その日、私は公爵邸の図書室にいた。
普段は滅多に人が訪れない、静かで落ち着く場所だ。埃一つない書架には、貴重な書物がずらりと並んでいた。 そこで私は、とある一冊の恋愛小説を読んでいた。身分違いの二人が、数々の困難を乗り越え、真実の愛を育んでいく物語。登場人物たちの情熱的な言葉や、互いを想い合う気持ちが、私の心を強く揺さぶった。「馬鹿げている」
読み終えた時、そう呟いたのは自分自身だった。
愛なんて、貴族の政略結婚には必要ない。そんなことは、頭では十分に理解している。けれど、心はどうだろう? 毎日のように突きつけられる彼の冷淡な態度。まるで空気のように扱われる日々に、私の心は悲鳴を上げていた。私は、愛を求めてはいけないのだろうか?
たとえ政略結婚であっても、少しの優しさや、人間らしい温かさくらいは期待しても良いのではないか?そんなことを考えていると、ふと、彼の言葉が脳裏をよぎった。
「貴様が愛を求めるのであれば、今すぐにでも破談にする」 そうだ。彼は、そう言った。 つまり、破談の選択肢は、私にも与えられているのだ。私は、ゆっくりと立ち上がった。
今まで、私はフェルティア公爵家の娘として、与えられた役割を果たすことだけを考えてきた。それが義務であり、貴族としての矜持だと思っていた。 けれど、もう、限界だった。このまま彼の隣で、心まで凍えさせるような人生を送るなんて、私にはできない。私は、決意した。
この結婚を、私から破棄する。それから数日後。
私は公爵邸に赴き、アシュトン様との面会を求めた。執務室で彼と向き合うのは、婚約が決まって以来、数えるほどしかない。 彼の執務室は、相変わらず冷たい空気が張り詰めていた。窓から差し込む陽光さえも、どこか凍りついているように見える。 アシュトン様は、書類に目を通したまま、私に視線を向けることもなく言った。「何の用だ」
その冷たい声に、私の決意は揺るぎないものとなった。
「アシュトン様にお伝えしたいことがございます」 私は深呼吸をし、背筋を伸ばした。 「私、セリーナ・フェルティアは、アシュトン・ヴァルター公爵様との婚約を、本日をもって破棄させていただきたく、参りました」私の言葉に、アシュトン様の手がぴたりと止まった。
そして、ゆっくりと顔を上げ、私にその黒曜石の瞳を向けた。 その瞳は、まるで感情のない人形のようで、私の言葉に驚きも、怒りも、悲しみも、何も映していなかった。 ただ、静かに、私を見つめていた。「……何を言っている?」
沈黙の後、彼がようやく口を開いた。その声には、微かにだが、初めて私に対する感情が混じっているように感じられた。それは、訝しむような、あるいは呆れたような響きだった。「愛がないなら、結婚する意味なんてないじゃないですか?」
私は、先日からずっと心の中で繰り返していた言葉を、そのまま口にした。 「アシュトン様は、私に愛を与えないとおっしゃいました。私も、アシュトン様に愛を抱いてはおりません」 私は、自分でも驚くほど冷静に、理路整然と続けた。 「愛のない結婚に、私は価値を見出せません。公爵令嬢としての義務は理解しておりますが、これ以上、形だけの関係を続けるのは、双方にとって無益であると判断いたしました」私の言葉を聞きながら、アシュトン様の表情は、ゆっくりと、しかし確実に変化していった。
彼の眉間に薄く皺が寄り、口元はわずかに引き結ばれている。感情がないと思っていたその瞳の奥に、微かな動揺のようなものが flicker したのを、私は見逃さなかった。 「……無益、だと?」 彼は、私の言葉を反芻するように呟いた。 「そうだ。これは政略結婚。貴様も理解していたはずだ」「はい、理解しておりました。だからこそ、これまで耐えて参りました」
私は、少しだけ声のトーンを上げた。 「ですが、アシュトン様は私を無視し、まるで存在しないかのように扱われました。私にとって、それはもはや政略結婚という枠を超えて、精神的な苦痛でしかありませんでした」 私は、今まで心の奥にしまい込んでいた感情を、あえて言葉にした。 「私に何の感情も抱かないアシュトン様と、これ以上人生を共にすることはできません。私には、私の人生がございます。愛のない結婚に、私の残り人生を捧げることはできないと、そう決意いたしました」アシュトン様は、私の言葉を聞き終えると、再び沈黙した。
