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第4話

雨宮結衣
でも、もう全部どうでもよかった。

優里香は自嘲気味に笑い、ピーナッツを口へ運び続けた。香ばしい匂いの中に、少し塩気を帯びた涙の味が混ざり合い、口の中いっぱいに広がっていく。

苦くて、息が詰まりそうだった。

光貴と優希が帰宅した頃、家の中はまだ真っ暗だった。以前なら、どれだけ帰りが遅くなっても、優里香は必ずリビングに小さな灯りを残して待っていた。

けれど今日は……

光貴は眉をひそめ、明かりをつけると二階を見上げた。

使用人が慌てて降りてきて、今にも眠りそうな優希を抱き上げた。

それから何か言いたげに何度も光貴を見たあと、ようやく口を開いた。「旦那様……奥様、まだお戻りになってないんです。よければ、お電話でもされてみては……?」

「帰ってない?」

光貴は意外そうな顔をした。

「はい。昨夜から一度も……奥様、今までこんなこと一度もありませんでしたから……」使用人は小さく溜息をついた。

優里香の苦しさも悔しさも、彼女はずっと見てきた。

けれど、それを口にできる立場ではなかった。

うとうとしていた優希がその会話を聞き、目を擦りながら口を開いた。「パパ、ママもう帰ってこないの?だったらよかった!明日、美月おばちゃんをおうちに呼ぼうよ?」

「優希を連れて上がっててくれ」

光貴は低い声でそう言うと、そのまま再び外へ出ていった。

車に乗り込んだ光貴は、優里香へ電話をかけた。

「まだ病院か?」

「……うん」

電話越しの声は、どこか疲れ切っていた。

光貴は、彼女が何か説明するものだと思っていた。だが待っても、優里香は何も言わない。次第に苛立ちが滲んだ。「お前、昨日夜勤だっただろ」

「だから?」

眠っていたところを起こされたせいか、優里香の声にはまだ少し柔らかさが残っていた。けれどその言葉は、いつもよりずっと鋭かった。

彼女は淡々と続けた。「机の上の離婚届、サインした?終わったら、誰かに届けさせて。私、しばらく病院に泊まるから」

「……離婚届?」

光貴は一瞬、意味が理解できなかった。「また何を騒いでるんだ?」

「私は今まで離婚を使って駆け引きしたことなんてないでしょ」優里香の声は驚くほど静かだった。「光貴。私たちの結婚は、最初から事故みたいなものだったでしょう。だから、もうあなたと美月の邪魔はしない。

優希はあなたに。お金も、自分で稼いだ分だけでいいから」

そこでようやく、光貴は彼女の本気を理解した。

だが返ってきたのは、不機嫌さを隠そうともしない声だった。「優里香、お前って本当に器が小さいな。優希が美月と仲いいことの何が悪い?俺と美月だって普通に接してるだけだ。昨日の食事だって、就職を祝っただけだろ。何をそんなに騒ぐ必要がある?

お前、なんでそんなに心が汚いんだ?そんなに美月のことを受け入れられないのか?」

また、それだ。

優里香は怒りを通り越し、思わず笑ってしまった。

「好きに思えばいい」

そう淡々と言い残し、通話を切った。

全身の血が抜けていくようだった。優里香は静かにベッドヘッドへ寄りかかり、胸の冷たさが四肢の先まで広がっていくのを感じていた。

すぐにスマホが何度も鳴り始めた。全て光貴からのメッセージだった。

【気が済んだならさっさと帰ってこい。病院暮らしなんてみっともない】

【また美月に嫌がらせするなよ。次は容赦しない】

【?】

優里香は、一通も返信しなかった。

光貴は既読のつかない画面を睨みつけ、ますます表情を冷たくすると、そのままアクセルを踏み込んで家へ戻った。

そして寝室のドレッサー脇の隙間から、優里香の言っていた離婚届を見つけた。最後に書かれた優里香の署名は、驚くほど整っていた。衝動的に書いたものではない。

なぜだ?

自分と結婚したがったのは彼女の方だったはずだろ?

……

翌朝。目を覚ました優希は、真っ先に優里香の部屋へ駆け込んだ。だが誰もいなかった。そのまま足音を立てながら光貴の元へ走っていく。

「パパ、ママがいない!

