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2.決意の破棄

last update Date de publication: 2025-07-01 15:34:19

 その日、私は公爵邸の図書室にいた。

 普段は滅多に人が訪れない、静かで落ち着く場所だ。埃一つない書架には、貴重な書物がずらりと並んでいた。

 そこで私は、とある一冊の恋愛小説を読んでいた。身分違いの二人が、数々の困難を乗り越え、真実の愛を育んでいく物語。登場人物たちの情熱的な言葉や、互いを想い合う気持ちが、私の心を強く揺さぶった。

「馬鹿げている」

 読み終えた時、そう呟いたのは自分自身だった。

 愛なんて、貴族の政略結婚には必要ない。そんなことは、頭では十分に理解している。けれど、心はどうだろう? 毎日のように突きつけられる彼の冷淡な態度。まるで空気のように扱われる日々に、私の心は悲鳴を上げていた。

 私は、愛を求めてはいけないのだろうか?

 たとえ政略結婚であっても、少しの優しさや、人間らしい温かさくらいは期待しても良いのではないか?

 そんなことを考えていると、ふと、彼の言葉が脳裏をよぎった。

「貴様が愛を求めるのであれば、今すぐにでも破談にする」

 そうだ。彼は、そう言った。

 つまり、破談の選択肢は、私にも与えられているのだ。

 私は、ゆっくりと立ち上がった。

 今まで、私はフェルティア公爵家の娘として、与えられた役割を果たすことだけを考えてきた。それが義務であり、貴族としての矜持だと思っていた。

 けれど、もう、限界だった。このまま彼の隣で、心まで凍えさせるような人生を送るなんて、私にはできない。

 私は、決意した。

 この結婚を、私から破棄する。

 それから数日後。

 私は公爵邸に赴き、アシュトン様との面会を求めた。執務室で彼と向き合うのは、婚約が決まって以来、数えるほどしかない。

 彼の執務室は、相変わらず冷たい空気が張り詰めていた。窓から差し込む陽光さえも、どこか凍りついているように見える。

 アシュトン様は、書類に目を通したまま、私に視線を向けることもなく言った。

「何の用だ」

 その冷たい声に、私の決意は揺るぎないものとなった。

「アシュトン様にお伝えしたいことがございます」

 私は深呼吸をし、背筋を伸ばした。

「私、セリーナ・フェルティアは、アシュトン・ヴァルター公爵様との婚約を、本日をもって破棄させていただきたく、参りました」

 私の言葉に、アシュトン様の手がぴたりと止まった。

 そして、ゆっくりと顔を上げ、私にその黒曜石の瞳を向けた。

 その瞳は、まるで感情のない人形のようで、私の言葉に驚きも、怒りも、悲しみも、何も映していなかった。

 ただ、静かに、私を見つめていた。

「……何を言っている?」

 沈黙の後、彼がようやく口を開いた。その声には、微かにだが、初めて私に対する感情が混じっているように感じられた。それは、訝しむような、あるいは呆れたような響きだった。

「愛がないなら、結婚する意味なんてないじゃないですか?」

 私は、先日からずっと心の中で繰り返していた言葉を、そのまま口にした。

「アシュトン様は、私に愛を与えないとおっしゃいました。私も、アシュトン様に愛を抱いてはおりません」

 私は、自分でも驚くほど冷静に、理路整然と続けた。

「愛のない結婚に、私は価値を見出せません。公爵令嬢としての義務は理解しておりますが、これ以上、形だけの関係を続けるのは、双方にとって無益であると判断いたしました」

 私の言葉を聞きながら、アシュトン様の表情は、ゆっくりと、しかし確実に変化していった。

 彼の眉間に薄く皺が寄り、口元はわずかに引き結ばれている。感情がないと思っていたその瞳の奥に、微かな動揺のようなものが flicker したのを、私は見逃さなかった。

「……無益、だと?」

 彼は、私の言葉を反芻するように呟いた。

「そうだ。これは政略結婚。貴様も理解していたはずだ」

「はい、理解しておりました。だからこそ、これまで耐えて参りました」

 私は、少しだけ声のトーンを上げた。

「ですが、アシュトン様は私を無視し、まるで存在しないかのように扱われました。私にとって、それはもはや政略結婚という枠を超えて、精神的な苦痛でしかありませんでした」

 私は、今まで心の奥にしまい込んでいた感情を、あえて言葉にした。

「私に何の感情も抱かないアシュトン様と、これ以上人生を共にすることはできません。私には、私の人生がございます。愛のない結婚に、私の残り人生を捧げることはできないと、そう決意いたしました」