そして、その黒い瞳が、まるで私を深く探るように、じっと見つめてくる。 その視線に、私の心臓が小さく跳ねた。いつも冷たい彼の視線に、初めて、ある種の圧力を感じたのだ。「……面白い」
やがて、アシュトン様は、口元に微かな笑みを浮かべた。 それは、嘲笑なのか、あるいは、私を試すような笑みなのか。私には判断できなかった。 「貴様が、そこまで言い切るとはな」「本心でございます」
私は、真っ直ぐに彼の目を見つめ返した。 もう、怯える必要はない。私は、私の意志で、この関係を終わらせるのだから。 「つきましては、婚約破棄の同意書にご署名いただけますでしょうか」 私は、懐から事前に準備しておいた書類を取り出し、彼のデスクにそっと置いた。アシュトン様は、その書類に視線を落とした。
そして、私の言葉を反芻するように、もう一度呟いた。「愛がないなら、結婚する意味ない、か……」
彼のその言葉は、まるで、私には聞こえない何かを、彼自身の心に問いかけているようだった。
あれから半年。 アシュトン様との婚約は無事に継続され、公爵邸での私の生活は、以前では考えられないほど穏やかで、そして温かいものに満ちていた。 冷徹公爵と呼ばれたアシュトン様は、今ではすっかり「愛妻家公爵」などと揶揄される始末だ。もちろん、本人に直接言う者はいないけれど。「セリーナ。また、そんなところで居眠りを」 暖炉のそばの大きなソファで、日当たりの良さに誘われてうとうとしていた私に、低い声がかけられた。 ゆっくりと目を開けると、アシュトン様が、いつの間にか私の隣に座っていた。彼は執務の合間に、こうして私を覗きに来るのが常になっていた。「あら、アシュトン様。お仕事はもうよろしいのですか?」 私がにこやかに問いかけると、彼の眉間に薄く皺が寄った。「貴様の顔を見に来ただけだ」 相変わらず素っ気ない言い方だが、その瞳の奥には、確かな優しさが宿っている。「ふふ、ありがとうございます」 私が身を起こすと、アシュトン様は私の髪に触れた。「髪が乱れているぞ」 そう言って、不器用な手つきで私の髪を直そうとする。以前の彼からは想像もできない行動に、私は小さく笑った。「あら、アシュトン様の手ほどきなんて、贅沢ですね」 私が揶揄うと、彼は少しだけ顔を赤らめた。「それより、セリーナ」 彼は、真顔に戻ると、私の手を握った。「今日の午後、王都の菓子店へ出かけると聞いたが、一人で行くつもりか?」 彼の言葉に、私は思わず目を瞬かせた。私が侍女に話しただけのことを、彼はなぜ知っているのだろう。「ええ。新しい菓子の材料を探しに」 私が答えると、アシュトン様はすぐに言った。「俺も同行する」「あら、お忙しいのではありませんか?」 私が尋ねると、彼はふいと顔をそらした。「……貴様を一人で行かせるのは、心配だ」 その言葉に、私はぷっと吹き出した。相変わらずの、隠しきれない執着ぶりだ。「もう、アシュトン様ったら。私が一人で何ができるというので
王妃の座を辞退するという、前代未聞の決断を下した後、私は王宮の廊下を、心穏やかに歩いていた。 私の胸には、国王陛下の言葉が響いていた。「真実の愛を選んだ貴殿の人生が、幸福に満ちたものとなることを願う」。 名誉や権力ではなく、私が本当に望むものを手に入れたのだという確かな充足感が、私の全身を包み込んでいた。 王宮を出て、待たせていた馬車に乗り込んだ。 馬車が公爵邸へと向かう間、私の心は、早くアシュトン様の元へと帰りたいという思いでいっぱいだった。 彼が、私の決断を知ったら、どんな顔をするだろう。 驚くだろうか、それとも、安堵してくれるだろうか。 彼の表情を思い浮かべると、自然と頬が緩んだ。 公爵邸の門が見えてきた。 門の前には、アシュトン様が、私を待っていたかのように、そこに立っていた。 彼の顔には、微かな不安の色が浮かんでいるように見えた。 私が馬車から降りると、アシュトン様は私に駆け寄ってきた。 「セリーナ……」 彼の声は、不安と、そして、私への強い想いが入り混じったような響きだった。 私は、彼の顔を見上げ、満面の笑みを浮かべた。 「アシュトン様。私、王妃の座を辞退してまいりました」 私の言葉に、アシュトン様の表情が、一瞬にして凍りついた。 そして、彼の瞳の奥に、深い絶望の色が浮かんだように見えた。 「だが……貴様は、最終合格者だったのだろう……?」 彼が何かを言おうとすると、私は彼の言葉を遮った。「はい。ですが、お伝えいたしました通り、私には王妃の務めを全うすることはできません。私の心は、すでにアシュトン様だけを愛しておりますから」 私の言葉に、アシュトン様の瞳が、驚きに見開かれた。 信じられないものを見るように、私を見つめている。 「どういうことだ……セリーナ……」 彼の声は、戸惑いと、そして、微かな希望が混じり合っているように聞こえた。 私は、彼の両手を握りしめ、彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。 「愛のない結婚に意味はないと、私がお伝えし