もう帰ってこないんだよね?だったら美月おばちゃんを呼んで一緒に住もうよ!」

優希の顔には隠しきれない喜びが浮かんでいた。

そして電話機能付きの腕時計を操作しながら言った。「今すぐ美月おばちゃんに電話する!嫌なやつが、やっといなくなった!」

「ご飯を食べなさい」

光貴は眉を寄せ、優希を横目で睨んだ。

「パパ……」

優希はびくりと肩を縮めた。その様子を見て、光貴はわずかに表情を和らげた。「早く食べなさい。学校に遅れるぞ。美月おばちゃんの件は、帰ってきてからだ」

「やったー!」

優希は嬉しそうに声を上げ、上機嫌で食事をかき込んだ。

その様子を見ながら掃除をしていた使用人は、思わず首を振った。優里香が気の毒でならなかった。

一方、優里香は昨夜、光貴の電話のせいでほとんど眠れず、そのまま徹夜同然で出勤していた。病院の廊下へ入ったところで、偶然、両親と鉢合わせた。

二人は彼女の酷い顔色を見て、また美月のことで光貴と揉めたのだろうと思ったらしい。

母親は困ったように溜息をついた。「優里香、お母さん昨日あれだけ話したでしょう?少しは分かってくれたと思ったのに、どうしてまだそんなに執着するの?光貴さんだって、もう六年もあなたといたんだから、そろそろ美月に返してあげてもいいじゃない」

父親も低い声で続けた。

「そうだ。当時だって、優里香が妊娠しなければ、あの二人は……それに今なら分かってるだろ?光貴さんの心は優里香には向いていない。無理に縛りつけても意味がないんだ」

優里香は、「お前のためを思っている」という顔をした両親を冷ややかに見つめた。胸の奥が痛かった。

壁へ軽く寄りかかりながら、震える唇で言葉を絞り出した。「お父さん、お母さん……美月が当時光貴と付き合わなかったのって、本当に私のせい?他の男と遊んで妊娠して、中絶のために海外へ行ったこと、二人は……」

「黙りなさい!」

父親が鋭く怒鳴った。周囲を慌てて見回し、誰にも聞かれていないことを確認すると、優里香へ詰め寄った。

「優里香、どうして妹の名誉をそんなふうに汚せるんだ!まだ結婚もしてない子なんだぞ!」

母親も慌てて口を挟んだ。「そうよ!女の子にとって名誉がどれだけ大事か分からないの?もしまだ私たちを親だと思うなら、この話は墓まで持っていきなさい。じゃないと……」

「じゃないと、何?」

優里香は涙を堪えながら、静かに問い返した。

どうしてここまで偏れるのか、本当に分からなかった。自分も、美月も、同じ娘のはずなのに。

母親は自分が言い過ぎたことに気づいたのか、少しだけ勢いを弱めた。

「優里香……お願い。お父さんとお母さんのためだと思って、光貴さんを美月に返してちょうだい」

唇を噛み締めると、切れた傷口から鉄臭い味が滲んだ。

一晩眠れず、半日何も食べていないせいで、視界が揺れる。

「安心して。もう光貴には離婚を切り出してるから」

「本当?」

両親はぱっと表情を明るくしたが、すぐに不安そうに念を押した。「優里香、嘘じゃないわよね?あなた……」

それ以上、聞きたくなかった。

優里香は壁へ手をつきながら、その場を離れた。力を込めすぎた指先は白くなっていた。

どうして自分は、こんなにも惨めな人生になってしまったんだろう……

「花園先生、大丈夫ですか?」

通りかかった若い看護師が慌てて彼女を支えた。「顔色すごく悪いです。低血糖じゃないですか?」

そう言いながら、小さなチョコレートを彼女の手に握らせた。

「これ食べてください。少しは楽になるかもしれないので」

「……ありがとう」

優里香は掠れた声で礼を言い、チョコレートを握る手にそっと力を込めた。

どうして。

ただ通りかかっただけの看護師ですら、ひと目で自分の異変に気づくのに。どうして、三十年以上も医者をやってきた実の両親は、何ひとつ気づいてくれないのだろう。
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