 アシュトン様は、私の言葉を聞き終えると、再び沈黙した。

 そして、その黒い瞳が、まるで私を深く探るように、じっと見つめてくる。

 その視線に、私の心臓が小さく跳ねた。いつも冷たい彼の視線に、初めて、ある種の圧力を感じたのだ。

「……面白い」

 やがて、アシュトン様は、口元に微かな笑みを浮かべた。

 それは、嘲笑なのか、あるいは、私を試すような笑みなのか。私には判断できなかった。

「貴様が、そこまで言い切るとはな」

「本心でございます」

 私は、真っ直ぐに彼の目を見つめ返した。

 もう、怯える必要はない。私は、私の意志で、この関係を終わらせるのだから。

「つきましては、婚約破棄の同意書にご署名いただけますでしょうか」

 私は、懐から事前に準備しておいた書類を取り出し、彼のデスクにそっと置いた。

 アシュトン様は、その書類に視線を落とした。

 そして、私の言葉を反芻するように、もう一度呟いた。

「愛がないなら、結婚する意味ない、か……」

 彼のその言葉は、まるで、私には聞こえない何かを、彼自身の心に問いかけているようだった。

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  • 愛がないなら結婚する意味ないじゃないですか?と契約破棄したら、冷徹公爵が私に執着し始めました   9.王妃選定試験

     陛下の突然の来訪、そして私を次期王妃候補とする命令は、私の日常に大きな波紋を投げかけた。 アシュトン様は、私を王妃選定試験に参加させまいと、ますますその執着を強めた。公爵邸は、まるで私を閉じ込めるための厳重な檻と化したかのようだった。「セリーナ、今日は外出しないのか?」 朝食の席で、アシュトン様が私に尋ねた。彼の視線は、私の行動を常に探っているかのようだった。「はい。今日は、公爵邸の図書室で過ごそうかと」 私がそう答えると、彼は満足げに頷いた。「賢明な判断だ。外は騒がしい」 彼の言葉に、私は息苦しさを感じた。彼は、私が自主的に公爵邸に留まっていると思っているのだろうが、実際は彼の監視下から逃れることができないだけだ。 しかし、王妃選定試験への参加は、王命である。私が拒否すれば、フェルティア公爵家が危うくなる。 私は、アシュトン様の目を盗んで、父に手紙を送った。王命に背くことはできない、と。 数日後、父からの返信が届いた。そこには、王妃選定試験には必ず参加するように、という指示が書かれていた。そして、アシュトン様には、私が王妃選定試験に参加せざるを得ない状況であることを、それとなく伝えるように、とも。 私は、手紙を読み終えると、覚悟を決めた。 私は、王妃選定試験に参加する。それが、私の使命だ。 その夜、私はアシュトン様に、王妃選定試験に参加する旨を伝えようとした。 夕食の席で、彼がデザートに手を伸ばした時、私は意を決して口を開いた。「アシュトン様。私、王妃選定試験に参加させていただきます」 私の言葉に、アシュトン様の手がぴたりと止まった。 彼の顔から、一瞬にして血の気が引いていくのが見えた。 そして、ゆっくりと顔を上げ、私を射抜くような視線で睨みつけた。「……何を言っている?」 彼の声は、低く、そして怒りに満ちていた。「陛下からの命令でございます。フェルティア公爵家として、王命に背くことはできません」 私がそう言うと、アシュトン様は立ち上がり、テーブルを

  • 愛がないなら結婚する意味ないじゃないですか?と契約破棄したら、冷徹公爵が私に執着し始めました   7.秘密の部屋

     アシュトン様が私に見せる歪んだ執着は、公爵邸での私の生活を大きく変えた。 私は彼の監視下にあるような息苦しさを感じつつも、彼が私にだけ見せる、微かな人間らしい感情の片鱗に、抗えない興味を抱き始めていた。 そんな中、私はある日、公爵邸の裏庭にある古びた離れに、ふと足を踏み入れた。普段は立ち入り禁止になっている場所で、使用人たちも近づかない不気味な雰囲気の場所だった。 好奇心に駆られ、私がその扉を開けると、そこには思いがけない光景が広がっていた。 埃を被った家具の数々、古びた肖像画。そして、壁にはびっしりと、色とりどりの植物の押し花が飾られていた。 それは、まるで時が止まったかのよう

  • 愛がないなら結婚する意味ないじゃないですか?と契約破棄したら、冷徹公爵が私に執着し始めました   6.秘められた過去

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     アシュトン様の執着は、日を追うごとにその度合いを増していった。 彼は、私の行動すべてを把握しようとするかのように、公爵邸での私の滞在時間を延ばし、私がどこへ行くにも、誰と会うにも、常に彼の許可を求めるようになった。 初めは、彼の唐突な変貌に戸惑いと警戒心を抱いていた私だが、彼の執着は、どこか幼稚な独占欲にも似ていて、妙な居心地の悪さを感じていた。「セリーナ、今日の社交会には参加するのか?」 朝食の席で、彼は唐突に尋ねた。「はい。叔母様からお誘いを受けておりますので」 私が答えると、アシュトン様は眉をひそめた。「誰と会うのだ?」「……ただの社交です。特に意味はございません」

  • 愛がないなら結婚する意味ないじゃないですか?と契約破棄したら、冷徹公爵が私に執着し始めました   4.突然の転換

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