王妃選定試験の最終結果が発表される日。 私は、公爵邸でアシュトン様と共にその知らせを待っていた。アシュトン様は、落ち着かない様子で執務室の窓辺に立ち、遠くの空を眺めていた。その横顔には、珍しく微かな緊張の色が浮かんでいるように見えた。 私は、彼の隣にそっと歩み寄った。「アシュトン様。もし、私が王妃に選ばれたら……」 私が言葉を切ると、アシュトン様は私を真っ直ぐに見つめた。「その時は、貴様の意思を尊重しよう。だが、貴様が望むのならば、俺は……」 彼の言葉は、そこで途切れた。彼の瞳の奥には、私への強い執着と、そして、失うことへの微かな恐怖が揺らめいているように見えた。 その時、公爵邸の執事が慌ただしく執務室に飛び込んできた。「アシュトン様!セリーナ様!王宮から、伝令でございます!」 執事の手には、厳重な封がされた書状が握られていた。 アシュトン様は、その書状を受け取ると、ゆっくりと封を破り、中身に目を通した。 彼の表情が、見る見るうちに硬直していくのが見えた。「……そうか」 彼は、低い声で呟いた。「アシュトン様、何と書かれていましたの?」 私が尋ねると、アシュトン様は書状を私に手渡した。 私は、震える手で書状を受け取り、その内容に目を通した。 『セリーナ・フェルティア嬢を、次期王妃候補の最終合格者と定める。よって、改めて王妃の座への意向を問う』 私は、その言葉に、息を飲んだ。 私が、王妃に選ばれる可能性が最も高かったのだ。つまり、王妃になるか否かは、私の最終的な意思にかかっている。「セリーナ……」 アシュトン様が、私の名を呼んだ。 私は、彼に視線を向けた。彼の瞳は、私を深く見つめていたが、その奥には、複雑な感情が渦巻いているように見えた。「貴様が、望んだ結果か?」 彼の問いかけに、私は、迷いなく答えた。「いいえ、アシュトン様。これは、私の
王妃選定試験は佳境に入り、最終候補の三人への注目は日々高まっていった。私、セリーナ・フェルティア。そして、最後まで残ったのは、私と、もう一人、侯爵令嬢のリアーナ・クレメンス嬢だった。エルメリア嬢は、アシュトン様の介入により早々に辞退を余儀なくされ、王妃の座を巡る争いは、私とリアーナ嬢の一騎打ちとなっていた。 アシュトン様の執着は、王宮でも知れ渡るようになり、私がどこへ行っても彼の護衛が影のように付き従った。周囲の令嬢たちからは好奇の目で見られたが、私にとって彼の存在は、重圧であると同時に、漠然とした不安を打ち消してくれる唯一のよりどころになりつつあった。彼の歪んだ執着の中に、私への確かな「特別」があることを、私の心は感じ取っていたのだ。 ある日の夕食後、私はアシュトン様の執務室に呼び出された。 「セリーナ。王妃選定試験の進捗は?」 彼の声は、いつも通り感情の起伏が少なかったが、その瞳は私を深く見つめていた。 「滞りなく進んでおります。最終選考に残ったのは、私とリアーナ嬢の二人でございます」 私がそう答えると、彼は静かに頷いた。 「国王陛下は、貴様を高く評価していると聞く。貴様は、本当に王妃になるつもりか?」 彼の問いかけに、私は言葉に詰まった。王妃の座は、名誉であり、フェルティア公爵家の繁栄にも繋がる。しかし、それは同時に、アシュトン様の隣から離れることを意味していた。「……王命に背くことはできません」 私は、そう答えるのが精一杯だった。 アシュトン様は、私の言葉を聞くと、ゆっくりと椅子から立ち上がった。 そして、私の前に立ち、私の頬にそっと手を触れた。 彼の指先は、ひんやりと冷たかったが、その温度とは裏腹に、私の心臓は熱く脈打った。「セリーナ。貴様は、本当に愛のない結婚に意味はないと、そう思っているのか?」 彼の問いかけは、まるで私の心を覗き込もうとするかのような響きだった。 「……はい」 私は、震える声で答えた。 「ならば、俺は……貴様を、愛せば良いのか?」 アシュトン様の言葉に、私は息を飲んだ。 愛する? 彼が? 感情を知らないと語っていた彼が、私を? 彼の瞳は、私を真剣に見つめていた。そこには、今まで見たことのないような、迷いや、戸惑いのような感情が揺らめいているように見えた。「アシュトン
