…… すべてが崩れたのは、挙式を3日後に控え、私がウェディングドレスを受け取りに行った日のことだった。 店員は戸惑いを隠せない顔をした。 「神代(かみしろ)様、ドレスなら今朝もうお受け取りになりましたよ。ついさっきも、SNSで神代様のお式の動画をお見かけしたばかりです」 彼女が開いた動画に映っていたのは―― 昨日まで私を槙人の婚約者として扱っていた新郎側の友人たちが、新郎新婦に指輪を差し出していた。その傍らには、私たち共通の友人までいた。 槙人は笑みを浮かべて身をかがめ、花嫁にだけ届くような優しい声で、「夏菜」と呼んだ。 花嫁の名は、白石夏菜(しらいし かな)。しかも、その顔は私と瓜二つだった。 私は、その場に凍りついた。
View More電話がつながっても、向こうからは長い沈黙しか返ってこなかった。相手が槙人かもしれないと気づいた瞬間、私はためらいなく通話を切ろうとした。だが、回線越しに彼のかすれた声が届く。「依織、頭の中に、突然もう一つの記憶が流れ込んできた。おまえは過去へ戻って、俺とおまえの未来を変えたんだな?」槙人は声を詰まらせた。「未来を知っていたなら、どうして俺を止めなかった?あの日、俺が夏菜のところへ行くのを止めてくれていたら、今度こそ俺たちは幸せになれたかもしれないのに」ここまで言われてしまえば、何も知らないふりをして問いをかわすことはできない。しばらく黙ったあと、私は口を開いた。「そのやり方なら、あのとき、あなたと夏菜がベッドを共にしているところを目の当たりにしたあとで、すでに試したわ。その果てにあなたが出した答えを、自分で分かっていないの?」槙人が何か言い返す前に、私はそのまま通話を切った。槙人は私が思っていた以上に執拗だ。翌日、ブランドのショーの成功を祝うパーティーでのことだった。突然現れた槙人が、私の手首を強くつかんだ。「依織、話をしよう」一晩中眠っていないのだろう。目はひどく充血していた。けれど私は、会場スタッフの制服を着た彼を見て眉をひそめ、警備員を呼ぼうとしただけだった。すると槙人は、私を強引に抱きすくめ、取り乱した声を上げた。「やめてくれ、依織。頼むから、そんなに冷たくしないでくれ。もう一度だけチャンスをくれないか?今度こそ同じ過ちは繰り返さないと誓う」我慢の限界だった。私は槙人の腕を振りほどき、平手でその頬を打った。「槙人、あなたの誓いなんて、もう何の価値もないって、まだ分からないの?」槙人は青ざめ、慌てて言葉を継いだ。「今度は本当にできる」私は冷ややかに問い返した。「では、夏菜は?あなたたちはもう夫婦でしょう。今度は私を不倫相手にするつもり?」槙人は激しく首を振り、私の両肩に手をかけた。「違う、そんなことはしない。夏菜とは離婚する。あいつとの結婚は、初めから間違いだった。おまえに言われなくても、きっぱり終わらせる。そうしたら、俺たちでやり直そう。おまえが行きたい場所にはどこへでもついていく。子どもが欲しいなら、おまえに似た子を……おまえが望むことなら、
車に乗り込んでからも、私は何度も手首をぬぐっていた。その様子を見ても、蒼真は何も尋ねなかった。ただ身をかがめ、車載用の保温ボックスから、消毒済みのタオルを取り出した。私の手をそっと取り、そのタオルで手首を丁寧に拭いてくれた。タオルのぬくもりが肌から染み入り、胸の奥までゆっくりと広がっていった。「あの人が誰なのか、聞かないの?」蒼真はふっと笑った。そして、私をやさしく腕の中へ包み込んだ。「あんな人のことより、僕は大切な依織に、仕事に打ち込むときほど自分の体も大事にしてほしいけどね」私は蒼真を抱き返し、思わず小さく笑った。けれど、ふと目を伏せた瞬間、槙人のあの言葉が再び耳の奥によみがえった。「俺たちに何があったのか、本当に覚えていないのか?」私は答えなかった。忘れたからではない。むしろ、あまりにも鮮明に覚えていたからだ。槙人と夏菜がどのように私を裏切り、父と母、そして私がどのように追い詰められていったのか、そのすべてを。そして絶望のまま車道へ飛び出したあと、意識を失った私の前に、少年の頃、私を心から愛していた槙人が現れたことも。傷だらけの私を見た彼は、今にも崩れ落ちそうな顔をした。未来の自分が私にそこまでの仕打ちをするなど、どうしても信じられなかったのだ。やがて彼は屋上に立ち、私へ苦い笑みを向けた。「依織、俺の命と引き換えに、おまえを過去へ帰す。今度こそ、幸せになってくれ」次に目を開けたとき、私は夏菜が路地で柄の悪い男たちに囲まれた日へ戻っていた。今度の私は、夏菜のために飛び出していった槙人を追わなかった。危険を承知で、彼を助けに行くこともしなかった。家へ駆け戻り、何も知らない父と母を抱きしめて、泣きながら笑った。人生をやり直すことになった私は、槙人や夏菜への復讐などどうでもよかった。ただ、大切な家族を守りたかった。だから父と母を説得し、私たちはすぐにその町を離れた。行き先を知らせるものは、何ひとつ残さなかった。蒼真は、移り住んだ別の町で出会った人だ。取り違えた1杯のコーヒーが、私たちの縁の始まりになった。身を焦がすようだった槙人との恋とは違い、蒼真とは出会い、少しずつ互いを知り、いつしか自然に寄り添うようになった。穏やかで、だからこそ心から安心できた。あ