王妃選定試験は、予想以上に熾烈なものだった。 私を含め、選ばれた令嬢たちは皆、それぞれの家柄と教養を背景に、王妃の座を巡って静かに火花を散らしていた。 私は、アシュトン様の視線を感じながらも、試験に集中しようと努めた。彼の執着は、私にとって重圧であると同時に、どこか奇妙な安心感を与えていることに、私自身が困惑していた。 試験の一環として、各令嬢は王族の前で自身の才覚を披露することになった。 私は、幼い頃から学んできたピアノを披露することにした。それは、私にとって、唯一の自己表現の場だった。 演奏の順番を待っている間、私は控え室で最後の練習をしていた。 その時、扉がノックされ、アシュトン様が姿を現した。「セリーナ。貴様は、ピアノを弾くのか」 彼の声には、僅かな驚きが混じっているように聞こえた。「はい。幼い頃から習っておりましたので」 私が答えると、アシュトン様は私の隣に立ち、私の手元にある楽譜に視線を落とした。「……貴様は、まだ私に何も明かしていないことがあったのだな」 彼の言葉には、どこか不満げな響きがあったが、その瞳の奥には、私への好奇心のような光が揺らめいているように見えた。「アシュトン様は、音楽がお好きではないと伺っておりましたが……」 私がそう言うと、彼は私に視線を向けた。「俺は、貴様の奏でる音ならば、聞いてやっても良い」 彼の言葉は、彼なりの精一杯の譲歩なのかもしれない。私は、彼の意外な言葉に、少しだけ心が温かくなった。 そして、私の番が来た。 私は、緊張しながら舞台へと向かった。客席には、国王陛下を始め、王族の方々、そして数多くの貴族たちが座っていた。 その中に、アシュトン様の姿もあった。彼の視線は、私を真っ直ぐに捉えていた。 私は、深呼吸をし、鍵盤に指を置いた。 私が演奏したのは、幼い頃から好きだった、故郷の風景を思い起こさせるような、穏やかな曲だった。 私の指が鍵盤の上を滑るたびに、澄んだ音色が広間に響き渡った。
陛下の突然の来訪、そして私を次期王妃候補とする命令は、私の日常に大きな波紋を投げかけた。 アシュトン様は、私を王妃選定試験に参加させまいと、ますますその執着を強めた。公爵邸は、まるで私を閉じ込めるための厳重な檻と化したかのようだった。「セリーナ、今日は外出しないのか?」 朝食の席で、アシュトン様が私に尋ねた。彼の視線は、私の行動を常に探っているかのようだった。「はい。今日は、公爵邸の図書室で過ごそうかと」 私がそう答えると、彼は満足げに頷いた。「賢明な判断だ。外は騒がしい」 彼の言葉に、私は息苦しさを感じた。彼は、私が自主的に公爵邸に留まっていると思っているのだろうが、実際は彼の監視下から逃れることができないだけだ。 しかし、王妃選定試験への参加は、王命である。私が拒否すれば、フェルティア公爵家が危うくなる。 私は、アシュトン様の目を盗んで、父に手紙を送った。王命に背くことはできない、と。 数日後、父からの返信が届いた。そこには、王妃選定試験には必ず参加するように、という指示が書かれていた。そして、アシュトン様には、私が王妃選定試験に参加せざるを得ない状況であることを、それとなく伝えるように、とも。 私は、手紙を読み終えると、覚悟を決めた。 私は、王妃選定試験に参加する。それが、私の使命だ。 その夜、私はアシュトン様に、王妃選定試験に参加する旨を伝えようとした。 夕食の席で、彼がデザートに手を伸ばした時、私は意を決して口を開いた。「アシュトン様。私、王妃選定試験に参加させていただきます」 私の言葉に、アシュトン様の手がぴたりと止まった。 彼の顔から、一瞬にして血の気が引いていくのが見えた。 そして、ゆっくりと顔を上げ、私を射抜くような視線で睨みつけた。「……何を言っている?」 彼の声は、低く、そして怒りに満ちていた。「陛下からの命令でございます。フェルティア公爵家として、王命に背くことはできません」 私がそう言うと、アシュトン様は立ち上がり、テーブルを