槙人を取り巻く空間が、端から砕け、またたく間に組み替わっていく。ワンフロアを占める高級マンションは、息苦しいほど狭く薄暗い地下の一室へと変わった。むき出しのれんが壁には、油染みにまみれた槙人と夏菜の結婚写真が貼られている。結婚写真とはいっても、どこかで適当に撮った二人の写真にしか見えない。写真の中の二人の笑顔も、ひどくぎこちなかった。ついさっきまで床にへたり込み、腹を押さえて痛みにうめいていた夏菜。その顔は、すでに本来の彼女のものへ戻っていた。スカートの裾から血の跡がきれいに消えていることに気づくと、夏菜は突然、甲高い悲鳴を上げた。「何よ、これ……どうなってるの!?」槙人も、あまりに不可解な異変にしばし言葉を失った。はっとして、手の中のスマートフォンへ目を落とす。だが、どれほど履歴をさかのぼっても、先ほどのメッセージだけは見つからなかった。何もかも、彼が見た幻にすぎなかったかのように。それでも、体に合わせて仕立てたはずのスーツは、いつの間にか何度も洗って色あせたシャツに変わっていた。かつて依織が彼の指にはめた指輪まで、跡形もなく消えている。依織……ある考えに突き動かされるように、槙人は跳ね起き、玄関へ駆けようとした。だが次の瞬間、足元がもつれ、そのまま床へ倒れ込む。何が起きたのか分からないまま、呆然と右脚へ手を伸ばした――あるはずの場所には、何もなかった。槙人は、粗末な木のベッド脇に置かれた義足を、ただ見つめた。嫌な予感が背筋を走り、頭の奥で耳鳴りのような音がした。背後で取り乱した夏菜が泣き叫んでいても、今は振り返る余裕すらなかった。槙人は慣れない手つきで義足を装着すると、足を引きずるようにして病院へ急いだ。ところが、依織がいるという病室へ入ろうとしたところで、看護師に行く手を遮られた。「患者さんの許可がない方を、病室へお通しすることはできません」槙人の顔が険しくなる。「新入りか?俺はこの病院の医師だ。依織は俺の婚約者だ。どうして入れない?」看護師は、正気を疑うような目で槙人を見た。「私はこの病院で10年働いていますが、あなたをお見かけしたことは一度もありません。それに、病室にいらっしゃるのは確かに依織さんですが、3年前に水城教授と結婚された方です。あなたの奥様で
槙人は足を止め、夏菜へ冷えた目を向けた。「何か用か」夏菜は唇をかんだ。あの日、槙人が依織との関係を口にしかけたのを、夏菜が人前で止めて以来、彼の態度は目に見えて冷たくなっていた。夏菜は、槙人がただ怒っているだけだと受け取っているようだった。かつて依織が夏菜の仕事の接待に何度も付き合い、飲酒を重ねたあとに流産したときも、槙人は夏菜を責めた。一度は縁を切り、依織だけを大切にするとまで言い放った。それでも夏菜がバーで酔いつぶれたふりをすれば、槙人は迷わず迎えに来た。だから今回も、時間がたてば許されると高をくくっているようだった。夏菜は槙人の胸へ飛び込み、声を詰まらせた。「槙人、人はいつまでも過去にとどまってはいられないわ。前を向かなくちゃ。依織は私たちをあんなに大切にしてくれたんだもの。私たちがいつまでも苦しむことなんて、望んでいないはずよ」依織の名を聞き、槙人は一瞬動きを止めた。腕の中で、依織への思いを利用して自分をつなぎ止めようとする女を見下ろした。胸の底から、疲れにも似た失望がこみ上げた。依織はあれほど夏菜に尽くした。なのに夏菜の中に、依織への罪悪感はどれほど残っているのだろう。しばらく黙ったあと、槙人は夏菜の身体を静かに押し離した。「妊娠しているんだ。早く休め」夏菜には、その突き放す響きが届かなかったらしい。瞳を輝かせ、お腹をなでながら、ためらいがちに切り出した。「槙人、もうお腹も大きくなってきたし、そろそろ先のことを決めないと。神代家は事業も大きく、人脈も広いでしょう。でも、今の依織にはそれを守れない。私には依織と同じ顔があるんだから、いっそ依織として振る舞えばいいと思うの。そうすれば堂々とあなたと結婚できるし、この子にも神代家の人脈や後ろ盾を残してあげられる……」槙人は愕然としたまま、その企てを聞いていた。胸の内が激しくかき乱された。かつて槙人は恋人として依織がそばにいることを心から喜び、夏菜もまた、友人として同じ思いでいるように見えていた。依織のまなざしを独り占めしたくて、互いを敵のように見ていた時期さえある。それでも依織は二人を受け入れ、惜しみなくすべてを注いだ。それほどまでに、二人の乾いた人生には、あまりにも明るい光が差し込んだ。その光は、隠し